アニソン、ハチナイ

正月休みは終わったけど近況を少し。
●最近はたまに一人で外出すると「only my railgun」と「リンク~past and future~」(16bitセンセーションED)を何度も聴き返すことが多くて、聞き飽きない。他にも2024年によく聴いた曲としては、「Won(*3*)Chu Kiss Me!」、「とげとげサディスティック」、「iを解きなさい」、「ヨナカジカル」、「祝福」、「Only my yell」などがあった。古い曲でもやはり好みのものは何度も聴いてしまう。
●あとはやはり遠野ひかるさんのキャラソンはよい。負けインの「Love 2000」を先ほど思い出して購入したので改めて書いておくと、はじめに認識したのはバミューダトライアングルカラフルパストラーレ(2019年)のセレナバージョンの「シャボン」で、アニメ自体は地味な作品だし、セレナというキャラにも特別な思い入れはないけど、曲はこの5年間で何度聴いたことか。つつましい歌詞と癒しボイスの過不足ない歌になっている。次はShow by rock!!ましゅまいれっしゅ!!(2020年)のホワンの歌「ヒロメネス」で(ついでにデルミンの「Have a nice music!!」も好き)、この時まではまだ遠野ひかるさんという声優を認識しておらず、ただ歌声が好きで聴いていた。ましゅまいれっしゅの歌は他にもあるけど、遠野さん単独の歌はあまりないようで、あとリリース方法がごちゃごちゃしていてよくわからずアマゾンでも単品で売っていないようなので聴いていない。それで今回の「Love 2000」。これは負けイン第1話のEDで流れたときに、僕は知らない曲だったのだが、近くにいたアニメに全く関心のない嫁が急に反応してしきりに懐かしがっていた。アニメ自体もEDアニメの出来もよかったので毎回見ながらそのうち買おうと思っていたのがその後忘れ、今回思い出して買ったが、歌だけで聴くとフルコーラスでも結構あっさりしていてちょっと拍子抜けした。でもこれも何度も聴くことになるのだろう。遠野ボイスの魅力は低音とやわらかいファルセットの心地よさであり、あまりテンポの速くない曲が合うと思うのだが、いずれそういう曲をつめ合わせたアルバムが出ることに期待したい。
●子供はまだウルトラマンにはまり続けていて、車に乗っているときはウルトラマンブレーザーウルトラマンアーク、ウルトラマンセブン、ウルトラマンタロウドラゴンボールダイマの主題歌をリピートしないとうるさくて閉口している。子供にとっては自分でも口ずさめるセブンやタロウの歌がいいらしく、意味も分からないままよく「わーるかなほしがーふーるーさーとーだー」と歌っている(確かに「わるかな」と聞こえなくもない)。アークの歌は難しくて早くて歌えないけど、それでもところどころ耳コピした歌詞を歌っている。ソフビによる戦いごっこに付き合わされたり、寝る前に怪獣図鑑を読むようせがまれたりして面倒なのでそろそろ飽きてほしいけど、今度またウルトラマンショーをみにショッピングモールに行くことになっている。先日録画したジャッキー・チェンの「酔拳」をみせたらアクションシーンに大喜びしていた。
澤田なつボイスのエロゲーを無性にやりたくなって、「かけぬけ★青春スパーキング!」と「ハッピーライヴショウアップ!」を購入。それぞれの感想はクリアしてから書くとして、自分が楽しめそうな澤田なつ作品はこれくらいしかないかな。別名義でもいろいろ活躍している人なので作品数があまり多くないのが残念だが、とりあえずあるものは楽しみたい。かけぬけは11月に仕事で神田に行ったときに、秋葉原が見えたのでつい魔がさして久々にソフマップに足を運んで買った。人の少ない店内でゆっくり時間をかけてあれこれ品定めしていると、失われたエロゲーマーとしての自分を取り戻しているみたいで「静かな喜び」がある……。ハッピーライヴの方は架空のロシアが舞台ということで前から気になっていたけど中古価格がそれほど安くないので先送りにしていたところ、年末に納得できる価格のを見つけたのでセパレート帰省する妻子を東京駅まで見送りに行った帰りに買った。連休の間に始めたかったけどまだインストールしていない。かけぬけの方はじっくり読むほどの作品ではないのでとばし読みしていて、目当てのヒロイン以外はまもなく終わる。
少し前にも書いたけど、オフライン移行から1ヶ月近く経ったハチナイについても何か書き残しておかないと。2024年のゲーム運営の展開をみると、もっと続けるという選択肢も残しながらもどこかの時点で畳むことに決めたようで一抹の寂しさが残る。最後のハチ生ではまだ1日2万人のユーザーがログインしていると発表されていたけど、売上が問題だったのか、発展性がないからこれ以上リソースを割けないと判断されたのか。オフライン版に毎日ログインしてデイリーミッションをやっていると、キャラとストーリーの新規追加がないと味気ないけど、ゲームとしてこれ以上発展させていくのも難しいのだろうなという気もする。野球という現実のスポーツのルールに一応縛られているから、出場できる選手の数や試合中に行う選択の結果もおのずと限られてしまう。ストーリーについては、ハチ生で山口Pはレナvs高坂に力を入れていたと言っていて、僕が一番印象に残った試合もそれだったので納得感はあったけど、クライマックスのはずの最後の夏の本校vs清城はほとんど見せばなくあっさり終わってしまって寂しさがあった。サービス終了でなければもっと別のシナリオ展開もあったのだろう。大学生編が始まった時や新一年生たちが登場した時の期待も後が続かず、やがてしぼんだ。「青春」。このゲームの売り文句でもあるが、「若い頃のきらきらしたまぶしい体験」というだけでなく、「あの頃に全うできずに消えていった可能性たち」というようなある種の後悔や苦さも含めた切なさという意味で合っていたのかもしれない。スポーツは基本的に、試合結果の場合も大会でほとんどのチームはいつかは負けるし、個人においても無限に成長し続けられるわけではなくいつかは天井のぶつかるので、失敗や満たされない思いを内包しているといえる。ハチナイは「女子でありながら男子に勝てる実力をつけ、それを認めさせる」というさらにハードルを上げた目標を掲げさせることで、基本的には明るくライトな美少女たちの日常を描きつつも、実は彼女たちを過酷な環境に置いていて、そこで心を燃やしていく彼女たちに僕たちは魅せられていたのだろう。それに加えて、いわば肉体を見られること、心を読まれることに特化したスポーツとしての歴史を持つ野球と美少女との相性の良さもあった。有原の身体、東雲の身体、野崎ちゃんの身体、ともっちの身体、直江ちゃんの身体、花山ちゃんの身体、小麦の身体、宇喜多ちゃんの身体、ここちゃんの身体、阿佐田先輩の身体etcは、女の子としての日常とは別に、野球をプレイするときに特別な美しさを発揮するわけで、それはいろいろなシーンのイラストで繰り返し描かれ、そのたびに僕たちはその美しさをあらためて発見してきた。太ももがいいとかそういう単純な話ではなく(もちろんよい太もももたくさんあったが)、練習や試合の一コマとして描かれる土を蹴る足、雨でぬかるんだグラウンド、疲れた身体を冷やす夕方の空気の美しさであったり、一方では野球しているはずの身体が、他方で水着になったりおいしいものを食べたり連れ立って遊んだりと若い女の子らしく華やぐシーンの楽しさであったりした。開発スタッフが顔出しして定期的に動画配信する「ハチ生」をみるにつけても、制作者たちもそういう美しさを信じて作り続けてくれたのだろうなという感じはした。終盤はストーリーがやや失速した観もあったけど、無償のオフライン版を作ってくれたことをはじめとしてスタッフの心意気は最後まで見事だった。僕はオフライン版のために中古で安いアンドロイドのタブレットを買って12月17日に備えていたのだけど、ストレージ容量が足りなくてSDカードを買い足し、ネットをみながらそのSDカードを内部ストレージ化する裏技を調べて四苦八苦していて、ハチナイのアカウント連携が12月17日のぎりぎりになってしまって焦っていた。ハチナイのサポート係とは何度かやり取りをしていて頂いて、12月17日の14時(だったかな)のサービス終了を前に、当日の午前中になっても山口Pご本人から対応のメール返信が来て、申し訳なくも大変ありがたかったし、それでもまたトラブルが起きて次の日以降にまた問い合わせをしても、サービス終了前から問い合わせている件だから対応しますと別の方が出てくださって、結局最終的にうまくインストールとアカウント連携できるまで付き合ってくれたのにはハチナイの意地を見た。2019年のアニメを偶然見てその終了後あたりにダウンロードした自分にとって初めてのソシャゲーだったが、それからまもなく、新宿駅の地下道にグラウンドの土で制作された壁画が登場して通勤途中に見に行き、特にヘッドスライディングする宇喜多ちゃんの絵に魅せられたことを覚えている(アニメでも宇喜多ちゃんの話はよかった)。思えばこの頃から作品の熱気を感じていた。そのハチナイもこうして閉じられてしまった。山口氏は最後のハチ生で、いつか誰かがこのハチナイを引き継いでくれればというようなことを言っていて、復活の可能性にわずかな含みを残したが、現実的にはあまり期待しすぎず心のどこかで待ち続けるくらいだろう。信頼度9の最後のストーリー、確か2人ぶんだけ読めるはずだけど(レベル690くらいなので1人はまだだいぶ先だが)、決めかねている。想像の余地はまだ残しておきたいからなあ。なんだかんだでこれが終わると気持ちの整理がついてしまいそうで。

