崩壊スターレイル:オンパロスとギリシャ

 誰もが心の中に自分だけのギリシャを持っている。
 ・・・かどうかはともかく、僕には不格好な自分だけのギリシャが二十歳くらいの頃からあって、アラフィフのおっさんになった今でも失われていなかったようだ。それはきっと、ギリシャが自分の生活の中心になったことがなく、いつだってふと脇道にそれたときにそこにあり、ひと時眺めてまた離れていくようなものだったからだろう。最初のギリシャは小学校低学年くらいの頃に家にあったギリシャ神話の児童書で、当時の自分にとっての本当の創世神話は同じ児童書形式の本で読んだり教会で教えられたりしたキリスト教だったので、ギリシャ神話は荒唐無稽な軽い昔話と変わらず、特に心に響くこともなかったと思う。次のギリシャ神話は、思い返してみると、小学校中学年から高学年くらいの頃に熱心に読んでいた聖闘士星矢のマンガということになるだろう。特にギリシャがどうこうという物語ではないだろうが、ギリシャの戦士を少し思わせるクロスのデザインとか石造りの神殿とかの背景画は、後年のギリシャ受容の下地を作ったのかもしれない。とにかくキャラクターたちが殴って殴られて頑張って戦っている、その痛みを感じるようなマンガだった。僕は天秤座なので小学生が老師に感情移入できるわけでもなく(後で若返ったのが出てきた時は驚いたけどやっぱり違った)、他の星座の人(特に氷河とか)が羨ましかった。
 その次のギリシャは多分もう、大学生になってロシア文学を志してからの何度かの再会だろう。最初はたぶん、モスクワで寮生活をしていた頃にテレビでみたギリシャ神話のソ連アニメシリーズだったと思う。前にも書いた気がするが、特に不細工で愚かな一つ目巨人ポリフェームシカ(ポリュペーモス)の悲恋を描いた短編が印象に残った。ロシアは歴史的にも多少ギリシャを継承しているところがあり、ф(f)やд(d)といったギリシャ由来の文字があるし、ロシア正教はいちおうギリシャ正教にさかのぼることになっている。ウクライナやクリミア、グルジアは正確にはロシアではないが、これらの地域はスキタイ人や金羊毛の地としてギリシャ神話にも登場する。そのような自負があるからか、ロシア文化は19世紀のロマン主義以降、古代ギリシャのエキゾチズムへの関心を継続的にもち続け、ギリシャはロシアの文化人にとって同時代の西欧とは少し違った憧れと親しみの対象だったのだろうと思う。今回、オンパロスでアグライアという巫女のようなヒロインが登場したのを見て、そういえば『白痴』にアグラーヤがいたなと思い出した。アグラーヤの名前は父親がギリシャかぶれでつけたのかどうかは忘れてしまったが(江川卓の謎解きシリーズに書いてあるだろう)、ナスターシャに勇敢に立ち向かって傷つく可憐なヒロインだったイメージが残っており、ひょっとしたらアグライアも若い頃にはそういう勝気な一面もあったのかもしれない。また、オンパロスでトリビーたちが「やさしい西風」の彼方の地での安息への憧れを何度も口にしたのが印象的だったが、ギリシャの西風の神ゼフュロスのイメージは僕の中ではプーシキンのユーモラスな響きの軽やかな詩「夜のゼフィール・・・」(Ночной зефир Струит эфир. Шумит, Бежит Гвадалквивир...)と少し重なっていて、意味も分からずこの詩を口ずさんでいたことを思い出した(今調べたらスペインの川を描いた詩らしくイメージが一気に変わってしまったが)。ロマン主義時代のロシアではグネージチがイリアスを、ジュコフスキーがオデュッセイアをそれぞれロシア語のゲクサメトル(英雄六歩格)で訳した。若干擬古文調に響くが、この時代のロシアの詩では文語はまだかなり現役だったので、日本でいう上田敏のような無闇な難解さはなく、自然にするする読んでいけるリズムと語彙になっている。僕は気楽な留学生活の中で息抜きがてらにそうしたギリシャの詩とか戯曲とか解説書とかを古本屋で買い集めていた。単にギリシャ文学を読みたかったからというよりは、象徴主義詩人のヴャチェスラフ・イワーノフがギリシャ文化研究者だったことや、クズミンの書いた「アレクサンドリアの歌」の軽やかな明るさに惹かれたことや、バクストが描いた古代ギリシャをモチーフにした絵やバレエ衣装画に幻惑されたことがあったが、気負わず楽しめるということも大きかったと思う。ギリシャ文学の翻訳書をみると、「ロシアのマラルメ」アンネンスキーをはじめ訳者の多くは象徴主義やその少し後の時代の詩人たちだったので一石二鳥だった。ギリシャ文学の本はギリシャの壺のように素朴で美しいデザインの本が多かったこともよかった。当時の僕の憧れだったロシア詩研究の泰斗であるガスパーロフが同時にギリシャ文学の研究者・翻訳者でもあったこともあり、ギリシャ関係の古本はいいなと思ったらけっこう買っていた。人のいないモスクワのプーシキン美術館にはたくさんのギリシャ彫刻(確か大半は複製)があって、時間が止まったような静かな雰囲気がよかった。留学が終わって帰国し、ちゃんと勉強しなくちゃならなくなってからも、よく息抜きにギリシャの本をパラパラめくることはあった。呉茂一のギリシャ神話のメディアの短い話になぜか強く心を打たれたこともある(不思議なことに後で読んだアンネンスキーによるエウリピデス作品の全訳より呉先生の要約の方がよかった)。
 前置きが長くなってしまったが(そして本編は短いが)、オンパロス編が始まると、僕の心のどこかでしばらく眠っていた妄想のギリシャが一気に目を覚まし、すっかり嬉しくなってしまったのだった。これまで飛ばしていた横道テキストもオンパロス編では結構読んだ。この作品でどこまで古代ギリシャの時代考証を信用できるか僕にはわからないのだが、僕の想像と妄想を心地よくくすぐる程度にはいろんなものが「あのギリシャ」だった。オクヘイマでは住民がみんなギリシャ風の服を着ており、からっとして明るい空気と生活の営み、若々しくて伸びやかな古代人たちの活気があった。そして巨大すぎる建築物や彫像、巨人族みたいな兵士たちがいたのが、神のいる世界という感じでよかった。オクヘイマに来る前の暗い廃墟や古代的な終末幻想もよかった。僕の知るオタク作品では安易な中世ヨーロッパがファンタジーの舞台になることは多いが、本格的にギリシャ・ローマを取り上げたものは少ないのでそれだけで嬉しくなる。
 第一印象のビジュアル面や小物でまず引き込まれたが、ストーリーも前半はがっつりと「僕のギリシャ」だったのでさらにひたすら引き込まれた。つまり英雄の物語だ。この作品の制作者はFateのファンが多いと後から知って納得したが、英雄はすなわち悲劇の運命にあらがおうとする者たちであり、そのような人生を最後まで全力で、まったき形で生き切る存在だ。エロゲーのドラマツルギーのあるような物語の緩急とかはなく、英雄として登場し、英雄として生き、英雄として死ぬ。そのまっすぐさをこの作品らしいぶれないしつこさと熱量で描いている。ミニゲームとかマップ移動とかをのぞくとたぶんシナリオは結構短くてシンプルなんだけど、翻訳作品なので全体的にセリフが冗長でテンポが悪くなっていて、その遅めのテンポがストーリー進行に重みを与えているようにも思えた。イリアスやオデュッセイアのような叙事詩と同じだ。中国語の原文で読めばもう少しテンポはよいのかもしれないが、中国語はこの作品のようにすぐに二字の熟語にしたり対句をつくったりしてブレーキをかけるので大して変わらないかもしれない。AIによれば、ギリシャ叙事詩の中国語訳では英雄六歩格の代わりに1行あたりの文字数を概ね22文字に統一するといった工夫があるらしいが、オンパロス編ではそういう意識はあったのかな。「オンパロス英雄記」は少しそんな気配があった気がするが。あと、ギリシャよりも長い歴史を持つ中国でも古代ギリシャってやはり憧れの対象になるものなのだろうか。
 神託で予言されたとおりの最期を迎えてしまう英雄たちの物語はどれも素晴らしかったが、特に後半に出てきたサフェルケリュドラは意外性もあってよかった。「詭術」で世界を欺き、神に代わって人知れず世界を守る盗賊が、人知れず死んでゆく話。サフェルの声優さんはバンドリの有咲の人らしく、その声もよかった。ケリュドラはルビコン川を渡ったり部下に裏切られて死んだりと、カエサルをモチーフにしたところがあるらしい孤高の皇帝だが、僕の中ではクズミンの「アレクサンドロス大王の偉業」(中世ヨーロッパの伝奇物語様式で書かれた中編小説)で描かれたアレクサンドロスのイメージが近かった(カエサルは昔、塩野七生のローマ人の物語で読んだけど忘れた)。マケドニアからインドやその先の世界の果てまで、古代世界を縦横無尽に冒険し、若い盛りにその幻想的な夢のような生涯を終えた英雄が、神を追い落としてオンパロスを飛び出し、星々の世界を征服することを夢見ながらも、道半ばで終わり堂々と退場したケリュドラと重なる。キャストリスの何度も裏返るように変転した生涯やいきなり挿入された豪華なアニメに唸らされ、ヒアンシー一族の秘密とその読み替えも読みごたえがあった。モーディスアナイクスの命をかけた戦いの物語もよかった(アナイクスは声優さんの抑制された演技も素晴らしかった)。特にお気に入りのキャラだったトリビーたちアグライアの物語も、長い時間を生きてきて最後までその献身的な生き方を貫いていてよかった(声優さんの演技も堪能した)。火を追う旅と火種の継承はオリンピックの聖火リレーの起源神話になるのだろうけど、そんなことはどうでもいいくらいどれも骨太な物語だった。ギリシャ的な世界を単なる背景として使うのではなく、その世界で本当にギリシャ悲劇のような物語が紡がれていることが嬉しかった。ついでにどこにでもいるエンドモ(カブトムシ)たちにも癒された。
 問題はファイノンから先だ。最後の旅が始まったと思ったら壮大な創世の物語になってしまい、それが何度も続いていつまでも終わらない。これをシジフォスの神話を下敷きにしたギリシャの物語だとみることも不可能ではないが、どちらかというとオンパロスはアバタールチューナーのような実体のない箱庭世界になり、いかにして仮想空間のデータを進化させて命や愛を生み出すのか、そのために外部からどのようにコンピュータに介入するかという話になってしまった。もともとこの作品の根幹の設定(星神とか運命とか)を読み飛ばしていたし、ミュリオンが突然現れても撫で肩の可愛いマスコットだくらいにしか思わなかったので、ループとSF展開が始まっていろいろな伏線が回収されるようになってもついていけず、何が起きているのかよく分からなかった。それでもとりあえずキュレネの物語として未消化の行間を想像で適当に埋めて大団円となり、オンパロスとの別れが惜しくてとりあえず解説サイトを読んで設定をいまさら理解したり、出来事の時系列を眺めて頭を整理したりしつつ、余韻の冷めないうちに感想を少し残しておこうと書き始めた。エリュシオンの風のざわめきが耳に残っている。幸い、横道シナリオはまだ手つかずなのでしばらくは楽しめるだろう。
 結局、鉄墓という巨大コンピュータのようなものだったオンパロスはヘルタらによって破壊され、オンパロスは「紡がれた物語」というデータの形で残っただけだった。その選択を下したのはオンパロスの中で自我を獲得した人工生命となったキュレネであり、ひとり未知の未来に飛び出すよりは、いつか未来に生まれ変わることを夢見ながら英雄たちと共に静止した過去、永遠のオンパロスの中にとどまって統一された存在としてはいったん消滅することを選んだ。データの集合に過ぎないソシャゲーの中の物語として美しい構造になっている。二十歳くらいの頃に竹田青嗣の本を経由してみつけたニーチェのギリシャでは、もうよく覚えていないけど確か永劫回帰はディオニソス的な生き方か何かの概念であったのに、この作品では概念や比喩ではなくギリシャ的な設定のストーリーの中で文字通りやってしまい、しかも本来の意味である「デカダン的な癒しと悲しみにいつまでも沈む生き方ではなく、たとえ何度生まれ変わっても今のこの選択を肯定して受け入れていくような生命の活力に溢れた生き方とその覚悟」をもどのキャラクターも体現していたようだった。最良の例としての旧エヴァに象徴されるようなオタク文化の影を背負ったデカダンスではなく、硬派な明るい力強さで織り上げられた物語だ。アグライアやトリビーをはじめとする英雄たちはみな、オタク文化のミームから生まれたどこかで見たことがあるような設定やキャラ属性の者ばかりかもしれないが、それでもこの強固な物語の中で力強い存在感を放っている。こうしたキャラクターたちに思いを巡らせるとき、唐突だが、これも若い頃に見つけてはまっていたもう一つの個人的なギリシャ幻想である、エンヤのカリビアン・ブルーの渦に飲み込まれるような酩酊感がある。これはどちらからというとデカダンスに分類される感覚なのだが、僕の中では永劫回帰はそういうものと隣り合わせになりがちだ。
 次章の「二相楽園」を少し始めてみたら、もともと期待していなかったけど、やはりちっともワクワクしない(少なくとも序盤では)。舞台設定が都内のどこかで見たことがあるようなところばかりで、地下鉄駅の構内から始まって地上に出ると、茅場町とか東銀座とか御徒町とか八丁堀とか、なんかゲームをやっているというよりはお客さんのところに商談に行くときに見るような風景で、最近はこういうところに出歩くこともなくなったけど、それでも仕事をしているみたいでちょっと嫌な気持ちになった。こういうところを観光客として歩いた中国人プレイヤーにはワクワクする風景だったりする、ということもないだろう。NPCもいろんな小物やコンセプトも全てくだらなく思える。ついでにミニゲームがスーパーマリオみたいなアクションで、僕には難しすぎてストレスが溜まって困る(マウス操作なので斜めジャンプがとても難しく、画面が動き始めると死ぬしかない)。
 オンパロスはよかった。早く二相楽園を終わらせてオンパロスのサイドストーリーに戻りたい。「紡がれた物語」には無数の輪廻の中のifとして短編小説がいくつかあって楽しかった。オンパロスの者たちは空の彼方、「星海」へと飛び出して現実世界に至ることを夢見ながら今も「永遠の1ページ」におり、あるいは輪廻を繰り返しているが、僕の方はそんな現実世界の方からオンパロスを夢見ている。僕のいびつなギリシャはこれからも少しずつ成長していくのだろうけど、今回の物語は久々の会心のギリシャであり、昔のことをいろいろ思い出すきっかけにもなってよかった。永遠の地オンパロスよ、また明日!

