Musicus! 続き3

・仕事始めの憂鬱な朝になってやっと気づいたが、「今はつらくても、もう少し頑張れば芽が出る。うまく回るようになればもっと楽になって、いいものも作れるはず」という状態、これ僕の仕事のことでもあるんだよなあ。音楽とは比べるべくもないけど、僕の仕事にもほんの少しだけクリエイティブな部分があって、でもそこに労力をかけている余裕はあまりない(実際はかけているので残業が増えてる)。だから感情移入しやすかったのかもしれない。あまり気づきたくなかったけど。そんなことを考えて憂鬱になっていたけど、それを奮い立たせるには仲間(家族)の存在を思い出すのが一番なのだろう。僕に傷つけられると「ヒトリ・コドク、ヒトリ・コドク、ヒトリ・コドク……」と奇妙な呪文を唱え始めていじける家人の姿を思い出したら少し憂鬱が和らいだ。


・三日月ルートの入り口。「『もしどうしてもソロがやりたかったとしても、バンドはやめないでほしい。これが僕の本心だ』 そして僕は口を閉じた。これで、言うべきことは言った。あとは彼女が決めることだ。僕は黙って、その返事を待つ。」 この肝の座り具合よ。こういう間合いを持てる男になりたいもんだ。そしてきちんとした返事を聞かずに病院を出ても、「一晩考えれば答えを出してくれるだろう」と自分からは何も聞こうとしない。


・それからそのまま公園での子供との演奏のエピソードへ。「それじゃあ、妖精さんは音楽の国に帰ります。じゃあね」の「じゃあね」の声色が三日月らしい素直さがあってよい。そのあと、疲れて座り込んだバス停でこちらを見上げる三日月の絵がきれい。そして「私、とんでもないクズなんです」と力説する三日月。生ぬるいところでしか生きられないクリオネみたいな生き物。なんか怒っているみたいなんだけど、必死になると怒っているようなしゃべり方になってしまう人なんだろう。対馬が口説くように念押しする形になって、三日月は怒ったような顔をしながらも頬が紅潮しているのが可愛い。三日月は性欲が強いことになっているけど、全然いわゆる発情した状態にならないのが面白い。自分をコントロールできなくなると真面目に怒ったり泣いたりして、自分と戦うので相手どころではなくなってしまう。


・すべては偶然の成り行きなんだろうけど、結局三日月ルートでバンドがブレイクできたのは、ワンマンライブをやったからなんだよな。とすると、澄ルートでだめだったのは、水村オーナーがもっと早くワンマンライブをやらせてくれなかったからということになるのだなあ。めぐるルートについては、きっとエンディング後にそのうちワンマンライブをやらせてもらって道が切り開けたということだろう。


・家に帰ると仲間がラーメン鍋を作っていて、そこからメジャーデビューの話にいくという流れが好きだ。


・澤村くんの声優さん読み方がすごくうまい。長いセリフもメリハリがきいていてすごく自然に聞こえる。


・「『だから、私は愛のためだけに歌うことにしたんです。自分の心のためだけに。わがままかもしれないですが、正直に歌うということはそれ自体価値のあることだと思うんです』 まあ、今はこんなことを言っていても、三日月はきっとこの先この理由がなくなったとしたって、また別の理由をつけて結局歌うんだろう。理屈なんか全部後付けで、彼女の魂はなんだかんだいって歌いたがっている。」 なんか結論めいたものが出てしまっている。そして自分はそんな人間ではないという。


・メジャー移籍が決まり、花井のアパートを出る三日月。対馬の家に来る。先日、21歳の誕生日をチョコレートケーキで祝ってもらったという。今度は祝ってもらってよかったな。


・金田の娘誕生。生まれる前の部分から文章がうまくて面白い。子供に何をしてあげたらいいかとしんみりする金田。病院までタクシーに乗ってもいいのかという戸惑い。タクシーの中での不安。笑い要素やバカ要素がなくなるといいやつだ。麻里にも不安をぶつけて、逆に金田は「世界で一番幸せな人間だ」と笑って励まされてしまう。幸せな風景だ。でもなぜか妻にも金田君と呼ばれているのが面白い。三日月のぼんやりした話。携帯の新機種が出ると現行機種が古く見えるようになる。それは別に嫌なことではない。不公平ではないと思うようになった。古びることを受け入れるわけではないけど、拒絶するわけでもないという。大人になっていく感覚なのだろうが、本当は嫌いのはずだという。こういうぼんやりした話を金田娘誕生の知らせを待ちながらする。そして金田からの「やったぜ!」という会心の写真とメール。いろんな人の心情が描かれていてうまい文章だ。


・三日月はずっと丁寧語でしゃべる。自分を信用していないから自分の言葉に緩衝地帯を用意している。だから丁寧語のくせに結構好き勝手に言い放てる。同時に他人が容易に踏み込んでくるのが嫌だからでもある。といっても、親に怒鳴りつけるときには北海道弁が出るのだが。最終兵器彼女をちょっと思い出した。


・強い風の吹く夜。人間は宇宙に行っていないかもしれないという話からペレーヴィンの『オモン・ラー』を想起。ソ連の宇宙飛行士は実際には宇宙に行っていなかったという話。虚構に囲まれるとそれが現実になってしまう。三日月も虚構の音楽に囲まれて歌う意味からも対馬と一緒に幸せに生きるという可能性からも隔離されてしまう。欲望を見失ったので窒息し、せめて人に役に立つには自殺でもするしかないという話になり、対馬がバンドの解散を提案する。対馬も有名人であることに未練はないから判断が早い。ここからエッチシーンに進むのは、三日月を取り囲む虚構を取り除いて解放するという意味合いだろうか。対馬は自分が三日月に釣り合わないと冷静に考えているが、それは「余計なこと」だったと決断する。「ああ、本当にこれ現実なのかな……。夢だったら醒めないでほしいな……。こうやって何にも隠さずに全部見せあって、自分のことをよく知った上で認めてくれる大事な人とくっついて……世の中に、これより素敵な、嘘みたいなことってありますか……?」といううわごとのような声の感慨に三日月の性欲の源が感じられる。達した瞬間が描写されていないのが面白い。ピロートークの「私たちは、たくさん食べてたくさん寝てたくさんセックスして、精一杯生きて最後は野良猫みたいにどこかの溝でひっそり死ねばいいんです。そして他のくだらないことなんか全部雲の向こうの宇宙を超えてどこか遠い星の物語になってしまえばいいんですよ」、欲望を見出し、虚構から解放された三日月。翌朝、目覚めた三日月の神秘的な体験:「さっき、夜から朝になるとき、窓から太陽の光が差し込んで、こう、ばーっと部屋中の影が一斉に動いたんですよ。普段影が動くことなんか感じないのに、でも全部が生き物になったみたいにこうばーっと……へえ」そのあともその体験を反芻していたらしい。新しい世界で目覚めてチベット仏教みたいな神秘体験をして時間の流れが引き伸ばされたかのような。そしてバンドを続けようという意志。「ここでやめる必要はないと思うんです」「今回は迷惑かけちゃって、申し訳ないんですけど、でもあとちょっと、あとちょっとで何かに届くような気もするんですよ」「だから、少しでも私に期待してるなら、ここでやめないでほしいなって思うんです」――主体的にしゃべらず、自分を含めた何かをわきから観察しているような語法。そのあと半分我に返って、「あ、あともうひとつ、お願いがあるんです」「ここに、引っ越してきてもいいですか? そのほうが、きっと頑張れると思うんです」「嬉しい」そして彼女は笑った。それから3日間、ひたすら求め合う。そのあとも二人の時は猫のようにべたべたしてくるらしい(トイレまでついてきて離そうとする泣きわめく)。紅白の時にぼうっとしていたのは、この時の感覚と同じだったのかな。絶好調であり、ただ集中しているだけだという。「全部愛のパワーのおかげですよ」


・尾崎さんが地元の市役所で働いているとの風の知らせ。デビューライブの時に聴きに来てくれていたのに会えなかったのは残念だった。でも会えていたからといってどうなっていなのか。結局断って以来一度も会っていないことになる。ライブには満足してくれたのかな。


・実家で父親と酒を飲みながら打ち解けてしまう対馬。それを喜ぶ母。いい光景なんだけど、澄ルートの最後に電話をかけてきて気遣いを見せた父を思うと素直に楽しめなくなったいる。


・「特に三日月は絶え間なく身の回りのことを再検証する。だから、当たり前のようなことも何度も考え直して悩む。そうした行動は僕らが見落としがちなことを再発見したり、古くなったものを新鮮にしたりしてくれるが、その代わりに彼女の世界を安定から遠ざける。だから彼女は人よりも不安定なのだと僕は思っている。」 この対馬の観察が妥当なものなのかわからないが、妥当なのだとしたら、なぜ歌手(作曲はしないで歌うだけの人)はそれほど多くないレパートリーを何年も繰り返し歌い、そのために繰り返し練習しても、作品を飽きてしまうことがないのかということの答えになるのかもしれない。三日月は普通の歌手よりも一回一回の演奏に「不安定」な状態で向き合っているから、毎回全力を出せるのかもしれない。飽きないというのはひとつの才能だ。


