和香様の座する世界 (80)

 ビックリマンシールは僕が小学1~3年生くらいの頃に流行っていた気がする。大量に買ってチョコをゴミ箱に捨てる問題も話題になった直撃世代だった。一番かっこいいのはヘッドロココ。ホログラムの迫力があったのは魔肖ネロ。ググってみたら、他にもサタンマリアとか聖フェニックスとかシャーマンカーンとか懐かしい画像が出てきた。ヘッドシールのきらきらした背景装飾は、あの時代に子供だった自分には宝石のようにきれいだった。ビックリマンチョコはそんなにたくさん買った覚えはないし、買えるほどお小遣いがあったわけではなかったけど、気がついたら最終的には1000枚くらいはあったと思う。飽きた人からもらったりしたのかな。それも中学生の頃にはなくなっていた。
 どこかから来て、どこかへと去っていった小さな神々たち。裏の変な説明文は全く意味が分からなくて、何かの呪文のように個々の単語から断片的に雰囲気を感じ取っていただけだった。確かマンガとかアニメとかあった気がするが、そちらには関心は向かなかった(ビックリマンシールのキャラクターが動いたり、声を出したり、自我があったりするということがなんだか不気味だった)。

 ビックリマンのシステムが周到に考え抜かれた凝ったものだったと知ったのは、ビックリマンなどすっかり忘れていた大学生の頃、大塚英志の本を読んでだった。どんな趣旨だったか詳しくは忘れてしまったが、体系的な情報をあえて断片化して「大きな物語」を想像させる技術としての疑似的な神話、みたいな話だったと思う。ビックリマン世界の全貌を示す必要はない。おおもとのストーリーで勝負するのではなく(ストーリーは終わってしまうのでビジネスとして問題がある)、ディティールで何となく気を引く。日常の細部に溶け込んだ風習。思い出してみると、ビックリマンでかっこよかったのは西洋風の名前や格好をしたキャラクターたちばかりだった気がする。和風のキャラクターもいたが、マージナルなのが多かったと思う。
 そういうどこかインパクトが弱い存在が、日本の八百万であり、ぬらりひょんや都市伝説に出てくる妖怪たちだ。そのおおもとである古事記の神々など子供の日常では全く聞くことがないし(少なくとも我が家では)、聞いたとしても、例えば天照大神が何をやった神なのかよくわからない、というか聞いてもピンとこない。せいぜい浦島太郎や桃太郎みたいな昔ばなしが記憶に残るくらいだ。だいたい神様は神様であって、神様に固有名があるということ自体が奇妙に思えた。
 そういうよくわからない神々の話を、古代世界における歴史の書き換えや宗教学・神話学的な要素のずれやねじれを発見しながら再構成していくのは、世界の裏側を覗き見るような面白い作業であり、もっと眺めていたかった。そして小さな疑似的神話であるこの作品にビックリマンシールシステムが導入されているのは巧みな仕掛けだ。
 もう一つの思い出は、高千穂牧場だ。高校生くらいの頃だったかな。一家及び祖父母と夏の高千穂牧場(宮崎県)に行って、散歩してアイスクリームを食べてきた。それだけ。起伏に富んだ緑の草地が遠く広がる、明るくて気持ちの良い場所だった。天孫降臨の地の碑文のようなものも見たかもしれないが、当時は全く関心がなかったし、覚えていない。アイスクリーム以外で覚えているのは草木の緑と山、草地を渡る風といった自然だ。あれから20年以上がたち、祖父は亡くなり、祖母は寝たきりの痴呆。家族は散り散りになり、会えなくなった者もいるし、会っても昔のように気楽に笑えない。さして楽しかったわけでもないが、あの明るい高千穂に、若くて平穏だったかつての自分たちを思い出したくなる。遠くなってしまったけど、遠くはないような記憶。日本の曙の時代もそんな風に若くて平穏だったのかなという幻想。実際、日本人は昔から古事記万葉集を読んでそんな幻想を大切にしてきたのではないか。最初の和歌といわれる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」は幻想の歌であって、僕にとっては行ったことのない出雲ではなく、記憶と空想の中の高千穂の風景とどこかつながっている。
 さらに付け加えるなら、僕が学生の頃に家族で登った富士山だ。このブログにも昔書いたと思うが、富士山でも日本の風景を神話と結び付けられる。頂上は月面のクレーターのようなので風情があるというよりは異界じみているのだが、それでも美しい女神だという木花之佐久夜毘売を祭る神社がありご褒美となっている。家族にとっては最後の大きな旅行だった。当時、家族はすでにばらばらになりかけていたが(僕もまもなく一人暮らしになった)、あの山頂の時間と空間を共有したのは意味があったと思う。
 もう一つ思い出した。ザ・モモタロウだ。確か小学校4~5年生くらいの頃に連載していたと思う。当時はプロレスなんて子供のじゃれあいとしてしか知らず、興行としてのプロレスシステムにはまったく関心がなかったが、僕にとってザ・モモタロウは絵柄にしてもギャグにおいてもお色気においても教養や情報においてもちょっと背伸びして読める最高の教科書だった(ドラゴンボールは背伸びが不要だし、他には身の回りにはギャグが面白いマンガはなかった)。特に印象に残ったのは、うらしまマリン編とシュテンドルフ・ヤマトタケル編だった。うらしま編は元ネタが、シュテンドルフ編はそれ自体が、いずれも時間をテーマにした少し悲しい話で、今に至る自分の好みの一部を形成している。
 他にもまだ何かあるかもしれないが、僕と日本の神話のつながりはこんなものだと思う。あとはすべて成人してから本を読んで得た知識だ。日本神話は僕の日常生活からはあまりにも遠い。結婚して妻の実家に行ったら、床の間に天照大神を描いた日本画の掛け軸みたいなのがあって、本当に一般人が日常的に跪拝しているのだ知ってびびった。こうしたことのすべてが詰め込まれ、僕にとっては重層的になっているように見えるのがこの『和香様の座する世界』だ。
 やっと前置きが終わった。が、他に書きたいことはもうあまりない。
 一つあった。江の島だ。江の島や湘南といった地名は僕のようなオタクにとっては最も縁遠い場所のように思われるし、今でも基本的にはそう思う。しかし、妻と出会って初めて出かけたのが江の島だった(というか、それ以外にはほとんどデートをしなかった)。カップルがいっぱいいてうざいだろうけど(自分もその一部なのだがとてもそうは思えない)、そんなに遠くないし、いっかという程度の気持ちだった。実際、江の島には何かとても美しいものやとんでもないものがあるわけではなく、ちょっとした散歩ができるだけだ。あとは水族館があるので、間が持たないということはない。まあ、当時はそんな知った風なことをいえる余裕もなく、ただ単純に相手が自分に関心を持って、楽しく話そうとしてくれているということだけで驚きであり、ちょっと感激していたわけだが(今はお互いわがままになった)。
 今考えてみても、江の島は特に厳かであるとか、神気に満ちているとかいうことはない。ただのデートスポットだ。狭い島に狭い道があって神社がごちゃごちゃしているので、何かしらの運動の感覚はあるし、島までの細い道を渡るという水平運動もあるので、適度に疲れるのだが、何しろ人が多いので空気が緩んでいる。そんなわけだから、あんなふうにべんてん様が江の島を愛していると考えると優しい気持ちになれる。神様との緩いきずなだ。そういうきずなを和香様も受け入れている。僕は人の多い行楽地の空気が嫌いだし、もう好きになることもないだろうが、そういうストレスの中だからこそ記憶に残るような楽しい瞬間や温かい気持ちってのもあるんだよな。
 たぶんギリシャ神話も同じような温かさを持つのだろうが、僕はギリシャ語が分からないので神の名や事物のニュアンスを感覚的に受け取ることができない。今回『和香様』を進める中でウィキペディアやら何やらを見ながら、日本神話にも(様々な編集を経たにせよ)きちんとした設定があってストーリーもあったんだと知って勉強になった。
 神々と同じ時間の流れの中を生きるというのは、僕たち人間の、あるいは日本人のオタクの、一つの夢だ。神話の再演はそのようにして古代から延々と続けられてきた。そもそもは、ままならない世界の物理に介入し、世界や自分を解釈しなおすことでコントロールするための技術だ。それは世界や自分を安定させるための功利的な技術だが、他方で、本当の神話の中に埋没して沈殿してしまいたいという思いもどこかにあったと思う。巻き込まれ、巻き取られようが、都ちゃんとの国生みや琉々葉様との竜宮や地上での穏やかな暮らしに安らぎをみる。神代とはいつまでも続いてほしい時代であって、現在へとつながってほしくはない。それはこの物語が鏡の中の物語として閉じ込められていることで達成されているのかもしれない。海の神、不老不死のニライカナイのイメージは、和香様たちに似つかわしい。タイトル画面の和香様と琉々葉様は、赤く染まった空の光の中にいるが、あれは若さに満ちた古代の曙の光だろうか。それとも去り行く神々の黄昏の光だろうか。どちらにしても、神様たちはそのなかで頼もしく不敵な笑みを浮かべている。