たねつみの歌 (80)

 年末年始は家族が家を空けて一人にしてくれたおかげで、食っちゃ寝と読書・ゲーム三昧を久々にできて家族に大変感謝しているが、それもそろそろ終わりが見えてきた。明日には実家にも少し顔出しする。
 『たねつみの歌』は国シリーズのKazuki氏の新作ということで大いに期待していた作品で、クリアし終えて一眠りしてもまだ余韻の覚めないよい物語だったのだが(ふた眠りすると残念ながら覚めたようだがこれは仕方ない)、技術的な問題によりプレイ体験は快適とは言い切れなかったのでそこから始めよう。すなわち、もたもたしたグラフィック演出やアイキャッチが頻出しすぎてテンポが損なわれていたことだ。アニプレックスのバックアップで可能になった物量的なリッチさなのかもしれないが、緩急やメリハリがなくなってしまっていた。もう少し使い方に工夫がほしかった。この点では国シリーズの方が優れているような気がするが、どうだったかな。あと、キャラクターグラフィックの塗りのチープさももったいない。背景は素晴らしいのだが、キャラの塗りがPCの大画面で見るには残念で、ここにアニプレックスの力を使ってほしかった。特に神界の住人達とかキャラデザ自体はけっこう面白いものが多かっただけに。
 もう一つ、これは問題というわけではないのだが、Kazuki作品にキャラクターボイスがつくことについても気にせざるを得なかった。声優さんたちの熱演は素晴らしく、みすずの飯沼南実さんや陽子の渡部紗弓さんからサブキャラの姉姫(ともっちの井上ほの花さんと知って驚いた)や塩見の娘(栗坂南美さん)やキツネの奥さん(山本悠有希さん)まで耳を喜ばせてくれる声が多く、この作品の魅力の重要な部分を占めているのだが、それでもやはり声がつくと国シリーズのようなテンポのよさは失われる。セリフのないパートになってようやく読みやすくなる。といってもこれはセリフというよりは先述のグラフィック演出の問題による部分の方が大きいのかもしれない。いつか国シリーズに声がつくことがあったとして、テンポのよさを維持できるのだろうか。内容を重ねるタイプのセリフが多い文体だし。ビジュアルノベル形式にするとか、あるいはテンポは捨てて美声とか別のもので注意を引くとか、何か工夫が必要なのかもしれない。
 音楽については、プレイ中はあまり意識しなかったが、考えてみればロープライス作品にしては途切れなくしっかりして、エンドロールで奏者がたくさん出てきてかなりこだわったんだなと驚いた。
 前置きはこのくらいにして本題に入ると、母・子・孫3世代の同年齢の女の子3人、恋愛要素のない「冒険」という風変わりな物語で、いつもの民俗学的装いの代わりに寓話的なファンタジー色が強めでふわふわした印象だったが、それでも死を前にした人を明るく描くよい物語だった。神様といっても何か特別な能力を持っているわけではなく、老衰で死なない生き物というだけなので(熊に食べられたりすると死ぬ)、生きることに役割はあっても意味はない。そこに意味をもたらすのがみすずたち死すべき人間であり、彼女たちも神様の死をみて自分たちの生き方に意味を見出していく。そのために人生のいろいろな場面を思い出す。人生は瞬間の連続から成り立っていると同時に、ばらばらになった様々な場面を自分でその都度手繰り寄せることで立ち現れてくるものだなあと思う。終章で「冒険」から帰ったみすずのその後が穏やかに淡々と描かれていく中で、彼女は人生の様々な場面で先の冒険の中で先取りしていた人生を改めて思い出してみたり、みなかったり、はたからはよくわからなかったりして、その影を内に秘めたような、あるいは影に優しく見守られているような雰囲気が心地よく、ツムギや陽子と一緒にそんなみすずをいつまでも眺めていたくなる。誠司とのなれそめとか絶妙な雰囲気のよさだった。出会ったときから、ツムギが生まれるまでの人生の幸せが感じられるのってどういうことなのかなと想像させるようなみすずの表情。この終章と、序章のみすずと母、つまり全てを思い出している陽子とのあの病室での対話のエピソードがあることで(それにしても陽子の声優さんは抜擢は絶妙すぎて、それだけで死の問題に対する一つの答えになっている)、きれいな枠にはめられた作品になっている。テンポの問題でだれ気味の部分が少なくなかったけど、この枠が全てを昇華する。
 中身の部分については、だいたい個人的な趣味の問題になってくるような気がするのであまり書いても仕方ないのだが、秋の国のつつましくて喜びが染み入るようなキツネの奥さんの生き方がよかった。この話ではタヌキの王様ではなくキツネの奥さんが実は中心人物であり、彼女を見届け、見送る話になっていたのがよかった。あと、ツムギの性格の話もよかった。これだとけっこう苦労しながら生きていくんだろうなと思う。でも帰ったら母親とすごく仲良くなってしまって、父親が焦るんじゃなかろうか。そしてツムギもみすずのように家族思いの人間に育つのだろう。誰か陽子の抜けた穴を埋めてくれる人はツムギに現れるのだろうか。ヒルコについては、自ら語ることを拒んだこともあってよくわからない。自分は呪われ殺された神であって、全ては遊びだといっていたのは本当のことなのか、そしてその気になればみすずの弟として生まれることもできたのか。まあ、できないからこの物語のような形に収まり、方位磁石を渡されたのかな。ついでにいうと、赤子やギルガメッシュの姿も含め、ヒルコのキャラデザはもう少し頑張ってほしかった。秋の国の最後から冬の国の話は、物語を駆動するものがヒルコによって神様たちのための冒険からみすずたち自身のための冒険に組み替えられていく過程であって、なぜみすずたちにあのような試練が与えられたのか、他にやりようはなかったのか、よくわからない悪夢のようなパートだ。確かにあれを乗り越えたから3人は強くなり、あらためて「のっぺらぼう」ではなくなったったのだろうけど、なぜそんな目に合わなくてはならなかったのか、人生ってやっぱり「子供の加害性」みたいに無闇につらくなることもあるからなのか、そうしないと人生に意味は備わらないのか。きれいに終わったからよかったけど、読んでいるときは不条理感がきつかった。もう一度読み返した方がいい気もするが、重苦しいので難しいだろう。
 人はいつでも死に向き合い、生まれなおすことができる。自分の選択を肯定しなおすことができる。自分は立ち去り、何かを誰かに残すことができる。だから生きることには優しさがあると思えた作品だった。種播きよりも前の段階である種摘みは、始まる前の終わりについての物語だ。正月から心機一転、久々にジョギングをして風邪気味になってしまった中年のおっさんだが、心の中はみすずなのだった。

