水族館と幻視

 また『白い砂のアクアトープ』をみて、昨日は久しぶりに江の島までドライブして水族館に行ってきた。八景島の水族館でコラボイベントをやっていたらしいのだけど(ついでに今日みた『先輩がうざい後輩の話』でも八景島水族館らしい場所でデートするエピソードがあった。これも仕事に関する複雑な感情を思い出させるアニメで、こちらは男キャラがでてきて恋愛要素があるのでさらに居心地が悪い)、江ノ島水族館の方は5回目くらいでなじみがあるので気楽に行ける。
 何度も同じ水族館に行っても、基本的な展示もイルカショーの内容も変わらなくて、正直なところ1回行けばだいたいわかってしまうので新鮮な驚きはなくなる。その割には入場料が結構高く、今回は2500円だったのでまた値上がりしたのかもしれない。年間パスポートが5000円なので、また作ってしまい、最低3回は来なきゃという気にさせられるのだが、展示自体はあんまり楽しくないのになぜ何度も来るのかという気もする。それは妻と初めてデートらしいことをしたのがこの水族館だったからであり、水族館の内容自体よりも、この水族館に2人で足を運ぶことを重ねる行為自体が目的になってきている。もともと出不精なので他に遊びに出かけるようなところもほぼなく、今は妻が体調を崩して弱っているので、何か元気だった時のことを思い出せるような、なじみだけど特別な場所が必要なのだ。
 今回は土曜日の午後遅めの時間についた。道路が混んでいたが、その分車の中でアニソンとかを聴かせて引かせたり楽しませたりできた。2時間弱で閉館時間になったが、満員のイルカショーを見たり(はじめは分かれて座ったけど、親切な人が詰めてスペースを開けてくれた)、大水槽の前の床に胡坐をかいて水中ショーやら泳いでいる魚たちをぼんやりと眺めたり、何かに使うわけでもないお土産のガチャやガラス細工やお菓子を買ったりして、機嫌のよい妻に付き合う。外出を嫌がる彼女だが、先週末に突発的に海ほたるに連れていったら思いのほか楽しかったらしく、今週末も病院から抜け出してドライブするのを楽しみにしていた。帰りは久々に近所の回転ずしでしこたま詰め込んだ。妻の入院でがんがん貯金が減ってしまい、彼女も体調や罪悪感で泣いてばかりいるので、僕もたまには普段の節約を忘れて非日常的なことに気持ち良くお金を使いたかったというか、お金を使って喜ばれてよかったかもしれない。
 江ノ島水族館は景気がよさそうにみえるけど、水族館で働く人たちの苦労や葛藤をイメージさせてくれる『白い砂のアクアトープ』のおかげで少しは親しみが持てるようになった。スタッフさんや観客の人たちだけでなく、大水槽もイルカショーもペンギンコーナーも今回は少し違った印象だった。オタクなのでアニメとかエロゲーを通さないとこういう理不尽なものに親しむことはできない。くくるは少しでも魚を好きになってくれる人が増えてほしいと願っており、自分も海の生き物が大好きという気持ちを核にして働いているけど、実際にやっているのは自分を人として周りに人やお客さんに好きになってもらうことを通して魚に関心を持ってもらうということであり、逆説的な感じもするし、営業の仕事の業の深さを感じる。別に魚たちは人間に好かれようと思って泳いでいるわけではなく(イルカは知らないが)、クラゲなんてただ水の流れに揺れながらプランクトンを食べているだけで、観客である人間を知覚する器官すらないだろう。くくるはお客さんにクラゲをみると癒されるんですねーなんて営業トークするけど、クラゲと人間が何か意思疎通しているわけではなく、人間は勝手に誤解して癒されている。くくるもそのことはわかっているのだろうけど、なんかうまくいっているのだからいいのかもしれない。第1期で出てきた水族館の幻視体験の伏線は終盤でどのように回収されるだろうか。人と人、人と魚は意思疎通できているように思えるときもあれば、思えないときもある。みんな本来はばらばらな方向を向いていて、ときおり幻視体験のようなことが起きる。それが水族館という空間なのかもしれない。

f:id:daktil:20211205150715j:plain

水族館のお土産。あと青がきれいなピュフチッツァ女子修道院(聖なる泉と聖母の幻に関する伝説があるエストニア修道院)の手のひらサイズのイコン。

奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』


 ロシア文学研究者の青春の書だ。かなりあけすけな本であり、あけすけに書いてもきれいにまとまるのは著者の人柄なのだろう。僕が昔夢見ていたような生き方――ロシアの大学で数年間文学研究にどっぷり浸り、得がたい友人や先生に出会ってかけがえのない宝物を手に入れて、研究者としても成功する――をリアルにやり遂げた同年代の人の記録をみるのはまぶしいような体験であり、同時にそういう夢から離れ、文学研究に対して勝手に抱いていた幻想からも解放され、今の人生を生きている自分は少し冷めた見方しかできないのだが、この本がいったい誰に向けて書かれているのかよくわからないように、僕もいったいどのような僕に向けて書くべきなのかよくわからないまま感想を書いておこう。
 奈倉さんとは以前に何かの機会でご一緒したことがあるが、特に話もしなかったのでどのような人か知らないままだったが、その後、なんだかすごく砕けた言葉でうまく翻訳できる人だという評判を聞いて、でも翻訳した本が関心のない作家だったのでスルーしていた。今回の本は内容からして上に書いた複雑な感情を味わうことになるかもなという予感を持って手に取ったのだが、何よりロシアで5年制の文学大学を(4年で)初めて卒業した日本人という肩書と、博士論文のテーマがブロークだったというのを知ってスルーできないなと思ったのだった。
 実際、関心の対象は僕とけっこう近かった。ガスパーロフの本に感銘を受けるのはまだしも、ゴルシコフなんていう文体論研究者が現役の先生として登場するところまでは想像していなかった(昔ゴルシコフの本にもけっこう付箋を貼ったりしたが、教科書的な内容で自分の研究テーマに使える感じではなかったので今は内容も覚えていない)。ちなみに、僕もガスパーロフの本に感銘を受けて一生懸命韻律や意味論的オーラ(懐かしい用語だ)の論文を読んだけど、詩のリズムを「体感」するのは難しくて、詩の意味やニュアンスもネイティブのように即時に「体感」できるわけでない。どうしたって「勉強」になってしまう。外国人の限界だろうなと絶望した。奈倉さんはモスクワで数年間にわたりロシア人たちと一緒にたくさん読んだのだから「体感」できているのだろう。うらやましい限りだ。でも、それは僕以上に何度も絶望を味わった先に得たものなのだろう。
 『耳狩りネルリ』はラノベとして青春を描いたとすれば、こちらはもっと研究者寄りだ。とはいえ外国人学生としての生活の描写もいろいろとフックがあり、ロシア人学生たちと親しく交流し、寮の中で苦楽を共にし、モスクワをあちこち歩きまわり、夏休みには他の町に行ったりし、質素で単調な食事をとりながら本を読んで幸せな知的興奮を味わったりといった楽しかった時間を僕もあれこれ思い出した。もちろん奈倉さんは本物なのでロシア語力もずっと高いだろうし(本書ではロシア語で苦労したという記述は一切なかったどころか文学大学でフランス語まで習得したとことなので、語学センスがよい人なのだろう)、毎回速記で講義を記録して後で清書するなんてことは僕にはできないし、たぶん学生の頃でもそこまでの根気はなかっただろう。奈倉さんのアントーノフ先生の講義に関する幸せな思い出はまさしく一生の宝なのだろうし、そういう宝をロシアの教授たち(ベールイが特別な意味を込めて呼んだロシアの教授たちだ)からもらったことを日本人が日本語で本にしておくことは重要だと思う。速書きだったのか、もっと言葉のリズムや速度や手触りを吟味できそうな箇所も多いが(すごく偉そうな指摘になってしまって滑稽だが、それだけ大切な内容のはずだし、例えばガスパーロフやリジヤ・ギンズブルグやトゥイニャーノフのようなソ連仕込みの研究者兼エッセイストなら、一語一語まで神経がいきわたった文章を書く)、とにかくなんだかよくわからない塊を一度言葉にして吐き出しておきたかったということだろうか。引用されている詩の翻訳も明らかに生煮えで、あまり詩になっているとはいえない代物だが、原文の音楽性を伝えるようなまともな詩にしようとしたら、たぶんいつまでも本が完成しないので妥協したのだろう。
 といっても、著者は僕とは別人なので本当のところはよくわからない。ウクライナ問題などをはじめとするロシア政治・社会の暗部に対する義憤もあまり理解できない。意地の悪い言い方をすると、もし著者のモスクワ在学時の友人にウクライナベラルーシの出身者がおらず個人的な縁がなかったら、もしこれらの国の作家の作品を翻訳していなかったら、こんな義憤を抱いていただろうか。この世界には不正やゆがみなんていくらでもあって、人は自分に縁のある不正やゆがみに反応するだけでキャパシティが満杯になるのだから、縁のないどこかの国の不幸に強く同情できないからといって後ろめたさを感じる必要はないだろう。他にもっと守りたいものがあるならば。電波を受信してしまう人は除くとして。といっても、著者はまさしく個人的なことを書いていて、その延長線上としての義憤なのだから何も間違ってはいないわけだが。そしてそういう風通しのよさも僕がロシアに求めなければいけないものの一つなのだが。
 青春というのは人と出会わないとありえないし、自分はどんなに人を避ける本の虫だと思っていても人とめぐり合わせてしまうのが青春の魔法である。それにつけてもだ。僕は最近10年ほどは人付き合いを最小限にして、人ではなく文字情報や映像情報と過ごす時間を最大限にする生活を送っており、これは何にも残んねえなとまた少しへこむのだった。エロゲーは独自の体験深度を持ちうる存在だけど、これは個人の内側に反響させておくべき存在であり(感想を書いて他の人と楽しく交流しても、最終的には自分の内面に立ち返る)、文学研究のように人と積み重ね、分かち合っていくような文化は少なくとも現在のところはあまりうまく作らてはいない。
 奈倉さんが素直にうらやましいが、僕には無理な生き方であることもよくわかっている。僕は結局、知らないことがたくさんあるのに時間は有限であるのが怖くなってしまい、早く知った気になろうとして作品よりもその文学的な評価を先に読むような人間に過ぎなかったし、無駄に思える地道な作業をできずに夢想するだけで終わってしまった。好きな本、楽しい本しか読みたくないし、面倒な論文なんて書きたくないと思ってしまった(その結果、今はロシア文学とは関係のない面倒な仕事に日々追われているのだが)。文学研究の外側にも文学研究を超えるほどのわくわくするような素晴らしいものがあると思ってしまった。そして、せっかく買い集めた数千冊のロシア語の文学作品や研究書も、研究者の責任感から解放されたら趣味人として楽しく読めるぜと思っていたのに、今ではごくたまに紐解くだけだ。奈倉さんが軽々と引用するブリューソフやホダセーヴィチやエセーニンの名前を見て、あ、やべ、読まなきゃと思ってそれでおしまいになってしまう。僕は15年ほど、エロゲーを通して自分を見つめながら真・善・美(?)を追い求めることに気を取られ、かつて願ったロシア文学趣味人としての生き方を忘れてしまった。願ったというよりは、当時は解放されたいという気持ちしかなかったのかもしれないが。いつのまにか、ロシア文学を腰を据えて読んだり翻訳したりするのは定年後かなあと、遠い未来に追いやってしまった。これからは子育てでさらに追いやる口実が増える。これについては魔法の解決策はないので、死ぬまでにあと何年あるのか知らないけど、趣味なんだから楽しんで読んでいけばいいなと毎度のように思い直す。文学に関しては、プロと趣味の境界線は現代ではあってないようなものだ。いつでも気持ちを新たにしてやり直せばいいんだ。

