Quartett! (70)

 ドイツだかオーストリアだかの音楽院を舞台に、水彩のラフ画風のやわらかい絵とクラシックなBGM、マンガ風のコマ割りや吹き出しによる画面構成で、エロゲーとしてはとても珍しい作品だ。いまさらながら大槍葦人作品は初プレイで、もちろん以前から絵を目にしたことは何度もあったけど、何しろエロさを感じないのでスルーしていた。ジブリ世界名作劇場あだち充…的外れかもしれないが、僕の中ではそういう連想の画風で、耽美的な方向に素晴らしく進化していることは分かるのだが、どうしてもエロさと結びつかない。
 女の子たちが妖精のようで、外人の少女のようで、ガリガリなのもダメだった(エロさの点では)。本作のメインヒロインのシャルなんて、ふわふわの金髪碧眼、身長136cm、体重30kg、胸囲60cmだからなあ。この子とエロいことをしたいというよりは、この子が可愛い服を着て笑ったり可愛いポーズをとったりしているのを見ていたいという方向になってしまう。
 この作品のFFDというマンガ風インターフェイスのシステムは、実際にそういう風に女の子を眺めるには便利なのかもしれない。通常のエロゲーのようにプレイヤーはヒロインの立ち絵を変質的な視線で舐めまわし、細部を味わい、ヒロインと視線を合わせて恍惚とするのではなく、自分から能動的に絵を見るというよりは、FFDの視線誘導システムにコントロールされ、次々とリズミカルに現れるコマや吹き出しに目を滑らせていくことを余儀なくされる。女の子の表情やフェティッシュな細部をゆっくりと視姦できず、戸惑う変質者。ラフスケッチ風の絵も、マンガ風のコマも、その中のヒロインたちのポーズや表情も、そこに動きがあること、線的に流れていく一瞬を拾ったものであることを示している。動いている、つまり主体的なものであり、プレイヤーが物語や女の子に好き勝手に介入しにくい感じがある。エロゲーは介入しやすいからこそ没入感が高まる気がするし(絵は止まっているが、同時にプレイヤーを見つめている)、本作のように吹き出しでストーリーが進行してしまう、つまり主人公のモノローグがエッチシーンくらいしかないようだと、それも没入を浅くさせるような気がする。そのエッチシーンもズームされた断片のコマが絶えず上下左右に流れ続けるので、雰囲気は非常に心地よいけれど、実用のために「集中」することができない。
 いわゆるエロゲーのクリックの快楽のついても、マンガ1ページ分のコマと吹き出しは毎回演出上の決められた速度で自動表示されてしまうので、クリックする機会が少なく、プレイヤーはゲーム側から制御されていると感じてしまう。しかしそのテンポは心地よく、時間芸術としての音楽を鑑賞しているのに近い。気がつくと、脂ぎり血走った目の変態ではなく、パリッとしたスーツを着て鼻眼鏡に白手袋の変態紳士として鑑賞している。
 しかし、音楽を演奏している人を鑑賞するという行為に以前から疑問がある。声優の顔を見るべきかどうか問題にも通じるところがあるが、音楽の主役は音であって、音を出している人の視覚情報は原則的にはノイズであるはずだ。演奏者のファッションはもちろん、目を閉じて恍惚としたり苦悶したりしている表情も、それを僕たちが真面目に鑑賞させられるのは矛盾があるような気がして居心地が悪い。本作では音楽の制作にはかなり力を入れたそうなので少なくとも素人の僕には十分楽しめるものになっているが、ビジュアルノベル的な作品である以上、美男美女たちが気持ちよさそうに演奏している絵を延々と見せられる、ミュージシャンビジュアルフェチの光景にはやはりどこか居心地の悪さがある。演奏者自身は目を閉じ、悪い言い方をすると自己満足に浸っており、僕はそれを押しつけられているように感じる危険があり、本作が持つ本質的なリスクであるように思える。プレイヤーとキャラクターの距離の問題だ。例えば、キラ☆キラやMusicusでは、主人公が非常に冷めており、音については熱かったので、この問題についてはバランスがとれていたと思う。とはいえ、こんなことを言っているようではまだ鼻眼鏡の変態紳士にはなれないな。
 全体として話は短いのにCG数は180枚であり、しかも動的な表示方法で出てくるので、絵のボリュームが多く感じる。まだ感想を書いていないのだが(書く気になるのかもわからない)、最近では「マルコと銀河竜」が似たようなハイペースで絵を表示させるつくりになっていた。でも「マルコと銀河竜」は一般的なエロゲーの画風なので、どちらかというと無駄に強い色で塗った絵を使い捨てていっている印象があったが、本作は色調も線も優しくて統一感があり、完成度がはるかに高い。
 美麗な絵は特典の画集でゆっくり鑑賞することができるのだが、絵の横に小さな文字で意味ありげな英語やドイツ語の言葉が何やら書かれている。中国人ヒロイン・スーファのページには美しい漢詩が掲載されていて、作中に登場する老醜をさらす老人の心境を推察させるものになっているのだが、これが中年になった僕にもけっこう響くので前半を引用しておこう。恥ずかしながら本作で知った詩で、7世紀の詩人の作だそうだ。