滝本竜彦『新NHKにようこそ!』とか、ハチナイとか

 前作のリメイクという構想の論理的帰結のような作品で、NHKにようこその原作やマンガ版の完結を惜しんだ者としては出てくれただけでもありがたい。「シン」ではなく「新」だったこと、物語を不完全に終わらせることではなく、完全に続けることを選んでくれたこともありがたい。確かに原作の二番煎じであるし、読んでいる僕ももう完全なおっさんなので、かつてのような病的なほどの没入体験は繰り返されず、終盤も何やらあっさり終わってしまったのが残念といえば残念なのだが、もうそこはいいのだ。滝本氏はどんな作品を書いてもこのNHKにようこその変奏になってしまうし(デビュー作だけは少し違うかも)、僕もそれを望んでいて様々な登場人物にNHKにようこその転生体をみてしまうのだから、このリメイクが完結しても何も完結しておらず、むしろこれからもNHK世界の展開にお墨付きを与える作品になったとみることもできると思う。
 ゼロ年代は自分の20代と共に過去に置いてきたはずだったが、佐藤と山崎は何も変わっていなかった。佐藤の部屋は少し汚さが増したようだが、それくらいだ。アニメのDVDは買い集めてまだ最後まで見ていないのだが(以前にリアルタイムで見ただけ)、たぶん見れば同じようにゼロ年代が甦るだろうし、以前に最初の数話を見てから買った牧野由依さんの最初のCDはいまだにときどき聴いていて、やはりゼロ年代を強く感じる。
 このブログ自体があの頃への郷愁のようなものを残したくて書かれているということもあるのだが。
 というわけで、久々なので近況について少し書いておこう。
・もう人生が終わりに向けてカウントダウンすべき年齢になってきたこともあり、リアルの方で仕事と家庭以外に自分の何かを残したいなと思って「ライフワーク」を始めたはずなのだが、なかなか落ち着いて向き合えるコンディションにならず、三日坊主になりそう。それでもライフワークを持ったという意識自体は良い方に作用すると期待している。
・アニメを見て、久々に買ってしまったフィギュアが「推しの子」の有馬かな。何種類か出ているのでいろいろとレビューをみたりして納得のいくものを選んだはずなのだが、買って満足してしまってまだ飾るに至っていない。ストーリー的にこの子の恋が実って幸せになる展開はなさそうなのだし、それほど新味のないべたなキャラクターではあることは分かっているのだが、出てくるたびにこちらを笑顔にしてくれるし、暗い物語における救いになっているので手元で鑑賞したくなった。
・最近の週末の買い出しでは子守りがてらホームセンターをうろついていて、子供には特に長い木材の棒や板の売り場が気に入っているのだが、2mくらいの板が400円くらいと手頃だったので一つ買って、フィギュア用の足場にすることにした。現在、本棚から無数の板が中空に突き出してフィギュアが置かれているのだが、この空中回廊がさらに増えることになる。
・先日、子供を横浜の商業施設に連れていってウルトラマンショーを見せた。ウルトラマンアークはなかなかスタイルがよく(昔のウルトラマン短足だったり寸胴だったりする)、迫力もあって格好良いのだが、子供は大音量に尻込みしてあまり乗れていなかった。しかし家ではウルトラマンのソフビで遊ぶのが好きで(ブックオフで買ったりしている)、怪獣では特にキングジョーとガンQが気に入っている。キングジョーの造形はレトロ好きのおっさんだけでなく、幼児の心にも響くらしく、ダジア、ダジアという謎の足音を実況しつつよく戦わせている。その他、現在はブンブンジャー、ドラゴンボールダイマ、まほなれを一緒に見ている。
・ハチナイがサービス終了へ。5年ほどほぼ毎日ログインしている作品がまもなく終了ということでしんみりする。一番印象的だったのは高坂vsレナの試合だったが、ハチ生最終回の山口氏の話ではずいぶんと力を入れた話だったのでやはりと思う。自分はアニメから入った組で、当時は新宿駅に甲子園の土(?)で制作されたレリーフが登場したのを見に行って、ヘッドスライディングする宇喜多茜ちゃんに見惚れたことを覚えている。野球と青春をテーマに、高校生の3年間を描くストーリーだが、野球と青春には永遠性があるが、高校の3年間は人生の通過点に過ぎないので、物語としては矛盾をはらむことになるし、広げすぎた風呂敷をあと2回の更新できれいにたたむことは難しそうで、たたまれなくても特に問題はない。お気に入りのキャラクターの物語的なポテンシャルが十分に開花しないまま終わるのは残念だけど(奈良ちゃん、小麦、野崎、茜、柚、たゆ、ここ他多数)。あと、カープコラボがなかったのも残念。自分はDMM版でプレイしており、スマホでやる気はないので、オフライン版で遊べるかは分からない。最後の全国大会をプレイして、やはりゲームパートはストレスたまるなと再認識したり。最後にここまでで自分がたどり着いたチームでも残しておこう。お気に入りの選手カードもいくつか貼ろうと思ってアップロードしたけど、100枚を超えてしまったのでそのごく一部:a,b,c,d,e,f,g,h,i,j,k,l,m,n,o,p,q,r,s,t,u,v,w,x,y,z,1
・ハチナイが終わるとソシャゲはうたわれだけになる。FGOをやってみたい気がないわけではないが(バビロニア編のアニメはよかったし)、たぶん手は出さないだろうな。
エロゲーはアマカノ無印がようやく終わりそう。ゆっくりやっていく。