 

 感想のさらに余白に。
・和香様と琉々葉様の神様モードの装束が非常に残念。
・最後にやはりいい一枚絵が欲しかった。
・全体的にせっかく古代や神々が題材なのだから、Fateみたいなアクションの絵ではなく、もっと大人向きの幻想的な景色やシーンの絵などが欲しかった。
・冒頭の和香様がポンと飛び出してくる絵は好き。
北都南さんと一色ヒカルさんと青山ゆかりさんは神代の声優。僕のエロゲー神話時代の息吹を感じた。
・久々に男声ボイスも切らずに聞いた作品だった。
・なかなか仕事をさせてくれないエッチシーン(都ちゃんを除く)。恋人というよりは上司だから、あるいは家族だから、という感じでドキドキがない。テキストも照れ気味で中途半端であり、ロミオ作品にしてはフェチシズムがあまりなかった気がする。神々のエロスはからっとしていて、文章で表すのは難しいのかな。メーカーの方針で男っぽいヒロインが多いというイメージだが、そのせいで僕の好みから外れているのかもしれない。
・これまでやった古代日本に取材した作品だと、『天紡ぐ祝詞』と『うたわれるもの』だが、『和香様』も含めて、どれも寂しさと優しさを感じられてよい。自分にとって初めての古事記ファンタジーがこの作品だったのは幸せだ。大ボリュームの続編や外伝も読んでみたいけど、きりがないかな。
・無理に他のロミオ作品と比較する必要はないが、苦労して自分の空間を作り上げようとした『最果てのイマ』とは対照的に、群像劇物の『和香様』では空間は多少の分節を含みつつもどこまでも連続しており、その中を神や人が招き招かれ自由に行き来している温かい世界。
・他にも良質な日本神話ファンタジーを読んでみたい。いつか出雲など古代の聖地に行ってみたい。江の島は次に行く時が楽しみ。