 ……あらためて読み返すと、あからさまにコンプレックスを吐き出した文章に恥ずかしさを覚えないでもない。でもこういう素晴らしい生き方にコンプレックスを抱けるのは悪いことではないと思う。よい本だった。

アイドルと視線(アニメ雑感)

 最近は家族が家にいないこともあって、アニメ視聴のペースが維持されている。それにしてもアイドルものが増えたと思う。僕が主に観ているプラットフォーム(ニコニコ動画の無料配信)で増えたというだけなのかもしれないが、アイドルものの面白い作品が増えたように思う。女の子が歌を歌ったり踊ったりというのはけいおんとかハルヒとかから増えるようになったのだろうけど、最近は演奏シーンに力の入ったものが多いように思う。
 というわけで、「ラブライブ・スーパースター」の話をすると、記憶に残るのはあのあざとくてちょっとおかしな振付の数々だろう。ショービジネスというよりは学芸会の出し物に近いような気もして恥ずかしいのだが、それを信じ切った幸せそうな笑顔で女の子たちがやってのけるので視聴する側は共犯者にならざるを得ない。ラブライブの空間はとても壊れやすいものだと感じさせるところが、熱狂的なファンが多い理由なのだろう。もちろん、単に女の子たちが可愛いから見ていて幸せということもあるだろうし(メインヒロインのかのんの歌声はよいし、まるい子の主張の強いまなざしも印象的だし、可可という中国人ヒロインは中国人に見せても恥ずかしくない可愛さだし、へあんなさんは主人公回でライブも含めて素晴らしかったし、会長はまあ会長だし)、似たような質感のキャラデザだけどそれぞれの個性がうまく差異化されているのでかけあいを見ていて幸せということもあるだろうけど、単に可愛い女の子たちの日常を見せるというのではなく、ライブ、つまり儚い生ものを作り上げている秘儀の空間を共有させてもらえるということがある。
 それにしても、アイドルものは見られること、視線にさらされること、視聴者からは見ることや視線で覆いつくすことを欲望としてつきつめたジャンルであって、だから昨今CGでも可愛さをある程度維持できるまでに技術が発達したおかげで今の隆盛があるのだろうけど、今放送されている「セレクション・プロジェクト」のように視線と存在理由を直結させてむき出しにしてしまうと(生活の全てを匿名の不特定多数にさらけ出して採点してもらうアイドルということらしい)、不条理で不気味になってくる。それでもメインヒロインの女の子のキャラデザがオーラのある可愛さなので見てしまう。
 こういう過激な視線物の作品をみてしまうと、なろう系のファンタジーとかサクガンやルパンのような絵や設定に独特のセンスを感じる作品もどこか牧歌的に思えてくる。
 といっても、今一番楽しんでいるのはたぶん「白い砂のアクアトープ」だろうな。これはニコニコの遅い配信では待てず、先日はテレビでも見てしまった。夜中に部屋を暗くしてテレビをみて余韻まで含めて楽しんだのは久しぶりだ。一番印象的だったのは第11話、くくるが打ちのめされて水族館の閉鎖を受け入れる話で、思わずツイッターでも感想を漏らしてしまった*1。これ以上の盛り上がりはもうないだろうなと思いつつ2期も見始めたが、意地の悪い先輩のはえばるちゆさん(南風原知夢と書くらしい)が痛みを抱えたシングルマザーだとわかる第16話のこの絵でやられてしまった。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/d/daktil/20211024/20211024204057_original.jpg

この作品もメインヒロインの一人が元アイドルだったり、水族館というもの自体が視線によって成り立つ空間であったりするわけで(飼育員は視線を投げると同時に視線にさらされる一種のアイドルである)、視線物のアニメということもできるのだが、くくるはいつでもこの星空に見守られているということが控えめながらうるさいくらい鮮やかに示されていて、いい絵だなと思った。このアニメのファンクラブに入りかけた。この作品の水族館や沖縄の星空は、作品世界の中にしか存在しないのだ。そういえば、くくる役の伊藤未来さんという声優さんの声には「安達としまむら」の時から惹かれていたのだった。低めの裏声みたいな声というのだろうか、しまむらのようなマイペースな感じがよかったので果たしてくくるみたいな元気な女の子でよさを活かせるのかと思ったけど、笑っているような泣いているような複雑で無防備な声が素晴らしい。くくるはまわりがあまり見えていない、視線に鈍感な女の子で、思うようにいかない人生をがんばって切り開いていっている。その必死さがそのまま表れた声だ。アニメを見てばかりであまり外に出ない生活をしていると、世界はこんなに善意で満ちているのに、人は何でこんなに思い通りにいかなくて苦労しなくちゃいけないのかなと思ってしまう。優しくいられるときはなるべく優しくいないとなあ。

*1:白い砂のアクアトープ11話。傷つけられて優しくならざるを得ないくくると、水族館とか台風とか朝の海とかのいろんな水の青いイメージに囲まれている感じが、凪のあすからをつくった会社の作品だなあと実感させる。大人になりきらないくくるが去勢されてしまう悲しさは同じ水の青さの中に溶けていく。<9月22日、昔の凪あすからの感想はこれこれ。>

アマカノ Second Season (70)

 終わるまで8ヶ月くらいかかったか。抜きゲーは基本的に時間がかかるので当然だし、いちいちメモを取りながらやるような作品でもないので仕方ないが、初めの雪静ルートで一番言葉にしたかったことはだいたいしたので、後は性欲の波に合わせて消化していくだけみたいな流れになってしまった。とはいえ、せっかく終わったのだから、せめて箇条書きにでもして何か書いておきたい。

〇はじめに主人公とその友人たちの描写が決定的につまらなかったことを書いておこう。絵と声に支えられている作品だからこそ、その恩恵を受けられない男キャラたちは絶望的にダメだった(友人たちの立ち絵がなかったのは英断だった)。主人公のいちゃラブするときのイケメンぶりも大変にダメだった(主人公もできればエッチシーンでも描かないでほしかった)。しかしこの茶番じみたイケメンぶりを読まないと可愛いヒロインたちを愛でられないという不具合。

〇やはり一番エキサイティングだったのは雪静シナリオだった。だが物語としては特に感想もないかな。魅力のほとんどは読み物としての物語以外の部分にあったと思う。

〇奏も大変可愛かった。やはり声が素晴らしかった、正確には可愛らしかったというのが大きい。あと丁寧語というのもよい。安心できる。足が不自由という設定は、彼女の明るい性格とよい対比になっていたし、不自由であったとしてもそれは身体性を意識させる記号なので、女の子としての魅力につながっていた。そんなきれいごとが許される世界であり、雪国の冬という舞台もうまく機能していた(夏だったら汗と匂いの話が出てくる)。

〇告白する日、夕方、扉を直していて偶然のように、膝の上に軽やかに乗ってくる。それから急に告白してくれる。この間、奏ちゃんの心理描写がないのが素晴らしい(それまではさんざん葛藤の描写があったのに)。夕日の中の神秘的な心の動きを想像したくなる。膝の上の神秘的な奏ちゃん。

〇穂波は好みから外れているのであまり書くこともない。普通に可愛くてエッチだった。後輩設定だったおかげで少し助かっていた。そして、穂波だけの話ではないのだが、みんな服の胸部の盛り上がりに夢がありすぎる。胸・可愛い顔と声を眺めているだけで充実感がある。穂波はお嬢様っぽい胸元にレースのついたきっちりした服が私服なのだが、このときの胸部の充実感素晴らしく、幸せになれる。