壱百満天原サロメの雑談

 最近、サロメさんの雑談を聞くのが楽しい(特にツイキャス配信。ゲーム実況とか他の配信者と一緒のものとかは聞いていない)。他のVtuberは聞いていないのでこの人が特別楽しいのか、それともだいたいVtuberってこんなふうに楽しいのかは分からないが、聞いていると心の柔軟体操になるような、疲れがとれるような気がする。キャラ設定がオタク向けで親しみやすいということもあるのだが、おしゃべりの内容や言葉の選び方、気遣い、声色、活舌、笑い声などすべてが好ましく、しゃべり芸として心地よく、人気があるのもうなづける。無数に流れるリスナーの人たちのコメントも心地よく、いい距離ができている感じがする。サロメさんが活動を終了したり、楽しく活動できなくなったりしたら悲しくなりそうだ。
 彼女が夢中になって楽しそうにしゃべるのを聞いているとき、自分はアン・シャーリーのおしゃべりを楽しむマシューのようになっている。子供のアンと成人女性のサロメさんでは話し方も内容も違うのだが、おしゃべりに聞き惚れるという点では同じようなものだ。自分は彼女よりずっと年上で、人生経験も多いはずなのだが、彼女の自由なおしゃべりに翻弄されっぱなしで、いつの間にか自分は小学生か中学生の頃に戻って、頭と舌がよく回る憧れの女の子のおしゃべりにじっと聞き入っているような感じになっている。
 こういうのは本来、芸者とか援交とかにカネをつぎ込むとか、仲のよい女のオタク友達がいるとか、おしゃべりな娘がいるとか、そういう難易度の高い条件をクリアしないとたどり着けないものなのだろうけど、手軽にタダで楽しめるのはいい時代だ。仕事をやめて全てをなげうって、ずっとこのおしゃべりをぼーっと聞いていたい気がするが、そうじゃなくて自分の今の面倒な生活があるから楽しめているような気もする。あまり無理せず、長く続けてほしいな。

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twitcasting.tv

 

追記:

ゲーム配信は期待していなかったけど、これは楽しめた。世代的なものもある。ロックマン2は子供の頃やった記憶があって、ニコニコ動画で「おっくせんまん」が流行った時も懐かしかった。確認したら2007年の日記で書いていた。17年前か。そして発売年からすると、僕が弟の横でみていたのは小学校高学年か中学生の頃だったか。つまり僕は、サロメさんのプレイ動画を見て小学校高学年か中学生くらいの頃にひとときのタイムスリップをしていたわけで、サロメさんは近所の面白いお姉さんだったということになる(実際は僕よりずっと年下だが)。そう思うとこの動画は自分にとって大事な作品になってくる。それにしても、11時間のぶっ通しプレイだったとしても、1日でクリアしてしまえるのはすごい(小学校高学年生の尊敬のまなざし)。特に手先が起用というわけではなく、ひたすら根気とユーモアとリスナーの応援で乗り切ったのがすごい。11時間、飽きさせずにしゃべり続けられるのもすごいなあ。ちなみに弟をめぐる状況はこの17年間で何一つよくなっていない。そんな暗さをしばし忘れさせてくれるほど楽しい動画だった。

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子守りの余白に

 子供がいないないばあ・おかあさんといっしょ・みいつけた以外のテレビにも関心向けるようになった(関心を向けるように仕向けた)のが半年くらい前だったか。子供がいなかったら見なかったであろう作品とかを見たので、いちおう記録に残しておこう。
となりのトトロ:一時期は子供が週3回くらいのペースでみていて心配になった。
ピタゴラスイッチ:これは一番ヘビロテの番組で、ほぼ毎日見ている。テレビばかり見せるのはよくないのだが、僕は自宅でもだいたい21時くらいまで仕事だし、妻はテレビっ子なので遊ばせるのをめんどくさがってテレビを見せてしまう。1日3時間くらい見てる。発達には絶対よくないし、テレビを見てばかりで体力を消費しないので、なかなか寝てくれなくて(僕に懐いていて母親と寝るのを嫌がって泣き叫ぶことが多い)、結局翌朝寝坊することになる。小学生の頃はテレビは週1時間とかしか許可されていなかった自分としては心配になる習慣。
ウルトラマンブレーザー:見始めたのはシーズン途中の隊員にお見合いの話がある回くらいからだったけど、なかなか面白いシリーズだった。エヴァの影響が感じられる演出が多かった気がする。子供はストーリーは分かっていないのだがウルトラマンのアクションシーンは好きで、ポーズをとって攻撃してきたり、ウルトラマンの雄たけびのようなものをよく口にするようになった。ブレーザーは原点回帰のシリーズらしく、ウルトラマンが(最終回を除き)再びしゃべらなくなったとのことだが、35年ぶりくらいにウルトラマンを見た自分としては、しゃべるウルトラマンがいたことの方が違和感がある。後継番組のウルトラマン・ニューゼネレーションスターズではしゃべるウルトラマンがたくさん出てきて、プリキュアみたいな変身道具(ブレーザーにもあるが)もあったりして軟弱に見える。変身するときになぜか掛け声が「御唱和ください」とかなのは面白いが。あと、複数のウルトラマンが協力して怪獣に立ち向かう熱い展開がたくさんあるのだが、熱いというよりは怪獣を囲んでリンチしているように見えて教育上もよくないような気がする。ともあれ、現在はブックオフに行って買い集めた5体のウルトラマン人形で子供は遊んでいる。最近のウルトラマンの主題歌は子供が歌えないものらしいので、昔のウルトラマンタロウの歌をユーチューブで見せたら気に入って、よく歌っている(はたらくくるまの歌の次ぐらいの頻度)。今日は近所の公園で自治会のお祭りがあり、そこに登場したご当地ヒーローに関心を示していた(小さな町のマイナーなヒーローなのに追っかけのオタク女子までいて驚いた)。握手してもらって喜んでいたが、こういうのが分かるようになったのもウルトラマンのおかげだろう。
ウマ娘3期:以前のシリーズも見ていたが、子供と見るようになったのは3期から。子供はこの作品を「かけっこ」と呼び、ストーリーは分かっていないがレースのシーンを楽しんでいた。キタサンブラックという名前は言えるようになった。この作品以外もそうだが、アニメのOPはたいていテンポが良いので気に入るようで、この作品のOPも繰り返し見たがる。僕の方では、キタサンブラックサトノダイヤモンドが壁にぶつかって、時に諦めたりしながらも、自分なりの目標を立てて頑張るのがよかった。競馬のこともこの作品の設定もよく分からないのだが、ピークを過ぎたヒロインが引退に向けてどう納得のいく選手人生を送るかというのはいいテーマだった。
シムーン:子供には第1話だけ見せ、回る車輪が好きで大量のトミカで毎日遊んでいるので、「神の乗機」のデザインが気に入ったようだったが、幼児に見せるのは問題がありそうな作品なのでこれ以上はやめておく。僕の方は一人で全部見て楽しんだ。よくいわれているように、大島弓子とかの少女漫画の雰囲気を濃厚にまとった、「あの頃」の少女たちの不安と美しさをよく伝える作品で、最後まで見た翌日は少しぼおっとしてしまった。こういう突飛な設定の物語は、少女漫画的な閉塞した純粋培養のジャンルからしか生まれないような気がする。ネヴィリルとアーエルはもちろん、リモネとドミヌーラとか、ロードレアモンとマミーナとかのペアのどこか切ない空気感が好きだった。いつか続編出ないかな。