・三日月ルートの対馬には、三日月や澤村がいて、自分の限界を割り切っているので自分の中に沈潜せずに済んだ。澄ルートに救いを見つけてあげたいがなかなか難しい。


・襲撃されて以後、落ち込むそぶりを見せない三日月。PTSDがどういうメカニズムの病気なのか知らないけど、対馬と結ばれて心に余裕があったからにもみえる。退院したらバンドに戻っていいですか、と無邪気そうに聞く三日月に対して、金田が「おう! 何言ってんだ、当たり前だろっ!」と力強く即答してまくしたてるのがよい。包帯をとった三日月の顔の絵はとてもよい。何を考えているのか想像した来るような表情をしている。まったく余計な連想なのだが、「どうでした? 気持ち悪かったでしょう? 嫌いになってもいいですからね」と少し無理をしている感じで言う三日月に対して、対馬が無言でキスをする場面、大審問官伝説の終わりのシーンを思い出した。キスというのはこういう時のためにあるわけで。


・右目の視力を喪失する三日月だが、そのことについては何も言わない。もともとナルシシズムとは無縁の自己評価の低い三日月だからおかしくはないのかもしれないが、それにしても少なくとも対馬の目には何も言っていないように見えるというのは少しおかしい。それでも、遠慮しているのか、以前よりべたべたしてくるのが少し減った、とさらっと言及。そして、練習しようとしたら歌えないと知って涙を流す。実はフラッシュバックが何度もあったし、透明な液体を飲めなくなったと医者に告白した、とさらっと言及。三日月ルートは後半になると語られなかった部分で読ませるスタイルに移っていくように見える。エピローグの雰囲気だ。


・郊外に引っ越し、家庭菜園や釣り。1年が過ぎる。この辺りはなんだかトルストイの小説みたいな淡々とした描写だ。そういえば釣りはキラ☆キラにもあったな。セルフオマージュってわけじゃないと思うけど。「時々指で眼帯の周りをかいている。暑い季節だと蒸れてしまうらしい。」こういう異化の即物的描写を挟み込むのもトルストイみたい。三日月は穏やかだが、音楽に触れないようにしている。「悔いはないですよ。」婚約。プロポーズするとなぜかけんか腰になってしまう二人が微笑ましい。


・誰のために歌を歌うのかという八木原との問答。今更ながら「たった一人の最愛の人のため」「おれは不真面目だから、したいことしかしないんだよ」という直球の答え。こういうのを八木原のような「通りすがりの人」が言う。「もしかしたら、私もそうすればよかったのかな……。」


・スタジェネのライブを体験することに対する不安。そこに「馨君、何も心配することなんかないんだよ」「すべてクソだ」。「そうですよね。きっとそうなんだ。僕はそれとは別の何かがあると思っていたけれど、結局それは見つからなかったんです」「……でも、だから何だっていうんだろうね? それが何であろうと、おれたちには音楽が必要なんだ。他の何よりも必要だったんだ。どうしておれはそれを信じられなかったんだろう?」 「馨君、顔を上げるんだ。」 このライブで涙を流したという対馬。いちおう花井を見たと自分で報告するけど、あまり語らない。花井の言葉に、「だからなんだっていうんですか!」と同じことを言う三日月。「音楽は音じゃないですよね。これです!」と花井と同じような「くさい」ことを言う。花井と同じことを言いながら、花井を論破するために路上で歌うと言い出す三日月。見知らぬ人を相手にした路上での三日月の歌は、ファンを前にしライブハウスで歌うスタジェネとは正反対の構図だ。犬のおまわりさん。迷子の迷子の子猫ちゃんを助けようと困って泣き出してしまう犬。自分の物語で勝手に泣く老婆。そしてまたバンドを結成する。結局、路上の歌で泣く人がいるかどうかなんてどうでもよくて、スタジェネのライブで対馬が「音楽は必要だ」という結論を出したように、三日月も何らかの答えを出したのだろう。ひょっとしたらスタジェネの歌自体がきっかけではなかった可能性さえある。その辺はあまり描写されていない。ライブが終わって一夜明けたら、三日月はいつのまにか歌えそうな感じになっていたのだ。


・「『でも、結婚したらそれって心の浮気になっちゃうじゃないですかー。不適切ですよねー』そしてケラケラ笑った。その後、さすがに彼女は泣いたけれど、今は大丈夫だ。」結局泣かしてるじゃないですか……。でも、このエピソードを復活ライブ開始直前にさらっと入れるのがうまい。このライブ前の控室の三日月の絵も、何かを考えているような笑顔の表情がとても良い。目を細めて笑うとケガの跡が目立つけど、それもいい笑顔になっている。花井の幽霊に音楽と引き合わせてくれたお礼を言おうと思っていたという。花井は三日月を世界に出したかったという対馬の考えと、三日月も同じことを考えていたのかもしれない。


・エンディングムービー冒頭のみんな、いい顔している。特に金田と三日月がいいな。ムービーを見ながらなら歌詞の冗長性もあまり感じられない。僕にはよくわからないが、音だけを聴く歌なのではなく、ライブという演奏者を見ながら聴くような歌のジャンルなのかもしれない。非常に今更だが。


・最後に三日月の歌声についても一言書いておこう。正直なところ、作品の評価や感想を「物語」として受け止めるここでは、楽曲そのものについては書かない方がいいような気もするが、歌声も代替不可能な作品の一部として与えられているので。好みの話しかできないが、僕はきらりの声よりは好きかもしれない。ときおりジュディマリYukiのような伸びを感じさせるところがあるのがいい。もちろん、テクストには負けていることが多いのだが(負けていないのは花井のぐらぐらくらいか)、そもそも「天才」だと書かれているのであまり気にしても仕方ない。一番気に入ったのはエンディングのMagic Hourかな。

 

いつまでもおしゃべりできればいいけれど、とりあえずこのあたりでいったん終わり。

Musicus! 続き2

 また少し続き。今日で連休も終わりだ。
 一人になるとたくさん寝てしまう。昨日は『電気サーカス』を読み返して(半分くらい読んだ)12時間以上寝た。昼夜逆転の年末年始だった。対馬とミズヤグチが混ざったような人が出てくる夢を見た気がする。あと、Musicusのサントラを作ろうとしたが、BGMをうまく吸い出せなかった。もういろんなやり方を試してみる気力はないし、それほど聴きまくりたいほどではないのでいいかな。作品の空気を思い出すには便利なんだけど。