〇涙香は声が一色ヒカルさん。一色さんといえば個人的には智代アフターの智代なのだが(僕が就職する気になった一つのきっかけの作品だ)、ヒロインとして最後に聞いたのはLovesick Puppiesの勇か…。8年前、あまり楽しめなかったゲームで、残念だが勇もほとんど覚えていない…。その前は2015年にプレイした雪影の成美、その前は2010年にプレイした「明日の君と逢うために」の里佳や「世界で一番NGな恋」の麻美になってしまうらしい。どれも攻略対象だけどサブヒロイン的な立ち位置の女の子ばかりで、やはり一番覚えているのが智代というのは当然なのだろう。智代アフターをプレイしたのは15年前の2006年で、その後の2007年に一色さんのウラシルがメインヒロインのぼーん・ふりーくすもプレイしていた(ウラシルはさすがに覚えている)。あとは2010年にAngel Bullet(セーラ役)、2012年にゆのはな(椿役)もプレイしていた。その他にはForestの薫(2006年プレイ)、flutter of birdsの大気(2006年プレイ)、Cresecendoのあやめ(2010年プレイ)など。いちいち列挙したのは、一色さんは大御所声優だけど、自分が声を聞いたヒロインはわりと似たような傾向、つまり年上のお姉さん的なヒロインが多かったということを確認してみたということだ(セーラやウラシルはイレギュラーだが、どちらもライアー作品か。大気はプレイ中は一色ボイスだと気がつかなかった)。
 最近はあまり聞いていなかったような印象があったので、「久々にあの智代の一色さんの声。しかも甘々な恋愛エロ作品か…」とやや緊張していたということがある。始めてみれば、一色ボイスはまったくの一色ボイスであり、15年間の時間の流れなどまるでないようだった。涙香はあまり僕の好みには刺さらないタイプのヒロインなのだが、ついでにいうと一色さんの声も好みからいうと外れているのだが(ルー大柴っぽいのは別にいい)、それでも変わらない一色ボイスをたくさん聞いてなんだか嬉しかった。エロゲーと共に時間を駆け抜けたというか、乗り越えた感じがした。あるはエロゲーエロゲーマーにとって時間は存在しないということだろうか。

〇一色さんの話はこれくらいにして、涙香とは直接は関係ないが、あの生徒会室についても少しふれておきたい。生徒会室だけでなく、旅館の室内、外の雪や夕日にいたるまで、この作品世界の色彩の異常な明るさについてだ。プレイしているうちに目が慣れてしまったが、はじめはちょっと驚いた。その時のメモを置いておこう:
 「雪国の冬の湿度のある、滲んだ明るさ。ヒロインの顔が火照り気味のように、風景も火照っている。雪国といえば暗い印象だけど、全体的に画面がすごく明るい。画面の中の小物がいちいちカラフル。冬なのに冷たさと暖かさが二重に感じられるような色彩。そういえばクストゥージエフユオーンが描くロシアの冬の明るさに通じるのかもしれない。生徒会室の窓の外の夕焼け空が鮮やかすぎて、主張の強い会長の容姿とも合っていて、何でもない雑務も特別な時間になってしまう」
 ピロ水作品は今回が初めてなのだが、もちろん店頭で目立つパッケージなどは以前から目にしていて、ヒロインたちの美しく上気した顔は気になっていた。髪の毛もぼんやりとやわらかく輝いていて、まったく日常的な日常であってもなんだかオーラが出てしまっている。この過剰さこそがエロゲーの立ち絵の正統的な進化だ。この作品にやさしさを沁みとおらせているのは、この冬の湿度と雪で増幅されたような暖かい光だ。そのおかげで、いわば普通の抜きゲー的で退屈なシナリオとルーチンでスポーツ的なエッチシーンの連続になってしまっても、それぞれのイベントにやさしさが感じられた。次にプレイする続編ではおそらく冬以外の話が多く、その時にはこのにじみは別の意味を帯びてくるのだろうがそれはそれとして、この作品に素晴らしい統一感を与えていた。

 

〇これからまた8ヶ月かそれ以上かけて、続編のアマカノSecond Season + をプレイすることになる。ただでさえ皆さん身体的に充実しすぎているくらいなのに、これ以上等身が上がってしまうとついていけなくなる不安が若干あるが、まだしばらくは優しい光と可愛い声を浴びるのを楽しもう。

 

 あとは2月に書いた雪静ルートの感想を再掲しておく:

 芸術評論は詳しくないのでとんちんかんな思いつきかもしれないが、絵画と彫刻、あるいは二次元と三次元の大きな違いというのは、奥行きや立体感の有無だけでなく、フレームの有無だと思う。一般に彫刻は絵画のようにフレームに守られて安定した視点から鑑賞するものというよりは、作品の周囲の様々な角度から鑑賞したものを総合して印象を得る。彫刻の鑑賞は安全地帯から行うものではなく、鑑賞する角度や遠近の自由度が高いため、逆に作品から鑑賞者(のプライベート空間)に対する干渉を意識せざる得ず、絵画よりも緊張感があり疲れる。
 エロゲーは二次元芸術なのだが、この作品をプレイしているときにぼんやりと感じていた手ごたえは、絵画というよりは彫刻(フィギュアでもいいが)を鑑賞して楽しんでいるような充実感だった。劇的な展開や壮大で幻想的な物語はなく、ひたすらヒロインの可愛さを鑑賞していくことで話が進んでいくのだが、それが彫刻的な印象だったというか。彫刻のもう一つの特徴として、硬くて無機質な素材でできた、基本的に静止したものだということがある。だからこそ芸術家たちは彫刻で、あえてやわらかいものや動きのあるものを作り、その二律背反で作品に深みを与えようとしてきた。
 まだ雪静のルートを終えただけなので、この印象が他のヒロインでもいえることなのかは分からないが、雪静の可愛さは正面向きの立ち絵の可愛さによる部分が大きいと思う。身体を縮こまらせている防御の姿勢だ。髪の毛も内側に向いていて、厚い質感を感じさせるブレザーやコートも含めてさながら重厚な鎧のようになっている(本作の美術については全ルート終えてから改めて考えてみたい)。斜め向きになっている立ち絵もワイシャツのボタンの隙間から奥がちらっと除いていて非常にハラショーなのだが、この正面の雪静は、凝固して防御していながらもその自信なさそうな気持ちの揺らぎをそのままにこちらに全身で向き合って、その身体をこちらに投げ出してくれている感じが、とてもよい(エロい)! 特に意味のないシーンでも何度もスクリーンショットを保存したくなった。この立ち絵の恋人感がそのまま作品のコンセプトを表しているのだろう。その武器がよく分かっているようで、例えば、図書室での立ち絵を使ったフレームの遊び可愛らしかった
 エロゲーは二次元なのだが、大きなおっぱいとは奥行き(というか「前行き」)であり、その意味では三次元である。したがっておっぱいは彫刻であり、動きであり、二律背反を仮託しやすい象徴である。防御する雪静はおっぱいを隠しているが、それはその立体感を押し隠し、制御しているという意味で彫刻的な姿勢だ。姿勢だけでなく、おどおどしていて口下手で、本の世界でしか安心できず、独り言みたいなしゃべり方しかできない雪静という女の子の在り方が彫刻的であるように思える。
 声についても一言触れておきたい。そもそも本作にたどり着いたのは、松田理沙さんによく似た力丸乃りこさんの音声作品「保育士のなでしこさん」を思い立って購入して、そのやわらかくて高い声(こういう高音を鼻や口蓋に響かせるような声質を専門的にはなんていうんでしょうか)にほわあーとなってしまったためだった。松田理沙の出演作品は残念ながらこれまであまり当たったことがなく、せいぜい「あまつみそらに!」の清澄芹夏くらいだったのだが、個人的にこの役は松田さんの長所を活かしきれていないように思う*1。「最果てのイマ」のイマも松田さんだそうだが、フルボイス版は邪道派だ。昔ましろ色シンフォニーのアニメを観て、みう先輩の声が印象に残っていた。そこで今回、非18禁の音声だけは満足しきれずに本作とタユタマで飢えを満たすことになった。雪静は上記の通りの性格の女の子なので、松田ボイスはよく合っている。とはいえこれでいいのかなとやや疑問な演技もあって、独り言のつぶやきのようなセリフがきちんと相手に向かって言っているようなイントネーションになってしまっているのは違和感があった。しかし、そのままボソッと呟けばよかったのかというとそれも疑問で、おそらく音声化が不可能なニュアンスのしゃべり方をする女の子なのだろう。それを松田さんが音声化すると、イントネーションに対して文章が一押し足りないようなちょっと変なしゃべり方になっていて、「~だね」とか「~かなあ」とか文末の着地を和らげる助詞があればいいのに(あるようなイントネーション)、なぜか断言めいた言い方になっていしまっていて、その歪みが可愛らしい。これをからかってあげて愛でたい気もするが、そうするとしゃべり方が普通になってしまうかもしれなくてもったいない。主人公(当然本名プレイ)はどこまでもイケメンでやさしく、しゃべり方でからかうことなんてしないで自分でも筆談を楽しんでいたくらいなので、後日談や続編でも特に触れられないままなのかもしれないが、だとすれば主人公はむっつりすけべの変態だという解釈が可能だ。
 おっぱいの話に戻ろう。おっぱいが彫刻的に制御され、最後まで隠されたままであれば大問題だが、おっぱいは顕現するべきものであり、その前提で隠されている。初めて雪静のおっぱいが顕現した時の驚きを表現することは難しい。これほどまでに防御されながらも激しく主張されていたおっぱいがついに姿を現したとき、それは期待ほどではなく軽く失望した、などということはなく、それまでにずいぶんと上がってしまっていたハードルをさらに超えるほどのおっぱいだった。乳首が大きい!大きくて丸い!しかしおっぱいも大きいから下品な感じではなく、調和がとれている!透明感があって、果物ようで、マスカットのように美しい。僕はエロゲーをプレイすることを食事に例える仕草が好きではなく、できるだけ控えるようにしているのだが、この美しいおっぱいと乳首を果物に例える誘惑に抗うのは難しい。2回目のエッチの時のおっぱいも素晴らしかった。1回目であれだけ驚かされたのだから、さすがにもう難しいだろうと思ったところで再びやられた。3回目はさすがに趣向が変わり、おっぱいが閉じられた状態から差分でとんでもない形に変化してしまい、あまりのエロさに衝撃を受けてお先に失礼してしまった。この3回が特に印象的だったが、その後のエッチシーンもどれも素晴らしいものだった。まだ残っている後日談のシーンが楽しみだ。ただし、主人公がやたら広範囲にぶっかけたがることはあまり好きではなく、僕は精液ではなく雪静の身体をもっと見ていたかった。あと、雪静がやたら卑語を口にするのはどうしたものか。いうまでもなく受け入れて共犯者になるしかないのだけど、らめえ系の崩れた言葉の濫用はライターさんにもう少し自制してほしかった。そんなステレオタイプの卑語を使わなくても雪静は十分にエッチなのだから。それから、いちいち書くようなことではないかもしれないが、口でしてくれているときなどのセリフのイントネーションが妙に落ち着いてしまっていて、セリフとは乖離してスーパーの試食コーナーで感想でも口にしているみたいな感じになってしまっていたのはやや残念だったが、雪静の意外とたくましい一面だということにしておこう。
 エッチシーンはダイナミックなものばかりなのだが、雪静との物語は特に読んでいて面白いわけでもない平坦な日常の連続だ。部屋で一緒に画集を眺めたとか、本屋で一緒に買い物をしたとか、ケーキを作って渡したら周りの人も祝福してくれたとか、雪の上を歩いたら風が吹いて雪が夜空に舞い上がってきれいだったとか、平坦な日常の中に小さな幸せを見つけていく。雪静はそうした小さな幸せに感激して、ときには泣いてしまう。それがただ積み重なっていくだけの物語は、エロゲーとしては枯淡の境地なのかもしれない。ただ美しい造形がそれ自体で豊かな物語であるように。