●恋淵ももな:AV女優について書くのは久しぶりだが、最近お世話になっている。というのも、二人目の子供をつくろうということになったのだが、妻が大好きな相撲取りのような状態になってしまっていてそのままでは僕はピクリともしないので薬に頼らざるを得ず(頭痛と胸やけが嫌なのだが効果の強いレビトラを主に使う)、それでも足りないのでエロ動画を見てから妊活に挑んでいるので。40代での妊活はエロゲーによるセルフプレジャーとは異なり苦行といって差し支えなく(アマカノシリーズではあれほど幸せなのに…)、1日終わると罪悪感と無力感に心が落ち着かなくなってぼおっとネットを見ながら徹夜してしまうことも多いのだが、恋淵ももながわずかな癒しになっているかもしれない。自分の性癖にどれくらい合っているのかはよくわからないが、一通り調べて、面倒なのでこの人に決めた感じだ。もしこれで子供ができたら、彼女も含めて3人の子供といってもいいのではないか(よくない)、少なくとも感謝の気持ちを込めて出演作を1本買ってもいいのではないか、というくらい助けてもらっている。2人目ができれば生活は主に時間と人手の面で限界に近づき、今以上に大変になるのは目に見えているので、もしできなくても諦めはつくのだが、できたらなら今よりもさらに健全で新しい可能性が広がって、人生の真理的などこかに向かってさらに進んでいけるような気がする。たとえそれが幻だとしても。

うたわれ雑談

 月初はソシャゲーの月間イベント開始日なので忙しいのだが、今回は諦めていたうたわれのメインアカウントにログインできるようになってしまい、サブとメインの両方でイベントを消化することになって特に大変だった(さらにハチナイもあったのだがその話は今回は割愛)。メインアカウントは半月前にログインできなくなり、エミュレータ経由のPCプレイヤーなのでサポートの対象外なのだが、ダメもとで問い合わせたけどやはりだめだったので諦め、サブアカをつくって進めていたのだった。
 2周目となるので効率的に進めることができたが、さすがに半月で1年分の遅れを取り戻すことはできないし、この間に来てくれていた強いキャラやお気に入りのキャラがないので、縛りプレイのようだった。攻略サイトをちゃんと見るようになったのはプレイ開始から半年くらいしてからかな。でも非効率で適当にプレイしていたのもいい思い出みたいなもので、今となっては弱くなってしまったキャラにもずいぶんお世話になったものだと思う。直近では年末に来てくれた、ぼーぱるばにーツクヨミがお気に入りで、戦友のハクオロとの協撃でとんでもないダメージを叩き出してくれるので壮快だし、CVの大西沙織さんの美声が素晴らしく、本来は好みのタイプの声でもキャラでもないのだが、こればかりは何度も聞き入ってしまう。タイトル画面に設定して白い太ももやきれいな目や魅惑的な表情を眺めて癒されていた。
 そんなふうに懐かしがりつつも、次第にメインアカウントを忘れてサブアカに慣れてきて、こっちで来てくれた正月マツリとニライカでそれなりに強くなり、遺跡も強い人に戦友になってもらって黒アクタで2つクリアし、だんだんこっちで進めていくことに楽しくなってきたところだった。マツリの3Dモデルがくるんと回るときのおっぱいの存在感とか好きだった。
 ログインできない原因は本体アプリの更新をしていなかったことらしく、先週のアップデートの際に更新できた可能性があった。そうすればメインアカウントでマツリかニライカをお迎えできたかもしれないし、素材ももっと手に入っていたと残念になるが仕方ない。またツクヨミに会えただけでも良しとしよう。こっちは石が少ないのでガチャはあまり楽しめないのだが。
 2月のイベントはホワイトアルバム2とのコラボ。結局僕は2はプレイしなかった。たぶん楽しめただろうけど、10年前の発売当時は、もうあの1の時のような三角関係の切ない物語におのれの感情を燃やしたいと思える若さは失っていた。エロ助の熱心な感想たちを横目にしつつも、僕のための物語ではないかなと思っていた。今も同じような気持ちだ。とはいえ、うたわれのコラボで気楽に読む分にはいいかな。2でも1と同じ歌をヒロインたちが歌っていて懐かしい気もする。でもあまりキャラデザは好きではないので、お迎えできなくてもそれほど悔しくない。自分はリーフではやはりみつみ美里甘露樹カワタヒサシの3氏の絵が好きらしい。ぼーぱるばにーはカワタ氏の真骨頂だと思う。ミナギケモルルも好きだし(どちらも声も素晴らしい)、自分には特にカワタ氏の絵が合っているのかもしれない。
 アカウントの切り替えはバックアップの作成と読み込みなのでかなり時間がかかり(他のやり方は分からない)、あまり頻繁にはやりたくないので、これからはサブアカで遊ぶ時間がなくなっていくかもしれない。マツリ、ニライカ、コタマたちは、可能性の海から一瞬だけ現れた不思議な存在であり、またその海の中へと消えていってしまう(ニライカ/アトゥイなので海のイメージ)。それを言うならゲームなんてデータの海から一部を掬い出して勝手に楽しんでいるだけのようなものなのだが。

ハルカの国 大正決戦編

 連休が終わって時間を取りにくくなり、小分けして読んでしまったせいか、全体としては面白かったけど、少し散漫な印象を抱いてしまった。物語としても、これまでの伏線に決着をつけるような展開(ハルカとユキカゼの関係、愛宕という国の危機)や今後の展開の伏線(人間の国による干渉)といった作品の前後につながるような要素が目立ち、この章の内部で完結するような要素である風子(と八千代)の物語は面白かったけどややインパクトが弱かった。余呉の里での竹細工の話、「幽霊」のように消されていく狗賓という存在、イカズチ丸の秘祭、狐の里の話などのエキゾチック要素ももちろん面白かったのだが、このシリーズのレベルが高すぎて慣れてしまった観があった。こうしたイベントをハルカとユキカゼが普通に通過してしまったからかもしれない。二人はもう、大きく変わることはないのだ。
 冒頭のハルカのコミカルな喜びようが楽しかった。その反動で、ヒコでの30年を「何もできず、失敗だった」と振り返るのは寂しかった。
 風子ははじめはちいかわみたいだなと微笑ましく見てたことろもあったのだが、彼女自身の苦しみややがて明かされていく背景をみて感情移入が深まっていった。星空のCGはよかったし、最後のトラユキの写真もよかった。次章以降にも登場してほしいな。
 八千代はユキカゼとの焚火の前の会話で普通に盛り上がっていて何だか笑えたのが印象的だった。ユキカゼに対する見方が風子と同じというのもよかった。おトラの話まで出てきて。「最後まで話すと湿っちまうけれど、楽しいこともあったよな。笑えることもあったよな」
 ハルカとユキカゼは結局、愛宕の国における客人であるまま、この地に埋もれていくようにみえる。「とにかく、そういう荷物になるもの抱えて、なんとかかんとかやってきたという自信のような。人から見ればよいものでもない、生きているうちにたまった錆びのようなものがあって。そういうもの、あるな、と思っていると。寂しいのだけれど……寂しくても、生きていける気がしたんだよ。このまま最後まで、歩いて行こうと思えた。それが、嬉しかった……」というユキカゼの感慨。全ては過ぎ去ってゆき、どこにも「帰るべき本当の故郷」なんてものはなく、誰もが自分の人生を客人として生きていく寂しさがまた染み入るものがある。
 次章以降は時代が戦後の昭和に飛ぶとのことで、エキゾチック要素は期待できない(キリンの国にはまだあったが)。昭和の物語を楽しく読めるのか分からないが、最後まで見届けたい。でもこのまま落ち着いた感じで終わってほしくはないな。その前にまずは完成を待たねばならないが。