雑記(大長編ドラえもん、人外教室の人間嫌い教師、崩壊スターレイル)

・ドラえもんの大長編シリーズ全巻(24巻だったかな)を古本で買って、子供に寝る前に読むというのをしばらく続けている。今日はここまで、と終わらせようとすると、さいごさいご、あと2ページあと2ページと何度もせがみ、続きを読んでしまったりして、だいたい1巻につき3~4日で読み終わるペース。僕は子供の頃はアニメ版の大長編はほとんど観たことがなかったけど(映画館とか行かなかったし、テレビもあまり観なかったし、ビデオレコーダーが家に来たのも中学生くらいで、当初は深夜のサッカーの試合くらいしか撮っていなかった気がする)、原作マンガは結構何度も読んだ気がする。何十年ぶりかに読み返してみると、今でもいろんなコマやセリフをよく覚えていて驚いた。たぶん高校生くらいになっても何度も読んでいた鉄人兵団や竜の騎士はもとより、それほど読み返さなかった宇宙小戦争も懐かしかった。子供の頃に手元にあったのはおそらくこの3冊で、他のは所持していたか覚えていない(話は第12巻の雲の王国までは既視感があるので、一度友達の家とかで読んだか、マンガを所持していたけどすぐになくしなかだろう)。8歳くらいの頃に引っ越すまで住んでいた町では、南武線矢川駅の商店街の本屋でマンガを買っていた記憶があり、ドラえもんの他にキン肉マンやキャプテン翼を何冊買ったことがある気がする。コロコロも買ったことあるかな。改めて読み返すと、竜頭蛇尾というか、クライマックスがあっさりしている話が多く、確かに子供の頃も少し不完全燃焼感はあったかもしれないが、それでも序盤から中盤のわくわく感はけっこうよくできていて、藤子不二雄の独特のユーモアとテンポもよい。読んでみると保育園児には難しすぎるセリフ回しが多く(ルビもあまり振られていない)、たぶん小学生にも難しかっただろうが、そういう少し背伸びするところも含めて子供にとっての大長編ドラえもんの魅力だったのだろう。保育園児の子供はいつもよく話に集中している。的外れな質問をしてくるのであまり理解できていないようだが、いつも途中でやめようとすると激しく暴れて続きをせがむので、楽しんではいるのだろう。驚いたのは、しずかちゃんが悪者に捕まって縛られているシーンのコマや、しずかちゃんが夢風鈴で呼び出されて夜中に眠ったままふらふら歩いてくるシーンのコマを見せてくれと後からせがまれたことだった。あと、着せ替えカメラでしずかちゃんに間違えて男用の水着を着せてしまって上半身が丸出しになってしまったコマや、ピリカ星でスモールライトの効果が切れてしずかちゃんが巨大化して海の中に立って海上に頭を出すシーンの大ゴマで声を上げて大喜びしていた。藤子不二雄先生はしずかちゃんなどのヒロインの絵には特に気合を入れ、美少女にしていたそうで、そのせいで伝わりすぎてしまったのかもしれない。先生没後に元アシスタントの人たちが書いた続編のうちではまだロボット王国しか読んでいないが、先生の作品とレベルが違いすぎて驚いた。セリフ回しもストーリーの緩急も吹き出しの使い方や形も雑すぎて、ドラえもんの同人誌のようだった。絵柄も相方と別れて一人になってからの藤子不二雄先生の絵は驚くほど完成度だが高くて古さがなく、後年の元アシスタントの人たちの作品の方が古く見えるくらいだ。ともあれ、子供と読む分には十分であり、しばらく楽しめそうだし、全巻大人になるまで持っていてもいい作品だ。いつか子供にもドラえもん大長編的な無限の夏休みの時空間に浸る楽しみを味わってほしい。