*1:エロい人に木葉楓さんのことを教えていただいた。僕が覚えているヒロインだと、そういえば「セイレムの魔女たち」のメグは素晴らしいヒロインだった。

麻枝准『猫狩り族の長』


 作者が本書刊行記念の寄稿で自ら語ったところによれば、今回は小説の書き方みたいなハウツー本を読んで編集者にもガンガン赤を入れてもらっていいものができた、しかも今まで書かなかったことをいろいろとさらけ出したらしいので期待していたのだけど、やっぱりこうか…という作品だった。音楽と絵と声がない分だけ、文章のだめな部分がよりはっきりと出てしまった。キャリアも実績もある人にダメ出しできるほど自分の感覚に自信があるわけではないが、やっぱり麻枝准はよい文章を書くことに関心がないようにみえるし、古典的な文学作品の日本語の美しさに惹き込まれたことがないか、少なくとも僕とはだいぶ違うところに文学の良さを見出す人なのだろうなと思う。ハウツー本を読んで小説を書いて質が上がったと思えるところからして感覚がずれている。僕は小説を書いたことがないので偉そうなことを言える読者ではないのだが、そんなハウツー本で上がる程度の質なんてよい文学作品をつくるためのスタート地点のはるか下なんじゃなかろうか。編集者はたくさん赤を入れたそうだが、まだまだ足りないと思える箇所が多い。やるならもっと徹底的にやってほしかった。なんでこんなに言葉の選択が雑なのか。作中で言及されているように、ジャズのような即興性、なんとかメタルのような勢いと衝動を重視したからなのだろうか。音楽に関係する描写はさすがに専門性があって説得力があるようにみえたけど、それ以外は不可解だったり恥ずかしくなるようなものが多かった。例えば、十郎丸の言葉がソクラテスに始まる哲学者を知らずになぞらえたものだったとわかるかけ合いは、十郎丸が実は古今東西の哲学者に匹敵するようなすごい人間だといいたいのか、十郎丸は実は使い古された他人の名言を借りてペラペラな人生観を語っていたといいたいのか、哲学ってこういうものだね、人生を考えるのに役立つねといいたいのかよくわからない。ソクラテスで始まってニーチェで終わっている薄っぺらいラインナップと薄っぺらいかけ合いの文体のおかげで、この部分は必要なかったんじゃないかと思えてしまう。こういう感覚はAngel beatsあたりからよく抱くようになった。麻枝准という人は生き方に悩みすぎていて、文学など読んでいる余裕がなかったから、テレビとかネットとかハウツー本みたいなものから吸収した日本語で小説を書いているようにみえる。鬱病の人は小説とか映画とかシリアスな創作物を摂取する集中力は保てないけど、テレビをBGM的に垂れ流しておくのは気が紛れてよいというが、そういう人が創作したものは生ものであり、言葉と知性の工芸品としての文学作品からははみ出してしまう(『神様になった日』の感想でも同じようなことを書いてた)。滝本竜彦氏にもその傾向はあるけど、テーマに対するアプローチがユニークで工芸品に近づけようとする努力もみられる滝本作品とは異なり、麻枝作品はなんとかメタルであることをよりどころにしているようなので、よりいびつで稚拙にみえてしまう。私小説的だからといって日本語をないがしろにしていいのか。ないがしろにしないと表現できないことに僕はどれほどの価値をおくのか。
 ただ駄作、あるいは未熟な作品の一言ですませてもいいけど、それでもくどくどと書いてしまうのは、僕がこれまでにkeyや麻枝准の作品(智代アフターまで。クドわふたーは別枠)から大きなものをもらってきたからだ。それがエロゲーというシステムの中だったから成功していたのか、アニメ以降は実際に質が落ちたのか、僕の方が変わってしまったからなのかはわからず、今回の小説でも僕が望むような回答(よい作品)は出なかった。麻枝氏も何かの問いに答えるために創作を続けているのだろうが、この先どうするのだろうか。こういう中途半端で未熟な作品を生み出し続けるのだろうか。僕はそれをジャズだメタルだといって受け入れ続けるのだろうか。誰も得しない偉そうな日記を書いてしまった。さすがに麻枝さんがこのエントリを読むことはないと思うが、大変傷つきやすい人のようなのでなんだか悪いことをした気になるし、麻枝作品のファンにとっても嬉しくもないエントリだろうけど、とりあえず言葉を残しておきたかったのでこのまま置いておこう。考えはいつか変わるかもしれないし。

 最近はなかなか落ち着いて創作物を楽しめる状態にならず、家族に使う時間が増えたこととか、庭に木(柿と梅と柘榴)を植えたこととか、そろそろ車を買うか本格的に検討し始めたこととか、ブログには書きにくいことばかりで、オタク活動は手軽に楽しめるアニメとかハチナイくらいしかできていない。最近読んだ『金魚王国の崩壊』は素晴らしかった。本当はこういう作品について書くべきブログなのだが…。

流れ

 今日は週一の買い出しにいったら業務スーパーで「にんじゃりばんばん」が流れていて、久々に化物語のMADを思い出して懐かしくなった。調べてみたら化物語シリーズはまだ続いていた。僕は続・終物語で脱落していたが(あと撫物語は読んでいた)、これは2014年刊行だった。つまり独身時代の最後の頃だ。このシリーズにはポップなところがあるので(見事なまでに作者が前に出てこない)のめりこむようなはまり方はしなかったけど、にぎやかながら孤独を抱えた雰囲気が心地よくて、アニメの出来もよいのでけっこう長いつきあいになったが、そのうち似たタイトルばかりで読んだかどうかよくわからなくなって同じ本を買ってしまったりして、続・終物語で一区切りになったので追いかけるのをやめたのだった。でもやはりあの暗いけど明るい雰囲気は懐かしくて、いろいろ動画を漁った挙句、未読の続編を5冊くらい読んでみることにしてぽちった。
 そのついでにニコニコ動画で「思い出は億千万」に行きついてまた懐かしくなった。アニメ版も悪くないが、個人的にはオリジナルのプレイ動画が(2007年の日記にも書いたがロックマン2はファミコンで遊んでいた子供の頃の記憶を呼び起こしてくれる。別に大した感動があるゲームでもないけど、この動画に映っている全てのディティールが懐かしい。2007年の日記を書いた後、僕は転職し、Aはさらにドロップアウトしてまともな対話もできなくなった。Mはもうこの世にいない。3人でロックマンの映るテレビを見ていたあの頃は何だったのか、意味は曖昧なまま、記憶だけ残り、時間が流れていく。

www.youtube.com

www.youtube.com

 子供の頃を思い出したのは、もうすぐ自分にも子供が誕生するからかもしれない(思い出に浸っている場合ではない)。最近は毎日のように不安で泣いている嫁は、入院中に寂しくないようにと、病院に持っていくために独身時代からのいろんな写真を集めている(あとお菓子を大量に買っている)。僕と出会う前のけっこうすらっとしていて美人だった時代の写真もあって、僕は何を羨んだらいいのかもよくわからず、この歳になると誰でも大切なものの少なくとも一部は過去にあり(あるいは過去とつながっていて)、それは必ずしも誰かと共有できるわけじゃないんだなと少し寂しくなる。誰もがそうならば、そのことを共有できているわけだから寂しくはないのかもしれないけど。同時に、子供という未来のかたまりのような存在を迎えて、また人生を続けていけるのかなと若返れるような幻想も抱く。これからは週末に暇だな、何しようかな、なんて思える日は20年くらいなくなっちゃうかもねと言い合いながら。
 時の流れのままに放映されるアニメを見たり買ったゲームや小説を読んだりしてその都度楽しんで、楽しみが終わって、また新しい楽しみを見つけてという体験が移ろっていく。ロックマン2は時間に関する何の自覚もなかった子供時代を、化物語は孤独を楽しみ(いつか孤独が贅沢になるなんて思っていなかった)、自分なりに素晴らしいもの・美しいものを探していた独身時代を思い出させてくれる。物語シリーズは時間の進行が遅くて、さらに一人称小説なので、いつでもあの頃に戻らせてくれるのもよい。最近数年に触れてきた作品たちは、子供が生まれる前の数年の感覚をその空気感と共に思い出させてくれることになるのだろうか。