ハルカの国 明治決別編・星霜編

明治決別編
 最後まで楽しく読ませて頂いたけど、今回は五木がゴールデンカムイにいそうな感じのキャラであり(どっちが先に出たか分からないが)、ユキカゼの戦いや葛藤についてもアクションが多かったせいもあってか、那須きのこ作品でありそうな感じの描写や展開で、読んでいてうっすらした既視感がつきまとい続けた。むろん、だからといって面白くなかったわけではない。そしてやはりハルカとユキカゼの愉快な道中のかけあいを読めたのは感謝。ユキカゼのすぐに図に乗ってしょうもない方向に行くけど根は素直なのは、なんかどこかで見たことがあるような愛らしいキャラなんだけど、戦前の小説のような少し古い言葉を使うところが味わい深いんだよな。はじめは言いくるめているハルカも、ユキカゼが勢い任せに放り出した言葉に虚を突かれてなるほどと納得したり、反対に逆上したりして立場が入れ替わったりするのが、みていてほのぼのとする。五木もそんな二人をみて変わった、あるいはいろいろと思い出したようだった。東北の地理感は今でもよくわからないくて、盛岡から出て最上川を下ると酒田に出ることができるとか、紅花(紅殻町博物誌を思い出す)と古手(なんていう言葉もあまり気にしたことがなかった)の貿易とか秋田県の経済圏とか、興味深いお話だった。


星霜編
 年末年始に録画した『響け!ユーフォニアム』劇場版(というか総集編)をながら見して、昔のテレビ版を懐かしく思い出したりしていたのだが、このシリーズは卒業とか受験とかコンクールとか、そういう毎年の強制イベントを軸に物語が組み立てられていて、みんなそのイベントを経て強制的に成長させられちゃうなと改めて思った。
 それに比べてこの作品の化けたちにはそういうものが用意されていないので、一度背負ったものがいつ解消されるのか分からず、たぶん待っていてもいつまでたっても解消されないという重みの中で生きている。自分がいつ消えるのか、現在の自分がライフステージのどの位置にいるのか分からず、これまで自分にアイデンティティを与えてくれていた社会制度も崩壊して不確かなものになる中で、家族を営んだりせずに一匹狼や一匹狐や一匹狸として生き、やがて時代に追い越されていく。「やめなって。いいんだよ。全部はっきりさせなくていいの。ここはそういう所にしよ」というおトラの言葉の裏に彼女の寂しさを感じてしまう。彼女たちの寂しさがずっと感じられたから、ユキカゼとおトラとクリが四畳半の一室で寝起きし、荷物を処分して少し広くなったら川の字で手をつないで寝るというシーンがとてもよかった。また、ユキカゼは、「おトラの手を取りたかったわけでもない。ただ、クリと繋いでいるところ、おトラだけそうしないのは何だか嫌だったから、一応、聞いてみたのだ」などと述懐しておりユキカゼらしい。
 それにしても、改めてちょっと再読してみると、前半の「生活狐」パートでおトラの元気な姿をみるとたまらないものがある。台帳とちびた鉛筆を持つ立ち絵を見返すと、確かに鉛筆を左手で持ってたりして…。クリのうどんをかたくなに拒否するあたりからおかしいなとなって、2回目に尾道に行く前くらいから不穏な流れが鮮明になって息苦しくなっていくけど、それでも彼女はクリのトラブルを解決する手際も鮮やかで、旅立つまでずっとゆるぎないおトラだった。
 3人での生活が回っている限りは、生活狐であるユキカゼの抱える問題は浮上してこない。ユキカゼは去勢されたように腑抜けたことをこぼす時もあるけど、3人の生活を楽しんでいて、そこに『最果てのイマ』の場合と同じような空気をまとったグノシエンヌが流れたりする。
 個人的に酒を飲むのが楽しいと思ったことはほぼないのだが、金がかかるとか美味しくないとか飲んだ後が面倒くさいとかいろいろあるが、それは何よりもまず一緒に飲む相手がいないからなのだなあと改めて思う。この作品の登場人物は実に仲良く酒を飲む。ちょっと飲むか、という誘い方がいつもよい。やけ酒酔いつぶれるのも潔い。相手をいたわったり、一緒に喜びをかみしめたりするために、何気ない日常の中で飲むのがよい。後に、もう分からなかくなったおトラが酒を飲んで、一瞬だけ「おいしい」と元に戻るシーンに驚いた。何かの具体的な思い出ではなくても、よみがえってくる感覚があったのだろう。
 ユキカゼとゆっくり酒を飲みながら、何か未練はないかのかと聞かれて、おトラは、「ないね。なんだかんだと周りにも恵まれたし、あたしも上手いことやれる性分だったし。あたしは運が良い方だったよ。本当にそう思う。未練なんてないね。とても文句なんか言えない。明日、ぱっと消えちまっても文句ない。むしろ有り難いよ、そういう気持ちの良い方が。そう思わない?」と語るわけだが、その裏では自分の財産をこっそりユキカゼとクリに移していて、クリが独り立ちできるようあれこれ仕込んでいたりする。未練はないよという言葉は、同時に未練がないようにするよと自分に言い聞かせる言葉でもあったのだろうけど、彼女の口から聞けたのはよかった。
 寝落ちするおトラにこれからどうするのかと問われたユキカゼは、なぜ自分がまだ居残っているのか、いつまで自分は不確かな時を生きるという恐れを抱えていなければいけないのかと自問する。居残りとしての人生と居残りの終わりとしての死。「あの頃(何も知らずにハルカにくっついていた頃)のままだったら、寂しさもないかわりに、居残る意味もなかった気がする」というが、それはつまり孤独ではなくなったけれど居残るのは寂しいことだという感覚を抱えて生きていくということであり、どうにもままならない。おトラやクリと生きていく嬉しさは分かるけど、そのためには生きることの寂しさも感じなければならず、しかもおトラやクリとの暮らしの方はいつ終わるとも知れない脆さの上に成り立っていて、実際に崩れていく。条件の不利な戦いだが、誰も有利な条件の人なんていない。ハルカくらいか。まあ、ハルカについては次章でまた物語があるか。ハルカがユキカゼを独り立ちさせたように、ユキカゼとおトラはクリを独り立ちさせるわけだが、独り立ちさせたからといってユキカゼが抱える寂しさがなくなるわけではなく、何だか深まったようにも思える。
 言葉をこねくり回していたら素直な感想から外れてしまった気がする。本当はきちんと再読してよく消化したいし、自分の言葉でもっと感想を残しておきたいところだけど、今はそのエネルギーはない。あと、次章も読みたい。とにかく、正月からいい作品に出会えてよかった。点数はハルカの国が完結してからにしようと思っているが、この星霜編単独で過去最高の90点、ハルカの国全体では最高点の95点にしてもいいのかもしれない(どんな作品でも100点は原則的につけない)。おトラもクリも、出てきたときは安易なキャラかなという印象を持ったんだけどなあ。安易じゃなさ過ぎたな。家族になっていた。僕も読みながら一緒に酒を酌み交わし、煙管をくわえて思案し、一緒にうどんを食べ、カンパニを夢想し、尾道を歩き回り、川の字になって寝たような気になった。この時代、この時間の空気を吸ったような気になった。しかしなんであそこでおトラは目覚め、去ってしまったんだろうな。残酷すぎるように思える。でも、もし連れていけたとしてもやっぱり駄目だったのか。やがてくる別れがたまたまああいう形になっただけなのだろうか。あれはメタファーみたいなものか。だからあの場面についてはユキカゼは沈黙したのか。ユキカゼが自分の手とおトラの手に結んでいた帯は、彼女がいなくなったので刀の鞘に巻かれていた。ハルカは昔、ユキカゼにあまり呪いを背負い込むなと助言していたけど、仮初めとはいえ家族くらいは切り離さなくてもいいよねと思う。
 それにしても、ユキカゼは男装、おトラとクリは女装だし、それぞれの言動もそれらしいので、父と母と娘みたいな構図になりがちだが、ユキカゼとおトラの間に恋愛的な心の動きが全然ないのがいいな。ふつうはこうはいかない。繰り返しになるけど、雷の夜に川の字になって手をつないで寝るシーンが素晴らしい。文章のリズムとか演出の間とかも含めて素晴らしいので、最後に写経しておこう。回想シーンとかない不便なシステムなので読み返すの大変だし。