・めぐるは何であんなに寝てばかりなんだろうか。作者が起きている描写をめんどくさがっただけというのが有力なような気もするが、それにしてもノーフューチャーだ。演奏中毒であるということは、めぐるにとって演奏は抜けられない快楽であって、演奏し疲れたら自慰に疲れた後のように寝てしまうのだろう。いつも穏やかで感情を強く表現することがないが、弾いていないときは一種の賢者モードだからなのだろうか。対馬は何かをやると決めたら徹底的にできる集中力があるが、めぐるはそれが演奏に特化されていて、しかももっと官能重視なのだろう。めぐるの方が正直で純粋なような気がする。僕もずっとやっていたいことや好き放題にやりたいことくらいはあるが、そういう生き方をきれいに結晶化したのがめぐるなのだろう。彼女のこうした特質について作品中でネガティブな描写は何もなかった気がするが、わざと伏せていたのか、それとも本当にそんなものはない、美しく幸せな存在としてめぐるを作ったのか。そういう生き方をするには、守られていなくちゃいけないし(親の支援で生活には困っていなかったっぽい)、音楽の完成度に対する強いこだわりを持たずにグループの中での居場所を見つけなくちゃいけないし、見つからなければ押し流されていくだけなのだろう。音楽以外の外部からの入力情報に対してはあえて鈍感になる(「もしかして、私心のどこかで馨のこと好きなのかな? まあ、そうだとしても、自分では認識できないくらいだけどねー」)。真似したくてもできるようなものではなさそうだ。それでめぐると話していると悲しくなるという三日月にからまれるわけだが。
・三日月が「自称ネットのことならなんでも詳しい」けどセンスは微妙なオタクなのが面白い。三日月が作ったダサいサイトよりも、田崎さんが適当に作ったインスタグラムの方が盛り上がっていて、ライブの後に泣きながらゴリラみたいに暴れている三日月の画像が人気だという。三日月の才能に対するこの距離感がよい。勘違いした金田の裸画像が増えてインスタグラムの人気が下がるというオチも。
・「『はぁ、どうしたら私、もっと穏やかな性格になれるんでしょうか…… 普段はぼーっとしてるんですけど、時々わけのわからない感情が嵐みたいに襲ってきて、わーってなっちゃうんです』 だが、僕はそれを修正するべきものだとは考えていなかった。その激しい感情が、三日月を特別な人間にしているように思えたからだ。とはいえ、本人にとっては感情の起伏に振り回されるのはとてもつらいだろうというのも理解できる。自分の中の理解できない衝動を抑えたり、理解するためにそのエネルギーのほとんどを使ってしまっているように見える。自分と向かい合うことに精一杯で、外から刺激があるとそのバランスがすぐに崩れてコントロールできなくなってしまう。だから彼女は引きこもらざるを得なかったんじゃないかと、僕は最近想像している。『もっとまわりの人や、大事な人に優しくしたいんだけどな。どうしてもできないんです。めぐちゃんのこと大好きだし、いやな思い出とか誰にも言われたくないのに、今日もあんなこと言ってしまって……。自分が嫌になります』」 会話を交えた小説的作法の分析がこの後にも続いていく。こういう描写がエロゲーではあまりなくて残念だ。
・八木原がスター・レコードへの所属を提案しに来た場で田崎さんが抜けることを発表し、取り乱した金田がしまいには八木原にも意見と説得を求める。ここでいきなり八木原に話を振れるのが金田のすごいところなんだろうな(自分ですごさを分かっていないところも)。八木原も急に話を振られてびっくりしつつも、真摯に答えるのがよい。
・ライブの後でメンバーの反省点をメモ書きする対馬。減点法のこんなメモに意味があるのか疑問だが、感覚的なことを書くとメンバーの個性を殺してしまう可能性があるので書けないという。このストイックさが基調にあるのがよい。
・はじめに弥子ルートに進んだこともあり、だいぶ話が進んでから風雅が出てきたのはさわやかな空気が入ってきたようでよかった。澤村倫も同様だ。人が去ったり新しく来たりするのが瀬戸口シナリオのよさであり、ともすると淡々と流れていくようにみえる三日月ルート後半のエピローグ的空気にもつながると思う。
・二十歳になって三日月は対馬をケイクンサンではなく馨さんと呼ぶようになったが、誰にも(少なくとも対馬には)成人を祝ってもらわなかったのだな。それで対馬の呼び方を変えることを決心した。それでバンドを出て行ったらどうかと言われたら腹が立つよなあ。それでどっちでもいい星人になる三日月。「それはダメだよ。ミカちゃんがいなきゃこのバンドは成立しないのに、どうしてそんなこと言ったのさ? 理解できない! 売れる気がないの? Dr.Flowerはこれからだっていうのに。呆れて言葉が出ないよ。それに馨さんにそんなふうに言われたらミカちゃんは可哀想だ。自分の言葉がどんなふうに受け止められるのか考えてないの?」とズバッといえる風雅がよい。瀬戸口テクストは畳みかけるテンポがよい。ちょっとテンポが遅いようにもみえるけど、冗長でない内容を平易な言葉で伝えているから長く見えるだけで実際には無駄はなく、声優さんが読むとちょうどよいテンポになるようにできていると思う。同じことを金田と篠崎も対馬に言うわけだが(金田「おれにはミカの気持ちがわかるね。こんなに残酷なことはないじゃねえか……」、篠崎「お前が謝って、大事に思ってるよって言ってやればそれで解決するんだよ。簡単なことじゃねえか」(説教した直後にヒモになっていることが判明))、それぞれの性格を反映して言いまわしとかが変わっていて冗長に感じない。そうして対馬が話し合おうと三日月のアパートに来てみると三日月は自慰に耽っているわけだが、別に淫靡な展開にならずに逆切れし(対馬も淡泊)、自慰があくまで三日月の鬱屈を表すものとして使われているのがこの作品のエロゲーらしくなくてよいところだ。そのあと、「人生についても語っていいですか?」と聞いて突如死の不条理について語りだし、怒りをぶちまけたり、怒りを感じない対馬を哀れんだりする。ある種の賢者モードだが、ドストエフスキー的な会話の流れでもある。三日月が音楽に求めているのは確かな形でえられるものではないから、いつまでも不安定で、安定してしまったら音楽をやる意味も失ってしまいそうにも思えるけど(対馬が「必要だ」と言ってあげれば何も考えずに安心できるというが、実際に「必要」で「幸福」だというと、「急にニヤニヤして気持ち悪い」と答えるのがよい)、それは単にこの作品の外側のエピローグの世界だから描かれないだけなのかもしれない。
・正月明けの弾丸ツアーのエピソードは、おそらくテーマ的な意味では細かく固有名詞を出して描く必要のない部分だが、こういうのをずるずると読んでいかないと積みあがらないものもあるのだろう。そのあとで金田の嫁の話とか花井の遺作の話とかメジャーデビューの話とかが出る。
・澄ルートに進むと(進んでしまった)、金田が育児と仕事で活動を減らし、風雅は体を壊す。対馬がバンドの活動停止を決める。ここにはエロゲーらしい選択肢は出ない。選択肢はもっと前の時点で出ていた。だからプレイヤーは流れを追っていくことしかできない。それでも明るいトーンは残っているから、澄が登場した時もまさかあんな展開になるとは思わなかった。でも、その前に夢の中で赤ん坊がずっと泣いていて、顔のない風雅が「ここには何もないんだよ」と繰り返していたんだな。だからこそ澄の登場は救済のように思えたんだけど。先に進みすぎたが、澄が登場する前に、バンド活動停止から1年が経っている。この間に対馬は単独でコンセプトユニットを組んでそれなりの活動を続けていたとのことだが、内省的な描写がなく、何かを求めながら音楽をやっているのかわからないままいまま1年が過ぎた。そのうちに音楽が客に届いているという実感がなくなってきたという。となると、以前に実感を得ていたのはDr.Flowerのメンバーで活動していたからだということになる。独立した後はそういう契機がなくなってしまったというわけだ。Dr.Flowerをやめたのは何かの選択の結果ではなく、抗えない流れの結果だったから、そのことを対馬が後悔したりすることもない。一人になって経済的に安定してしまったから、後悔することもできないらしい。「この生活だけで、自分の一生はいいかなという気になってくる。」 登場人物が減って地の分ばかりになる。ある種の解放感というか、第2のスタートを予感させる流れだったから、そこに現れた澄は印象的だったんだけどな。
・今更新しいキャラクターかよと思った。この流れの感覚がよいのだな。この後の展開を思い出すとつらいのでほどほどにしておきたいけど。いきなり「お弁当を作ってきたので、よかったら食べていただけませんか?」か。思えばけっこう大胆だな。このころはまだよかったな……。といってもまだ始まったばかりのところだけど。花屋の店員は肉体労働で大変だけど、人の気持ちに触れられるから幸せだという。他にも澄は対馬が弁当を食べている間に故郷の自然の話などをしたという。聞いてみたかった気もする。
・澄を家に誘う。家に入る前にいつもの癖で郵便受けを確認する。こういう意味ない描写をいちいち挟むのが印象的。日常の延長線上あることを意味する異化の手法だ。できた新曲を聴いてみないかと尋ねるとすごく喜ぶ。喜びすぎだよ……。この時点でも澄は特に曲のことを理解しているだけではないけど(それが今の対馬にはあっているという皮肉)、それでもすごく嬉しいみたいだ。僕も嬉しくなる。
・自分が満ちすぎていて自家中毒を起こしそうな殺伐とした部屋に、女性が一人いるだけで「何もかも緩和されて、全く別の居心地の良い空間になっている」という。「どこにも何の根っこも持たない創造物があるなんて、とても想像できない」「他人がいるとこういう凝り固まった僕の淀んだ世界観が、すっきりと正常になるのを感じる」とも。どうしてこれがいい方向に行かなかったんだろうなあ。
・澄のエッチシーンでBGMがないのは良心的でよい選択だと思う(他のヒロインはどうだったっけ)。喘ぎ声テキストとかが単調で手抜きに思われかねないのも(急に饒舌になって余計なことをしゃべりだすよりはいいのかもしれない。手をどこかにぶつけて何かを落っことしてすみませんと謝るくらいしか言葉がなくて生々しい)。事がすんでピロートークで「『施設は中学校を卒業した時に出ました。それから、ずっと一人で暮らしているんです。今はとっても幸せですよ。人生で一番幸せだと思います。』 微笑みながら口にした言葉には嘘がなさそうに思えた。本当に今が一番なのだろう。そして彼女の話は終わりだ。(中略)『僕たち、お似合いかもしれないな』そう呟くと、澄は言葉では返さず、僕の腕を抱きしめる手にぎゅっと力を込めた。それからほどなく、僕らはアパートを借りて一緒に暮らすようになった。」 ……ここでエンディングになりませんかねえ。
・それから金田が誘いに来て断る。それから3年が過ぎる。あとはもうまっしぐらだ。澄も新興宗教みたいなのを頼りだした。この3年がすっ飛ばされたということは、今の対馬にとっては特質すべきことは起こらなかったということなのだろうが、いろいろなことがあったのだということにしておきたい。レストラン→八木原の電話→子猫→変な評価のライブ→帰宅すると「にゃああん、クロちゃあん、澄ちゃんでしゅちょー」→作曲再開→「ここにはない何か。もっと恐ろしくて美しいもの。そんなものが音の世界の先にはあるような気がする。喜怒哀楽のような表面的な感情ではなく、もっと奥深く、清冽な滝のように心を打つ何か。」(風雅の父と話が合いそう) と上がったり下がったりがあって、まだ上向くのではという希望を持たせられた。この間、対馬の認識力にぶれはないように見える。でもそれからすぐのことなんだな。妊娠の話は。このあたりから明らかにおかしくなったようだ。僕はある時点でいい加減に怖くなって社会に出ることに決めたが、対馬は苦痛とか恐怖に鈍感で集中力がありすぎるので、続けてしまったわけだ。ここもBGMがなかった。「今日はずっと馨さんの曲聴いてますね。私、どんな時でも、馨さんの作った曲を聴くと元気になるんです。だから人生、悪いことばっかりじゃないんだなって思うんですよ。」 これが最後のセリフだったようだ。実際に元気が出たのだと思う。
・この後きた金田が優しい声ですごくいいことを言うのだが(「大丈夫だよ。対馬は深く考えすぎているだけなんだ。お前、澄ちゃんのこと大好きだよ。安心しろよ。子供のことはどっちにすればいいのかおれにはわかんねーけど、お前はいいやつだから大丈夫」)、対馬のせいなのか話の展開のせいなのか、これでもだめなんてのはどうかしているよなあ。
・「僕が澄を根本的に好きになれないのは、やっぱり、音楽が伝わってる気がしないからだ。僕はもう生活の大部分を音楽に込めている。なのに、一緒にご飯を食べて、一緒に笑って、セックスもして、愛してくれている澄に何も伝わらない。根本的に同じ世界の人間じゃないなんだなという気がする。だから本当は澄に曲を聴かせるのは嫌なんだ。それをどうしても認識してしまうから。」 まあ、八木原にも伝わらなかったわけだが。澄が理解してくれていたら、八木原にも伝わる曲を作り続けたのかもしれないが。それにしても、今更ここでこれを言っちゃうと八方ふさがりになる。自分が好きなものを共有できないという恐怖から遠ざけるために、その話はしないでと言って少し距離を置いてくれる人もいるが、澄は反対に対馬の曲が大好きだと言って距離を詰めてきてくれる。これに不満を持つのは贅沢な気がするけどなあ。
・この期に及んで対馬は、絶望した花井が自殺に至った「最後の1ピースが分からない。一度音楽を離れたってよかった」と言っている。僕もその最後の1ピースはよくわからないが、対馬の場合はこの後で明瞭に示された通りだった。その前には急に父親から優しい電話がかかってきて、追い詰められた気がして衝動的に死にたくなったそうだが、澄のことも考えて堕胎を見直すと決心するところまでになったのに。
・それにしても意地の悪いテクストだ。最初に読んだとき、病院に行くときに澄が以前に虫垂炎で入院した時の回想が始まって、僕はこれが途中から回想ではなくなったような気がしてちょっと安心したのだった。勝手に期待して誤読しまった。ここでペレーヴィンが出てきたのは嫌な感じがした。……。澄の死に顔の絵が必要だったかよくわからないが、むだにグロテスクな絵ではなかったのが多少の救いだった。
・澄の携帯電話で再生した時に流れたBGMが対馬が作った「no title」なのだとしたら、僕は素人なので良し悪しは判断できないが、これは改めて聴くと悪くない曲に思える。短いフレーズだけなのでどう展開していくのかわからなくはあるが、Musicusの中ではむしろけっこういい部類の曲のように思える(冷めた言い方をすれば、泣けるテクノみたいな感じのジャンルのやつ)。そして澄がこれを聴いてつらい気持ちを乗り越えようとしたのも想像できる(あと、エンディングムービーの曲も、濁ってはいるけれど、もとは結構きれいな曲だったのがうかがえる。どっちの曲だろう)。そして、これが澄を殺したゴミのような曲なのだと言われたら、それにも頷いてしまうのかもしれない。でもまあ、ここで音楽のストーリーと価値に関する花井理論の話はすまい。澄が最後に聴いていた音楽という情報だけで十分だろう。
対馬はこの後で澄を思って自分を責め、自分の中に残ったものをすべて音楽に変えて、何一つ残さず消えたいと願うわけだけど、このモノローグの流れがきれいだ。
・でも果たしてこのエンディングムービーは必要だったのかな。これは瀬戸口氏が考えた演出なのだろうか。「何一つ、残さない」という最後の言葉でそのまま終わりでもよかったような気がする。
・また澄の話になってしまった。この後三日月ルートを再読する気力はあるだろうか。こんなふうな何の編集も、それどころか読み返すことすらしていない感想というか、ストーリーの要約のようなものを書いて何の意味があるのかわからなくなってくるし、いい歳のおっさんが恥をさらしているような気もするが、とりあえず残しておこう。

