終のステラ (85)

 体験版が出たときに誰かが、田中ロミオがシミルボンで紹介したマッカーシーザ・ロード』に雰囲気が似ていると書いていて、確かにシミルボンでべた褒めされていたので読んでみて面白かったのだが、体験版より先の部分まで読んでみると、父親が無垢な子供を守る旅という『ザ・ロード』の中心的なモチーフまで同じで驚いた。自分にとって最高に大切なものを未来に向かって「運ぶ」こと。タルコフスキーの『サクリファイス』ではイタリアの浴場遺跡をろうそくの灯を消さないまま端から端まで歩こうとする男が印象的だったが、『ザ・ロード』ではそれが自分の息子というもっと明るくて具象的なものになって、この作品ではさらに可愛いアンドロイドの女の子になった。そしてアンドロイドを娘と認めて自分の持つすべての最良のものを伝え、渡すことをクライマックスにする物語に感動させられ、「時代はもう俺の嫁ではなく、俺の娘になったか」と浄化されてしまった中年エロゲーマー。しかし嫁と結ばれるのではなく、娘が(半ば勝手に)生まれるのでもなく、娘を人として育てることは、エロゲーマーにあまりにもきれいで美しいものを求めるので、途中で耐え切れなくなって幸せな顔をしながら死んでしまうかのようだ。実際にはジュードのようにストイックに仕事に生きることも難しいので、その意味できれいすぎて耐え切れなくなる部分もあるかもしれない。しかし、クラナドを読んで結婚や家族を持つことに夢を見たり、智代アフターを読んで就職して恋人と同棲することに夢を見たりするエロゲーマーがいたように(本当にいたのは知らないが少なくとも僕は就職する気になった)、この作品を読んで自分一人だけの人生設計をやめて子供を育てたくなっちゃうエロゲーマーもいるかもしれないから、少子化対策推奨作品なのかもしれない。Key作品のファンは年齢層がある程度広がっているだろうけど、田中ロミオのファンはもう中年の人が多いだろう。既に小中学生の子育ての真っ最中だったり、あるいは今から子供を持つにはもう難しくなっていたりするだろうから、この作品のきれいすぎるメッセージは届かなかったりするのだろうか。
 といってもこの作品は育児の物語ではまったくなくて、フィリアとの道中とかけあいは普通にエロゲー的なフォーマットで進められていく。だからあの抱っこひもみたいな担架で負傷したフィリアをだっこして走っている一枚絵では、フィリアのエッチなふとももと赤ちゃんみたいに抱っこされているギャップが、後から振り返って見ても味わい深い。それはともかく、フィリアが人間の残虐な一面を見てことあるごとに情緒不安定になり、ジュードと意見が相違して不機嫌になり、不器用なジュードは死んだ妻のことを思い出したりしているのを見て、僕も「女ってのは…」と思わず不適切な反応をしてしまう部分があった。フィリアは自分の軽率な同情が結局は多くの人を死なせる結果になってしまったことについて、「でも私はただ…」と繰り返して泣くことしかできず、明らかに自分に不利益になると分かっていても感情的に反応して銃を受け取ろうとしない。こちらが説明しようとすると怒る。ここでは子供であることと女であることが未分化の状態で描かれているようで、対照的に終盤の「人間」になったフィリアは危険な悪人を平気で撃ち殺し、人を助けながらも自由に生きている成熟した大人になっているが、それはすでに「俺の娘」だと認識されているフィリアであり、嬉しいけど一抹の寂しさも感じる。まだヒロインを所有したがる癖が抜けていないオタクなので、エピローグの主人公無しで成長してしまった娘に寂しさを覚える。幸せな未来を想像できるから救いだけれど、フィリアはこの先、恋をしたり家庭を持ったり子供(他のアンドロイドとか)を育てたりして、(公爵の描いた計画とは異なり)いつかはリソースを使いつくして死んでしまうのかもしれないが、それはもう父の関知できることろではない。父は運び終わって、いさぎよく退場したのだ。
 それにしても、最初は『ザ・ロード』のようにホームレスみたいなストイックなサバイバル描写が続いていくのでそういう物語なのかと思っていたが、後半は古典的で派手なSFのギミックがたくさん出てきてそれはそれで楽しませてもらった。その描写が陳腐に思われなかったのは田中ロミオの筆力と、地味で素晴らしいたくさんの背景画のおかげだと思う。このご時世、AIで描けちゃいそうな感じの絵が多かったと言ったら怒られるかもしれないが、仮にそうだったとしてもこの作品にとっては何のマイナスにもならないだろう。チャプター扉で出てくる座標のようなものから推測すると、この物語はどこか北京かソウルか、あるいは大陸とくっついてしまった日本あたりから始まって、ベトナムやタイを通ってシンガポールから洋上の軌道エレベータまでを旅する話らしい。現代では世界で最も活気や可能性がありそうなこのルートが、文明の痕跡がまばらで緑にのまれてしまったエリアとして描かれている。どこかのメコンデルタあたりの風景の明るい寂しさが印象的だった。フィリアが泳いだ海はベトナムあたりのビーチだろうか。『ザ・ロード』で親子がたどり着いた海は水も風も冷たい最果てだったけど、フィリアは楽しい思い出を作ってコンブまでかぶってよかった。ちなみに、物理メディアがほしい派で絵がきれいだったのでこの海のシーンのタペストリが特典になったソフマップ版を購入したが(小説が付いているのは高すぎて見送ったが少し未練がある)、例によってタペストリを飾る場所はない。部屋の中につくるかなあ。この海でのことをフィリアは後できっと何度も思い出しただろう。
 終わってみると、結局、公爵の偉大な計画がなくても何だか人類は救われてしまいそうな明るいエピローグだった。Keyの甘さなのかもしれないし、ご都合主義なのかもしれないが、遠い未来のおとぎ話なのだしまあいいか。森の中の旅も、都市遺跡の探索も、デリラとの交流も、島や宇宙での出来事も、悪夢のようなことばかりだったけど(すべては人生に比喩だ)、フィリアはジュードとの旅がずっと続けばいいと思っていただろう。でもそうはならず、別れなくちゃいけないのは人間でもロボットでも変わらないのだった。