ユ:あのな、その、クリが教えてくれたのだけど
ト:ふん?
ユ:どうやら手を繋ぐと、雷避けにいいらしいよ。明日の天気も良くなるらしいから、お前の出発にも晴れた方がいいからって
ト:手?
おトラが覗き込む。
ト:あら、やだ。あんたたち、お手てつないで寝てたの。ドジョウすくいみたいのが
あははは、と声をたてて笑うおトラ。
ク:ふに
寝言をもらすクリ。
ト:あーおかし。わらわかしなさんなって。声たてちゃったじゃない。はぁ、可愛いね、あんた達。それで?え?あたしもあんたと手を繋ぐってのかい
ユ:もし良かったらな
ぱし、と手を叩かれる。
ト:やだよ。あんたと手つないで寝るのなんて変だよ。
ユ:そうか?うん、そうだな。変だな
ト:変さ。あたしとあんたがさ。おかしいよ
あはは、と笑っておトラが転がる。差し伸べた手は所在なく、おトラとの間に落としていた。
おトラの手を取りたかったわけでもない。ただ、クリと繋いでいるところ、おトラとだけそうしないのは何だか嫌だったから、一応、聞いてみたのだ。向こうが「いらない」と言えば、それで良かった。
ああおかし、とおトラは何度か繰り返す。静まったと思ったらまた肩を振るわせていたので、よほど私とクリの様子はおかしなことになっているらしかった。
不意に。私の手に触れるものがある。
おトラだ。おトラが、私の手を握ってきた。
ト:けど、あんた等があたしのために祈祷してくれてんのに、あたしが参加しない法もないね
ユ:…………
ト:あんたは両手で、手が暑いだろうけどさ
ユ:いや、大丈夫だよ。温くていいぐらいだ
ト:そうだね。雨が降って、また寒くなった。冬だ
おトラが長い息を吐く。
ト:おかしいね。あんたとあたしがさ、手つないで。狸の御姫様も混じって川の字になって。しぶとく生きてりゃ、面白いことがあるんだね
ユ:そうか?
ト:うん、面白い。ほんとに面白いよ

ハルカの国 明治越冬編

 はじめから終わりまでまったくの隙のないいい話だった。文章が心地よいし、絵もこれまでより洗練されたものになっていた。画面サイズを調整できるようになったこともありがたかった。
 キリンの国の綾野郷のパートと対になる物語であり、雪子の国の後にこの作品が来るというバランス感覚がありがたい。この作者が岩手の山奥の集落を舞台にした話をつくるというだけでもう成功は約束された感があるのだが、それにしてもよかった。ハルカとユキカゼのような関係性の二人の物語ってこれまでいくつも読んだことがあるような気がするし、今回は別に天狗がどうこうという話ではなく、神通力もほぼ出てこないけど、読んでいるときはただひたすら引き込まれた。ここでこういう言葉が出てくるのか、本当にこの村で暮らしていたのでは、と思わされるような、てらいなく紡ぎ出されていく言葉を追っていく面白さがあった。クライマックスの一つになってしまうが、この国の言葉に関するこんなふうなのもあった:「これは、この国の涙だ。この国の言葉は尖ることができない。親から譲られ、使い古された農具のような言葉でしか、一生を語れない人々。その言葉は、丸い。長い年月のなかで摩耗したかのように、丸い。どんな悲しみも、苦難も、彼らの言葉では、雪さえ傷つけられない丸みを帯びる。幼い梅の振り絞る声も、それであった。ツゲや佐一の悲しみも、それであった。巨大な冬の中。まんじりともせず、耐え忍んできた、この国の言葉だった。そして私が流すのは、その国の涙。生きることの、涙だった。」 文脈から切り離し改めて読むと普通のうまい文章なのかもしれないが、意地っ張りだけど若くて素直なユキカゼがこんな感慨に至るまでの流れの中で読むと唸らされるものがあった。最後のカサネの話とか読んでいてぽろぽろ泣けてしまったし、なんでこんな風に心地よく引き込まれるんだろうな。
 東北弁、といっても色々あるのだろうけど僕はよく分からないので一緒くたにしてしまうが、昔、東北出身の年配の人たちに師事して魚の仕事をしていた時に聞かされた。イントネーションも難しいし、例えば筋子を「しずこ」と言ったりするので、理解が数秒遅れてしまったり言い直してもらわないと簡単な意思疎通も難しいことがあって苦労したが、東北弁に特有の温かさも少し体感することができた。寒い土地柄だから言葉が温かくなるのかもしれない。温かさというよりは、ユキカゼのいう丸さの方がふさわしいのかもしれないが。ハルカやユキカゼの標準語と違っていても、その言葉にも自分のリズムやスピードや論理はあって、背負っているものがにじみ出てくる。酔っぱらって、誰が偉いかについて議論する男たちのくだりもよかったな。ゴーゴリが描くウクライナ人とかを思い出した。
 ハルカとユキカゼはどちらも雌の化けということになっているが、その言動は完全に男のものであって、キリンの国や雪子の国から続く男の友情のテーマに位置づけることができる。でも化けとしての彼らは雌だからか中性的な存在であり(雄の化けもいるのだろうけど)、村のカミサマとしてのハルカは女性であるからこそカミサマが務まっているところがあるように感じる。立ち絵のハルカのたたずまいも絶妙だった。カサネや他の村人を子供の頃から見守り、みとることができるのはやはり永遠に老いない不思議な化けであるハルカだからできるのであり、彼女の懐であるからカサネは最後に子供に戻れる。中性的とはいってもこれが逆に言動が女の雄の化けだったらこうはいかないだろうから、男女はやはり非対称であり、日本のカミサマ的なもの女性的であることには感謝しかない。冒頭部分をもう一度読んでみると、初めに読んだ時には男が語っているのは前作の連想で幽霊が見せる過去の一場面か何かなのかと思ってそのまま流してしまったが、これは彼の最後の晩のことだったとわかる。だから未練はよくないと繰り返していたんだな…。それをハルカも鮮明に覚えていたわけか。
 ハルカはユキカゼを後任者にするために手元に置いたのかと思いながら読んでいたが、少なくともこの作品の中ではそこまではいかなかった。二人のかけあいをまだまだ見ていたかったのでありがたい。
 これはフィクションなのに、と思う。この時代のこの地方に限らず、これまで伝えられた歴史や伝えられなかった歴史未満のものがたくさんある中で、わざわざ荒唐無稽な設定を織り込んだフィクションを読んで感動したり、何かわかったふうなことを書いたりする意味はあるのだろうか。まあ、あるわけなんだが。きっとこういう形でないと届かない心のどこかに届いてくれるのだと思う。
 年末から何もせずこのシリーズを読んだり寝たり菓子を食ったりだらだらと過ごしていたが、そろそろ起きて皿洗ったりカレーつくったり年賀状書いたりしなきゃ。でも仕事はまだ。巣篭もりをもう少しだけ続けたい。