Musicus! 続き

 気を取り直して少し読み返してみる。というか自分の中でこの作品をなかなか終わらせたくない気持ちがあるが、僕にはそのアウトプットの仕方がよくわからない。本来はこの飢餓感が僕がエロゲーに求めているものだったのかもしれない。没入するというのは、ゲームの中の世界の生活の方が現実の生活よりも濃密に思える状態のことだろう。
 この年末年始は、約10年ぶりくらいに田舎に行って、寝たきりで痴呆の進んでいるおばあちゃんを見舞ってきた。もう生きているうちに会えないかもしれないと思ったからだ。おばあちゃんは1年以上、鼻に入った管だけを栄養源にして生きていて、自分では寝返りも打てない。母さえも認識しているかわからないくらいなので、僕のことはおそらく覚えていないだろうが、しゃべれないのできちんと確かめることもできない。でもその日は思ったよりも元気だったらしく、僕をじっと見ながらしきりに瞬きをしていた。僕は何度か耳元に大声で話しかけたけど、特に何かおばあちゃんと話したいことがあったわけではない。死にそうな人の顔を見に来ただけであり、後味が悪いを思いをしたくないという利己的な理由からだったのかもしれない。それでもいかないよりは行った方がよかった。
 前回帰省したのは約10年前におじいちゃんが亡くなったときだったが、その時は15年ぶりくらいだったかもしれない。今は叔父が一人で暮らす家は、かつてはお手伝いさんもいてにぎやかで、商売も繁盛していたが、今回帰省してみると床が柔らかくなったところが多くて、朽ちて行っていることが実感された。築100年くらいだそうだ。集落全体が衰えて行っており、小学校も今では新入生が5人くらいしかいないという。店にお客さんが来たが、よぼよぼのおばあさんで、家まで帰れるのか心配になる。近所のポストに新聞がたまっており、おじさんが訪ねてみたら孤独死していたこともあったという。小学生の頃にはよく夏休みに帰省していたが、冬に来たのは今回が初めてだったので、余計に寂しさを感じられたかもしれない。
 もう片方の田舎の方は20年以上顔を出していない。こちらはおじいちゃんもおばあちゃんも僕が小学生の頃に亡くなっており、やはり叔父さんが一人で住んでいる。瀬戸内海に浮かぶ小さな島だ。先日、芸能人がぶらぶらする番組で親戚の家が出てきたので(芸能人にお邪魔された)見てみたが、相変わらずののどかな風景で懐かしかった。前から帰省してみたいのだが、妻が嫌がっているので僕もやる気が出ない。確かに気を遣ってしまうので仕方ないだろう。いつか一人で行くしかない。本当はスズキ・ジムニーを買って子供と一緒に行って泳いだりみかん山に登ったりしたいと思うのだが、子供もジムニーもいないのでただの夢だ。
 妻は休暇中には実家に帰ることが多く、お互いにちょっと寂しくなるのだが、僕はまとまった時間をエロゲーなどに費やすことができるのでありがたくもある。この年末年始はテレビをつけない静かな環境の中でMusicusに集中できてよかった。年始早々仕事に出たが、僕しか出社していなかったので静かに仕事して、Musicusの余韻がまだ持続している。次にこういう作品に出会えるのが12年後とかになる可能性もあるので(昔はこのことが分かっていなかった)、今はもう少し楽しんでおきたい。まだ明日と明後日を休めるのはありがたい。
 というわけで、どこのシーンを読み返したいというのがあるわけではないのだが(どこを読んでもそれなりに面白い)、たまたま流していたら尾崎さんの実家を正月に訪問するシーンになった。この実家の雰囲気、母と子が打ち解けていて温かい感じがするのがよい。ぼろいアパート暮らしで、小さなプランターで食べられる野菜を栽培したり、もやしだかなんだかを育てていたり、大きくない居間にこたつとかタンスとかあるのがよい。先日の田舎にも掘りごたつがあった。僕の家は炬燵もタンスもなくて、ガスヒーターとエアコンとクローゼットだけだ。尾崎さんの家の居間には壁に子供が描いたような虹と太陽のクレヨン画が貼ってあるが、あれは尾崎さんが描いたものなのだろう。テレビの上には木掘りの熊と狸の置物が乗っている。隅の方には学生カバンとか鏡と櫛とかあるから、ひょっとしたら尾崎さんの自室すらなくて、この居間くらいしかない家なのだろうか。尾崎さんの母は太っていて早口で朗らかだという。とても和む雰囲気だ。これが対馬をも和らげたのだろう。尾崎さんも、考えてみれば、澤田なつさんみたいなブレスが多めで声量のある声をしていて、健康的だ(きっといいボーカルになるだろうなと思っていたら、案の定歌ったわけだ)。尾崎さんのような女の子って実在するのだろうか、あんなふうに女の子を育てることって可能なのだろうか、そもそもこんな居心地のよさそうな慎ましい家ってまだあるのだろうか、僕の今の家もいつかは古びてこんな雰囲気をまとえるのだろうか、と無益なことを考えてしまう。まあ僕は今年はめんどくさいので実家に顔を出しておせちを食べたりしなかったので、せいぜいこのゲームで実家感を味わっておいたことにしよう。対馬は前の学校を辞めた後、神社でみかけた尾崎さんと話をして定時制に通うことに決めたそうだが、その尾崎さんのルーツが感じられる家庭の雰囲気なのだった。尾崎父は創作で行き詰って酒を飲みすぎて死んだそうだが、その頃にはきっと違った雰囲気があって、尾崎さんも学校に通えなくなったが、それでも父に対しては明るい感情しかないらしい。そうして現れる、「人生を何かに賭けるべきか、賭けないべきか」という意地の悪い選択肢……。
 対馬は尾崎さん以外のルートでは、家を出てぼろくて広い家に引っ越し、そこがすぐにバンド仲間のたまり場になってしまい、それはそれで楽しい生活を送るわけだが、この家と尾崎家の感じが好きだ。もちろん住んでいる人のせいなのだが。存在しない澄ハッピーエンドルートでは、澄のマンションも尾崎家のようなかんじになったのだろうか。
 ……。こんなふうにだらだらとゲームを読み返しながら実況半分の感想をいつまでも書いていければどんなにいいことか。でも、まず飽きてしまうだろうし、それにそんな時間はどこにもない。せいぜいあと2日だ。とりあえず気楽なメモのつもりで残しておこう。