・子供と観ていたアニメのジョジョはジョリーン編の途中で止まり、最近は「たんじろう」(鬼滅の刃)にシフトした。あのギャグシーンのデフォルメ絵と刀を振り回す戦闘シーンのカッコよさの振れ幅が子供には心地よいのだろう。それより驚いたのは、既に完結したが、典型的な萌えアニメの「にんげん」(人外教室の人間嫌い教師)にはまってしまったことだった。絵は完全な萌えアニメなのだが、話の方は実は童話的な動物や空想生物と人間のふれあいともいえるちょっといい話があり、子供は最初に観たうさみちゃんの話で心をつかまれたようだった(僕もこの話は好き)。オーイシ氏のテンポの良いOPソングと同じくテンポの良い萌え電波ソングになっているED曲も気に入ったらしく、車に乗ると「にんげんやって」とすぐにせがんできて、「たしかめぅわうよ、にんげんのかたちを~」と機嫌よく歌っている。EDソングも早口だけど聞き取りやすくて楽しいようだ。こういう早口の歌は保育園では教えてくれないのでとても新鮮だろう。「にんげん」は当然ながら園では先生も含めて誰も知らなかったらしく、無邪気な幼児に萌えアニメをみせたことに罪悪感がある(主人公先生に好意を寄せてアタックしまくる竜の女の子も、迫るシーンで「目がキラキラしてる!」とすごく喜んでいて、すまんかった。入浴シーンも困った)。終盤のシリアス展開(主人公先生のいじめ事件の回想)やラブコメ風味の解決編(いじめを乗り越えた元教え子の話)は幼児には難しく、かわいそうなことをした。そういう期待外れというのはこれからの人生で何度もあるのだろう。

・子供がボールを転がして追いかけて遊ぶフェーズから、ボールを蹴って遊ぶフェーズに移行したため、週末は家の前で子供とボール蹴りをして遊ぶことができるようになった。だがそれもしばらくはお預けとなり(後述)、7月にはもう暑くてあまり外で遊べなくなるなるので、10月くらいまでお預けかもしれない。近所の1歳下の女の子とよく遊ぶようになり、女の子が出てくるのを待ちながら家の前で僕とボール蹴りをしている。女の子の前だとすごくテンションが上がって一生懸命ひょうきんなことをするけど、別れるときは何かの照れなのか、バイバイを女の子に返さず無視して去るので女の子が困っている。たくさん遊んでたくさん仲良くなってほしいのだが(小学校に上がったらそのうち遊ばなくなるだろうし)、妻は近所づきあいをしたくないので「迷惑がかかる」からとあまり遊ばせたくないようだ。幸い、先方はいつもお父さんも出てきてくれるので、僕も気楽に遊ばせることができて助かっている。もうすぐ2人目が生まれるらしいので、そうなるとうちのとの関係もまた変わるかもしれない。

・うたわれが終わってソシャゲは終わりになる可能性もあったのだが(ハチナイは相変わらずオフラインで続けていて、とりあえず可能な限り全キャラをそろえてストーリーをみるまではやるかも)、結局、崩壊スターレイルを再開してそれなりに進めてしまっている。きっかけは小鳥猊下さんが以前からお勧めしていたので中国ソシャゲーに関心があったことであり、照井春佳さんのキャラがいるし、原神と違ってアクションゲーム要素がなさそうなので挫折しないで済みそうだし、はじめはロシアがモチーフの世界らしいのでやってみるかということだった。現在は第4章のオンパロスの序盤まできたが、後追いで始めたので仕方ない部分もあるが、いろんなエピソードやミニゲームが無茶苦茶にありすぎて集中して読むのが難しい。終わったと思った章の横道クエストが無限に出てきて、視界が制限されて分かりにくいフィールドを駆け回って面倒なお使いやパズルをいちいちクリアするのに貴重な時間をとられるとモチベーションが下がっていく。横道をなるべく無視してメインストーリーだけ進めると、もともと抽象的でわかりにくいストーリーが虫食いだらけになってさらに分かりにくくなり、さらに理解しようとする気もなくなってしまう。フィールド移動をなくしてテキストとムービーと簡単な戦闘だけの一本道のノベルゲームにしてくれたらありがたいのだけどそうはならないか。当初から「存護」とか「巡狩」とか「開拓」とか、抽象的な概念(星神という神様らしいのだが)でキャラクターの行動目的を当たり前のように説明しようとしていて、17~18世紀ぐらいのアレゴリー文学かという味気無さに当惑した。前作の崩壊3rdをやっていればもっとすっきり理解できたのかもしれないが。はじめだけだと思っていたらずっとこんな調子なので、もうこういうのは読み流すしかない。キャラクターへの愛着だけがてがかりなので、第1章のヤリーロⅥでは主人公(Key作品の主人公みたいな女の子)のとぼけた選択肢となのかとクラーラの声を楽しみながら乗り切った。ロシア要素はどうだったかな。ヤリーロ(スラヴ神話の春の神)とかベロブルグ(白い町を意味する西欧風の名称)とか、いろいろそれっぽいのがあった気がするが忘れてしまった。結局、照井さんボイスのリンクスは登場せず(多分何かの横道シナリオだろう)、ガチャで引いた。話は十分に理解する前にラスボスとの戦いが始まって終わってしまった。次の第2章仙舟は、中国がモデルで不老長寿と持続的社会のテーマや、老荘思想とスーパーコンピュータを重ねたようなモチーフ、現代中国のどこかの港湾都市のコンテナターミナルやゆったりした中華風リゾートようなフィールドに、後半は漢詩のようなテキストがたくさん出てきて、キャラクター以外の部分でももう少し楽しめた。第3章ピノコニーは、ラスベガスかどこかがモデルなのだろうか、娯楽都市での夢の中の世界のミステリーみたいな感じで、たえず夜であること、その夜の中でのホタルという悲劇的なヒロインとの出会いと別れがしっとりと描かれていてよかった。もともと謎めいた年上女性キャラがいる作品なのに(カフカ、姫子)、この章では同種のキャラがさらに黄泉、ブラックスワン、ダリア、ジェイドと次から次に出てきて、みんなごちゃごちゃした時系列の中でゆっくり抽象的なことをしゃべるものだから催眠ボイスみたいで読むのが大変だったが。憶質とか記憶域とか、基本的な設定も最後までよくわからなかった。BGMがよかった。夢の中にいる感覚だった。第4章オンパロスは、首都オクヘイマにたどり着いたが、ゲーム世界の雰囲気や設定は大変によい。古代ギリシャをモチーフにした世界で、宗教、建築、風俗などのいろんなところに「ギリシャ的なもの」の小ネタが感じられて楽しい。エスハトロギア(終末思想)、ギガントマニア(巨像嗜好)、アレクサンドリア的色彩と陽光、神と人間の関係(神から火を奪う英雄たち)、人類の若さ、他にもこれからたくさん出てくるのだろう。序盤に出てきた古代風な音楽もよかった。こういう古代が見たかった、という世界だ。トリビーのCVが遠野ひかるさんなのも嬉しい。どの章にもやり残したクエストがたくさんあっていったり来たりするのが面倒なのが困る。全体として、崩壊スターレイルは翻訳作品だから読みにくいということもあるし、そもそも話が読みにくいということもある。とはいえ、この乱暴な文章で刺激される脳の部位も確かにあるだろう。まだしばらくは付き合ってみたい。なお、現在のメインパーティは銀狼999、愉悦主人公、花火、フォフォ。

・最後に、ブログを書くのが久々になってしまった理由であり、久々だけど書けた理由についても一言書いておこう。また子供をしばらく施設に預けることになってしまった。原因は妻の体調悪化だが、悪化の原因は僕の心ない言葉による部分が小さくない。あえて乱暴な書き方をすると、女というのは本当に面倒だ。困っているから助けようとすると、だいたい助け方が違うということになり、本当に必要だったのは助言や具体的に助ける行動ではなく、「つらいんだね」という同情のお気持ちや、僕も同じようなつらさを味わって一緒に無意味に苦しむことだったりする。この点については前からあきらめの境地に至りつつあるのだが、子供にとばっちりがいかないようもっと言動に気をつけなければならないと自戒を繰り返す日々だ。愚痴。本当は家族って素晴らしいものであることを僕は知っているはずなので、その光に向かってこれからも進んでいきたい。

近況雑記(ジョジョ、石、餃子、永久のユウグレ、V、初音ミク)