雪子の国 (80)

 期待していたのはこういう話ではなかったのだけど(いきなり15年後のふくよかな美鈴が出てきてしまったし)、読まされる作品だった。重いし、いわゆる裏日本の暗い話だし、「山の涼しい空気」どころか凍死しそうな寒さの寂しい田舎町の空気だし、正月からこれかという重たさや暗さがある。なんとなく恩田陸の小説を連想させた。国シリーズではあるけど、かつての雪子の国はもうなくなっていて、現在の雪子の国は彼女にとって厳しい日本という国であり、また彼女を受け入れてくれたこの田舎町になっている。前作から一転してこの物語では天狗の暮らしはほぼ描かれておらず、ウルマの影のように儚い気配にとどまり、ホオズキも言葉をほとんど話さない。綾野郷に比べるとなんとも陰鬱な田舎町であり、都会は都会で無機質で憂鬱な環境音が飽和している。それでもハルタにとってはこの田舎町が故郷になる。別にこの町の風景を愛でているというわけではなくて、この町で知り合った人、お世話になった人、自分が過ごした時間を思い返すと、自然と故郷という感情が出てくるのだろうな。なんで東京ではダメで、この町に来てからハルタは自分を変えることにしたのかいまいち理屈が分からないが、こういうのは理屈ではないのかもしれない。一応、幽霊事件に関心があったからとか本人は言っていたが、幽霊事件はきっかけであって、幽霊が入り込むような心の隙間がハルタにあったからなんとなくこの町に引き寄せられて、自分を変えてみる気になったということなのだろう。こういう何気ないところから物語ができていくのがよい。
 その果てにたどり着いたのがウルマを見たあの不思議な草原だった。写真を加工したようなものも多かったりして、決してお金をかけて作っているような感じではないのだけれど、この作品には印象的な心象風景のような絵がいくつかある。草原の前に、薄暗い空を背景に何か背の高い草が生えている絵もそうだ。懐かしいようだが、どこか不穏な感じもあって、まるで夢の中のようだ。薄暗い絵や真っ白な背景の絵。この作品のビジュアルイメージには遠い昔の記憶の中や夢の中の絵が多くて、そうではない学校や近所の風景にしても、田舎町だからかどこか暗さや静かさがあって、まるで夢や記憶の中の画像のように沈んだ印象がある。ユリのようなカラッとした性格の可愛いお姉さんは、この町に溶け込むことは難しいようにみえて、他方でここでは彼女自身からも影が滲み出てきてしまうようなところがある。
 こんな風景の中で生きているからか、みんななかなか「肝心なこと」を話さない。幽霊事件が起きても地元の人は特に関心も示さないのは、みんな目の前の現実を生きているからだなんて説明されていて、それはもっともなことなんだろうけど、この作品はその現実をなぜか薄暗い光の中で描いていることが気になってしまう。そしてそんな中でのハルタのとぼけたのんきな表情に癒される。猪飼とのかけあいも楽しい。このあたり(山口県?)の方言とか知らないのだが、方言キャラである猪飼の言葉には広島の方の方言のけっこう混じっているらしく、彼の乱暴だけど知的な言葉は聞いているだけで楽しい。彼が天狗とかかわりがある人間だったらこの作品はもう少し前作に近い物語になったのかもしれないが、そうではない独立独歩の一般の人間であったことがこの作品の主題とトーンを決定しているように思える。雪子は魅力的なヒロインではあるけどやっぱりテンプレをベースに作られたキャラクターに見えてしまうところがあって、存在感の強さでは猪飼の方が圧倒的だ。いっそ、猪飼が女の子だったらよかったんじゃないのと思ってしまう(雪子の心配が絶えないだろうが)。まあそれは冗談にしても、前作の濃厚すぎる男の友情シーンに比べると、猪飼は独立独歩だしハルタもつかず離れずだから、男キャラに関しては今回の方は読み心地はずっと良かった。
 作者のブログを拝見したら登場人物たちの言葉に関する興味深い説明があった:

やはりノベルゲームは「思う」という能動的な想像をもってようやく楽しめるものだと思う。物語の先が気になるという情報の追いまわしばかりでなく、表現に立ち止まり思う時にも物語体験の充実がある。雪子の国、もはや制作当時の思いを忘れ、空となった表現だけが残っていた。それ故に、今の我輩の「思う」がよく喚起されて楽しめた。作品鑑賞は一つのコミュニケーションと考える。この時、コミュニケーションの相手は作者と言うよりも登場人物を我輩は想定する。だからこそ、彼らの言葉、振舞いは器であって欲しいと思う。彼らの意図そのものが現れているのでなく、彼らの意図を表現する手段として言葉、行動が用いられる。人は言葉という細かな記号を使うまえにまず、何かを期待しているし、何かを恐れている。それらの表出として言葉を発し行動に現れて欲しいのだ。まるで本人の中に言葉があって、それがそのまま吐き出されたと感じる台詞には「思う」が起こらない。コミュニケーションが発生しないのである。人は筆舌に尽くしがたい心を常に生きている。故に、意図はいつでも台詞を越えるものなのだ。だからこそ、言葉を介するコミュニケーションに悲しさや寂しさという情緒が生まれる。

 この作品の魅力的な暗さに通じる話にも思える。
 猪飼の話で終わりかと思ったら、その後も物語はよい意味でだらだらと続いていき、東京の家族や先輩のような新しいキャラも出てきて、瀬戸口作品の後半のような面白さがあった。キャラクターの立ち絵にもみんな味がある。それなりに整った顔立ちで、不快感とかはないのだけれど、それでもみんな他人であるというな、どこかよそよそしさのある感じ。そんな他人の一人である義父との対話の試みは、お互いに歩み寄ろうと粘り強く頑張るけど、それぞれの背負ったものがあるせいで手を取り合うに至ることができないというもどかしさが描かれていて、これがそれっぽい愁嘆場とか激昂シーンとかご都合展開とかでごまかされていなかったのがよかった。とはいえ、ハルタが実際になぜ卒業を待たずに20歳で転学しなければならないのか、彼の直感の根拠が何なのかは、いまいち描写が少なくてよく分からなかったし、雪子を東京に呼び寄せるのも悪くはない気もしたのだが(東京に来たら窒息して、先輩の元彼女のように山に帰ることになるだろうか)。あと、義妹ちゃんとのラブコメ及びそれを監視する雪子もちょっと見てみたかったが、それをやると作品の趣旨から逸脱するのだろうな。
 だらだら書いてきてしまったのでそろそろまとめるか。というわけで、この作品の暗さは僕が勝手に感じた主観的な印象であって、そもそも僕自身も再読したら異なる印象を持つ可能性もあるが、こういう暗さを背負いながらも明るく地道に生きていく登場人物たちに少し元気をもらえた気がする。