シン・エヴァンゲリオン感想補遺

 承前

 プリンターのインクが切れたので取り換えたり試し刷りしたりクリーニングしたりしているうちに、廃インク云々の表示が出て印刷できなくなってしまい、色々調べた末にアマゾンで1000円のリセットソフトを購入したら5分で直って安堵した。心配していた妻に何か印刷したいものがないか聞いたが何でもいいというので、シンエヴァの入場券と一緒にもらったアスカのリーフレットを印刷したら、黄色インクが足りないのかあずき色の髪になってしまったがきれいに出力でき、妻に見せたら安心していた。彼女が初めてエヴァ関連のものを見て機嫌を損ねなかったのはこのアスカだったので、記念に壁にでも貼っておくか…
 この一週間、時間のある時はエヴァの感想をネットで漁ってばかりで、時間のないときもテレワークで仕事中に漁ってしまったため、土曜日まで宿題を休日テレワークになってしまった。妻の機嫌も悪く、いつもより長時間の足裏マッサージサービスをしなければならなかった(先々週、久々に東方天空璋をやって以来右手の親指が痛くなり、マッサージにも支障をきたしていたが)。でもこんな体験はもうできないだろうから後悔はしていない。
 というわけで、一通り他の人たちの感想を読んだ後で改めて何か書いておきたい。というのも、特に呪詛のような批判的な長文を吐き出している人たちの感想が強烈で(例えば小鳥猊下さんとかグダさんとか、もう少し落ち着いたものではLWさんとか村上裕一さんとか)、僕の最初の印象が薄れてしまったほどだったからだ。やっぱりたとえ浅くても最初に自分の感想を書いておいてよかった。僕は特撮も他の参照された先行作品もほとんど知らないし、ストーリーの細部や制作の裏側についてはあまり理解していないし深く考え込みもしないし、上に挙げたような人たちに比べるとエヴァに対する思い入れも深いとは言えないライトなオーディエンスの一人だし、そもそも言語化能力も凡庸な人間だが、それでも大事にしなければいけない固有の体験は持っているからだ。
 ともあれ、批判的な意見に同意できる部分は多い。新劇場版ではTV版や旧劇版にあった鬼気迫る感じがなくなっただけでなく、全体的にセリフ回しのキレがなくなって用語のセンスもなくなってしまった。最後のシンエヴァくらいは全盛期の勢いを見せてくれるのではという淡い期待があったが、今のところ思い出せるものは何もない。再視聴すれば何かお気に入りのセリフも見つかるかもしれないけど、最後までセリフ回しの弱さを絵の丁寧さ(丁寧だけど新鮮さはあまり感じられない)で補うという、悪い意味で二次創作的だった印象だ。新劇版全体についても同じ。思えば、序の最後で綾波が「笑顔」を見せるシーン、レイのファンにとってはシリーズ全体で最も大事なシーンの一つのはずだが、この笑顔が丁寧に描かれているだけで、新しい何かを提示していたわけではなかった時点でエヴァの喪失は始まっていた。丁寧に描き込まれていたから不満を言うことはできないし、TV版はもとより、旧劇版と比べても悪くはなかった。でも旧劇版の笑顔の衝撃、何かとんでもなく大切な秘められたものをもらってしまったという驚きはなく、すうっと流れてしまった。たぶん僕の方が鈍くなったのだろうが、同じ構図や同じセリフで見せられても、古典作品の再演を楽しむような楽しみ方しかできないのは仕方ない。繰り返すが不満を抱くことはできないし、新劇の笑顔は新劇の笑顔で愛でることはできる。でもそれは文脈から切り離されたような楽しみ方になってしまう。僕がエヴァの後でエロゲーオタクになって磨き上げてしまったスキルの一つは、弱いものを愛することだった。作品のシナリオが拙劣でヒロインが残念であっても、こちらに向けられる笑顔や愛の言葉を拒絶する意味はない、幸せになって何が悪いのか。これはエロゲーという一人称の創作物が得意とするモードであって、このやさしさをアニメのような本来三人称の創作物にも持ち込めるようになってしまったのが新劇を拒絶できなかった理由の一つかもしれない。弱いもの、本物ではないものでも、触れているうちに愛着を持ってしまう。例えばFateシリーズ。出てくる英雄たちはみな二次創作で、ストーリーが面白ければ、それをきっかけにオリジナルの史実にも関心が向かうことがある。オタクは愛に溢れた存在なのでいろいろなものを愛することができる。でもその愛に重さはあるのだろうかと上述の厳しい人たちの文章を読むと感じる部分もある。いわゆるポカ波はそういう弱い存在であって、それはキャラクターとして二次創作的で凡庸であるというだけではなく、開き直ってそれをまがい物という設定にしていることや、そのまがい物が「本物」(まがい物っぽいけど)の心を手に入れていく段階を視聴者と共有させるという祭儀的な仕組みが視聴者の足場として用意されていることからも、拒絶しないで何となく受け入れてしまうことができるようになっている。
 庵野監督の個人的な人間関係には関心ないので、評価の軸には据えたくない。今回、シンジとアスカが「好きだった」と確認し合ったことが、そんなこと言う必要があったのかと物議を醸している。この言葉が二人の今現在ののっぴきならない状況で発せらたというよりは、未来の視点から、あの時にああいうふうに言っておけたから前に進めたという視点から発せられたと取るしかないところに、新劇版の変質があるのだろう。現在の中から叫んでいるというよりは、未来から振り返って置いていっている*1。そんな作品に旧劇版の「先」だか「上」だかを求めても何も与えられないのだった。理不尽もご都合主義もグロテスクも、結果的に前に歩き出せたのだから後付けで肯定されてしまう。古典主義的にはそんなものは芸術作品の良し悪しとは関係のない弛緩した態度だが、ロマン主義的には受け入れざるを得ない高度に現実的な作品ということになるのかもしれない。古典主義とロマン主義という用語があっているのかやや心もとないが、いずれにせよ僕は今、エヴァンゲリオンの2つの形を手にすることができたので(マンガ版も入れれば3つ)、必要に応じて使い分けていくしかないんじゃないかと思う。今のところは旧の方がよいとしか思えないけど、新の方がしっくりくるときもあるだろう。違いの少ない新劇・序であれば気楽な癒しを得られるし(破は翼をくださいとかのセンスどうにかならないものだろうか…)。
 本当はぼくのかんがえたさいきょうの綾波レイについて何か書きたかったのだが、グダグダしているうちに力尽きた(もともとそんな燃料も筆力もない)。またネットの感想でも漁ろう。なぜか目につく強烈な論者はアスカファンの人ばかりで(上記の他にはたまごまごさんとかシロクマさんとか)、レイのファンは今回は深い傷を負わなかったせいか大人しい。滝本センセももう満たされたのかな。
 最後に特に意味もないが、ポスター画像をそれが公開された時の軽い驚きを忘れないように貼っておこう。さらば、というわけではないです。