 最近はもう自分の言葉を残しておくことに対する意欲すら失せかけてしまっていて、時間ができてネットやアニメを観て疲れたら真っ先に寝るというライフスタイルになってきてしまっているのだが、最低限の近況くらいは残しておこうとは思っていて、連休の終わり近くになってようやく気が向いてきたので今のうちに済ませておこう。目標にしていた連休中のジョギングは実現するか怪しい(寒いし)。
●まずは子供と観たジョジョのアニメから。けっこう残虐描写が多いので子供に見せるのはよくないし、実際に死ぬとか殺すとかに興味を持ってしまってまずいのだが、僕が一緒に観て楽しめるものの中では恋愛要素がなくエッチ要素も小さいのが安心だし、語りの健全性とスリル感、絵面の面白さも悪くない。戦いの細かい機転は子供にはまだわからないのだが、起承転結のテンポがよくて目まぐるしいので子供にも見やすく、夜に見せると次をねだってなかなか寝ようとしない。敵が登場するときとかの不気味なシーンではよく怖がって顔をそらして耳をふさいでいる。子供は当然ながら条太郎が好きであり、保育園の先生や友達のお母さんにもオラオラしたりしている。よその家でもジョジョを見せているらしいのもちょっと安心ではあるが、自分は幼稚園児の頃はジョジョみたいのはまだ全然だったので本当にいいのかどうか。この前の保育園の発表会では舞台に出ても両手をポケットに突っ込んで黙ったまましばらく仁王立ちしており、どうやら条太郎の真似だったらしい。条太郎と同時に最初に覚えた名前が「カキョーイン」で笑ってしまった。レロレロレロレロが印象的だったのかもしれない。花京院のフルネームは花京院典明だと教えたら、「カキョーイン・ノリマキがね…」といろいろ教えてくれた。何も分からない妻に向かってよく「キューケツキ・ディオ」あるいは「ディオサマ」の説明をしている。第4部では仗助の他に億泰が気に入ったらしく、自分の兄と仲良くするので敵視してくることが多い従姉妹の女の子をなぜか億泰と呼んで、「今度、〇〇ちゃん(従姉弟)とオクヤスのところに泊まりに行くんだ」と言ったりしている。吉良吉影もお気に入りらしいがなかなか名前を覚えられず、「キラ・ヨースケ」とか「ツネ・ヨースケ」とかいうおかしな名前で呼んでいる。ジョジョアニメはOP主題歌がだいたいダサいのだが、ビジュアル系っぽいウルトラマンの主題歌に比べると言葉がはっきりしていて聞き取りやすいので、よく「男たちは…」などと口ずさんでいる。僕が子供の頃に読んでいて、近年のアニメもリアルタイムで観たのは主に3部と4部なのでこの先も楽しめるかどうかは分からないが、こうして子供と一緒に楽しめるのはありがたいことだ。
●前回の日記にも書いたが、2025年は個人的に『瑠璃の宝石』が目が喜んだアニメだった。エッチなカットがどう映ったのか分からないが、子供もやはりお気に入りになったようで、保育園への行き帰りの道や園庭で遊んでいるときなどによく石を拾うようになり、家の中や保育園の下駄箱が見つけた石だらけになっている。ただの小石であっても、大理石っぽい白い成分や微細に光る石英などが混ざっている石や滑らかに丸まっている石は子供にとっては宝石であり、持ち帰って洗って保管する対象になる。瑠璃とナギさんたちのように山に入って露出した地層で宝石を見つけたいらしく、よく連れて行けとせがまれるので調べてみたが、多摩川の河川敷なら車で遠くないので今度行ってみようと思う(近所の小さな川は石が少ない)。あと、秋には山梨県まで繰り出して石の博物館に行ってきた。たらいに砂と一緒に入れた小さな宝石を取り放題のサービスをやって、本当に微細すぎて子供だましなのだけど(その割に高い)、それでも子供は楽しんでいたので行ってよかった。河口湖の近くにあり、久々に間近で見た富士山が印象的だった。いつか子供が大きくなったら一度登りに行きたい。宝石や化石のレプリカを発掘するおもちゃも好きで(1個100円から1000円くらいまでいろいろある)、よくホジホジするのだが、すぐに手が疲れて途中から僕がやる羽目になる。
●この年末年始はセパレート帰省で、僕は家で一人のびのびして、最後に一泊二日で妻の実家に顔を出して連れ帰ってくることになっている。その間に念願の一人餃子まつりを開催した。市販の餃子は具が少なくて挙げた皮を食べているような感じなので、前から母がつくるニラたっぷりでニンニクとショウガが効いた餃子を自分でしこたま作って食べたかったのだが、妻はニラとニンニクの匂いが寝込んでしまうくらい嫌いなので果たせていなかった。今回、ひき肉400gとニラ2束を使って一気に60個作って、2食分で全部食べた。作るだけでも結構時間がかかり、撮りためていた『永久のユウグレ』を食べ終わるまでに6話まで観て、日をおいて先ほど残りを全部見た。ゼロ話の現代編(前日譚)はそこまで引き込まれず、全体的にコナンみたいなキャラデザ(鼻と目と顔の輪郭)もあまりだったので数ヶ月放置していたのだが、古典的なアンドロイドとの交流と終末世界の設定に乗せて進めていく話はながら見には悪くなく、何よりアモルのデザインとキャラクターが可愛かったので見続けられた。健康的な露出と髪の毛がもこもこしているのがよい。すぐに消える脇役キャラかと思っていたからなぜEDアニメが彼女を中心にしたものか分からず、はじめは特殊EDかと思ったが、だんだん積み重ねられていって、結局ロボットに置いていかれまいとするキャラとして視聴者の視点に近づいていくのもよかった。アキラとユウグレもある意味で世界から取り残されたキャラとなっていき、アモルも含めてセカイ系の物語としての骨組みが完成していく心地よさがある。一番よかったのは、たぶん、あまり話題にならなかったのか全然外部から情報がないまま一人で気軽に観られたことだと思う。
●年末年始は毎度ながら本当に無為に過ごしてしまう。今年は一番リラックスできた時間は、だいたいいろんなVtuberドラゴンボール実況配信の切り抜き(ベジータの泣けるシーンとか、セルの若本ボイスの笑えるシーンとか、ビーデルと悟飯のラブコメシーンとか)を観るという50歳が見えてきた中年男性の時間の過ごし方としてはあまりに無駄な過ごし方になってしまい忘れたくなる(結局、今のところ話し手としてはサロメさんの魅力が突出しているという感想で、彼女のように単なる雑談が面白いVtuberは見つけられていないが、サロメさんの雑談であっても心の余裕があるときにしか聞けない)。あと、セールで買ったニンジャスレイヤーのマンガを一気読みして(結構な部分は以前にツイッターか何かで読んでいた)、その後でロシアのサイトで違法アップロードされたアニメ版を久々に見直す(リアルタイムで観たときは知らないストーリーが多かったので意味が分からないシーンも多かった)というこれまた残念な時間の過ごし方をした。しかし、まだアニメ化されていない話や読んでいないマンガがたくさんあるんだな。アニメのナンシー=サンやユカノ=サンの無意味なお色気もよいが、やはり余湖裕輝先生によるマンガの迫力のある絵が見入ってしまうものがある(ヤモト・コキ=サンやワタアメも可愛い)。続編18冊もいつか読んでみたい。
●あと、年末には久々にフィギュア熱が戻ってきて、予算も飾るスペースもたいしてないからレビューサイトやらメルカリの相場やらをいろいろ眺めて熟考に熟考を重ねた末、初音ミククリオネ、バニー、アニバーサリー、赤毛のアン風の4体を買った。どれも新品未開封で実質800円程度らしい送料込みで1500~2000円前後であり、この価格を十分に上回る品質になっている。クリオネは少しテカリがある感じなのが残念ではあるが、それでも冬の上気した表情やクリオネの海のイメージの表現としてみるとむしろよい感じになっており、顔のデザインはいたる絵のような丸さもよい。バニーは部屋にずっと飾っておくのは落ち着かなくなる可能性があるのでかなり迷ったのだが、でもこの体のラインと親しみやすい表情の魅力には逆らえず、結局一番最初に買った(他の3体はこのバニーのエッチさを中和するために買ったようなところもある)。網タイツは本物の糸で編んであって素晴らしい。黒タイツが基本バージョンだけど、白の方が柔らかい感じがするので気に入った。やっぱり大きいと迫力があって(うさ耳もあるのだがケースにつっかえるので外している)、特に後ろから見た時のお尻とかすごい。予想通り、リモートワークで仕事をしていて横を見るとすぐに目に入ってくるのは、元気をもらえるのだがちょっと落ち着かず、後から他のも来たので残念だけど早々に少し後ろの方に移動させた。そのうち席替えして前に出すかもしれない。初音ミクだけどイメージ的には後藤邑子さんみたいなほんわかボイスだ。アニバーサリーはそこまで魅かれたわけではないのだが(色のチョイスがいまいち)、人のよさそうな表情や細部の出来がよく、デザインも落ち着いていて華があるのと安かったので思わず買ってしまった。情けない話だが、ショートパンツのような履物が実はミニスカで、中が見えることが最後の一押しになった。ケースのふたの影の関係で、高さ調節ために下に『不思議の国のアーニャ』(ナボコフ訳のアリス)を敷いた。カントリーと題された4体目は衣装のデザインや全体の色合いに一目惚れしたのだが、ちょっと高かったので買ったのは一番最後になった。顔の表情にいまいち納得できなかったことでも迷った。フィギュアは表情が動かないので、どのような表情をしているかがとても重要になる。一昔前の安いフィギュアは遠目にも生命感のない人形らしいぼけた表情ものが多く、それがおそらくクリエイターや消費者のより理想的なフィギュアを求める欲望を掻き立ててその後の進化につながり、その結果として近年の高品質なプライズフィギュアがあるのだと思う。近年のものはアップでみれば確かにまだ生命のない人形だが、30cm以上離れた普通の距離から鑑賞すれば「生命」や「心」がある人形に見えるクオリティになっている。あとは適切な光さえ当てられれば(僕の部屋は元和室なので障子戸があり、冬の昼間は少し黄ばんだ障子紙を通して絶妙な柔らかい光が入る)、お手軽な自分だけの美術館をつくることができる。僕のフィギュアが初音ミクばかりになってしまうのもそこに理由があり(昔は綾波レイばかりだったが、僕の綾波フィギュアはボサボサ波をもって象徴的にも美術的にも一応完成に到達した。ちなみにこの休みについにシン・エヴァDVDもメルカリで新品が2600円くらいだったので買ってしまったが、僕にとっては呪物のようなものなのでまだ開ける気にならない)、キャラクターの物語やデフォルトデザインに縛られない自由で多彩なジャンルになっており、単純に選択肢が多く、そのせいか品質のレベルが高い。といってもいいのがあればその都度買えるほどの余裕はなく、スペースはもうあまりないので、しばらくはこれで満足かな(妻は急に僕のフィギュアが増え、ちゃんとしたケース(ダイソーの300円とか500円の奴)に入っているのでちょっと引いていた)。子供は人形をみると何でも手にとって戦わせたりして遊ぶが、僕にとってフィギュアの一番のいいところは気軽に眺めて元気をもらえて、なんか頭が活性化することなので、当面十分ではある。
エロゲーはこの休みに久々にハラショウを起動できたが、2025年後半はだいたいアマカノ(+、2、3)ばかりだった。アマカノはSSとSS+でだいたい感想は書いてしまって、あとはもういちいち言葉にせずに楽しんでいけばいい気がするので、大した感想は書けないかもしれない。作品ごとに感想を分ける意味もあまりなく、いるのは個々のヒロインだしな。あとは相変わらずうたわれるものロストフラグに毎月毎日少なからぬ時間を奪われており(調伏戦…)、家族に割く時間が減るなど不健全になって困っている。これはいずれ罰を受けても仕方ない。もう受けているのだろう。先日、帰省する妻子を東京駅まで送った帰りに開放感から久々にソフマップに行って、安かった『星織ユメミライ』(アマカノの先駆者的な作品という認識)と『クナド国記』(自分にとっては久々の御影氏の意欲作という認識)を買ってきた。前に買ったLamp of sugarのやつとかもあまり手をつけていないので、いつプレイできるかは分からないけど、たまにでもパッケージ版のエロゲーを購入していきたい。一番待っているのは田中ロミオ氏の作品なんだけど何の情報もない。