・音楽面では突出したものはないと書いたが、しいて言えば、無音の場面が多かったのは良かった。あと、歌については作中ではなく個別に聴けばそれなりにいいのかもしれない。作中では明らかに文章に負けており、声量や音圧が不足しているように感じられる。でも、歌詞はやっぱりだめだな。意味の塊が長すぎて、メロディに対して意味が遅れており、そのせいで冗長に感じる。わかりやすい歌詞にするならもっと早口で歌う必要があるが、僕はそれよりももっと短いブロックの言葉の連なりをゆっくり聞く方が好きだと思う。
・何度も言及された、対馬が香織をかばって学校を辞めたエピソード。「どうなるか試してみたかった」というが、対馬がロボットに比されていたことと合わせると、『悪霊』のスタヴローギンが町のお偉いさんと頬にキスを交わす挨拶をするときに、思いつきで突然相手の耳に噛みついてみて仰天させたというエピソードを思い出す。何事にも受け身であるスタヴローギンとロックに魅入られた対馬ではまったく違うが。
・あえて書くまでもないが、いい大人になっても定職につけずバンド活動に生活をささげているゾンビのような人々の話、僕は研究者になることをあきらめてサラリーマンになった人間なので自分のアナザーライフのように感じられ、この作品の登場人物たちに感情移入してしまう。僕の同世代ではすでに助教になった人もいるが、いまだにフリーターみたいな人もいると思う。そんな僕に必要なのは、尾崎ルートのアフターストーリーなのかなあ。
・三日月がほんとうにいい子だなと思ったのは、最初のライブが終わって自分に不満を感じて怒っているのを見た時だ。そういうものを抱えていなくちゃいいクリエイターとは言えない。作品を完成させたそばから、その作品への関心を失っていくようでないと、あるいは人の作品であっても勝手に作り直そうとして作品をめちゃくちゃにしてしまうようでないと天才とは言えない。三日月が寝たまま吸い込まれたように上を見上げて、もう少しで何かがつかめそうだとつぶやいている印象的な絵があるが、あれはどういうことなんだったっけ。そのうち読み返したい。

 あとでまた続きを再開しよう。

Musicus! (90)

 とてもいい作品だったので整った感想はかけなそうだ。余韻の多くは一晩寝て日常が始まってしまうと失われるので、勢いで書き殴れることだけでも残しておかなきゃ。

・作品の音楽面では特に突出したものは感じなかったがそれは何の問題もない。

・田崎さんルートがなくて残念。ひょっとしたら一番好きな関西弁ヒロインになったかもしれなかった。惚れるしかない外見、性格、声及び発声方法だった。どさくさにまぎれて爆死した金田に共感してしまいかねない素晴らしさだった。

・声といえば、三日月の声も素晴らしかった。あそこまで頭がずれた女の子のしゃべりを作り上げられるとはライターも想定していなかったのではないか。ただセリフに感情を乗せて読み上げて、意味を伝えているだけではなく、一つの話芸として単純に聞いていて楽しかった。それをいうと金田もだけど。というか声優さんは熱演や渋い演技が多くて耳が嬉しい作品だった。

クラウドファンディングには参加しなかったのだが(18禁シーンが入るかよくわからなかったし、なんかいらないおまけにお金を払いたくない気がしたので)、それでも製作者日記と小説はちょっと気になる。まー、作品内の考え方によれば、クラウドファンディングというストーリーで作品を限定的に読まずに済むので(ブランドやロックンロールの美学にも深い思い入れはないし)、より純粋な形で楽しめるということにしておきたい。

・エッチシーンは絵が多くてありがたかったのだが(クラウドで資金が集まりすぎて枚数を追加したりしたのだろうか)、それまでの語りが平均的なエロゲーと違いすぎるのでいきなりエロゲーのお約束が露出したみたいで違和感があった(田中ロミオだったら少しひねっただろう)。でも、考えてみれば、エロは歪なピースとしてごつごつとむき出しになっていてもそれはそれで正しい在り方なのかもしれない。

・瀬戸口作品の技術的な面についての感想、どこがドストエフスキーっぽいとか、どこがトルストイっぽいとかは過去作品の感想で書いた通りで、本作ではさらに質・量ともに充実していたかもしれないけど、面倒なので省略。そういや本作ではペレーヴィンへの言及があったけど、現実を虚構に解体してしまうようなペレーヴィン作品のうすら寒さが澄ルートに似つかわしいのかもしれない。

・本当は三日月ルートや弥子ルートについてじっくり語らなければいけないのだろうけど、澄ルートで傷を負ってしまったので今は書けない。澄ルートは、一歩引いてみると、ありがちなお涙頂戴、ご都合主義的悲劇、典型的なバットエンドなのかもしれないし、EDムービーもベタといえばベタなのだが、ぐさっとやられてしまった(野暮なことを言えば『電気サーカス』にもこういう暗さがあった気がする)。僕はクリエイターを志して失敗したわけでも、純真な女の子のヒモをやったことがあるわけでもない、ありふれたオタクだけど、それでも物語に感情移入してショックを受けてしまった。あれで終わらすのはひどい。幸せになる可能性が閉ざされてしまったのはおかしい。澄が小さな幸せを手にした瞬間って、何度も対馬に弁当を作ってきてあげて話をできたときと、対馬の家に上げてもらって音楽を聴いて感激したときと、それから結ばれて対馬ととりとめのないおしゃべりをしたときと、対馬が作る曲を聴かせてもらっていたときと、子猫を拾って飼うことにしたときと、その子猫とじゃれていたときと、イタリア料理店で二人で夕食を食べたときくらいだろうか。少なくとも描かれている範囲では。嬉しそうなCGは弁当を食べてもらっている場面と、子猫と部屋でじゃれている場面だけだ。ささやかすぎるんじゃないかな。他のルートとの対称効果を狙ったとかあるのかもしれないけど、それにしても少なすぎる。エピソードを増やしたからって何が報われるわけでもないし、別に誰かに対して抗議したいわけじゃないけど、どうにかならないものか。澄が対馬の曲を理解できなくてもありがたがって何度も何度も聴いていたというのは、二人の幸せを示す滑稽で温かいエピソードでなくちゃならない(ついでにいうと、喜んで聴いてくれるというのはすごく羨ましい)。でも、同じことがふとしたことで反転して、いつまでも宙づりの悲しいエピソードになりうるとしたら、それはどうしようもない暴力であり、僕たちはいつその暴力がやってきて足元を崩されるのかという不安を抱えて生きていかなければならない、あるいはすでに何かを失って泣きながら笑顔で生きていかなければならないことになる。確かに、自分の大切な人が何かのすきに取り返しのつかない形で壊され、失われてしまうという不安はいつもどこかにあって、この世界には急に恐ろしい穴が開いたりするのだが、それを僕はフィクションの世界でも味わわねばならないのか。そんなフィクションのおかげで僕はまだ失われていないその人にいろんなことをしてあげられると思い出させてくれるのはありがたいけど、それは澄の物語から目をそらしているだけのようにも思えてしまう。まあ、澄ルートはそれ単独で受け止めるには重くて、他のルートとの対比やセットで認識すればまだ少しは気がまぎれるのかもしれないけど、そのせいでますます澄という存在はさらにやりきれなくなる。作品としては澄の物語は完結しているのだけれど、存在としての澄はちっとも完結しておらず、残酷な宙づり状態のままになっている。そういう甘美な物語に囚われるなという花井の言い分も、物語を排して音だけの世界にのめり込んだあの暗い対馬を見せられると説得力がない。だからって僕の感情もいつまでも宙づりにしておくのは不可能なのだけど。たかが感情だけど、でも大事なことなんだ(おっさんになったからかもしれない)。

・まだ書いておかなきゃいけないことがたくさんあるのだろうけどプレイで消耗して疲れている。本当にクソみたいなことしか書けない。

スクリーンショットもとらずに寝食を忘れて没頭できる作品だった。人との死別とか、人生における何かの探求とか、自分の人生を自分がどう受け入れるかとか、人と一緒に何かを背負うこととか、中年の自分にとっても大事なことに何度も繰り返し直面させる作品だ。これが僕の恥ずかしい勘違いだったとわかればエロゲーともすっぱり別れられるかもしれない。でも、たとえエロゲーの形ではなくても、こういうものはこの先も読んでいきたい。

陸秋槎『元年春之祭』

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)

元年春之祭 (ハヤカワ・ミステリ)


 もう一つ、新刊の『雪が白いとき、かつそのときに限り』も印象的なタイトルで、こっちは著者サイン入りだったので一緒に買おうか迷ったけど、立ち読みしてもぴんと来なかったのでやめた。やっぱり気になるのは中国古代を舞台にした中国人による衒学的な小説ということだ(どちらも百合を扱った作品であることは前提として)。現代中国を舞台にした新刊の方は中国小説に期待したい語彙の豊かさはなく、だらだらした文章が続いているように思えた。
 そして予想通り、中国の歴史や文物をあまり知らず、漢の時代の宗教や精神文化もほとんど知らない自分にとっては、多分この小説を実際以上に豊かなものに感じられたような気がする。すぐに人を殴りつけたりする気性の激しい女の子が目立つが、これは古代だからなのか、中国人だからなのか、田舎の巫女だからなのか、それともミステリ小説だからなのか、自分にはよくわからないがそこがよい。この小説を読んでも、この時代の巫女とは何だったのか、どんな宗教だったのか、神明(神)とは何なのか、ぼんやりとしかわからなくて、物の本を探してみたくなる。若い作者が情熱を注いで描いた、さらに若い女の子たちの目に映った、遠い昔のお話だ。経書とか五行とかよくわからない記号システムに縛られた世界の中で(本当は縛られていないのかもしれないがよくわからない)、生きる意味を考えたり、自分の生きる世界を変えたいと願ったりしている苛烈な女の子たち。
 現在から2000年離れているという意味では、紀元前100年も、西暦3000年もそんな違いはないのだろう。この作品の読後感は、ミステリ小説というジャンルに寄せれば、僕の知るものなら西尾維新の小説(戯言シリーズとか病院坂黒猫シリーズ)かもしれないが、真っ先に思い浮かぶのは『ハーモニー』だ。それは本作が小説という虚構だからなのだろうけど、中国に対してもそんなとっかかりが欲しかったところだ。僕の乏しい知識では、中国の古典文学といえば髭の生えたおっさんが髭の生えたおっさんとの別れを惜しんだり、髭もなくなったおっさんが髭だけ残っているおっさんに酒や風景や道徳を語ったりしているしているような、萎えるシチュエーションのものばかりというイメージだからだ。屈原女性説のようなものがもっと必要だ。作者の世代やそれより下では、オタク文化の影響もあってそういう試みはたくさんあるのだろう。中国文化にきちんと入門したいものだが、残念ながら機会がないので邪道を行くしかなさそうだ。