・八重垣の歌の作者とされるスサノオの本作での立ち回りはショックといえばショックだが、このスサノオにはまた違う物語があったのだと思いたいところだ。思えば目から生まれたとされるアマテラスとツクヨミと比べると、鼻から生まれたスサノオは動物じみていて、前半生の乱暴者と天界追放・ヤマタノオロチ退治以降の神はもともとは別人でそれを一つの神につなげた神話であるか、あるいは動物的で精神的に病んだ状態からの回復を象徴する儀礼の神話なのか(ヤマタノオロチスサノオ自身という解釈)、あるいは何らかの編集がなされた神話のようにも思える。ものの本を読んだわけではないのでただの戯言だが。いずれにせよ、本作ではスサノオ本人は登場しなかったが、アマテラスのシナリオにより琉々葉様と藤子が再演した。八重垣の歌はそうしたことがすべて終わったあとのことだ。

欲張りなモニタと控えめな演出

 年末に秋葉原に行ってPCを買い替えて、10年くらい使った小さなノートPC(15.6インチ)からバカでかいモニタ(23インチ)のデスクトップPCになってゲームを堪能する環境が整った。家で仕事をするときはブラウザのタブを50個くらい一気に開いたりすると言ったら、店員に少しパワーのあるものをと勧められて買ったやつだ。中古で合計4~5万くらい、さらに大きなノートPC(出張用)も中古で3万円くらいで買った。どれも新品同様のぴかぴかのパソコンで、いい時代になったものだと思いながら、でかい袋を抱えて家まで持ち帰るところまで含めて秋葉原に通っていた昔を懐かしんだのだが、そこで満足してしまって新しいPCにエロゲーをインストールしていないこともあって、すっかりプレイが止まってしまった。
 久々にやってみたエロゲーはマルセルさんが楽しんでおられるはぴねす2の体験版。前作はその昔体験版をやって断念したのだが、2の体験版をやってその時の違和感を思い出した。僕はこのメーカーの立ち絵の使い方が好きになれないということだ。テキストはそれほどストレスなく読めても(体験版の範囲ではまったりと可愛い女の子を愛でるだけの必要にして十分なゲームという印象で、唯一主張らしい主張があったといえば、花恋のシャツのボタンの隙間がひっそりと開いていて大変すばらしかったということで、高校時代の思い出を昇華してくれた)、立ち絵で割と台無しにされてしまう感があった。すなわち、はっきりしすぎた表情とそれをさらに強調する漫符(ハートマークとか)だ。もっと曖昧で中間的なはずのヒロインの心理状態がデフォルメされてしまう。そのデフォルメされた顔がいくらかわいかったとしても、やっぱりデフォルメ(変形、単純化)なのだ。それをいったらわずか数種類から十数種類の立ち絵であらゆる状態を表すというエロゲーの立ち絵のシステム自体が原理的にデフォルメなのだが、もう少し中間的な表情やニュートラルな表情だってある。ある立ち絵から別の立ち絵への切り替わりは0から1への切り替わりであり(滑らかに動いて変わるように見えるすばらしい技術もあるが)、1つの立ち絵自体は静的である。動きは原則的には複数の立ち絵が切り替わることによって、あるいは複数の立ち絵を想像することによって、複数の中の一つの顔という形でとらえられる。ところが、立ち絵が優れていると、単に止まって瞬きすらせずに凍り付いた絵であっても、ヒロインがかすかに呼吸しながらこちらを見つめているように感じることもあるものだ。そういう息づいている感じがこのメーカーの絵や漫符の演出ではあまり感じられなくて、読んでいて没入が難しい。立ち絵がひょこひょこ動くのも好きではない。システムで漫符を消せれば少しは落ち着きそうな気がするけど、残念ながらそんなボタンはないようだ。というわけでハードルが高いメーカーなのだった。
 昨日ノラととのおまけシナリオが出たとのことで、久しぶりにまたエロゲーをちょっとだけやった。人気投票の結果によるリポーターの小話と、シャチアフターのちょっといい話だ。シャチは高いポテンシャルを感じさせるのにシナリオが短くてもったいないヒロインなので、短くてもこんな風に補ってもらえたのはありがたい。そしてシャチとの花見をこっそり楽しむという話もよかった。なんだかシャチの声が囁き声のような発声ばかりで、それが意図的な演出なのかどうかわからないけどとてもよかった。桜を背景にそんなシャチと向き合うと、自然とメッセージウインドウを消して立ち絵と声を鑑賞せざるを得なくなる。大きなモニタ万歳である。花見というよりはシャチ見になる。令和の宴会から1000年以上経って、こんなにささやかで美しい花見をひっそりと楽しめる時代に感謝だ。肝心の花見のシーンは5分くらいしかなくて、二人は風邪をひかないようにとすぐに帰るのだけど、そうした日常、またいつでも来れるから欲張らないという控えめな喜びが心地よい。シャチといつでも散歩できるなんて実際はとんでもない幸せなのだ。