●音楽は相変わらず数少ない遠野ひかるさんのキャラソンばかり聴いているが、たまに牧野由依さんのCDも聴くようになった。これまでいろんな声優CDを聴いてきた結論としては、本業における声の魅力を歌手としても最も発揮しているのは花澤香菜さんと牧野由依さんということになった。特に牧野さんは音楽を専攻していた人だからか技術がかなり高く、ベースはとても可愛らしい(岬ちゃん)ながらもその目まぐるしく変転する声の表現力のおかげで、大して興味の持てない歌詞(恋愛とか何か女の子の身近なものを歌ったようないかにも声優ソングっぽいやつとか)や伴奏の歌であっても聴き入らせてしまうくらいすごい。アイマスか何かで歌ったりするらしいけど、近年はオリジナルのアルバムをもう出していないのがとても残念だ。
●何日も続けて朝、仕事も子供も気にせず好きなだけ寝坊できるのはなんとありがたいことか。

雑記(うたわれ実況、アマカノ2、進撃・ゴブスレ)

◆最近は博衣こよりさんのうたわれるもの散りゆくの実況動画をみていた。1回の配信が8~10時間くらいあって(途中でお花摘みタイムが入ったりする)、他にも毎日のように何かしら長時間配信しているらしく、仕事とはいえスタミナがあって好きでないとできないないはず。まったく疲労を感じさせずに夢中で楽しんでいるのがすごい。話し手としてはサロメさんのようなカリスマはないが、作品にまっすぐ向き合っていて反応も安定していて、エッチ方面の反応もよいのがオタクフレンドリー。体を壊さず続けてほしいものだ。
 うたわれるものは何年もロストフラグをプレイしていて、今月は水着ニライカと水着シュクレが2アカウントで出たので割と調子がよいが(もう一つのサブアカでは何も出ず、中年ハクがいないのでレベルもまもなく後発のサブアカ2に抜かれそう)、初代うたわれはストーリーをほぼ忘れていたので実況を楽しむことができた。「散りゆく者への子守歌」は単なるコンシューマ移植かと思っていたのだが、戦闘システムを変更してキャラを増やしたリメイクらしく、ロスフラで見覚えがないと思っていたキャラとかもここが初出かと納得したりした。デリホウライ(すっかり忘れていた)やディー(すっかり忘れていた)やミコト(すっかり忘れていた)やクーヤ(そういえば夜におしゃべりに来てたなと懐かしく思い出した)やウルトリィ(そういえば赤ちゃんの子守りの話だったなと懐かしく思い出した。赤子の名前がフミルィルだったのは今回初めて認識した)などストーリーを忘れたままロスフラのキャラとして使っていたが、よい復習にもなった。とはいえ、自分のプレイ時に一番印象的だったシーンである、最後に仮面がゆっくりと降りてくるシーンと、エルルゥの最後の一枚絵のシーンのインパクトは、当然ながら自分のプレイ時の体験を超えるものではなかった。リメイクは3Dのシーンが多くて人形遊び感が強くなりすぎている印象もあった。最後にハクオロが仲間の一人一人と別れの言葉を交わすシーンはあんなに長かったっけかな。続編のハクの別れと似ていて、そっちに寄せて作り直したのだろうか。自分のプレイ時の記憶はほぼないので分からない。あと、一番の違いはキャラボイスがついていることだが、いつもながら確かにキャラの印象がくっきりして深くなる一方で(エルルゥの絶叫とか素晴らしい)、テンポが損なわれる感じも多少あった。自分が初代をプレイしたのは20年くらい前だが、いつかまた声なしで再プレイしてみたいなとちょっと思った。
 そうこうしているうちに8月ももう終わり。週末から翌週前半はこよりさんの実況をみる日々が続いている。ロスフラはTo Heartコラボで、あかり、マルチ、カミュを3アカウントでどうにか入手できた。みな強い。コラボストーリー自体は他愛もない話で、To Heartや痕のSDキャラが粗い解像度でそのまま出てきてワイワイやっていた。その感じはLeafの当時の作品のクリア後のおまけとかであったかなというような。ロスフラは話がなかなか進まない。9月はカワタキャラが出るらしいので少しガチャが楽しみだが、やはり進まないのだろう。ハチナイもほぼガチャを引いて時おり短いキャラストを読むだけの静かなゲームになってしまったし(それでも毎日ログインしているが)、FGOとか崩壊スターレイルとか、何か新しいゲームをやるべきなのかもしれないな。そんなことしている場合じゃないのだが。
◆最近は子供がゲゲゲの鬼太郎にはまっており、寝る前にVKで昔のエピソードを見せたりしている。僕が子供の頃に見ていたのは80年代中頃に放送されていた第3期らしく、オカリナの穴から鬼太郎や仲間たちがぴょこぴょこ出てくるアイキャッチをみて懐かしくなった。エンディングに出てくる大きな顔のお化けとか案山子のようなお化けの絵も見覚えがあり、40年くらい忘れていたのに記憶が残っていたことに驚いた。アニメ自体はアクションシーンにせよ脚本にせよ子供向けアニメとして今でも通用するくらい手堅くつくられていて、いいアニメだったんだなと思った。エンディング主題歌の「へへへ、へへへ、ヘッヘッヘ、いうこと聞かない悪い子は夜中迎えに来るんだよ」を歌ってあげると子供が神妙に聴き入り、いたずらが止まるのもありがたい。子ども自身も「朝はメドコでぐーぐーぐー、楽しいな、楽しいな」と歌っていて、口ずさみやすい歌の偉大さよ。第4期のED歌はいまいち、第5期以降はOPも聞くに堪えなかった。
 しかし、鬼太郎やお化けの本を見すぎたせいか、子供が極端な怖がりになって少しの時間も部屋に一人でいられなくなり、トイレにも行けなくなってしまったのは失敗だった。お化けはまだ早かった。子供は相変わらず見たがるが、しばらくセーブすることにする。
◆先日、久々に三浦半島に海水浴に行ってきた。妻がやる気を出したので2週連続になった。今回は割と砂が細かくて石が少なく、泳ぎやすかった。子供も最初は怖がって泣いていたが、一度岩場でカニや貝をとって遊んだ後は浅瀬で波に揺られて遊んでいた。なぜかロシア人の家族もいたので挨拶した。あと、灯台のところに行って貝殻を拾ったりした。早起きして8時くらいには及び始め、昼過ぎには帰宅の途に就くのだが、帰りの高速で眠くなってしまい少し怖かった。せっかく車もあるし、年に一度は海に行くのはいいな。
◆アマカノ+がエッチシーンに入ってしまった時の骨休めなどに先日からアマカノ2を始めているのだが、ボリューム感がすごくて圧迫される。ちとせが身体を斜めにしている立ち絵はとんでもない盛り上がりと厚みをみせていて、風景画の山塊の質量感を観照するようにしげしげと眺めてしまう。ちとせと玲が身体を向き合わせている立ち絵を見るたびに、中国内陸部の峡谷を流れる川を小舟で下りながら迫りくる岩塊の迫力に押されるような感覚を覚える。エロゲーのヒロインを眺めてムラムラしつつ、一方で風景画を鑑賞するような楽しみも味わうことができる。今期のアニメ『瑠璃の宝石』のヒロイン二人のたくましい身体を鉱物を算出する大地を象徴する大地母神に例えている人がいたが(瑠璃ちゃんの足のごつさは社会主義リアリズムのデイネカの絵の女性の足を彷彿とさせるものもあり、金槌を振るう美少女たちを描く『瑠璃の宝石』は21世紀のソ連アニメとして見ることも可能だったりするのだろうか)、アマカノ2のヒロインたちにもそのような大地母神的、あるいは社会主義的な肉体賛美をみることができる。パッケージ絵ではみんなの目が切れ長すぎてちょっと厳しいかなと思っていたけど、立ち絵はそんなことはなくてよかった。
 そのような驚きが一服すると、秋の柔らかい光が絶えず浸透しているようなこの作品のヒロインたちの優し気な表情をみながら、もうこのシリーズでは将来の結婚まで描かれるのがだいたい確定されているので、特に一枚絵をみていると「ああ、この女の子と結婚するのか。今はこんな高校生だけど」という未来から現在を回想するような感慨がしみじみと沸いてきて、何だか今の自分だどこにいるのか分からないような涅槃の空気に包まれる。けっこうとんでもない作品なんじゃないかなこれは。
 ちとせルートに入ったのだが、初めてのエッチシーンに至るまでの流れが素晴らしかった。はじめは添い寝だけ、次は下着で添い寝、次は風呂に入って裸を見せ合うだけ、次は手でしてもらうだけ、次は手でしてあげるだけ、というふうに何日もかけて数学的な規則正しさで次第に完全なエッチに近づいていき、主人公も従順にそれに従う。このじらしの厳粛さに思わず笑ってしまいそうになるのだが、しかしそこにはちとせの神聖な無垢さがあり、主人公も至極真面目にちとせを思いやっているので、こちらは笑うわけにはいかず、夏なので下半身を開放したまま、優しく長く引き伸ばされた前戯に酔いしれるしかない。この完全にユーザーを信じ切ったつくりがアマカノの真骨頂だ。初エッチの次の夜あたり、今度はちとせが恥ずかしそうに裸で添い寝してくれるのだが(裸で寝るのが好きらしい)、この裸なのに添い寝するだけで、しかもそれでお互い納得して幸せを感じているというのが素晴らしい。これはフィクションでしか描けない、エロゲーでしか成立しない美しいじらしだ。アマカノの世界は基本的に主人公とヒロインしかいなくて、人生を描いているはずなのに全てがエッチシーンかその前段階であるような狂気じみた世界なのだが、それでも人生の中でのこの時期をブラックホールに次第に近づいていくよう何かのように無限に引き伸ばすのは正しい。
 アマカノ+の方は少し進めたが、聖が実は依存キャラなのがやはりよい。
◆7~8月は立て続けにAbemaで「進撃の巨人」の2期から最後までと「ゴブリンスレイヤー」2期を一気に観て、中年のおっさんの時間の使い方としてあまりに情けないのだが、それでもどちらもけっこう楽しめた。進撃の巨人はもう観てから時間が経ってしまったのであまり感想を書く気がないのだが、ミカサが最後までエレンへの思いを貫くことができてよかった。エレンは結局終盤は燃え尽きたみたいになっていて、未来を見ることができるという設定のせいでややこしくなってしまった観があった。あとは火だるまになって燃え尽きたハンジが印象的だった。ピークが可愛かった。しかしこの閉塞感(壁と巨人)と開放感(立体起動装置のアクションや外の世界への夢)がごちゃまぜになった奇妙な暑苦しい物語が、世界中のオタクたちにある程度共有されたというのは不思議なことだな。ゴブリンスレイヤーの方は、2期を冷静に見てみると、まさしく純粋なセックス&バイオレンスであって、登場人物に固有名がなくて「ゴブリンスレイヤーさん」とか「耳長の」とかしか呼ばなくて、ゴブスレの顔とかいう不要情報が排除されて(他の男キャラもドワーフのおっさんと人外のリザードマンなので男情報は慎重に排除されている)、いつもかっこいい鎧と兜しか描かれないというストイックさがバランスをとっているようにみえた。各キャラは自分のステレオタイプをそれぞれ全うするだけであって特に機知に富んでいるわけでもなくけっこうダサいのだが、女の子たちにかっこ悪い固有名がつかないのは素晴らしく、女神官ちゃんや女大司教さんや牧場娘ちゃんを純粋にその視覚情報と声だけで記憶に刻むことができるのがよい。いかにこのゴブリンスレイヤーの世界が箱庭的なままごとであったとしても、このストイックさとみんなの声や姿から伝わるものに嘘はないと思える。