 

(10月3日追記)

 あらためて雰囲気のいい作品だったなと思ってCCギャラリーを見返してみると、やっぱり絵がよかったことがわかる。プレイ中は個々の絵はわりとさっと流して見てしまうのだが、写実的にでありながらも全体的に暗めのくすんだ色調で統一されているのがいいのだと思う。田中ロミオがそうした絵に合うような抑制された文章がうまいのも『最果てのイマ』とかでわかっている。絵の構図が何となく美術館の絵を想起させるものも多い。19世紀に象徴主義印象主義が登場する直前か登場した直後くらいの、成熟し、あるいは爛熟した写実主義のような、情感を充溢させながらもあくまでフォトリアリスティックな技能の枠にとどまる絵たち。自然の風景画や廃墟の絵が多いことも美術館の絵画の雰囲気につながるように思う。廃墟といっても一般的な古代ローマの廃墟ではなくて、遥か未来における21世紀的な都市や未来都市の廃墟なのだが、抑制された色調のおかげで鑑賞向きな落ち着いた絵になっている。19世紀の写実主義古代ローマを離れて自国の現代の都市や田舎に美を見出していったので、21世紀的な都市や商業施設が廃墟として描かれるのも普通に美術的に見えてしまう。舞台になったのは温暖湿潤なはずの東アジアから東南アジアであり、作中でも暑がっている描写はあるが、絵はあくまで涼しげで、風景画にしても人物画にしてもむしろ寒そうに見えるものが多い。滅びた世界、失われた世界だからだ。この空気感が、僕の場合はロシア美術の風景画を見る目を思い出させてくれる。昔、留学していたころは美術館に行くのがストレス解消の一つで(ロシア語を聞いたり話したりするストレスから解放されながらも知的好奇心を満たせた)、モスクワの古本屋とかで安い画集を買い集めて眺めていたりした。PCゲームのデジタル画だと美術館や画集よりもさらによい画質でリラックスして鑑賞できるメリットもある。とはいえ、いちいち美術史を持ち出さなくてもオタク文化では以前から空想都市を描くジャンルがあったので、そっちから来た部分が多そうだ。でも、この作品に登場する植物や空や建物の描き方をみているとやはり美術館の方を連想してしまう。
 エロゲーにおいても優れた背景画を持つ作品はこれまでたくさん出ただろうけど、色彩が明るすぎたり、原色的すぎたり、甘ったるすぎたり、構図が乱暴だったり、単純に枚数が少なかったりして、この作品のようなじんわりした統一感を出すことはあまりなかったと思う。例えば、『マルコと銀河竜』は背景画や一枚絵の物量がすごかったが、明るいコメディに合わせたつるっとした明るい感じの色彩であり、目に優しくなかったし、まったく美術館的(アカデミック)ではなかった。Winters作品のように暴力的な原色が狂気を醸し出す場合もある。エロゲーを始めたての頃は、KanonAirのきつい色彩に驚き、うたわれるものの優しい色遣いに潤う思いがしたものだったが、やがて全体的に明るくてシャープすぎるエロゲーの色彩に目がなじんでいってしまった。この作品では、ロードムービータイプのストーリー、すなわち移動する目による物語だからということもあるだろうし、運び屋のストイックな生き方を反映した抑制された色調ということもあるかもしれない。フィリアがこの先、運び屋として生きていくとして、彼女が主人公だったらもう少し雰囲気が違う背景画になるだろうか。エピローグの彼女が立つどこかの山の開けた場所の絵は、くすんだ色調の中にも明るい開放感がたっぷりと感じられて嬉しくなる。その後に出てくる遠景の絵は、構図が完全に17~18世紀くらいの廃墟絵画のものになっていて、僕たち鑑賞者は額縁の外に追い出されてしまう。フィリアたちのこの先の人生に思いをはせながら。