傷物語

 『傷物語』をやっと観終えた。いろいろと過剰な作品だった。既にきちんとした考察を読んでしまったので自分にいえることは断片的な感想以上のものではないのだが、一応感想として残しておこう。

  • シネフィルの人たちの基礎教養であるヌーベルバーグとか1960年代の日本の実験的な映画とかほぼ何も知らないので、何か引用されていても漠然とした違和感しか感じ取れなくて申し訳ないが、フランス映画とかには興味がないので仕方ない。
  • 劇場版アニメの特権というか、グロテスク表現とか残酷表現に手加減がなくて、一歩踏み込んだ表現の爽快感がある。アクションシーンでは阿良々木君の人間離れが著しく、映像表現もストーリーテリングから離れて純粋に表現の限界を試しているようなところがあって爽快。この点においては、枯れて寝ぼけたCGに堕してしまったかのようなシン・エヴァよりも先に進んでいるように思った。シン・エヴァにもこれくらい頑張ってほしかった。
  • エヴァといえば、ヒロインの表現においても『傷物語』は過剰で素晴らしかった。これほど羽川さんの本気の表情をたくさん堪能できるとは思っておらず(おっぱいについても、丸出しにするような安っぽいことはおおむねしなかったし、それ以外は表現として全く出し惜しみがなかった)、とても贅沢だった。原作のシリーズではことあるごとに阿良々木君が「羽川は恩人だ」とか「地獄のような春休み」とか繰り返すのがいい加減に鬱陶しいのだが(傷物語を読んだのは遠い昔なのでもうあまり覚えていない)、このアニメの映像表現をみていると、そして声優さんの熱演も聴くと、確かに羽川さんは恩人だし、阿良々木君は地獄を味わっているので、それを証明するためだけに映像化したような気さえする。
  • 全体として、夕方のオレンジ色に染め上げられているか、曇り空や雨、夜ばかりが多くて、空間は広々しすぎていて、建物は巨大で空虚なものばかりで寂しくて不気味なのだが、その中で羽川さんの表情だけはいつも輝いているようだったので、たとえ阿良々木君がこの物語でもっと大きな失敗をして物語シリーズが始まらなかったとしても、羽川さんのことだけ思い出しながらその後の人生を生きていけそうなほどきれいなシーンがあった(第2部)。ここから戦場ヶ原さんルートに進んだのがまったく納得できないような素晴らしい出来だった。
  • 日の丸とか人のいない巨大建築とか、日本の戦後民主主義の問題とからめて論じておられることに異論はないのだが、単純に夜の住人としての吸血鬼、公的権力や公的空間の隙間や裏側でしか生きられない存在という文学的モチーフを強調する装置としてみるほうが個人的には実感しやすい。ヴァンパイア・サマータイムみたいな。そういうふうに文学的モチーフとして丸められてしまった吸血鬼というテーマから本来のポテンシャルを引き出すために、わざわざ日の丸や巨大建築みたいな異様なシンボルを使ったのだろうけど。人間が生活するための合理性を無視したような巨大建築がろくに使われもせずに静かに立ち続けているところに迷い込むと不安になる。それはデパートの人気の少ない空間だったり、ニューオータニみたいな巨大ホテルだったり、高層ビル街だったり、工業地帯だったり、普段の自分の生活とは違う尺度で構成された空間に自分を置かなければならなくなる不安だ。そういう場所では人は自分を見失わないように、多かれ少なかれ吸血鬼のような存在にならざるを得ない。逆にいうと、空間というものは人が絶えず気を配り、人間的になるように世話を焼いていないと、すぐに廃墟のようながらんとした空間に変貌してしまう。若さを失っていく日本では、これからはそういう死んだ空間が増えていくだろうから、死んだはずの近代モダニズム建築を新築のように描く表現には切れ味がある。そして死んだはずの近代オリンピックを新品みたいな競技場で無観客で開催しつつ、実はそこでは2人の吸血鬼が壮絶な殺し合いをしていたというのは、熱い展開だけど同時に孤独でむなしい。死んだけど生きている、生きているけど死んでいる気もする、というような漠然とした不安の中で紡がれる物語シリーズには合っている映像表現なのかもしれない。
  • 原作シリーズはずっと前から文章の水増しがひどくて、果汁3%のジュースを水で薄めたものを飲まされているようなところがあるのだが、この劇場版アニメは文章では描けない迫力を表現することに挑戦して、成功したように思う。これも繰り返せばきっと水増しに思えてしまうのだろうから、一度限りの禁じ手なのかもしれない。そんな作品で羽川さんの姿をたくさん見ることができたことに感謝したい。最後に頭痛が来ていたのが悲しいけど。