柳宗玄『秘境のキリスト教美術』

秘境のキリスト教美術 (1967年) (岩波新書)

秘境のキリスト教美術 (1967年) (岩波新書)


 いつどこで買ったのか忘れてしまったが何気なく手に取った本が面白かった。刊行は50年前だが、著者は今年1月に101歳で大往生を遂げた美術史の大家(で柳宗悦の息子)だということも後から知った。特に面白かったのはアトス山での調査滞在を述べた章のひとつ、「聖母大祝日の夜」。少し長いが引用しておこう。

 その日、祝祭のために、カトリコンの脇の小聖堂の納められているポルタイティッサ(門の聖母)と呼ばれるその聖母のイコンが、そこから運び出され、カトリコンの聖障の前に安置された。私が聖堂の入り口に立ったとき、先に入った一人の男が、聖母のイコンの方に歩み寄った。イコンは全体が豪華な金属細工で蔽われ、聖母と聖子の頭部だけ、絵の部分が見える。それがいかにも神秘的で、彼方なる霊界からのぞく二つの顔といった感じだった。画面が暗くて目鼻立ちが見にくいのは、その制作時期が十世紀(?)という古さのゆえか、燈明に燻されたゆえか。いずれにしても、暗い聖堂の中で燈火に照らし出されたその聖母子の姿は異様に神秘的だった。
 先に入った男は、イコンに近寄り、その前に立ってうやうやしく口づけを繰り返した。それがイコンに対する強い敬意の表現であり、礼拝という行為であった。そういう礼拝の仕方は、私には物珍しかった。
 突然、私の横にいた修道士が(私は黒衣の彼がそこにいることに気がつかなかった)、私に合図した。今度はお前がイコンに口づけに行く番だ、というのだ。私は思いがけないことを強要されて、どぎまぎして後ずさり、どうしようもなくてそのまま外へ出てしまった。有難いイコンにはうやうやしく口づけするのが当然の礼儀であったのだろうが。
 私は、ふと一抹の寂しさを覚えた。それは私がこのギリシャ正教の世界の中で、よそ者だということを感じたからではない。自分がイコンに対して、あるいは、ビザンティン美術そのものに対して、よそ者なのではないかと感じたからである。
 いったい、私にイコンがわかるのであろうか。私は、おそらくイコンの発生やその沿革、地域的発展やその意義について、アトス山のたいていの修道士よりは、広い知識を持っているかもしれない。しかし私は、イコンの内に秘められた生命にどれだけじかに触れることができるのだろうか。私にイコンを云々する資格があるのだろうか。
 さて、その晩八時から荘厳ミサが始まった。それは翌朝十時まで続くという長いものである。私はただでさえ疲労があるので、典礼の途中で一度寝室に戻り、夜中の二時頃にまた起きて聖堂に行ってみた。
 修道士の一人が、書見台の前に立ち、つやのあるろうろうたる声で巧みに抑揚をつけながら何かを読み上げていた。燈火があたりを照らし、イコンも、聖障も、光冠(巨大な冠の形をしたシャンデリヤ)その他すべての調度も、暗い空間の中で、キラキラと光っている。私は、そこで金色という色彩の意味を、改めて理解した。そして修道士たちの衣や帽子の黒い色も。
 暗い空間の中に、光に照らし出されて立つ黒衣の修道士は、すでに幽界の人のごとくであった。その白い顔だけが、そこにあった。あとはすべて、闇に溶け込んでいた。
 聖母子のイコンの方は、逆に金色燦然ときらめく中に、黒っぽい顔が二つ、こちらをのぞいていた。修道士の朗読がとぎれ、あたりに異様な、恐ろしいほどの、静寂が立ち込めた。その雰囲気は、私たちのふだん知る「夜」とは全く違ったものであった。私は、奇蹟の聖母が今ここでかすかに動いても、その口から言葉が洩れても、何か異常なことが起こっても、別に不思議ではないと思った。数々の奇蹟の言い伝えが生まれることは、当然だと思った。それは、単なる描かれた一枚の絵以上のものであった。それは現実に呼吸している生き物のようであった。
 昼間にこの聖母子のイコンを見たときは、それほどの感じはしなかったのである。とすれば、その神秘的な感じには、昼間とは違った夜の何ものかが働いているのだ。すべてを包み隠そうとする闇、その中で光り輝く燈火、照らし出される金色のイコン……。さらに夜のしじま、静かに輝く祈りや詠唱の声。
 私はふとビザンティン美術というものは、本質的に夜の美術ではないか、と思った。あの暗い聖堂の金色の十字架やモザイックなどは、夜の暗さとそして明るい燈火を必要とするのだ。壁に描かれている絵の世界にも、いつも一種の暗さが支配しており、そこに働く静かな光が、神秘的な効果を生み出しているのだ。

 

(中略)


 食堂での会食は、すでに前日の晩にもあったのだが、食堂で私の目を瞠らせたのは、壁にかかっている夥しいイコンだった。四方の広い壁面に、ギッシリとかかっている。場所によっては三段にもなっている。私はその数の大体を数えてみたが、少なくとも四百枚はあった。
 その主題の大部分は聖母子だが、他にキリスト、天使、聖人、それに聖書の場面もある。それも、まったく無秩序にただ並んでいるのだった。聖書の場面が乱雑にあちこちに散っているのを見ると、イコンにおける説話の図像が、よく言われるような教育的なものだということに疑問が持たれる。奥の壁の中央にだけは、古格を保った大型の立派なものが幾枚かかかっていた。他は、中型小型のものが、秩序もなく、ただ数多く掛け並べればいいといった調子で掛かっている。それはそれとして、異様な風景であった。しかし、個々の絵を見ると、その大部分は近代風の低俗化したつまらぬものであった。宗教的香りなどは全くないのだった。
 なぜ近代風のものがこのように低俗なのだろうか。単にアトス山のイコンに限らず、ロシヤのイコンでも、また壁画でも、近代的になるとたちまち低俗になる。西洋に例をとるなら、教会の絵ガラスでも彫刻でも、近代風のものには宗教的な深みが全くない。ドラクロワの描いたサン・スュルピス教会(パリ)の壁画でも、アングルの下絵によるドレゥーの王室礼拝堂の絵ガラスでも、いかにも低俗なものだ。
 それは、近代芸術の基礎をなす写実主義が、本質的に宗教美術と相容れないからなのであろう。現実界をていねいに移そうとする限り、超現実的なものを表現することが不可能なことは当然である。ナザレ派やラファエル前派が、いかに宗教的感情の表現を意図しようと、結果的には低俗な人間感情の表現に終ったのは、要するに写実主義を抜け出さなかったためであろうと思われる。
 ところで、おそらくアトス山の修道士に言わせれば、これこれのイコンや壁画が低俗だなどと批判するものこそ低俗ということになるのであろう。美術史家や美術批評家など世俗の徒は、宗教画を目だけで見ている。それを信仰の心で見るなら、絵の絵としての欠点などはたいして問題ではない。問題なのは、絵の本体なるキリストや聖母に対する私たちの信仰心なのだ。信仰心さえ篤ければ、聖像の描き方が少しぐらいどうであろうと、人間は、その前で感動することができるのだ……。
 もちろんこれは、私の勝手に想像したアトスの修道士の考え方なのだが、この私の想像を裏づけるような光景を、私は見たのである。
 イヴィロンのカトリコンは、正面入り口左右の壁に絵が描いてある。その壁画はキリストや聖母の説話を数多く描き並べたものであったと記憶する。それはおそらく十八世紀頃のもので、図像学的には、もちろん儀軌に則ったものであったろうが、絵としては崩れており、私は格別の注意も払わなかった。
 一人の五十がらみの平服の男(もちろん聖母の祝日のためにやってきた在俗の信徒であろう)がその壁画の一部をじっと見ていた。飽かずに食い入るように見ていた。私は、彼のその異様な見方にしばらくして気がつき、壁画よりもその男を私はじっと観察した。と突然彼は、蜘蛛のように両手を拡げて壁面にへばりつき、そのある場所に口づけをしたのである。しばらくして彼は、壁の別の場所へ行って、同じようにしばらくそれを見た後、また口づけをした。それから今度は椅子に乗り、高い所の壁面に向かって同じことをした。彼は壁に描かれている場面を一つ一つおい、おそらく福音書に書かれている文章を思い出しながら、祈っていたのだ。その態度は真剣そのもので、絵の美醜を見るといった態度とは、全く異なっていた。それもそれで一つの絵の見方に違いなかった。それhが本格的な見方で、私たちの味方の方が邪道なのかもしれぬ。少なくともアトスの修道士は、そう思うに違いないのである。
 さて聖母大祝日の翌日、空は快晴であったが海は荒れ、私のあてにしていたメギスティ・ラヴラ修道院行きの舟が来ない。その翌日もだめで、私はやむを得ず、一番近いスタヴロニキタ修道院を徒歩で訪れ、最後の晩をまたイヴィロンで過して、山越えの道をカリエスを経てダフニ港に戻った。丸一週間、聖山に黒衣の人々と暮したわけで、帰りの舟がトリピティの手前でアンムリヤニという島に寄ったとき、岸辺に島の女たちを見かけて、不思議な動物に出会ったような気がした。