ハッピーライヴショウアップ!その3(クラリス)

ハッピーライヴショウアップ!その2 - オネミリエ の続き。

引き続き実況的な何か。

最後にクラリスルートの感想も書いてみた。

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ハッピーライヴショウアップ!その2

ハッピーライヴショウアップ!その1 - オネミリエ の続き。

「第1幕」の終わりまで。本当に実況的に垂れ流しているだけで、必要のない記録なのかもしれないが一応残しておく。この作品が自分にとってきわめて特別なものになることはすでに分かっている。

あと、大量のスクショがあるので怒られたりしたら修正するかもしれない。

 

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滝本竜彦『超人計画インフィニティ』、石川博品『魂たち』


 単行本化していたことを最近知って読んでみて、相変わらずの健筆でよかった。『超人計画』にはどんな感想を書いていたっけと見ようとしたが、どうやら感想を書いていなかったらしい。そうか。『超人計画』を本棚から久しぶりに引っ張り出してきたら、背表紙が褪色して寂しい風合いが出ていた。インフィニティの方は表紙の著者の写真がきつくて、前作みたいに安倍吉俊さんの可愛いレイちゃんのイラストを載せておけばいいのにと思ったが、僕の記憶違いでレイちゃんのイラストは文庫版だけだったみたいで、手に取った2003年のソフトカバー本の表紙はインフィニティと同じく著者のきつい写真だったことを思い出した。別に滝本氏の外見がきついというわけではなく、むしろ清潔感のある比較的整った顔だと思うが、自意識丸出しというか自意識以外には何もないような本の表紙としてはきつすぎるということであり、それをわかっていて突きつけてくるのだ。読者を安心させず、何かに駆り立てようとしてくる。
 前作をパラパラとめくってみたところ、ハイテンション過ぎてちょっとついていきにくそうなところがそれなりにあることに気づき、自分も常にヒリヒリした現在しかないはずの滝本氏の文章も相応に歳をとってしまったのだなと寂しくなった。ブログに感想を残さなかったので(ブログを始める前に読んでいたのだろう)当時の読書体験の印象はほぼ失われており、内容も忘れていたが(NHKはマンガやアニメでがあったのでコンテンツとして延命され、内容も記憶された)、当時の自分にとってはかなり衝撃的な本だったはずだ。内容を忘れていたのは、悪乗りっぽいきつさもあったからかもしれない。ちなみに、本作は表紙カバーを外すと真っ白な地に英語で署名と著者名が記されただけのそれっぽい洋書のようなデザインになっているので、そこを隠せば電車の中でも読むことが可能だった。
 本作は落ち着いた読みやすい内容になっていて、アラフィフになった滝本氏がアラフィフになった僕に向けて書いた作品だったといえるかもしれない。現在の滝本氏の生活がどうなっているのかは全く知らず、この本の主人公の極貧の限界氷河期生活は脚色されたものである気もするが、それでも主人公の語りに中では現在と過去はほぼ同質なほどに地続きになっているので(まるで2010年代がスキップされたかのよう)そこまで気にならない。おっさんらしく性欲や他人への関心が枯れ気味なのでほどよくブレーキをかけられるのはよいし、活力の枯渇は致命的なことなのでにわかには受け入れがたいのもわかる。音楽制作に関するパートは、自分は滝本氏の音楽は聴いていないのでよくわからなかった。物語は超人(とレイちゃん)の極貧生活エッセイから青山さんの登場で超人のラブコメへと転がっていき、ラブコメは予定調和的に成功しないが、それでも主人公は青山さんと再会して「歩き出す」。これを著者は主人公の成長を描いたビルドゥングスロマンだと称しているが、成長したかしてないかは重要ではない(誰でも時間が経てばある部分では成長し、ある部分では成長せず、ある部分ではむしろ劣化するだろう)。それにしてもやはりお金なのかと寂しくなる。滝本氏はNHKで成功して一時期は派手な生活を(鬱状態で)送ったことがあるらしいので僕とは根本的に認識の断絶があるのだろうが、これだけお金におびえる人生を送らなければならないなんて(アラフィフでもこうなのだから、残念ながらほぼ人生のすべてがこうだったようなものだ)何か間違っているはずだ。女性に何か贈り物をしようとして、ダイソーに何か面白いものがあるかなと考えると、「100均のものをもらって喜ぶ女性なんてどこにいるの」とレイちゃんが突っ込む。確かにそうでした。すみませんでした(自分なら嬉しいけどな…)。それにしても、本書で20年ぶりくらいに呼び出されたレイちゃんは老いてゆく寂しい男性にとってますます有能な存在だった。その実用的なアドバイスは、普段その手の実用書や自己啓発本を全く読まない僕の心にすっと届いてしまい、元ネタが胡散臭そうなのでかえって不安になるくらいだ。彼女と「超人思想」を人生の両輪にして生きていく。僕にはそこまでの勇気はないから、その思考実験(と実践?)をしてくれる滝本氏に感謝している。
 作家としての滝本氏の集大成は、おそらく今のところは2018年の『ライト・ノベル』だろう(感想)。それを書いた後にも人生は続いていき、過去の呪いであるかのような温かい本書が生み出されてしまうことは、『ライト・ノベル』の必要性をあらためて高めるのかもしれない。今から20年後、70歳が見えてきた滝本氏は、『超人計画ファイナル』のようなものを書くだろうか。この20年はいろいろあったようで一瞬だった。