シン・エヴァンゲリオン感想 補補遺

 承前

 amboyuyaさんの「バカ映画としてのシン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇と洗脳の終わり」という感想とその続きを興味深く読んだ。これほどクリアにシンエヴァのダメなところ指摘していながら、なぜか最後に庵野監督に謝って作品を全肯定してしまう。確かにバカ映画かもしれないが、それで済ましてしまうとそれはもう優劣のある芸術作品というよりは、生き方を説く説教のような、あるいは作者から視聴者への直接的なメッセージや感謝のような何かになってしまう。これって本当にキャラクター達を救ったことになるのかな。視聴者は洗脳されていたのではなく、もっと大切な何かをもらっていたんじゃないのかなと思いたくなる。シンジや綾波の物語が終わらせられたからといって、僕たちは別のものに新たなシンジや綾波の影を見出すようになるだけじゃないのか。庵野監督がもう死や痛みの中にある美しさと向き合うことができなくなったのなら、他の誰かが代わりに向き合うだけのことなのでは。庵野監督はエヴァをこんな形で終わらせる必要は本当にあったのか。作品は完成した瞬間に作者の手を離れて一つの自律的なシステムになるというのに。そもそも何も終わっていないのではないか(あるいは始まってもいなかったのかも)。エヴァがそこにあった。今はその横にエヴァによく似た、しかしエヴァではない何かがあるということなのかもしれない。そう考えると僕は、死んだはずの綾波が新しくなって出てきて戸惑うシンジにもう少し共感できるかもしれない。「やっぱり綾波綾波だよ」と言えるのは相手が人間だからであって、作品相手には違った態度を取ってもいいようには思うが。
 宇多田ヒカルのBeuatiful Worldにちょっと言及したが、僕にとってエヴァの歌で一番よく聴いたのは綾波レイ版の魂のルフランだった。冷静にみると語りの部分がちょっとダサいのだが、サビの「私に還りなさい」以降の部分が本当に綾波が歌っているようで衝撃を受け、何度も繰り返し聴きながら「綾波に還る」感覚を夢想していたオタクだった。kame氏のHolidayやPortaitだったか、それともASAI氏のRei Ⅳだったかnac氏の2nd Ringだったか覚えていないが、クライマックスのページでこの綾波魂のルフランが自動的に流れるサイトになっていた気がする。あるいは「ここでBGMとして流れる」みたいな注意書きがあったのだったか記憶が確かでない。いずれにしても今から振り返ると微笑ましい演出だが、当時完全にイカレていた僕はさらにイカレてしまったのだった。やっぱり綾波は「ぽかぽかする」とか言ってる場合じゃないよ。「私に還りなさい」だ。「記憶をたどり」だ。「優しさと夢のみなもとへ」だ。「あなたが過ごした大地へと」「この手に還りなさい」「めぐり逢うため」「奇跡は起こるよ」「何度でも」だ。もう死んでもいいと思わせてくれるような存在でなくちゃなあ。それだと綾波自身は救われないとか、ぽかぽかしないとか、そういう話はいったん忘れたい。よくわからないけど、たぶん昔ワーグナーの音楽にはまっていた人たちもそういう気分だったのだろうし、象徴主義もそのような気分の中で流行したのだろうけど、ワーグナー象徴主義イデオロギーとしてもう死んでしまったとしても、個々の作品は生きているのではないか。だからテレビ版や旧劇場版の綾波が見せてくれたものは生きていてもいいのだと思う。
 半ばけじめのような気持ちで、2003年発売の庵野監督が監修したDVD-BOXをヤフオクで送料込み8000円くらいで買った。今まで僕が主に繰り返し観ていたのは、昔ヤフオクで3000円くらいで買った中国の海賊版くさいDVDであり(僕のエヴァに対する情熱はその程度だと言われてしまえばそれまでだ)、今回また観直してみて、映像が時々かすれたり音声が小さくなったりするのが気になったし、終わると風情のないチャプター画面に切り替わってしまうのがだめだったので、今更ながらちゃんとしたのを買い直すことにしたのだった。調べてみたらDVDのシリーズにもいくつかバージョンがあり、そもそももっと画質がよいブルーレイの廉価版が2019年に出たばかりだとわかったが、結局中古相場が手頃で、旧劇場版の禍々しい熱気を伝えるデザインやブックレットなどがある2003年のBOXがよいということになった。明日届く。ちなみに、ヤフオクでは同時にいくつも同じ商品が出品されていたが、登録カテゴリーの問題なのか設定価格の問題なのか、入札が集まる商品と集まらない商品が分かれていて面白かった。僕は早めに入札して目立ってしまうとまずい気がしたので、狙った商品に終了時間の2分前にこっそり入札して競らずに落とすことができた。
 ブルーレイもそのうち欲しくなるだろうか。先日テレビで放映されていたテレビ版は映像がきれいだったのでブルーレイ用のリマスター版だろうが、明るくクリアになったエヴァがちょっとすかすかに見えた気もした。大きなテレビで観たからかもしれないが、なんだか新劇場版のような涼しくさっぱりしてしまった感じもしたような気がする。僕が初めて観たエヴァテレビ東京の深夜放送だったはずだが、初めて買ったエヴァは確かヤフオクで落札したレンタル落ちのVHSセットだった。終盤でアスカが精神汚染されるエピソードでは、何度も一時停止と巻き戻しを押して出てくる文字を見ようとした記憶がある。VHSセットは確か海賊版DVDを買った後にヤフオクで売った。今は少しもったいない気もするが、再生機がないので持っていても仕方ない。
 ブルーレイのプレイヤーも持っていないので(エロゲーマーには必要ないし…)、新劇場版はDVDで買っている。シンエヴァもDVDで買うだろう。ブルーレイで全てを揃えたら、エヴァアニメの収集は完全になるだろうけど、2003年のDVDで終わらせるのもいい気がする。といっても、新劇場版も含めて、この先さらに何度もエヴァを観返すかどうかは分からない。5年に1回くらい観て懐かしがる感じかな。
 もう僕には綾波画像を収拾するくらいしかやることが残っていない。そして台湾のPainDudeさんという絵師がいい絵を描いているのを見つけて、思わず保存して写真用印画紙でプリントしてしまった。安物のプリンターだしインクの残量具合のせいか色のバランスが変わってしまい、全体的に青味がかった出力になったが、それはそれでよい。思えば、エヴァンゲリオンで最初にハッとさせられるシーンは1話冒頭で綾波の幻(?)が一瞬だけ現れて消える場面であり、それだけで「なんだこのアニメは…」と思った。その時から僕は綾波に囚われ始めた。この絵のオリジナルの色調は夏の夕方近くだろうか、夕立が降る前の暗くなった町中にふと綾波の幽霊が現れたようで素晴らしい。僕の青味がかった綾波の写真も朝靄の町中に浮かぶ綾波の幽霊のようで、儚くてきれいだ。