 それほどドラマチックな体験や発見ではないかもしれないが、自分かつてロシアや長崎で体験したことを思い出した。イコンは美術館や画集でゆっくり眺めるのもいいが、やっぱり一番迫力があるのは暗い教会の中でみたときだろう。疲れていてゆっくり見れないことが多いのだが、イコンの方も疲れた顔をしていることが多い。
 前半はカッパドキアの話がメインで、僕は行ったことはないが臨場感があって面白かった。臨場感があるパートだけでなく、著者が提示した教会美術を読み解くためのツールもわかりやすくてよかった。あとはアイルランドの話も面白かったが、著者はこの時はまだ行ったことはなかったようだ。
 といっても、もっと若い時に読むべき本だったという感が強い。著者がカッパドキアを訪問したのは1966年、50歳頃だが、僕はもうこれほどの体験をできる心はなくしてしまったと思う。せめて他の誰かにこういう体験をたくさんしてほしい。

米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)


 いまさらながら初めてきちんと読んだ米原万里の本。昔、『オリガ・モリソヴナの反語法』か何かが朝日新聞で連載されていたことがあったが、その時は特に関心なかったので読んでいなかった。今回は田中ロミオが書評サイトで紹介していたからだ。
 しかし今回は手放しに評価する田中ロミオには賛同しかねる(僕が読んだのは『反語法』はないが)。前にどこかでちょっと『不実な美女』か何かを読んだときに抱いた感想を思い出したが、僕は米原さんの日本語を評価できない。いかにもビジネス通訳をやっている人の日本語という感じで、色気や余裕がないからだ。
 僕が初めてロシア語を勉強し始めたとき、当然ながらNHKロシア語会話(多分再放送)なども観ていたが、そのとき出ていたのが米原さんとサルキソフさんだった。その後、何かの学生向けシンポジウムか何かで米原さんが話したのを聞いたことがあるが、残念ながら同時通訳として現役で活躍している米原さんを見たことはない。僕が大学生の頃はすでに物書きになっていたし、社会人になったころには故人だった。でも米原さんの通訳としての優秀さや機転については亀山先生だったか井桁先生だったかが言及していて印象に残った。
 仕事柄、ロシア語の会議通訳の人の仕事ぶりを目にする機会があるが、日本人の優秀な通訳、すなわち聞いていて心地よく、安心して聞いていられる通訳は一人しか知らない(吉岡ゆきさん)。日露首脳会談で安倍首相の通訳を務める外務省のお抱え通訳官も含め、その他の人たちは数段落ちる印象だ。僕が知らないだけで、優秀な人は他にもいるのだろうけど。ロシアと欧米のビジネスマンのコミュニケーションのレベルがロシアとアジアのそれよりずいぶん高いことが多いのは、通訳によっている部分もあると思う。和露通訳を通さず、英語でロシア人とコミュニケーションをとっている人はその限りではないが。
 話がそれたが、ビジネス通訳の人の日本語は「細かいニュアンスはともかく、情報(特に数字)が伝わればよい」ということを最優先するので、個性や余裕のない痩せた情報の塊になる。もとの言葉自体もビジネス会話であれば、話す方も聞く方も集中しすぎなくて済むように、定型句が多い。そうした言葉のファストフードを大量に摂取しているのが通訳という人種なので、言葉に対する繊細な感覚が麻痺してくるのだろう。非常に擦れた物言いが多く、神経の通っていない言葉で雑なコミュニケーションをとる。通訳といっても言葉を訳すだけでなく、声色や身振りでごまかしたり、簡単な紋切型の言葉に言い換えてしまうことも多い。
 やや誇張もあるが、米原さんの文章はそういう鈍感な通訳の日本語の典型例のように思える。本書でもそういう鈍感に書き流した箇所、ウィキペディア(当時はなかっただろうが)からコピペしたような箇所がいくもある。
 しかし、日本語が貧弱であっても、物語は結構読めてしまうこともある。本書は米原さんの特異な人生や交友関係を惜しみなくネタにした本なのだから(日常的に東欧とかかわりがある日本人なんてほとんどいないだろう)、情報としてユニークになってしまうのは当然だ。この辺の追悼文などを読むと、人柄も魅力的で素晴らしかったようだ(僕はこんなパワフルな人とはあまりお近づきになりたくないが)。というわけで面白かったけど、別の日本語で読みたかった本だった。しかし通訳は100%の完成度は求められない仕事なわけで、通訳を引退してしまっても米原さんはそういうスタイルで突っ走っていたのだろう。今の時代は80~90年代よりも東欧は日本から遠ざかっているように思う。これからは同時通訳にしても、グーグルアシストがその場でスマホに翻訳した言葉を表示してくれるような時代である(まだ精度は低くて仕事では使えないみたいだけど)。米原さんのような生き方をして、情報を発信する人は絶対に必要だったが、そういう人だからこそ書き残したものは時間の中に取り残されているのを感じる。結局残るのは情報としての情報というよりは、米原さんの筆致の質感のようなものなのだろう。その意味で僕にとっては意義のある本だった。

澁澤龍彦『ねむり姫』

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫

ねむり姫―澁澤龍彦コレクション 河出文庫


 先日、今更ながら積読していた『異端の肖像』を読んで、ブックオフで買っておいたもの。あとは『高丘親王航海記』が買ってある。
 澁澤龍彦の作品で最初に読んだのは、大学生の頃に読んだサド『悪徳の栄え』だったと思う。そのあとに『ソドムの百二十日』と『新ジュスティーヌ』も読んだが、当時の自分には書いてあることは実感としてはわからず、ただ文章から立ち上る淫臭(興奮した若い童貞オタクの体臭だったかも…)にくらくらしながらページを繰っていただけで、内容はよく理解できていなかった。三作の違いもよく分からなかった。エロゲーと出会う前のことであり、ひょっとしたらAVとも出会う前だったかもしれない。なんだかすごくエッチなものを見つけてしまったと興奮したのかもしれないが、周知のとおりサドの小説はエッチといっていいのかわからない代物だ。時代的にはロマン主義にかかっていたはずだが、恋愛や純情よりも快楽と肉欲を賛美し、人間とその精神を徹底して即物的に扱うことで精神の勝利のようなものをパフォーマティブに行うサドの創作活動は自分にとっては異質すぎた。
 それからしばらくして、やはり大学生の頃に『さかしま』を読んでいたく気に入った。世紀末芸術に一番はまっていたころだ。たぶん読みやすい澁澤訳だからはまったのだと思う。
 それから他にも何か読んだかもしれないが、20年くらいして今更『異端の肖像』を読んだのだった。取り上げられた登場人物はすでにどこかで聞いたことがある人ばかりだったが、語り口と語りの深度や文体がよかった。そして評論だけでなく創作も読んでみる気になりブックオフに行ったら、おあつらえ向きに近代以前の日本が舞台の作品があったのだった。象徴主義時代の作家や詩人がエキゾチズムを求めて古代や中世、異文明を好んで扱ったように、澁澤龍彦なら日本の中世や近世をよい意味でのスタイリゼーション(様式化、文体模倣)のネタに使うだろうと期待できた。折口信夫の『死者の書』とかそういうの。
 そして期待通りの粒ぞろいの短編集だった。前近代を扱うということは、近代的な価値観を無視してよいということで、これだけ男と女の愛の幻想譚を題材として扱いながらも、その愛は近代的な愛ではなく、あるいは近代文学的な描かれ方をする愛ではない。主人公とヒロインの恋愛や性愛が長々と盛り立てられてハッピーエンドを迎えるかどうかが焦点にならざるを得ないという点でワンパターンなエロゲー的価値観に慣れきってしまった自分としては、前近代の意識に通じる澁澤龍彦即物的で乾いた筆運びは新鮮だ。古い言葉や雅な言葉と軽いエッセイの言葉がまざった読みやすい文章もいい。男も女も割とあっけなく死んでしまうが、別にそれは暑苦しい悲劇ではない。物語の山場となる幻想的で官能的な場面が美しい言葉で語られてしまえば、あとは登場人物にどうハッピーエンドを与えるかではなく、登場人物をどう退場させるのかという語りの技法の問題になってくる。それはこれが短編集だからなのかもしれないけど。
 等身大の恋愛もたまにはいいけど、やっぱり非日常の彼方へと連れ去ってくれる幻想的な恋愛をみてみたい。その不可能性を情念的に湿っぽく描けばロマン主義文学になるけど、前近代的な道具を使ってさらりとした語りの工芸細工に仕上げると、「個人の内面」みたいなものに下品に肉薄はできない代わりに、語られなかったあれこれをぼんやりと想像して美しい絵を鑑賞するように楽しむことができる。近代人が前近代を描くときには、語ることと語らないことは文学的(あるいは文学外的)制約により選択する(正確には、選択の余地なく決まっている)のではなく、芸術作品としての効果や美意識に基づいて仕掛けられたものなので、実際には作者と読者の間のゲームとして回収されてしまうことが多いのだろうけど、それでもどこかここではない彼方を垣間見せてくれるのが幻想文学であり、その加減がここちよい短編集だった。表題作で最初に置かれている「ねむり姫」が一番ヒロインを美しく描いていてよかった。最後に置かている「きらら姫」ではヒロインはまったく登場せず、エピローグで「そんなおっかない女なんかに会わなくってよかったなガハハ」「ガハハ」みたいな落語のような落ちで終わっており、それまでの作品のような美しい姫様の登場に期待しているとアンチクライマックスで一本取られてしまうのだが、幻想をそうやって奥まったところに大事にしまっておくような手法に面白さも感じた。