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【3月23日追記】

 「プロフェッショナル」の庵野監督密着取材を視聴。

 番組で見せた制作現場はほんの一部なのだろうけど、あの雰囲気では面白いものなんて作れないんじゃないかという気がした。スランプの時期、何をしたらいいのかわからず苛立っている、あるいは疲れて途方に暮れている監督やスタッフの人たち。まあ、創作している人なんてスランプでなくても傍から見ると特に何でもなさそうだったり苦しんでいたりするようにしか見えなくて、でも創作している人がどう見えるかなんてどうでもよくて、できた作品がどうであるかが全てだ。シンエヴァではそれまでの新劇3作と比べてもアングルの新しさ・意外さにこだわってすごくハードルを上げていたらしかったが、そんなに斬新だったっけ。僕の注意力や感性が足りないというだけの問題だとしたらDVDが出たら改めてゆっくり楽しませて頂けるのでいい。でも、TV版で連発したような神がかった絵面とかテンポはほとんどなかった気がするのだが気のせいだろうか。単に僕の好みの問題なのだろうか。庵野監督は、普通にコンテを描いてやっていたらTV版や旧劇版と同じものにしかならないから、それを超えるために新しいやり方を模索したとのことだが、その視覚的な新しさというのは恥ずかしながら僕には作品からはよくわからなかった。

 ともあれ、庵野監督やスタッフの人たちが僕たちに最高のものを届けようと必死になって作ったことは伝わってくる番組だったので、観てよかったと思う。これでは作品を批判できなくなってしまう気がしないでもないが、僕にできるのは作品を観てよかったことやその他のことを語り、作品を受け止めることだけなのだから、それをきちんとやるしかない。

 