 

代悲白頭翁      白頭を悲しむ翁に代って

洛陽城東桃李花    洛陽城東 桃李の花、     
飛來飛去落誰家 飛び来たり飛び去って誰が家にか落つ。     
洛陽女兒惜顏色    洛陽の女児 顔色を惜しみ、     
行逢落花長歎息 行々落花に逢うて長歎息す。     
今年花落顏色改    今年 花落ちて顔色改まり、     
明年花開復誰在 明年 花開いて復(ま)た誰か在る。     
已見松柏摧爲薪    已(すで)に見る 松柏の摧(くだ)かれて薪と為るを、     
更聞桑田變成海    更に聞く 桑田の変じて海と成るを。     
古人無復洛城東 古人 洛城の東に復(かえ)る無く、     
今人還對落花風    今人 還(ま)た落花の風に対す。     
年年歳歳花相似 年年歳歳 花相似たり、     
歳歳年年人不同 歳歳年年 人同じからず。     
寄言全盛紅顏子    言を寄す 全盛の紅顔の子(こ)、     
應憐半死白頭翁 応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁。
此翁白頭眞可憐    此の翁 白頭 真に憐れむ可し、
伊昔紅顏美少年 伊(こ)れ昔は紅顔の美少年。
公子王孫芳樹下 公子王孫 芳樹の下、
清歌妙舞落花前    清歌妙舞す 落花の前。

(口語訳)
洛陽の城東に咲き乱れる桃や李(すもも)の花は、風の吹くままに飛び散って、どこの家に落ちてゆくのか。
洛陽の乙女たちは、わが容色のうつろいやすさを思い、みちみち落花を眺めて深いため息をつく。
今年、花が散って春が逝くとともに、人の容色もしだいに衰える。来年花開く頃には誰がなお生きていることか。
常緑を謳われる松や柏も切り倒されて薪となるのを現に見たし、青々とした桑畑もいつしか海に変わってしまうことも話に聞いている。
昔、この洛陽の東で花の散るのを嘆じた人ももう二度と帰っては来ないし、今の人もまた花を吹き散らす風に向かって嘆いているのだ。
年ごとに咲く花は変わらぬが、年ごとに花見る人は変わってゆく。
今を盛りの紅顔の若者たちよ、どうかこの半ば死にかけた白髪の老人を憐れと思っておくれ。
なるほどこの老いぼれの白髪頭はまことに憐れむべきものだが、これでも昔は紅顔の美少年だったのだ。
貴公子たちとともに花かおる樹のもとにうちつどい、散る花の前で清やかに歌い、品よく舞って遊んだものだ。

 

 年年歳歳、花相似たり。歳歳年年、人同じからず。
 関係ないが、20代の頃、血色がよかったためか会社の上司に「紅顔の美少年」といわれて困惑したことがあったが、この詩からの引用だったのかな。本作のマンガのようなイケメン主人公のフィル君には遠く及ばないが。いずれにせよ、僕はスーツに鼻眼鏡の変態紳士というよりは、「応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁」の方が似つかわしいような気がしてきたのだった。
 ストーリーについては細かく語る力もないが、3つのルート共に終わり方がよかったことは書いておこう。特にシャルルートの明るくて少し切ない感じがよかった。最後のフィナーレでフィルはこの音楽院での生活を感傷的に振り返る。作中の3ヶ月のあとに4人がどのような時間を過ごしたのかはわからない。演奏者たちが離散すれば、その音楽は記憶の中にしか残らない。でもまだこのフィナーレの時点のフィルたちは25歳にもなっていないくらいだし、結局もう一回集まって弾いてみるといういいシーンで終わった。白頭翁の心境になるのは20年以上先だろうから、どちらかというと製作者やプレイヤーの視点だろう。
 大槍画の少女たちはただでさえ妖精のように軽やかで儚げなのに、それが音楽を奏でていて、しかも弦楽器だ。昔、モスクワの音楽院で日本人のピアニストやバイオリニストの卵たちの授業を通訳するバイトを少しだけしたことがあるが、音楽院の生活に関するイメージはそれくらいだ。あとはどこで見聞きしたか覚えていないが、音楽教育は何かと神経を使う重苦しいものだというイメージがある。この作品のやわらかくて温かい空気で、少なくとも弦楽器については少しイメージが明るくなった。やはり音楽の一番いい部分には、この作品ののように明るく、軽やかであってほしい。