シン・エヴァンゲリオン感想補遺

 承前

 プリンターのインクが切れたので取り換えたり試し刷りしたりクリーニングしたりしているうちに、廃インク云々の表示が出て印刷できなくなってしまい、色々調べた末にアマゾンで1000円のリセットソフトを購入したら5分で直って安堵した。心配していた妻に何か印刷したいものがないか聞いたが何でもいいというので、シンエヴァの入場券と一緒にもらったアスカのリーフレットを印刷したら、黄色インクが足りないのかあずき色の髪になってしまったがきれいに出力でき、妻に見せたら安心していた。彼女が初めてエヴァ関連のものを見て機嫌を損ねなかったのはこのアスカだったので、記念に壁にでも貼っておくか…
 この一週間、時間のある時はエヴァの感想をネットで漁ってばかりで、時間のないときもテレワークで仕事中に漁ってしまったため、土曜日まで宿題を休日テレワークになってしまった。妻の機嫌も悪く、いつもより長時間の足裏マッサージサービスをしなければならなかった(先々週、久々に東方天空璋をやって以来右手の親指が痛くなり、マッサージにも支障をきたしていたが)。でもこんな体験はもうできないだろうから後悔はしていない。
 というわけで、一通り他の人たちの感想を読んだ後で改めて何か書いておきたい。というのも、特に呪詛のような批判的な長文を吐き出している人たちの感想が強烈で(例えば小鳥猊下さんとかグダさんとか、もう少し落ち着いたものではLWさんとか村上裕一さんとか)、僕の最初の印象が薄れてしまったほどだったからだ。やっぱりたとえ浅くても最初に自分の感想を書いておいてよかった。僕は特撮も他の参照された先行作品もほとんど知らないし、ストーリーの細部や制作の裏側についてはあまり理解していないし深く考え込みもしないし、上に挙げたような人たちに比べるとエヴァに対する思い入れも深いとは言えないライトなオーディエンスの一人だし、そもそも言語化能力も凡庸な人間だが、それでも大事にしなければいけない固有の体験は持っているからだ。
 ともあれ、批判的な意見に同意できる部分は多い。新劇場版ではTV版や旧劇版にあった鬼気迫る感じがなくなっただけでなく、全体的にセリフ回しのキレがなくなって用語のセンスもなくなってしまった。最後のシンエヴァくらいは全盛期の勢いを見せてくれるのではという淡い期待があったが、今のところ思い出せるものは何もない。再視聴すれば何かお気に入りのセリフも見つかるかもしれないけど、最後までセリフ回しの弱さを絵の丁寧さ(丁寧だけど新鮮さはあまり感じられない)で補うという、悪い意味で二次創作的だった印象だ。新劇版全体についても同じ。思えば、序の最後で綾波が「笑顔」を見せるシーン、レイのファンにとってはシリーズ全体で最も大事なシーンの一つのはずだが、この笑顔が丁寧に描かれているだけで、新しい何かを提示していたわけではなかった時点でエヴァの喪失は始まっていた。丁寧に描き込まれていたから不満を言うことはできないし、TV版はもとより、旧劇版と比べても悪くはなかった。でも旧劇版の笑顔の衝撃、何かとんでもなく大切な秘められたものをもらってしまったという驚きはなく、すうっと流れてしまった。たぶん僕の方が鈍くなったのだろうが、同じ構図や同じセリフで見せられても、古典作品の再演を楽しむような楽しみ方しかできないのは仕方ない。繰り返すが不満を抱くことはできないし、新劇の笑顔は新劇の笑顔で愛でることはできる。でもそれは文脈から切り離されたような楽しみ方になってしまう。僕がエヴァの後でエロゲーオタクになって磨き上げてしまったスキルの一つは、弱いものを愛することだった。作品のシナリオが拙劣でヒロインが残念であっても、こちらに向けられる笑顔や愛の言葉を拒絶する意味はない、幸せになって何が悪いのか。これはエロゲーという一人称の創作物が得意とするモードであって、このやさしさをアニメのような本来三人称の創作物にも持ち込めるようになってしまったのが新劇を拒絶できなかった理由の一つかもしれない。弱いもの、本物ではないものでも、触れているうちに愛着を持ってしまう。例えばFateシリーズ。出てくる英雄たちはみな二次創作で、ストーリーが面白ければ、それをきっかけにオリジナルの史実にも関心が向かうことがある。オタクは愛に溢れた存在なのでいろいろなものを愛することができる。でもその愛に重さはあるのだろうかと上述の厳しい人たちの文章を読むと感じる部分もある。いわゆるポカ波はそういう弱い存在であって、それはキャラクターとして二次創作的で凡庸であるというだけではなく、開き直ってそれをまがい物という設定にしていることや、そのまがい物が「本物」(まがい物っぽいけど)の心を手に入れていく段階を視聴者と共有させるという祭儀的な仕組みが視聴者の足場として用意されていることからも、拒絶しないで何となく受け入れてしまうことができるようになっている。
 庵野監督の個人的な人間関係には関心ないので、評価の軸には据えたくない。今回、シンジとアスカが「好きだった」と確認し合ったことが、そんなこと言う必要があったのかと物議を醸している。この言葉が二人の今現在ののっぴきならない状況で発せらたというよりは、未来の視点から、あの時にああいうふうに言っておけたから前に進めたという視点から発せられたと取るしかないところに、新劇版の変質があるのだろう。現在の中から叫んでいるというよりは、未来から振り返って置いていっている*1。そんな作品に旧劇版の「先」だか「上」だかを求めても何も与えられないのだった。理不尽もご都合主義もグロテスクも、結果的に前に歩き出せたのだから後付けで肯定されてしまう。古典主義的にはそんなものは芸術作品の良し悪しとは関係のない弛緩した態度だが、ロマン主義的には受け入れざるを得ない高度に現実的な作品ということになるのかもしれない。古典主義とロマン主義という用語があっているのかやや心もとないが、いずれにせよ僕は今、エヴァンゲリオンの2つの形を手にすることができたので(マンガ版も入れれば3つ)、必要に応じて使い分けていくしかないんじゃないかと思う。今のところは旧の方がよいとしか思えないけど、新の方がしっくりくるときもあるだろう。違いの少ない新劇・序であれば気楽な癒しを得られるし(破は翼をくださいとかのセンスどうにかならないものだろうか…)。
 本当はぼくのかんがえたさいきょうの綾波レイについて何か書きたかったのだが、グダグダしているうちに力尽きた(もともとそんな燃料も筆力もない)。またネットの感想でも漁ろう。なぜか目につく強烈な論者はアスカファンの人ばかりで(上記の他にはたまごまごさんとかシロクマさんとか)、レイのファンは今回は深い傷を負わなかったせいか大人しい。滝本センセももう満たされたのかな。
 最後に特に意味もないが、ポスター画像をそれが公開された時の軽い驚きを忘れないように貼っておこう。さらば、というわけではないです。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/d/daktil/20210322/20210322014554_original.jpg

 

【3月23日追記】

 「プロフェッショナル」の庵野監督密着取材を視聴。

 番組で見せた制作現場はほんの一部なのだろうけど、あの雰囲気では面白いものなんて作れないんじゃないかという気がした。スランプの時期、何をしたらいいのかわからず苛立っている、あるいは疲れて途方に暮れている監督やスタッフの人たち。まあ、創作している人なんてスランプでなくても傍から見ると特に何でもなさそうだったり苦しんでいたりするようにしか見えなくて、でも創作している人がどう見えるかなんてどうでもよくて、できた作品がどうであるかが全てだ。シンエヴァではそれまでの新劇3作と比べてもアングルの新しさ・意外さにこだわってすごくハードルを上げていたらしかったが、そんなに斬新だったっけ。僕の注意力や感性が足りないというだけの問題だとしたらDVDが出たら改めてゆっくり楽しませて頂けるのでいい。でも、TV版で連発したような神がかった絵面とかテンポはほとんどなかった気がするのだが気のせいだろうか。単に僕の好みの問題なのだろうか。庵野監督は、普通にコンテを描いてやっていたらTV版や旧劇版と同じものにしかならないから、それを超えるために新しいやり方を模索したとのことだが、その視覚的な新しさというのは恥ずかしながら僕には作品からはよくわからなかった。

 ともあれ、庵野監督やスタッフの人たちが僕たちに最高のものを届けようと必死になって作ったことは伝わってくる番組だったので、観てよかったと思う。これでは作品を批判できなくなってしまう気がしないでもないが、僕にできるのは作品を観てよかったことやその他のことを語り、作品を受け止めることだけなのだから、それをきちんとやるしかない。

 

【3月27日追記】
 大井昌和・さやわか・東浩紀「全世界最速シン・エヴァ・レビュー」(3月8日、有料)視聴。シンエヴァ絶賛派の人たちのハイテンションなオタクトーク6時間。
 僕は不完全燃焼感について書いているが肯定はいくらでもできそうな作品でもあり、後はどんなふうに肯定する、あるいは受け入れるのかという問題になったとき、酒を飲みながら感情的にひたすら肯定するというのもありだ。ブログの書き言葉ではなく、オタクトークの声で伝えられるものもある。
 ただし、やったかやってないのかこれからやるのかという下品な話が多かったのが残念なところで、アスカ派だった東さん(他の二人はよくわからない)はシンジとアスカの関係に注目するからそういう語り口になってしまい、確かに性的モチーフやメタファーに溢れた作品なので仕方ないのだが、無言で綾波レイに萌えている(古語)ようなむっつり系オタクにとってはそういうガチャガチャした語りや笑いは厳しいところが多かった。「旧劇は性的メタファーによる描写でしか視聴者を驚かせなくなくて方法論的に未熟だった」というのは雑だと思うし、シンエヴァに切れ味がないと思ったのは性的なものが少なかったからだけではないと思う。性的なものが少なかったとはいえ、シンエヴァは男が男性性にきちんと向き合っている(父殺しの欠如、ユイの類型的描写などの弱点があるが)ので「男でもやればできるとわかる」、その意味で現代では稀有な作品、という評価は何となく同意できるし、ウマ娘的な若さばかりを愛でる世界は中年男性オタクにはつらいというのも分からないことはない。
 「旧劇の方がいいという人は35歳以下」論については、1回視聴しただけでは消化できなかった部分も多いだろうから、DVDが出たら見直す必要があると改めて思った。でも繰り返しになるが、「無限大」、「ネオンジェネシス」、槍で順番に刺す、「さようなら、全ての」とベタに言ってしまう、やたら説明する、といった「ばかげているけど必要であり、25年間エヴァを見続けてきてよかったという気持ちになれる手続き」を僕も実感するようになるかどうかはまだ分からないな。
 綾波が永遠に成熟せず、むしろ作を重ねるごとに幼くなっていき、今回は(田植えしてから収穫までの約4ヶ月をゆっくり描きつつ)感情や言葉を獲得する幼児というところまで下がってから消滅し、そのことでシンジに示唆を与え、後にボサボサ波が出てきて破で救えなかった綾波を含めてすべてを救ったという納得感だという。90年代のアダルトチルドレン(心を閉ざした女の子)を本人の心の問題ではなく、環境による虐待の被害者として現代的に読み替え、綾波のイメージを根本的に更新したという。確かにそういう見方なら第三村パートを肯定することもできるだろう。とはいえ、そうなるとやはりTV版・旧劇版の綾波が萌え(古語)という感情の面からはよかったということになるし、東さんらが母親的なものに接近しすぎて気持ち悪かったというマンガ版の綾波も最高ということになる。「ユイを中心に据えるという過ちを最初に犯したからレイが導入され、レイを捕まえられないからアスカが導入され、アスカを捕まえられないからマリが導入されて終劇になった」という構造は確かにすっきりした解釈であり、ユイが全くといっていいほど描かれなかったから、レイが根源に位置する(ただし後に幼児化する)という見立ても綾波ファンにとっては悪い話ではないのかもしれない。ちなみに、シンエヴァでは式波がクローンであることが分かり綾波との違いがなくなり独自性が失われたとの指摘があったが、アスカ派には総じてあまり関心を持たれていないおとなしめの式波も陰があってむしろいいなと思った。好みの問題なのかもしれない。
 ネット上に感想はまだたくさんあるので、もう少し読み漁ってみたい。東さんたちの下ネタトークで僕のエヴァが終わるというのはあんまりなので!