 『ボクは再生数、ボクは死』のスピンオフ短編集。3編のうち2編(「キャッシュマネーフェスティバル」と「殺戮の街」)は以前にカクヨムで公開されていたものを読んでいたが、やはり質がよいのでまた読んでしまった。新作の「二十一世紀の乙女たち」はシノのアバターを制作したぱおぱお氏をめぐる物語で、『ボクは再生数、ボクは死』のもう一つのエンディングを見せてもらったような感じだ。ぱおぱおとその伴侶の関係が『ぼくたちのリメイク』の主人公とシノアキの関係によく似ていて、天才女性クリエイターを横から(後ろからか)そっと見る喜びと寂しさを再び味わえる。しかしこの静かな生活。ハッピーエンドのはずなのに寂しさに満ちているのはさすが石川先生だ。『冬にそむく』の余韻も残っているような…と思い返そうとしたら、『ぼくたちのリメイク』と同じエントリで書きかけの感想があったのも何かのめぐりあわせか。
 『ボクは再生数、ボクは死』の作品世界の広がりを感じさせる短編集だった。シリーズ化してくれたら嬉しいが難しいのかな。あと、石川先生がエロゲーのシナリオを書いてくれたらというのもささやかな期待だ。今回、本格的な18禁描写もあったし、どこかでそういう企画出ないかな。

トラペジウム

 ツイッターで熱心に勧めている人がいたのでちょっと気になっていた作品をみてみた。自分はリアルなアイドルは生身すぎて関心がなく(アニメキャラと違って目が小さすぎるし、鼻や口が大きすぎるし、髪の毛が重力に逆らっていないし、しゃべり方も不快だし、知性もあまり感じられないし、でも感情は制御できていないようで見ていていたたまれなくなる…)、原作者を知らないどころか乃木坂グループの歌も3秒以上聴いたことがなく、テレビに映っていたらそそくさとチャンネルを変えてしまう人間なので、たとえアニメであってもアイドルものの作品を鑑賞するときにはいつもどこか受け入れきれないものがあるのだが、でも人がこれだけ熱心に勧めていると気になってしまう。
 というわけで、ついに限定生産版DVDを買い求めたのだが、半分くらいは作品そのものに対する関心というよりはファンの熱意に対する関心というか、なんかすごいらしいのを楽しみにしてのことだった。まもなくアマプラで配信されるらしいのだがこういうのは手元に置いておくべきなのだろうし(何度もみているうちに脳が変性してしまうらしい)、そもそもアマプラ会員ではなかったので自分には関係なかった。そうして原画集をパラパラみたりしている。
 こんなふうに事前にハードルを上げてしまい、PVもみて大まかなストーリーを知ってしまったので、正直なところ最後まで、いつになったらエンジンがかかるんだと思いながらみていたところがある。劇場アニメなので実際に短く、無駄っぽいエピソードを積み重ねてキャラクターに感情をなじませる時間があまりとれない。自分にとっての問題であるアイドルの魅力、アイドルはこれほどまでになりたくなるものなのかということは結局最後までほとんど説得的に描かれず、なりたいという熱意と目的意識ばかりが描かれており、目的意識の高い主人公にしても田中ロミオ作品とかでおなじみなのでそれほど過激には見えなかった。最後に夢をかなえてアイドルになったゆうが登場するが、その彼女もインタビューで個性のない受け答えをしていて(注意深く聞けば言葉の裏に公にできない彼女個人の感情が隠されていることを想像できるが)、ありふれたこぎれいな女優みたいで特別な可愛さはないし、とても「光っている」とはいえなかった。と思ってふと冒頭のOP主題歌の部分をみてみたら、ここでゆうにとってのアイドルの魅力が少し描かれていたのだが、まだ話が始まる前だったからぼんやりしていてあまり注意していなかった。
 光るといえば、作中で唯一演出が面白いなと思ったのは、終盤になって未完成だった歌を4人で歌った後に、3人がゆうに話しかける場面だった。陽が沈んで空が紫色になり、電灯がともり始める時間のシーンであり、電灯の光を受けたらしい3人はそれぞれ薄暮れのなかでぼんやりと光っているように描かれていた。これをみて、ふと、本当はCDを買ったのはゆうだけで、やってきた3人はゆうがみた幻なのではないかという気がした。そういう気配のある演出だったように思う。結局、ゆうは3人と和解することはできず、バッドエンドに進む。そして、3人と和解してアイドルになる夢をかなえ、大人になった3人と再会して10年前に撮った写真をみて幸せな気持ちになることを夢想しているだけなのではないか、物語はゆうがCDを買ってあの展望台に上がったところで終わったのではないか。実際にはそんなことはなく、素直にハッピーエンドだったのだが、そういう暗さのある個人的なトーンが似つかわしい作品に思えた。一歩譲って、3人と実際に和解したとしても、ゆうは結局アイドルになれず、別の形で自分の道を振り返るという結末でもよかった気がする。最後の最後でゆうは、「夢をかなえる喜びは、夢をかなえた者にしかわからない」と独白するのだが、夢をかなえたと自信を持って言えない僕にとっては対処に苦しむセリフなので、こういう分かりやすいバッドエンドを欲しがってしまうのかもしれない。夢をかなえたゆうは、手の届かない向こう側に行ってしまったということだろうか。これは何回もDVDをみる苦行を行って脳を変性させないと解けない謎なのかもしれない。その苦行の果てに彼女が光ってくるのかもしれないが、光らない地味な彼女であるからこそ、光らないけど強い思いに駆動され続ける彼女の物語の魅力というものもある。
 ともあれ、サクセスストーリー自体はふわっと描いて、ひたすらゆうの苦闘とけばだった感情を描き続けたおかげで、彼女や他の3人の笑顔が輝き、ED主題歌が響くような構造になっているらしい。と思ったら、こちらの人がゆうの視界の狭さと歪み、そしてその外に広がっていたはずの景色についてずばずば書いていてなるほどなるほど。いずれにせよ、トラペジウムは観て楽しむ作品というよりは思って楽しむ作品であって、それを確認するために観るという作業の駆り立てる中毒性があるということになるのかもしれない。あとはこちらも参考になった。他にも漁ればいろいろ読み応えのある感想が出てきそうで、これが本作を手に取った大きな理由なので、後で漁っておこう。ED主題歌は自分探しについてのストレートすぎる歌だが、実際に「遠回り」した4人が歌うと響くものがあるし、メロディもしみじみ聴けるものになっていよい。奇跡としてのハッピーエンドにも納得してしまうなあ。

 

追記。奇跡ということでいえば、ゆうがアイドルになれたことよりも、彼女の空回り、彼女の間違った努力が、運よく4人を結びつけて予定とは違う形で仲を深めていってくれた優しい奇跡の連続の方が重要なのかもしれない。それは間違いだったとゆうが認めたときに、それでもよかった、楽しかった、青春だったと仲間たちが間違いを塗り替えてくれたこと、そしてそのおかげでゆうも前に進めたこと。それが奇跡の力の秘密ということであり、それにたいしてゆうはありがとうと言ったのだろう。この作品はアイドルになれた奇跡というよりは、そこに至るまでの小さな奇跡の連続を見守る物語だったということなのかもしれない。

 

追記2。ゆうの努力が間違っているというのは外からの視点であって、彼女自身にとってはその時にできる最善のことを全力でやっていた。まわりに向ける悪意があったわけでもなく、たぶん本当にまわりを笑顔にできることが幸せだと思っていたのだろう。自分が信じて全力でやっていたことが間違っている可能性というのは怖いことであって、そんな中で助けてくれる何らかの善意が奇跡的に存在するということがこの作品の魅力なのだろう。

 

追記3(6月15日)。詳細なイベントレポートを読ませて頂いたりして(;しかしこの方のレポートスキルがプロを超えるレベルで戦慄する)、ゆうだけでなく他の女の子たちが抱えていた弱さ(シナリオで表立って発展させずにさりげなくほのめかす程度であり、ほとんど裏設定じみたレベルのものもある)を認識した上で改めて思い返すとまた味わいが違ってくる。そもそもゆうの思いつきが成功してアイドルとしてデビューして成功する可能性はもともと低かったのだろうし、案の定すぐに限界が来たのだけど、ゆうはそこにかけるしかないと思った。それは他の3人にとっても必要なことだったのだろうけど、別にアイドルとして仲良くならなければならなかったわけではない。でも人生は「なければならない」だけで進んでいくものではなく、「なってしまった」ことの方が多い。
 よみうりランドバンジージャンプと房総の海岸は偶然僕にも経験があって、代々木の駅前は今でも仕事で通ることが多い。どれも今となっては大してよい記憶ではないのだけど、この作品でそのイメージが少し塗り替えられ、浄化されていく。アニメを観るというのはそういう側面もあるな。
 それから原作小説も買ってしまった。小説自体というよりは半分以上は表紙イラストがよいから購入した。まだちゃんと読んでいないけど(表紙を眺めるだけで満足してしまう)、ゆうの一人称で描かれるのでアニメとはかなり違った印象になりそうだ。アニメはこれを3人称に変換しつつも一人称的な視点を細かい描写に散らすことで、毒を薬に変えたような不思議な味わいの作品をつくることに成功させたのかもしれない。

 