ブログだけどダイアリー

 はてなダイアリーからはてなブログに移動したので、とりあえず何か書いておこう。たまには日記らしい日記でも。
 今日は久々に親に顔を見せ、外食をしてきた。あまり話し込むことはできなかったが、初めてロシア料理を食べさせてウォッカで乾杯することはできた。近くにある職場を見たいというので、鍵を開けて見せた。こんなことで多少でも孝行になるのならありがたい。
 この冬は週末はほとんど鍋なのだが、今日は生スケソウダラを入れようとしたら寄生虫だらけで妻が泣いてしまったので、なぐさめたりからかったり、ネットをみたりしているうちに夜になった。
 やらなければならないことは何一つ捗っていないけど、やった方がいいことはいくつかやった一日だった。
 平日は帰宅が24時くらいのことが多い。小さな生活だ。
 仕事で名前が売れるのが鬱陶しくなってきた。今年こそは仕事を減らして趣味の時間を少しは取り戻せるかな。このままでは脳のある回路が死んでしまいそうだ。でもこのブログの自分は死なない。ここは現前する文章の国だ。適当でもいいから続けていこう。

ボンジュール鈴木

THE BEST OF BONJOUR SUZUKI

THE BEST OF BONJOUR SUZUKI

 たまらず「やがて君になる」のOPを買ってしまい、ほどなくこのアルバムにも手を出してしまった。完全に「フィット」するわけではないことは分かっているはずだけど、僕はこういう買い方、すなわち何か曖昧な雰囲気みたいなもののにつかまってその幻影を求めてアルバムを買ってみてそれは幻影に過ぎなかったことに気づくような買い方ばかりしている。といってもあまり音楽は買わないほうだけど。
 思い返してみると、「ユリ熊嵐」のOPも耳に残っていたし、OPとEDがなかったら最後まで見ていなかったかもしれないくらいだったし、「くまみこ」のOPと「宇宙パトロールルル子」のEDも印象があった。だからアルバムにたどり着く前に手順は踏んでいたようだ。
 若い頃にジュディマリやチャラ(正確にはあいのうた1曲)にはまったが、好きだったのは声だった。歌詞とか美的センスとかはダメだった。嫌いというわけではないが、どう考えてもオタクの男が入り込んでよい世界ではないからだ。自分は存在してはならず、純粋な耳になるしかなかった。考えてみれば、それは百合の世界を干渉する男オタクと構図的には似ている。
 ボンジュール鈴木もこの系列になる。ある意味でさらに先に進んだようで喜ばしいのかもしれない。キラキラした伴奏の音色は閉塞感があってエモーショナルで、神聖かまってちゃんの音楽を女の子っぽく(実在しない空想上の女の子っぽく)して、しかもサビの部分は大半がかすれた裏声で歌っている(気がする)。技術的に歌唱力があるとかないとか、そういうことはどうでもよくなるような濃密な質感がある。ラップによる歌い出しが多いが、嫌いなラップでさえもこの声、このテーマならかなりすんなりと受け入れられることに気づいた。
 とはいえ歌詞はやはり「素面」で聴くのは難しそうだ。今朝、出勤前にアマゾンで買ってダウンロードし、通勤電車で聴いてみてが、いくらボンジュールといったって朝から聴くにはこってりしすぎている。以前に買ってしまってから何度も聴いている「ヨナカジカル」(「ステラのまほう」ED、これも百合的な雰囲気を持つ作品だ)と同じで、仕事が終わってから聴くべき歌、きわめてボンソワールな音楽だと思う。
 特に一番の目当てだった「あの森で待ってる」の歌詞は救いようがなく非実在的だ。例えば、「5番目のpupee "コレット"」のように丁寧に変態チックであれば、エロゲー的な世界観に近いので受け入れやすい:

毎週水曜日にハートマークして
ショーケースの中で ずっと待ってるよ
壊れちゃうまでいい子のふりしてあげるから
恥ずかしい言葉でも 何だって言うし なんだってやるよ

 ……というか、これは男オタクの存在が少し許されている世界か。それもまたありがたい。
 フランス語を使うクリエイターらしいが、突き抜けた「不適切さ」はフランス語やフランス的なセンス(?)を加えれば不思議と適切なところ(距離感)に収まるのかもしれない。ちなみに、歌のPVを観てしまう誘惑に抗うことはできなかったが、当然ながら観て後悔した。出来が悪いとか、ボンジュールさんの容姿がどうとか、そういう問題ではなく、そもそも実写の事物は映りこむべきではない成分で構成された歌なのだ。
 それにしてもきれいな音だな。好きな音を並べている。夢中で。夢の中で。こういう女の子的なナルシシズムはいいな。


 どんなふうに評価されているアーティストなのか知らずに書いた感想だったけど、音楽メディアでも似たような語彙で説明されているみたいで驚いた。個人的な発見のあったのでそれだけで十分だ。
http://veemob.jp/2015/11/30/boujoursuzukiinterview/
http://meetia.net/music/bonjour-suzuki-best/