【3月27日追記】
 大井昌和・さやわか・東浩紀「全世界最速シン・エヴァ・レビュー」(3月8日、有料)視聴。シンエヴァ絶賛派の人たちのハイテンションなオタクトーク6時間。
 僕は不完全燃焼感について書いているが肯定はいくらでもできそうな作品でもあり、後はどんなふうに肯定する、あるいは受け入れるのかという問題になったとき、酒を飲みながら感情的にひたすら肯定するというのもありだ。ブログの書き言葉ではなく、オタクトークの声で伝えられるものもある。
 ただし、やったかやってないのかこれからやるのかという下品な話が多かったのが残念なところで、アスカ派だった東さん(他の二人はよくわからない)はシンジとアスカの関係に注目するからそういう語り口になってしまい、確かに性的モチーフやメタファーに溢れた作品なので仕方ないのだが、無言で綾波レイに萌えている(古語)ようなむっつり系オタクにとってはそういうガチャガチャした語りや笑いは厳しいところが多かった。「旧劇は性的メタファーによる描写でしか視聴者を驚かせなくなくて方法論的に未熟だった」というのは雑だと思うし、シンエヴァに切れ味がないと思ったのは性的なものが少なかったからだけではないと思う。性的なものが少なかったとはいえ、シンエヴァは男が男性性にきちんと向き合っている(父殺しの欠如、ユイの類型的描写などの弱点があるが)ので「男でもやればできるとわかる」、その意味で現代では稀有な作品、という評価は何となく同意できるし、ウマ娘的な若さばかりを愛でる世界は中年男性オタクにはつらいというのも分からないことはない。
 「旧劇の方がいいという人は35歳以下」論については、1回視聴しただけでは消化できなかった部分も多いだろうから、DVDが出たら見直す必要があると改めて思った。でも繰り返しになるが、「無限大」、「ネオンジェネシス」、槍で順番に刺す、「さようなら、全ての」とベタに言ってしまう、やたら説明する、といった「ばかげているけど必要であり、25年間エヴァを見続けてきてよかったという気持ちになれる手続き」を僕も実感するようになるかどうかはまだ分からないな。
 綾波が永遠に成熟せず、むしろ作を重ねるごとに幼くなっていき、今回は(田植えしてから収穫までの約4ヶ月をゆっくり描きつつ)感情や言葉を獲得する幼児というところまで下がってから消滅し、そのことでシンジに示唆を与え、後にボサボサ波が出てきて破で救えなかった綾波を含めてすべてを救ったという納得感だという。90年代のアダルトチルドレン(心を閉ざした女の子)を本人の心の問題ではなく、環境による虐待の被害者として現代的に読み替え、綾波のイメージを根本的に更新したという。確かにそういう見方なら第三村パートを肯定することもできるだろう。とはいえ、そうなるとやはりTV版・旧劇版の綾波が萌え(古語)という感情の面からはよかったということになるし、東さんらが母親的なものに接近しすぎて気持ち悪かったというマンガ版の綾波も最高ということになる。「ユイを中心に据えるという過ちを最初に犯したからレイが導入され、レイを捕まえられないからアスカが導入され、アスカを捕まえられないからマリが導入されて終劇になった」という構造は確かにすっきりした解釈であり、ユイが全くといっていいほど描かれなかったから、レイが根源に位置する(ただし後に幼児化する)という見立ても綾波ファンにとっては悪い話ではないのかもしれない。ちなみに、シンエヴァでは式波がクローンであることが分かり綾波との違いがなくなり独自性が失われたとの指摘があったが、アスカ派には総じてあまり関心を持たれていないおとなしめの式波も陰があってむしろいいなと思った。好みの問題なのかもしれない。
 ネット上に感想はまだたくさんあるので、もう少し読み漁ってみたい。東さんたちの下ネタトークで僕のエヴァが終わるというのはあんまりなので!

 つづく

*1:完全な印象論だが、エヴァ新劇版で失われてしまったものとして、夏の空気感がある。一応夏のようなのだが、じっとりと滲んだ感じはない。秋のように透き通った空気だ。人も少なくて涼しげ。技術的な進歩で美術が高精度になったせいなのか(マンガ版も同じ進化を遂げた)、「夏以外の季節が失われた世界」という設定に対する詩的な動機づけを新劇版でやめることにしたのが理由なのかはわからないが、「熱」が失われた世界の寂しさがあるのが新劇版だ。序のBeautiful Worldのピアノの響きは、失われていく熱を逃がしたくないという切実さがあってよかったが、やはりエヴァは夏だよなあ(イリヤのと混ざっているかも)。