花咲くオトメのための嬉遊曲 (75)

 セーブデータを見ると震災直前の2011年2月に手をつけて止まっていた。8年前だ。
 春にアニメのハチナイをみて、ゲームを始めて、ようやくこれを思い出した。当然だが、ハチナイよりも野球描写やそもそものモードというか心構えの部分が濃くて、その意味では読んでいて楽しめた。ほとんど野球の描写しかなく、いわゆる日常シーンはすべて野球をしているか野球の話をしている場面ばかり。そもそも日常シーンなんて意味のない概念だけど。
 野球を描くということは、これまでもにいろんな作品で無限に近いほど行われてきただろうけど、たぶん一般的なのは野球の個々のプレイを再演し、熱量を込めて体験しなおすことだろう。この作品はそうしたある意味でだらしのない野球作品ではなく、個々のプレイを記号として支配しているような描き方だ。思ったように体は動く。意思が体を制御し、意思が体に先行している。相当に練習を積めばそういう境地に至ることもあるのかもしれないし、この作品の世界では練習ですらもそういう感じだから、ここを上達させたいと思った時点でほぼ達成されている。だから野球はデータと思考を駆使する将棋のようなスポーツになっていて(実際にそういうところもあるスポーツなのかもしれない)、個々のプレイは心理の読み合いであり、なんだかよくわからない気合とかでどうにかなったりはしない。あるいは、試合の中でそのように見える瞬間だけが意図的に拾われて描写されている。それだけでも劇的になるくらいには野球には無限に近い選択肢があるので、描写はいくら理知的になろうとしてもなりすぎることはない。みんなが自分をコントロールしているように見えるけど、それは見えるだけで、実際にはどう転ぶかは誰もわかっていない。
 そういう描き方だからこその主人公の造形なのだろう。交通事故で野球をできなくなったという意味で去勢されているが、言葉によって自分や世界を制御しきれているので、自分の障害を冗談のネタにできるし、女の子に対して擦れた物言いをするし、エッチシーンではおっさんみたいに下品にヒロインを攻め立てる。すべての男はエッチの際にはおっさんになるとうそぶき、自分は純粋ではないと自虐しつつ。露悪的で結構不快なところがある主人公なのだが、自分からは語らないけどやっぱり若者らしいギラギラしたところがあるのも言動の端々からうかがえるようになっている。
 僕は野球をやるのではなく、見ている。選手であるヒロインたちは見られている。見られているのは彼女たちの心理や感情であるのと同時に、野球をやっている身体だ。その身体はすがすがしいほどに女性的な色気とは関係なく、野球をやるための筋肉として描かれているし、ヒロインたち自身も野球をやるための身体を作り上げていくことに最大の喜びを見出しているらしいという恐ろしい環境であり、絵もそういうごつい女の子を素直にごつく描いて恐ろしいのだが、そういう動くためにある身体が動いて喜んでいるのを見ると(スポ根的に苦しんでいるのではなく、ギリシャ的というかソビエト的に喜んでいる。実際、絵柄はデイネカの絵のように社会主義リアリズム的な働く女性の身体を強調している)、こちらもその充実感に感染する部分がある。そして、おっぱいがある(なぜか母乳も出るが、これも充実感が充実しすぎているからだろうか)。そう考えると、野球という進行の遅いスポーツは、身体をゆっくりと、舐めるように鑑賞するのに適した芸術であることを意識せざるを得ない。おっさんたちがやっているプロ野球をおっさんたちが観るのが好きなのは、不健全であると言わざるを得ない。本当はプロ野球は美少女がやるべきなのだが(『後宮楽園球場』でも実証されている)、おっさんたちはそこに底なしの美の深淵があることを無意識に理解して恐れているので、おっさんたちを見ることで踏みとどまっている。あるいは、古代ギリシャ人のように男の動く身体の方が女の身体よりも美しいと思っているのかもしれないが、僕はそういう話はしたくない。プロ野球よりも女子高校野球の方がある種のレベルは高いのだ。
 ヒロインたちの身体は、口よりも雄弁だ。紅葉の心は小学生の頃のまま、野球をする主人公の姿にとらわれて惚れ込んでおり、主人公の不快な性格など見えていないが、彼女の身体の方はもう完成されている。そのギャップは青春の一時期ものであって、やがて心の方も成長だか成熟だか老化だかしてしまうのだろうけど、そんな未来のことなど想像もできないまま彼女は現在の中にある。
 身体に目を奪われているということは、記憶の中ではなく、現在という瞬間の中に意識を固定し続け、目の前の現在を生き続けていることのように思える。でも、彼女たちの若くて美しい身体はこのときのだけのものであり、彼女たちはその現在を惜しげもなく野球に捧げているし、主人公が野球をする彼女たちといられる時間も人生の中のほんのひと時に過ぎない。エピローグはどれも、ヒロインとは完全に溶け合って一つになることはなく、肩を並べたり背中を合わせたりしながら、燃焼していく現在をかみしめているものばかりで、幕切れの文章がうまいので読後感がよいものばかりだ。バッドエンドもそういう時間に対する賛歌のようなものになっていて素晴らしい。この作品で一番印象的な絵は、女の子たちが打ったり投げたりしている絵や立ち絵を除けば(この辺とか明らかにエロゲーの絵の文法と違っていて見入ってしまう)、バッドエンドの寝そべって肌を焼きながら心の中を覗き込むような目でこちらを見上げている紅葉(と紅葉のおっぱい)の絵だ。15年前に発売された作品を8年ぶりにプレイした。この作品の中の現在はとっくに流れ去っており、僕はもはや週末でさえもめったに体を動かさなくなってしまった中年のおっさんだ。そんな自分を遠い過去からこんなふうに見つめてくる彼女のまなざしに心がざわめく。おいていかないでと言っているようだが、おいていかれようとしているのはこちらだと思い知らされるからだ。

マイクル・コーニイ『ハローサマー、グッドバイ』『パラークシの記憶』

 ブックオフで何かの小説を探していて偶然手に取って買った。訳者解説が熱が入っていたからかもしれないし(SFの解説はそういうのが多い)、表紙のイラストがよかったからかもしれない。特に『ハローサマー、グッドバイ』の方はヒロインのブラウンアイズが可愛いし、青い色もきれいだ。 

ハローサマー、グッドバイ (河出文庫)

ハローサマー、グッドバイ (河出文庫)


 ハローサマーの方はサリンジャーの小説に出来るようなアウトサイダーな感じの少年の初恋を描いた恋愛SFで、少年の苛立ちとかときめきとか、田舎の港町の夏休みの雰囲気がよかった。少年はある種のエリート市民だし、ヒロインは庶民(居酒屋の看板娘)だし、現代のオタクとしてはリボンが救われなかったこと、ハーレムを維持できなかったことは看過できないし、そうはいってもなんだかテンプレ的なツンデレ表現が古いイギリス作家の小説から出てきてしまったことにやや困惑したし(訳者の文体が軽いことにも原因はある。確かイーガンも訳している有名な人だと思うが、訳文は文字の美しさやリズム感もいまいちだった)、できすぎたようなボーイ・ミーツ・ガールがちょっと軽いと言えないことはないけど、ハッピーエンドの瞬間をぎりぎりまで引き延ばしたのはよかったと思う。きっと作者はその後の話を書き継ぐこともできたのだろうけど、小説としての完成度のためにはあそこで終わっておくのがよかった。 

パラークシの記憶 (河出文庫)

パラークシの記憶 (河出文庫)


 次のパラークシの方は、1990年代に書かれた続編だそうだ。舞台設定は見た目こそ19世紀の地方をモデルにしたという前作から中世くらいに後退してファンタジーに近づいたけど、実際にはインターネット時代の情報処理と倫理を感じさせるものになていて、語り手もサリンジャー的少年からより後の時代の無個性で安定感のある少年探偵みたいになっていた気がする。前作のリボンと比較するなら、ファウンにもっと三角関係的な意味で頑張ってほしかったが、なんか妙に積極的に性描写があったりするという意味でも結構世俗的な作家だなと思った。
 SF設定の一つに過ぎないので単なる仮定の話しかできないが、先祖の記憶を完全に引き継ぎ、再生するように生きなおすことができるというのが面白かった。確かに社会の進歩を止めたり、近親相姦と表裏一体の性欲の喪失(動物レベルまでの後退)が起きてしまったりするけど、嘘をつく意味が消滅し、子孫に見られているという感覚から倫理観が強化され、なによりも人生の素晴らしい瞬間を最高の再現度で何度も反芻できるという嬉しい能力だ。本を読むこと、エロゲーを楽しむことにも通じる、瞬間と継続、反復と固有性の問題系だ。恋人との最高の瞬間、恋人の最高に魅力的な表情を、記憶の中で完全に呼び出せる喜びを地球人である読者に語りかける主人公が素直にうらやましい。
 前作で我慢していたご都合主義的なストーリーテリングは、今回は結構節操ないハッピーエンドになってしまったが、こんなふうな現代的な感性の作品なので仕方ないと納得することもできる。しかし、こういう箱庭的な創世神話を上演する作者はそれに満足するのだろうか、上演を魅せられた読者は満足すればいいのだろうか、という問題は残る。『アバタールチューナー』ではそこらへんは劇的なアクション展開と感情の振れ幅の大きさで押し切っていたような気がする(あまり覚えていないが)。コーニイ作品では恋愛物語としての情感と上記の記憶の魔法の魅力だろうか。