滝本竜彦『ライト・ノベル』

ライト・ノベル

ライト・ノベル

 まだ考えがまとまっていないというか、まとめる必要があるのかよく分からないので、書きながらどうするか決めよう。
 偉そうな物言いになってしまうが、歴史がない作品だ。スピリチュアル系の気配が濃厚だ。スピリチュアル系は文学外の絶対的な価値観を根底においているため、歴史と教養といった一般的な価値観、美と技術の積み重ねは二の次になり、しばしば一般的には稚拙で安っぽい技法も躊躇なく採用する。一般的な(という言い方が通用するのかという問いかけはひとまずおいておいて)読者は置いてきぼりにされ、何かを悟ったように語りは進み、終わる。
 そうなるとさすがに宗教小説のレベルなので違うが、本作にはそういう危うさがある。NHKにようこそ以来、読み物としての面白さはキャラクターの一貫性にも繊細な文体によっても保障されていたが、本作では(少なくとも一読した限りでは)複雑すぎるキャラクターの入れ子構造や、文学外に飛び出した図式的・数学的で無味乾燥で「下手くそ」な記述や言語感覚で、言葉の芸術としての作品はところどころ破綻している。「読者に光を届けるために精緻に作りこまれた小説」という説明は、評価軸によっては一瞬で崩れ去りそうだ。キャラクターたちが苦労してみつけたそれぞれの大切なものも、とても壊れやすいようにみえるが、わざわざ壊れる場面を描くのも無益なのでこれで正解なのだろうか。
 本作の元になった文章は滝本氏のサイトで以前公開されていた。NHKにようこそを出してからも道が定まらずいろいろ苦労していた中で、スピリチュアルに「はまって」いたと仄聞することもあったが、滝本氏のブログからはあっち側に軸足が移ってしまった感が出ていて勝手な失望感のようなものを抱いた。滝本氏は言葉の芸術家として技術を磨き、質の高い文学作品を生み出す、なんていう悠長なことをやっている余裕はなく、もっと即物的な救いを捜し求めた結果、「教養」を身につけまいまま、半分文学の外に飛び出してしまったわけだ。そしてそれはスリリングなことだ。
 本作では言葉では芸術として伝えられないことが描かれている。芸術として伝えられないから、「情報」として表示されている。めたとんの不思議な言葉や絵、主人公の母親が哲学に淫して辿った垂直的な宇宙遍歴、美沙のチラシ裏小説群。それらの凄みは言葉で表現され切っていない。確かに一部は美しい言葉で表現されているが、どこかで諦められている。この未充足感は、仮に優秀なクリエイターによってアニメ化されたり「メディアミックス」(このNHKにようこその時代を感じさせる言葉が無反省に出てくるところも遠近感がなくて面白い)されたとしても、きっと同じように満たされることはないだろう。それは欲望の残滓であり徴候だからだ。

 光は僕たちの体の細胞の隅々、心の部屋の隅々、その中にあるいくつもの物語の隅々に流れ込んでいった。

 こういわれたらそう受け止めるしかなく、それを表現する言葉の巧拙の問題は消えてしまう。作者による言葉の暴力といってもいいのかもしれないが、この作者はその暴力をひたすら読者に「光」や「温かさ」にようなものを伝達するために行使するのである。作者が修めたらしい催眠の技法と同じだ。光や温かさは外部からの入力による感覚の一種だが、内部器官の問題でもあるので確かに自分でも主観的に多少はコントロールできる。でも小説がそんなに功利的なものであってもいいのだろうか。本作に見られる混乱というか、散らかった感じは、滝本氏自身がその点についてまだ答えを出していない証拠のようにも思える。本当に悟ってしまったら文学作品はもはや不要になり、教義書で十分になってしまうかもしれないからだ。
 でも分からない。僕の頭はまだ濁っていて、きちんとこの作品を受け入れていないのかもしれない。これが究極の答えであり、滝本氏がもう何も書かないというのなら、この作品を何度も読み返して何かを掘り当ててみたい気もするが、もっと「よい」次の作品を書くというのなら、そっちのほうが楽しみになってしまうのかもしれない。この作品に対する誰かの解説や、さらには作者による解説は、果たして必要だろうか(僕は読みたいだろうか)。この作品を読んだ後に残るもの、得られるものはなんだろうか。大切なものの弱さと寂しさの感覚であり、その感覚が許される空間が存在しているということを知らされた安堵感なのかもしれない。弱いからこそ言葉や何かの温もりにすがりつき、小さな光を手にしたいという夢を抱くことができる。
 なんだかNHKへようこそやその他の滝本小説と似たような感想になってしまった気がするが(以前にサイトで公開されていたときの感想とか:http://d.hatena.ne.jp/daktil/20150802 )、同じ作者なのだから当然なのかもしれない。違うところを目指しても同じところに帰ってくる。それは必ずしも悪いことではないのかもしれない。僕にとっても何か大切なものがあるところなのだろう。

もののあはれは彩の頃。 (60)

