『神様になった日』

 作品としての品質の問題はいろいろあるが置いておいて(ひなとの日々はそんなに楽しくなかったように思われるし、「ひと夏の思い出」って他の言い方ないのかよと思うし、Airの後継だとか鬱ゲーやバッドエンドの美学だとかいろいろ言えるのかもしれないが)、作品外の文脈に大きく依存する作品だと思う。
 僕以外には全く必要のない情報で恐縮だが、結婚してよかったなと思うのは、例えば、休日とかにお互いに別の部屋にいて静かに過ごしていて、時折手を打ち鳴らして相手がいるか確認すると相手も手を打ち鳴らして応答するというようなとき、あるいは用はないけど単に顔を見に行って、5秒くらい一緒にいてまた戻るような、まったく意味ないやりとりがうまくいったときだったりする。恋愛とか大げさなものではなく、単に知っている他人の存在のぬくもりを確認するだけのような瞬間だ。あるいは、運動不足を解消するために腕立て伏せをやろうと思い立ち、妻に下に寝転がってもらって伏せるたびにキスするようなシステムはどうかと提案して無理やりやろうとしてお互いにドン引きして大笑いするような、何もないところから笑いを作り出せた瞬間だ。他人との生活はストレスフルだけど、そういう瞬間もある。最近では妻は僕が手で足裏マッサージをしないと安眠できないので、かなり面倒くさいがマッサージがそういう瞬間の契機になっている。
 そんな小さくて静かな幸せはいつ失われてしまってもおかしくなくて、その不安を抱えながら生きていても奪われる時には決定的に奪われ、奇跡は起きない。それは震災のような災害かもしれないし、大切な家族を襲う死や、生まれてくる子供の知的障害のようなものかもしれない。我が家はお互いに危なっかしい人間なのでそのような喪失の影が空気に漂っている気がする。喪失の痛みを描く物語は多いけど、それを奇跡やハッピーエンドでうやむやにせず、痛みのまま残すことで視聴者に与えられる傷もある。そうして受け取った傷の理不尽さは、その作品内で埋め合わせすることはできなくて、視聴者が自分の生活のどこかで埋め合わせるしかない。こんな話は求めていなかったのかもしれないけど、ひなを介護しながら車椅子を押す日々の厚みに思いをはせてみることは、この結末でなければ難しい。これを覆すような後日談や続編は必要ないように思う。この物語を見続けることは苦痛になりそうだけど、心のどこかにしまっておくことはできる。