 つづく

*1:完全な印象論だが、エヴァ新劇版で失われてしまったものとして、夏の空気感がある。一応夏のようなのだが、じっとりと滲んだ感じはない。秋のように透き通った空気だ。人も少なくて涼しげ。技術的な進歩で美術が高精度になったせいなのか(マンガ版も同じ進化を遂げた)、「夏以外の季節が失われた世界」という設定に対する詩的な動機づけを新劇版でやめることにしたのが理由なのかはわからないが、「熱」が失われた世界の寂しさがあるのが新劇版だ。序のBeautiful Worldのピアノの響きは、失われていく熱を逃がしたくないという切実さがあってよかったが、やはりエヴァは夏だよなあ(イリヤのと混ざっているかも)。

エヴァは終わってない(シン・エヴァンゲリオン感想)

 エヴァが終わった。終わったといってもいろいろニュアンスはあるだろうが、もう物語が完結して続きがなくなったという意味では終わった。今日ははじめから終わりを見届けるために映画館に足を運んだわけで、自分の中では終わらせたくなかったし、今でも終わらせたくない気持ちは残っているので、観劇するにあたって特に高揚感はなく、むしろ避けられない終わりを前に少し気持ちが沈んでいたと思う。エヴァを喪失するためにエヴァを観るというのはおかしな話だ。
 エヴァを初めて知ったのは、大学1年か2年の頃、家庭教師のアルバイト先の中学生の男の子の部屋でマンガ版の1巻から3巻くらいまでを読んだ時だったと思う(男の子の姉が集めていたそうだ)。絵が繊細でなんだか難しそうな話だったので覚えていた。やがて家庭教師の期間が終わり、エヴァのことは忘れた。当時はまだ僕は自覚的なオタクでもなかった。次にエヴァに出会ったのは、テレビ東京で深夜に一挙放送をやっていた時だったと思う。一話から全部観たかは覚えていない。ひょっとしたら東浩紀がどこかで論じていたのを読んだ方が先だったかもしれないが(それが一挙放送を観るきっかけになったのかも)、記憶が不確かだ。ともあれ、一挙放送は強く印象に残り、ここから僕の自覚的なオタク人生が始まった。
 そこから約20年。20年前の僕は新劇場版なんてものが制作されるなんて想像できなかったし、20年後にその新劇場版の完結編を映画館で見る日にブックオフで『男の子の名前事典』を買うことになるなんて思わなかったし、ゲンドウの「男の子ならシンジ、女の子ならレイだ」というセリフに神妙な顔になることも想像できなかった。観終わってから床屋に行き、今の僕の顔は少しシンジに似ているかもしれないと思って鏡を見たが、映っていたのは運動不足ですっかり顎に肉がついてしまった中年のおっさんで、こんなおっさんが「綾波…」とか言いながらレイに近づいて行ったらホラーである。そういえば僕の顔がシンジに似ていたことなんて一度もなかったのだった。
 映画館ではD列(前から4番目)の真ん中で、やや前過ぎたが、観劇に大きな問題はなかった。ありがたいことに皆さんマナーがよく、観終わって客席が明るくなるまでほとんど誰も物音すら立てなかった。終わったらイヤホンで耳をふさいで立ち上がり、帰りに物販コーナーを少し除いたがめぼしいものは何もなく(そのうちいくらでも出てくるだろう)、そうしてエヴァは静かに終わった。
 考察めいたものは後でネットで漁るとして、今は最初の感想を書いておこう。先週末に久しぶりにマンガ版エヴァの最後の2巻だけでも読み返しておいたのは良かった。このマンガが書かれていた2012~14年頃に今回の結末がどこまでイメージされていたかは分からないが、意外にもけっこう似た結末だったと思う。エヴァがいなくなった世界をやり直すという結末。TV版では幻想として拒否したはずのものを、今度は受け入れるようになっていたシンジ。そういえば、エヴァ名物ともいえるシンジの絶叫が今回はほぼなく、立ち上がることを決めた後のシンジはどちらかというとゲンドウをはじめとする周りの人たちの話の聞き役に回っていた。シンジの心のドラマはこの完結編ではほぼなかったので、そこが不完全燃焼感につながっているのかもしれない。でもシンジについて語ることは他に何があるだろう。不完全燃焼どころか、Qまでの間にシンジはもうほぼ燃焼しきって燃えカスになっていたというのに。そういえばマンガ版でも終盤はみんなぽつぽつ呟くようセリフばかりで、顔の表情(マンガ版は登場人物の身体の輪郭線と顔の表情を見る作品だと思っている)も悟ったような真顔ばかりで、それがスケール感のある背景と交互にずっと続いていくのが独特のリズムを作っていたが(マンガ版ナウシカの後半もそんな感じだった)、今回の映画のシンジにもそういう気分が感じられた。
 レイも何だか冒頭のぽかぽかしたのんきなレイでそのままいってしまったような印象だった。あとはグロテスクな巨大な顔ばかり。この完結編ではゲンドウがほぼレイに気を遣うそぶりを見せずにユイの方しか見ていなかったので、レイはゲンドウがいなければこういう(ややテンプレ感があるが)素朴な愛すべき女の子だったのだろう。それが初期型とされているということは、今まで僕や一部のオタクたちを散々惑わしてきたレイとはいったい何だったのだろうか。この新劇場版のレイは、それまでのレイより「普通」であり、病的なまでに僕を惹きつけたりはしない。僕自身が変わってしまったというのが一番大きいのだろうけど、あの神秘的な綾波レイがいつのまにかいなくなっていたと認めざるを得ないことが惜しい。あのレイはもうkame氏とかの20年前の二次創作の中にしかいないのかもしれない(TV版と旧劇版は繰り返し観すぎた)。旧劇版でもマンガ版でもレイは最後にはいなくなる。そして今回の新劇完結編では、終盤はほぼ出番がなかった。本作の最大の欠点は個人的にはここだ。綾波をもっと出せ。シューティングゲームウルトラマンじみたアクションシーンは少しでいいから、あの髪の毛ボサボサ波とのエピソードに1時間くらいまわしてほしかった。僕のように感じているオタクはきっとたくさんいるだろうけど、今の時代にまた大量の二次創作が生まれるかはわからないし、僕もそれを読む気になるかどうかわからない。とりあえずボサボサ波のフィギュアくらいは出るだろうから、それでも買うしかないのかな。
 Qの時点でも強く感じられたので当時の感想にも書いたけど、廃墟と化した世界、怪物じみた大量の屍、暗くて荒涼とした人の少ない舞台は、旧劇版以降に膨れ上がってグロテスク化したオタク文化や僕たちの心の部屋の一端を象徴するものだと思える。今回の完結編もそんなグロテスクな映像のオンパレードで、庵野監督の趣味であろうウルトラマン宇宙戦艦ヤマトをオマージュしたかのようなカットもそういう気持ち悪さがあり、そこに悪乗りしたゲンドウとシンジのエヴァ初号機がマンションの室内や教室で取っ組み合いを行うのはようやるわと感心した。アウトサイダーアートに近いような病的なセンスが垣間見え、こんなプライベートな感覚を公衆にさらすのはさすがだと思ったが、それくらいはすでに旧劇で軽く踏み越えていたので余裕だったかもしれない。同じグロテスクでもツバメと書かれたぼろきれを抱きかかえたボサボサ波はまだ愛嬌があったのは、オタクに妄想のネタを残してくれた気遣いなのかもしれない。
 レイの代わりにシンジの前に現れたのはマリという意外過ぎる結末。実は先週に読み返すまで、マリがマンガ版の最後の番外編エピソードに登場していたことをすっかり忘れていた。7年前にマンガ版が完結した時、なぜ最後に謎の新キャラが登場したのか気になったはずだが、どうやらすぐに完結の感慨に押し流されて忘れてしまったらしい。新劇の序・破・Qではかすかに匂わせただけだったゲンドウやユイと同世代という設定もはっきりと描かれていて、エヴァの雰囲気から浮きまくった役回りもシンジとの埋まらない距離感も、今更ながらようやく背景がわかった。なぜ冬月にイスカリオテのマリアと呼ばれたのかわからないが、誰を裏切り、救世主となる誰を産んだか産むことにしたのだろう(あるいは裏切ることで産まなかったのだろう)。ミサトが槍を持ってネルフに突っ込むとき、「主は来ませり」と歌うもろびとこぞりてが流れた。それを支えたのがマリだったので、人類補完計画を裏切ってヴィレについたからイスカリオテと呼ばれたのだろうか。それだと単純すぎるか。ともあれ、マリとシンジがカップルになるとは到底考えられず(マリアということならシンジの母親のポジションなのかもしれない)、僕もマリにはあまり興味はない。
 今回マンガ版を読み返して改めて気づいたのは、ゲンドウは最後にユイと出会うが、LCLに還元されずに、ユイに看取られシンジの未来を考えながら、(リツコに撃たれた傷で)普通に安らかにこと切れるということだった。他はほぼ全員がLCLになってしまっていた中で、あれだけ人類補完計画にこだわったゲンドウがこのような最期を迎えたところにこのマンガ版の救いがあるように思えた。今回の新劇完結編では、ゲンドウが自分の生い立ちからユイとの出会いまでをシンジに語るところが一つの山場になっていた(下絵風のグラフィック演出も優れていた)。妄執に囚われた歪んだ中年男なのだが、考えてみればまだ旧劇版や破の時点で40歳くらい、今回の完結編では50代前半くらいだろうか(→コメントいただいた通り、TV版時点で48歳、Qとシンでは60代前半とのことでした)。新しい槍が来るとわかってあっさり人類補完計画を諦め、その瞬間にシンジと共にいたユイに気づいて、納得して電車を降りてしまったように見えたけどどうなんだろう。本人も散々苦しんだからもうお疲れさまということだろうか。LCLにはならなかったのか。ユイに会えれば補完しようがしまいがどうでもいいということか。これはマンガ版と近い終わり方なのだろうか。
 今回は誰が新しい世界で生き残り、誰がLCLになって消え、誰が普通に死んでしまったのかよくわからない。何度か観返せばわかるかもしれないが、それが必要なのは二次創作や妄想の設定のためくらいなのかもしれない。みんなそれなりに納得していたようだった。演出的には、あの赤い砂浜でシンジに見送られたアスカは生き残って、ケンスケに助けられて生きて行けそうに見える。長ければ14年間も一緒に暮らしてきたというケンスケとくっつくかはわからないし(もしくっつかなったら人形の被り物をしたケンスケは少し気の毒だが)、シンジを今はもう好きではないかもと言っていたのが本当かどうかもわからないが(村でも陰からこっそりシンジを見守っていたしなあ)、最後のシーンでシンジのそばにアスカがいなかったというのは、二人はもうそれぞれの人生を自由に歩んでいるということなのかもしれない。それともシンジがマリと二人で駆けだしたのは、アスカや他の誰かに会うためだったのだろうか。マンガ版では受験のために冬の東京にやってきたシンジが駅の雑踏で見知らぬアスカと出会う。アスカファンの人にとっては、アスカとは永遠に届きそうで届かないところに見え隠れするヒロインなのかもしれない。あの何度か寝がえりをうって太ももを見せつけるアスカ。シンジに素っ裸をさらす不機嫌なアスカ。旧劇のシンジならすかさず発電していたのかもしれない。これは素直に喜べないサービスショットであり制作者の意地の悪さが見えないこともないが、アスカが背負わされているものを感じさせるようで悲しさもある。アスカは着ぐるみのケンスケの横でたぶん気持ちのいい涙を流すわけだが、彼女にとって喜びであり安らぎであったシーンは描かれただろうか(ちなみに、マンガ版ではエピローグでの登場をカウントしなければ、加持が出てきてLCLになってしまうという微妙な終わり方だった)。あまり覚えていないが、赤い砂浜でシンジと別れたシーンか。それともシンジにひょっとしたら好きだったかもしれないとようやく告げることができて、その後で歩き去っていくシーンだろうか。どこかで画面には顔を向けずに喜びや幸せをかみしめることができたのかもしれない。
 演出的には、ミサトはどうやら戦死ということになる。正直なところ、それよりも本作では声優さんの声に力強さが戻っていたのが嬉しかった。新劇のこれまでの作品や関係ないCMのナレーションとかで三石さんの声を聞くとどうも衰えを隠せない感じがして残念だったけど、今回は決めるところはきちんと決めてくれていてよかった。とはいえ不憫といわざるを得ない生き様だったと思う。マンガ版でも早々に退場してしまった。きっと一番幸せだったのは加持と一緒だった学生時代で、後は苦しみに耐えながらがむしゃらに生きてきたのだろう(そしてそんな彼女を、自分勝手でシンジにも有害だった非難する声もよく聞く)。加持との子供を産むことができたのは嬉しかっただろうな。
 はっきり覚えていないのだが、レイは最後にアスカと同じようにシンジに挨拶して立ち去ったようだったので、新しい世界で生きていると期待してもいいんじゃなかろうか。そしてやはり最後のシーンでシンジの前に姿を現さなかったのは、これから現れるということでいいのだろうか。そんなことを考えるからいつまでもオタクなのだ。
 最後がドローンによる街の風景の実写で終わったことは、賛否の両方が可能だ。映画の手法としては古典的で、今では珍しくないのかもしれないがタルコフスキーのロングショットのようでもある。あるいはもっと卑近な例ではNHKのドキュメンタリー番組に近いのかもしれない。アニメではないことに、塗りこめられたアニメ絵の閉塞感に対する限界の意識を感じてしまう部分もある。でも、リアルな風景に疲れた目を休めるためにアニメで美しいものをみたい人にとっては必ずしも正解ではない。エヴァのアニメ絵が現実につながっている悪例として、エヴァストアみたいな商業イラストや広告ののっぺりしたキャラたちを見せられてきた経緯があるので、アレルギーができてしまっているのかもしれない。本作の終わり方は優れた映像処理方法だと思うけど、他の様々な可能性についても想像したくなる。
 エヴァは失われたけど、僕は手放したくない。「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーは、これまでのエヴァビジネスの前科からして、これから全力でエヴァとさようならしないために各種グッズやコンテンツを売りまくってやるぞという前振りにしか見えなくなっているが、とりあえず僕は映画館を出た足で向かった本屋でマンガの愛蔵版1~3巻を買った(あと乙嫁語りの最新刊も買った)。通常版のマンガの13巻と14巻にはいろいろおまけがついていて(貞本氏のおすすめ音楽CDという今となっては奇妙すぎるおまけも)、13巻についていたレイとアスカのホログラムカードが何気にきれいで先週も思わず魅入ってしまっていたので、愛蔵版のおまけもきっと思い出しては引っ張り出して見ると嬉しいものになるかもしれない。貞本先生がエヴァの呪いから解放されず、この先もずっとレイ(時々アスカも)のイラストを描き続けてくれますように呪っておきたい(あと、愛蔵版のサイン色紙のイラストは素晴らしかったけど、先生のサインには興味ないので次はサインをもっと小さく書いてください)。エヴァの物語は終わってしまったので、僕にはもうこういうものを集めるくらいしかやることが残っていない。とりあえずDVDが出たら買うけど、物語が完結してしまった今、そう何度も観返すだろうか。この完結編は、序盤は破みたいなのんきなノリで不安になったが(素朴なレイにも委員長ママにも素直に喜べなかった)、やがてQにあった暗さとグロテスクさを取り戻していったのが評価できる点で、その意味では観返す気にもなりそうだ。それでも終わりは一つしかないことがわかっている。
 ネットでレビューを漁っていたらそういえばと思い出したが、そういえば最後の駅のシーンで、向かいのホームにカヲルとレイがいたっけ。アスカもいたらしい。でもそれはまったく別の物語の予感がする。向かいのホームは三途の川の向こうほどにも遠く感じるけど、実際にはマリと階段を駆け上がってすぐにたどり着けるのかもしれない。他方でこれはシンジが見た幻だったという解釈もあるらしい。TV版1話冒頭のレイの幻と対になるものだそうだ。
 今回の作品を観終わったら、エヴァに対する僕の思い入れの残滓はLCLになって溶けて消えるような気がしていた。もちろんきちんと風呂敷をたたんだいい作品としての視聴体験は残るのだろうけど、もやもやしたものは消えてしまう。それはこんなふうに感想を言葉にすることも同じで、終わりを形や言葉にすることがはらむ不可避の作用だ。多幸感に包まれて何かに感謝している他の人たちの優しい言葉が躍るネットを見ながら、ああみんなLCLに還っていくなあなんて思ってしまうが、言うまでもなくそんな的外れの滑稽な感慨を抱くのは、僕がまだエヴァが終わったことをうまく受け入れていないからなのだろう。形や言葉はどうしたって取りこぼしてしまうものが出てくるのだから、それを自分の中で確かめればいいわけで、何も不安や不満を抱く必要はないのだけど。僕はエヴァに大きすぎるものを求めているのだろうか。たかだか2時間半、TV版からすべてを入れたって20時間くらいの映像娯楽作品に何を求めるのか。人類補完計画の物語なんていうものを本当に完全にやろうとしたらこんな時間や登場人物数では到底足りず*1、どこかでダイジェストじみてきたり、人間がモブキャラになってしまう。そもそも人間という限りある存在が描けるようなものでもなく、だからとことん狭い人間関係の描写にこだわったわけで、そんなふうに想像力を働かせないと世界を認識できないのは面倒くさい。
 とりあえず「僕はまだ綾波レイを忘れない」という呪いのような言葉を残して終わっておこう。僕にはがんばってもとりあえず7000字くらいしか書けなかった。気持ちとしてはその10倍くらいは書いてみたいのだが、どうにもならない。久々に2ちゃんのエヴァ板でものぞいてみようかな。(→やっぱりLRSスレは居心地が良かった。。僕は破のレイにも少し違和感を覚えているので、必ずしもスレの流れに同意するわけではないけど、何とか納得できる解釈を見つけようという人が集まっているのはよい)