 時間は必ずしも線状のものではなく、分断された断片から断片へと飛躍したり、他の断片がオーバーラップしてきたり、どこかが引き伸ばされて高密度になっていたり、どこかが抜け落ちて希薄になっていたりする。そのことを実感するのは「思い出す」という行為を通じてであり、同時にその行為によって時間が線状であるべきであることも再認識させられる。
 双六はそのような時間の機構を露出させるシステムであり、価値としての時間はそれを認識し、統合する主体の問題に還元され、線状ではないので時間の断片を双六のシステムのせいにして好きなように並べ替えられる。本作は複雑なサイコロの盤面がある凝ったゲームのように見えるが、実際にはサイコロを振って運任せにストーリーが進むわけではないので(設定の調整を除けば)けっこうシンプルであり、それを複雑な物語のように見せているのはうまく感じた。時間の流れはどこかに終点を仮構するからこそ感じられる。本作では登場人物が死に飲み込まれようとしている人ばかりであり、賽の河原や反魂法の説話、サイコロという突然死を意識させる決まりもあり、「もののあはれ」の空気が常にどこかに漂っていたような気がする。秋は華やかな彩りが忍び寄る死の陰影を帯びる季節であり、京都という歴史の町は死者の空間であることを意識させる。
 ただし、みさきルートは双六/時間物要素が薄まって、Fateのような古典的な団結&異能バトル展開になってしまったのでやや興ざめだった(最終ルートはさらに大味でひどかった)。その中でも面白かったのは、大誠と縁の対峙のシーンで、ぽっちゃりしたサブキャラの大誠が縁の凶器でミンチにされながらも一瞬で復活するシーンが立ち絵と文章だけで何回も繰り返されながらも、大誠がまさかの本気の説教で縁を救ってしまうというシュールなマゾ展開がよかった(縁の渾身の「寄るなァッ」に切実感があった)。それはともかく、みさきは声がきれいなので話すのを聞いているのは心地よい。
 反対に一番よかったのは、琥珀との橋の上でのシーンだった。琥珀は少し目をそらすことが多いのだが(猫はまっすぐ見られると恐怖を覚える生き物だ)、ここではまっすぐこちらを見て、少しずつ静かに言葉を吐き出す。背景の夕暮れの橋と川と紅葉は、ひんやりと鮮やかに色づいているけれど、死の気配もにじませている。琥珀と何を話したのか覚えていないけど、言葉が揮発しても空気感や琥珀の吐息と声のトーンだけが記憶に残っている。一言ずつ噛み締めながらゆっくり話し、本人が意図しなくても寂しそうなトーンになってしまうのがよい。あえてたとえるなら、オーラがあったときの綾波レイのようだ。その声でエッチシーンというのは楽しいし癒される。とかく裏を読みがちなこの作品のキャラクターの中で、シンプルで大切なことしか話さないのが心地よかった。確認したら、声優の白雪碧さんという方はらぶおぶのイサミさんの人だった。琥珀シナリオは(クレアシナリオも同様だけど)、終わりの気配を漂わせながら双六をあがるのが印象的だったのかもしれない。
 ついでに、本作は涼しげな寂しさと幽玄の気配を湛えた音楽が結構よかった。フレーズが短くてすぐ繰り返しになってしまうので曲数が少ない印象になるのが残念だったが、のん気な日常ともバトル的なやかましさとも違う、秋の空気を感じさせる曲が多かった。双六によってシーンが断片化されていても、すんなりと空気感を作り出していた。こういうのは生演奏でも電子音楽でも変わらないし、むしろ電子音楽のほうが神秘的かもしれない。
 悪かったのはエッチ関連。ストーリーから切り離されていたので高まった末ではなく、平和になった日常で他にやることがないから告白してエッチという流れになったのはいただけない。本編での繊細なやりとりはなんだったのか。かといって本編では落ち着いてエッチもしてられなかっただろう。本編後に回すにしても、もう少し工夫するわけには行かなかったのか。
 ただし、そもそもエッチシーンというのは初回は別にしてもある程度物語から切り離されたコンディションで迎えざるを得ないことが多いので(一気にプレイする時間が取れなかったり、間隔が短かったりして日を改めなければならないことが多い)、ある意味で双六のコマのように前後から独立してしまっていて僕も感情の流れやキャラを忘れかけていることがある。だからエッチパートになってヒロインたちが急にエッチになってしまっても非難できないし、お互いに忘れてしまっているのでさっさとエッチに突入するというのは、現実的でそれなりに味わい深いことなのかもしれない。物語の興奮や感動は遠く置き去ってしまった。目の前のヒロインの自己同一性を保障するのは、その遠く離れ去ったものの影や名残を絵と声と音楽が伝えるからだ。エロゲーはそもそもそういうフラットなものであり、現前するヒロインのまなざしの中に「奥行き」を勝手に読み込むためのものであるはずだ。だからこのエッチシーンの構成は一つの形になっているのかもしれない。…「俺はただ黙々と、この可愛い尻を掴みながら陰茎をひたすらに抽送している。」
 不思議な場面があった。そういえば物語中でも、物部を引き摺り下ろした後のプレイヤーはどうなっているのか、僕たちは主人公たちに憎まれるべき存在なのではないのかということには触れずに流してしまっていたなあ(触れるとHAIN作品になるというのは一つの答えだろうけど)。


 「(私、きみ)は運がいい」というのはロシア語では「(私、きみ)に運んでいる(везет)」、過去形の「運がよかった」は「(私、きみ)に運んだ(повезло)」という。誰が何を運んだのかは明言されない。日本語でも「運」であり、本人が感知できない(あるいは言語化することが禁忌である)何かが何かを運んだ結果、幸せな結果が生じたということだ。たとえそれがいかに作為的であっても、人生にはそういう瞬間があるのだろう。それが大切な人を見つけるきっかけになれば幸せなことだ。