追記4(6月20日)。
 原作小説を読み終わった。何ともいわくいいがたい代物で、アニメを観ないでこれを読むだけだったら読み流して「自分には合わなかったな」で終わってしまっていた可能性が高い。これを読んでも結局、なぜゆうがこれほどアイドルに惹かれるのか、その魅力は分からない。アイドルが光る、というのはただのキャッチコピーであって、この小説自体、作者のセルフプロデュースの道具なんじゃないかと邪推したくなるところだ。晴れてアイドルになった後が描かれているエピローグの異様さは変わらない。アイドルという職業が特に楽しそうには描かれていないのだが、それでも本人は幸せだと言っている。何のために書かれたのか腑に落ちないエピローグ。それは人の人生に意味なんてないこと、確定した物語なんてないことと同じで、作者もキャラクター達も個々の読者もばらばらな方向を向いていて、それでもいいんだ、それが普通なんだと言われているような感じなのかもしれない。そんなみんなが共有できるのは、夢を追ったり追っていなかったりした高校生の頃の時間と、その果てに現在の自分がいるという認識だ。見方によっては寒々しい結論だし、改めて人から言われるようなことでもないのだが。
 素直に受け取るなら、アイドルになる前の戦いが本編であって、その後はおまけということになる。そう考えるなら、ゆうの一人称の語りに日本語として稚拙な表現や行き当たりばったりの雑な比喩が多いことも、露悪的な言葉が多いことも、高校生の自意識を反映した文体ということになるが(エピローグでも変わっていないので作者の素なのだろうが)、それを生のまま読者にぶつけるという趣向。そうしても作品として成立するだけの強さを持ったものとしてゆうのキャラクターが設定されているともいえる。意地悪く言えば、可愛い女の子が一生懸命頑張っていれば、内面はすかすかで可愛くなくても外からは分からないので、応援できてしまう。それで務まってしまうのがアイドルという仕事だ(知らないが)。
 そういう読後感を抱いてしまうのだが、これをゆうの一人称ではなく、絵(アニメ)による三人称の物語として描くと不思議なことに優しい物語にもなりうる。ゆうの姿を見ずに話を聞いているよりは、語らないゆうが動いているのを見る方が、実は世界は優しかったということにできるので、アニメ化の功績はそこにあるのだろう。ゆうがアイドルという夢を一瞬忘れるくらいに他の三人と楽しく過ごしていたことを示唆する瞬間がある、というかそういう瞬間をねじ込んでいて、例えばそれをシンジが写真に撮っていたりもする。苦しい時もあったけど、楽しい時もあったと振り返るためのツールとしての視覚表現。人は視覚に騙されるのかもしれないが、時には救ってくれるのも視覚だ。そもそもゆうがアイドルに憧れたのも、子供の頃にテレビでアイドルを視たことが始まりだ。ゆうは言葉で表現すること、聴覚的な表現は苦手らしく、「本心」は基本的に隠して話そうとせず、言葉ではなく視覚的な「可愛さ」(言葉も可愛さの一部なのだろう)で人を笑顔にすることを夢見ている。そこには何の悪意もないし、実際にみんな勝手に笑顔になっていた。寒々しいようで温かい話だ。世の中にはもっと悲しいことや強い悪意なんかがあるのだろうけど、アイドルはいちいちそんなことに寄り添って受け入れたりはしない。相手のことをよく知らなくても可愛さで浄化できる。そういうやり方もある。それがゆうのやり方であり(くるみは正反対なのかもしれない)、それを実践するためにアイドルへの強い思い入れが必要なのだろう。とりあえずそういうことにしておいてから原作の表紙をまた眺めてみる。

 これでこの作品を消化したということにしておいていいだろうか。また気が向いたら観直してみようかな。

 

ハッピーライヴショウアップ!その1

前から一度はエロゲーの実況プレイをやってみたいと思っていた。手抜きでもくだらなくてもいいから、自分が楽しんでプレイした記録をいろいろな形で残しておきたい。けっこう人の実況プレイとかも好きだし、自分も一回くらいはやってみよう。と思っていたことをふと思い出し、ロシアネタのゲームだしちょうどいいだろうということで、お試しでとりあえずOPムービーが流れるまでやってみた。動画を撮るのが本当の実況プレイだが、自分の声は聞きたくないので文字だけ。実況といってもただのプレイメモのつぶやきと画像の羅列だし、ゲームに慣れたらだんだんコメントが減っていってしまうと思う。このブログにキャプチャをたくさん載せられるのか、載せていいのかはよくわからない。終わったらいつものゲーム感想も書くかもしれないし、今回で実況に飽きるかもしれない。でもとりあえずこんなご時世だからこそ何も気にせずロシアネタを楽しみたい。というわけで、ヌー・パイェーハリ!

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バンドリのこと

 連休はだいたいバンドリシリーズのアニメを観ているうちに終わってしまった。流れとしてはBlack Sheep Town → 久々にMusicusの感想を読み漁る → アベマで無料公開していた同じバンド物のバンドリを1、2、3、MyGoと続けて観る(モルフォニカはテレビでやっていたのを先日観た)となる。ついでに、最近はAve Mujicaで裏方として活躍していたSOUL'd OUTのベストアルバムをいまさらながら買って聴いたりもしていた。Musicusには音楽とその背景となる物語を切り離すべきだと主張するキャラがいて、バンドリではもろに物語につなげる展開が多かったりするのだが、自分としてはやはり音楽をめぐる情念の物語が好きなのだろう。バンドリを一通り見終えた今なら、チープに聞こえた音の裏にそれを奏でるキャラクターの姿が思い浮かんでより身近に聞こえる。客がライブハウスに足を運ぶのもそういう部分が多いのかもしれない。臨場感(あるいは没入感)というのは知覚できる情報が重層的であればあるほどよいということ。
 ChatGPTによれば、バンドリとラブライブを比較すると、前者は写実的・現実的で、後者は幻想的・理念的であり、それは脚本の文体から物語の展開やキャラクターデザインに至るまで様々なところに現れているらしい(1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8)。投げた質問が図式的だったから回答もこんなに図式的になってしまったところがあるのかもしれず、眉唾な部分も大いにありそうだが、仮にバンドリが写実的で現実的であるとすると、それはこれまでに「夏色キセキ」や「菜なれ花なれ」でも感じられたような綾奈ゆにこ脚本アニメにおける会話やストーリー展開のテンポ・脱線・間のつくりかたがバンドリでも感じられたからかもしれない。この緩さや余白については夏色キセキのスタッフコメンタリーで水島精二監督が語っていて、地味なんだけど花田十輝脚本作品にはない渋い特徴であり、作品受容に窮屈さを感じさせない柔らかさにつながっているような気がする。
 以前にも書いた気がするが、バンドリに興味を持ったのは「ぼくたちのリメイク」のアニメOPで流れていたPoppin'Partyの歌「ここから先は歌にならない」の戸山香澄(愛美さん)の歌声で、KOTOKOさんみたいに歌える人が他にもいるんだと思ったことがきっかけだった。香澄は見たままのキャラクターでそのまま突っ走っていった。かけあいで面白かったのは市ヶ谷有咲で、MyGoの椎名立希(「は?」)と同じく、突飛なキャラに振り回される突っ込み役がバンドリでは冴えているように思う。あと有咲はなんかエッチなのでその点でも人気が高そうだ。
 振り返ってみると、バンド物の物語というのは結局、バンドを結成したり、解散の危機を乗り越えたり、どこかでライブを成功させたりすることの話になってしまって、これまでにさんざん摂取して飽きているはずなのに気が付くとそこに落ち着いているので、その枠組みではなくそこに至るもっと細かいところを楽しめないとだめなのだろう。バンドリではその点楽しめたし、これらの要素が(アニメ内では)あまり描かれなかったRoselia(というか湊友希那の安定感)、Pastel*Palettesハロー、ハッピーワールド!(というか弦巻こころの非現実感)などもそれぞれ個性的で楽しそうに描かれていた。ウィキペディアをみると、ソシャゲもあるためか各キャラの設定や物語がかなりたくさんあるようで、それがアニメにも奥行きを与えているのだろう。
 Poppin'Party以外にも定番の物語がフルセットで展開されたRaise a suilenとMyGO!!!!!もそれぞれ面白かった。特にMyGOの方については、先にAve Mujicaを観てしまっていたので、愛音とかそよとかこんなキャラと物語だったのかという楽しさもあった。MyGOとAve Mujicaはそれまでの仲良しバンドアニメではなく、いつになっても仲良くなれない、いつバンドが崩壊するか分からない緊張感があり、歌がすべてをなんとなく解決してしまうわけではないのもよかった(観ていて疲れたかもしれないが)。Ave Mujicaは大仰なストーリー展開にはやや冷めてしまった部分もあったが(3Dキャラの美しさと演出の切れ味でもたせた)、It's my goの方は高松燈がコミカルな面でもシリアスな面でも「おもしれー女」としてパワーがあって最後までだれなかったし、歌声もよかった。歌声についてはセレプロの八木野土香を演じた人(羊宮妃那さん)だと知って納得した。
 とはいえ、バンドリシリーズを通じて個人的に刺さった歌があったかというと心許ない。いいフレーズや音があったとしてもどこかで出会ったカッコよさの再現であることが多くて、このバンド、この歌でなければならない必然性がない感じがする。もっと音楽に詳しい人が聴けば個性がはっきりわかるのかもしれないが、僕にはどれも似たようなアニソンに聞こえてしまう。たとえ愛美さんや羊宮妃那さんの歌声に個性があったとしても、伴奏も含めた全体ではそれが薄れてしまうというか。羊宮さんの声や語りはかなり独特なのでMyGOはバンドリでは一番個性的かもしれないが。作中では楽曲についていちいち技術的に説明されず、女の子たちが頑張れば「自然」にできてしまうわけで、創作の神秘についてはあえてブラックボックスにされ、視聴者の想像にゆだねられている。これはバンドリに限った話ではないし、たぶん音楽に詳しい人にしかわからない楽しみ方もあるのだろう。
 というわけで、以前に駅の看板などで見かけてもうっとうしいなとしか思わなかったバンドリとようやく出会うことができ、ラブライブアイマスよりはこっちかなと思うに至った。とりあえず今はMXの再放送を録画するなどしているが、また新作アニメが出るなら次はきちんと観てみたい。