 つづき

燦々SUN『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』


 いわゆるなろう作家によるなろう小説的な作品ということで、文章の質は低いしロシアネタもところどころ違和感があるけど、女の子をかわいく描こうとしているしイラストがきれいなので読み進め、読んでいるうちに最後の方はべたなラブコメ展開ながら結構楽しめた。特に最後のイラストを使ったシーンの見せ方は個人的に禁じ手を食らったようなもので、ここまでやっていいのかとちょっと驚いた。このシーンだけはオンリーワンの作品といえる。
 銀髪ロシア娘というのはたぶんファンタジーにおけるエルフのような非実在青少年だろうと思う。エリツィンとかソビャーニンみたいな銀髪っぽいロシア人も若い頃は髪の色が暗かったので、白髪の一種だ。歴史上では確かマリー・アントワネットとかの時代の貴族が銀髪のかつらを好んでいたはずで、知性と高貴さみたいなものの証だったのだろうか。したがって本来は西欧の宮廷貴族をイメージさせる髪のはずだが、なぜかロシア娘ということになっている。他方でブロンドは、若い娘の場合は現代の性差別の文脈では正反対(知性の欠如や尻軽)を象徴する髪色とされている。銀髪がロシア娘の髪色になることが多くなってしまったのは、オタクの象徴体系におけるロシアの占める位置に由来しているはずなので現実のロシアとはあまり関係がない(たぶん多くの日本人にとっては現実のロシアというもの自体が現実感の乏しい記号のようなものなのだろうが)。同様にロシア娘(例えばクドリャフカとか)が孤独だったり真面目だったりするのも現実のロシア娘とはあまり関係がなく、そのせいであまりセンターヒロインにはならないのだが、それなりにおいしいポジションだとみることもできる。ちなみに、ロシア人が作ったヒロインが全員ロシア人のエロゲーには銀髪の娘はおらず、ロシア要素を強調されたセンターヒロインであるスラーヴャという女の子は健康的に日焼けしたおさげのブロンド娘だった。
 もちろん、現実のロシア娘よりも非実在ロシア娘の方が可愛いし(比較するのが間違っているが)、この作品のアーリャも可愛い。銀髪ロシア娘の銀色の髪は現実には存在しない髪であり(染めれば出せる色だが)、その髪を愛でる描写を読むときに僕たちは幻想上の髪を愛でていることになる。中世の聖像画家が聖母マリアの髪を自らの幻想を込めて描いたように。滋養が乏しい文章なので続刊が出たとしてももうあまり得るものはなさそうだが、どこかで見たことがあるような話を聖者伝を読むように読んで楽しむことはできるのかもしれない。あと、何気にウラジオ出身というちょっと現実感を出せる設定があるので、機会があればうまく活かしてほしいが、あの町を幻想的な美しさにつなげるのはけっこう難しいような気がする。