石川博品『夜露死苦! 異世界音速騎士団"羅愚奈落" 〜Godspeed You! RAGNAROK the Midknights〜』

 久々に石川博品の傑作を読んだ!ネルリ以来だ!と思ったが、そういえば後宮楽園球場も四人制姉妹百合物帳も平家さんと兎の首事件もあたらしくうつくしいことばも傑作だったので、ネルリ以来ではなかった。いい小説をたくさん書く人だ。ビッとしている。
 しかしネルリ以来と思えるくらいにすばらしい小説だった。言葉に対する感度が高い作家だから、異世界物といってもファンタジーという異世界、暴走族という異世界、Jポップ風乙女という異世界、青春という異世界が多層的に重なり合って、美しい言葉の工芸細工のようになっていた。文体や表象だけでなく、カズパートとリコパートの間の絶妙なずれ、というか余白が時には滑稽で、時には切なく、惚れ惚れとする。
 パロディ文体の奇形的な進化はニンジャスレイヤーで限界に達したと思っていたが、石川センセの暴走族文体がまた別の到達点になった。中盤は少し中だるみしたように感じた瞬間もあったが(「俺また何かやっちゃいました?」的な展開がベタに出てきているように思われた)、見事な終盤でどうでもよくなった。リコのモノローグだけの部分で終わったということは、カズがどのように振舞い、何を考えていたのかは正確にはわからないし、わかる必要もないということだ。むしろ、カズは途中から「陰キャ」から神話的な暴走族へと変貌しているように思われる瞬間もあったりして、実はリコサイドが現実で、カズの目に移る世界がウソなのではないだろうかと思いがよぎったこともあった。「藪の中」の美しい応用であり、美しい真実は現実を侵食できるものだと思えた。男と女の世界観はこれほどまでにかけ離れているという比喩のようにも思われたが、これだけかけ離れているのにむしろすがすがしい。かけ離れているからこそすがすがしいのかもしれない。いずれにせよ、そう思わせる魔法のような作品だ。
 羅愚奈落や他のヤカラの皆さんの人物描写は浅かっただろうか。人間というよりは記号として描かれていただろうか。人間というよりは、異常な言葉を話す怪物だっただろうか。言葉は動物の鳴き声のように種類が少なくとも、動物の鳴き声のようにうそ偽りなく、全力で発せられる。そんなトロい人間性など暴走族には必要ない。速度の中で生きているのだ。後に残るのは美しい幻だけだ。

花色ヘプタグラム (70)

 温泉街や温泉旅行というものの意義を実感できたことは多分ないと思う。身体と精神の保養の場所ということは頭では分かっているのだが、子供の頃から温泉に何度かいったことがある体験に照らしてみると(特に夏休みに親の実家に帰省したとき)、あまり温泉で癒されたという体験がないからだと思う。癒されるためにはまずは疲弊しなければならないが、温泉に行くための疲弊はせいぜい車での長時間移動によるものであって、疲弊の質としては低級なものに属するし、子供にとってはその程度では疲弊にならない。学生の頃にサークルの合宿とかあったが、湯治場というよりは単なる民宿の風呂だったし、たかだか運動するだけなのにこれほど時間とカネを使うことに対する不満もあったので、正直あまり楽しくなかったように記憶している(一番の問題はまだオタクとして開花しておらず気のあう友人もいなかったことだろうが)。夏に家族で富士山に上り、帰りに山梨の温泉に寄っていったことがあるが、おそらくそれが一番温泉を楽しめる機会だったと思う。しかし、やっぱりちょっと寄っていく程度ではだめだし、家族なのでそれほど楽しくもなかった。そもそも温泉というもの自体が軟弱な感じがして好ましく思えないし、温泉どころか風呂も大して好きではなく、癒しというよりは汗と脂を洗い流してさっぱりする場所という認識なのでシャワーのほうが好きで、冬でも湯船に浸かるよりは長時間熱いシャワーを浴びるほうが好きでお湯を使いすぎだと家族に怒られたこともある。誰の得にもならないおっさんエロゲーマーの風呂情報を共有してしまい申し訳ない。
 温泉や風呂に何の価値も見出さないことは、ある種の男性的な価値観としては大して珍しくもないと思う。アニメやエロゲーに出てくる「温泉回」的な価値観は、温泉を尊ぶキャラクターにも、そのキャラクターを尊ぶ視聴者・読者にも本当の意味では共感できていないと思う。とはいえ、フィクションとしての温泉・風呂には自律的な価値体系もできようものだ。語り方の問題になるからだ。エヴァで風呂は命の洗濯をするところだとセリフを聞いたときにははっとしたし(当然、風呂シーンが単体として印象的に描かれていたというだけではなく、作品の文脈の中で印象的だったからだ)、霞外籠逗留記は(入浴のシーンはあまりないが)旅籠での逗留という文化抜きには語れない。とはいえ、いずれにしても温泉物は湯に浸かるという以外には積極的には何もないジャンルであり、受動的にならざるを得ない。何かを追い求めるような、ぎらぎらした精神性や渇望とは対極にあり、思考を減速してぬるま湯にほぐしていくしかない。それは怖いことのように思える。無用な比喩を用いるならば、ドストエフスキーの文章の代わりに日本の有象無象のだらしないグルメエッセイを無理やり頭に押し込まれるような恐怖。この点で、温泉や風呂は、個人的には食事と同じカテゴリーの事象といえる。以前にマルセルさんに「温泉に浸かっているうちに何でも解決してしまう話」として花色ヘプタグラムをお勧めしていただいたときも、そのような特徴にはあまり惹かれなかった。まあ、欠点が多いよりは何もないほうがまだましかな、という程度だ。マルセルさんはネタばれを避けるために敢えてセールスポイントを強調しなかっただけかもしれないし。というわけで、僕は大した期待もせず、主に絵がきれいだったからこの作品を買ってみた。音楽も温かみがあって不快でなかったのはありがたかった。
 前置きが長くなったが、本編として言いたいことはあまりない。
 この温泉という「何もなさ」、物語のなさをうまく昇華しているなと思えた瞬間がいくつかあった。ひとつは、明日香シナリオでクライマックスともいえるシーンが、一枚絵が出ずに背景画と簡単な説明だけで終わってしまったときだった。あれほど気にかけていた八華。結局、幻は幻であり、今の彼女と築いたこの現実の中では背景に過ぎない。でもそのシーンでは音も鳴り止んだようで、ある種の無を見るような静かな儀式になっていたのがよかった。明日香というヒロインの人柄にも、この作品の雰囲気にも合った処理だったと思う。いづきの暑中見舞いの葉書もそうだ。特にそれらしい一枚絵はなかく、劇的なことは何も起こらないが、とてもよいエピソードであり、それを二人が大切にしていたこともすばらしかった。それから玉美の誕生日のお祝い。主人公の手料理、子供の頃の思い出を再現した親の料理、友達からメール。ほとんどお金がかかっていない、大した手間もかからない思いつき。絵もない、劇的なことは何もない、だけどタイミングだけでこれほど人を喜ばすことができる。洗練された演出だ。玉美シナリオは最後もよかった。幸せな誕生日を過ごし、次の誕生日に二人で思いをはせる。二人で下校した夕方、なんとなく楽しい気持ちになって、子供の頃のように影踏みをする。影踏みのシーンはラストだったしが絵があったけど、こういう何もないふとした瞬間を最後に持ってくるところがよかった。ちなみに、反対に残念な一枚絵がひとつあった。一番最後の絵だ。主人公こっちみんな。
 この、一枚絵のなさというのは、予算的な事情の可能性を除くと、立ち絵の美しさでおつりがくるほどに補われている。作品名に合わせるならば、どのヒロインも特に表情が崩れていないときには花のように美しく華やいだ絵になっていて、ヒロインとお話していると同時に鑑賞しているという感覚がある。例えば、このへん:а, б, в。(逆に言うと、一枚絵のエッチシーンは立ち絵の延長という感じで、やや淡白で淫靡な吸引力が足りないように感じられる。それでも十分にエロいし、日常の延長というのも悪くはない)。玉美はやや地味だが、表情と声がすばらしいのでやはり優しい気持ちになる。誕生日祝いのときに玉美が目を潤ませ迫ってくるシーンは純粋でなんとも雰囲気がよかった。純粋といえば、いづきはシナリオ全体を通して三島由紀夫潮騒のようにストレートでシンプルで美しかった。丁寧語なのもすばらしかった。声も高めでややかすれていて、澤田なつさんのように少し吐息が入るのもよかった。ついでにいうと、声は他にも特に玉美とみゆりがよかった(しかし、明日香の人は感情を出す演技が上滑りしていていまいちだった)。みゆりに関しては、エッチをすると記憶が回復して大人の声になってしまうが、「子供」の頃のほうが可愛いし作中のすごす時間も長いという困ったことになっている。中間の時期もあり、それわそれでやがてうつろい過ぎていく可愛さがある。最後の一枚絵は不出来だが、最後から2番目の神社のみゆりの絵はすばらしく、シーンのさりげなさもよいのでここで終わってもよかった。
 まとめると(別にまとめる必要はないが)、特に温泉的な価値観に共感できるようになったわけじゃないし、御式村の住人にはなれないだろうなと思うけど、そこで咲く七華のように何もないものの上にこれだけ美しいものを作り上げられるのは不思議に思う。最後のみゆりの話で端的に言及されていたように、この御式村の不思議な美しさは維持されていたものであり、やがてヒロインたちは離散してただの温泉保養地になる。温泉はやっぱり背景であって、それ自体にファンタジーはない。それでも女の子を美しくする何かはあるようだ。年寄りくさい物言いになるが、年をとると生み出すことだけでなく生み出しながら守ること、維持することにも気を使わなければならなくなり、分かりやすく生み出す機会が減る。保養の価値観は維持の価値観であり、女の子の美しさも実は維持されている部分があるが、男はそのことに気づかない。エロゲーの女の子は化粧などしないし、基本的に美容に気を遣わない。それはありえない花の美しさであり、そんな花の世話をしているいづき自身の美しさだ。そこに温泉のファンタジーがあるのだろう。

昔のアニメ

 最近、放送20周年だとかでserial experiments lainの話題をみて、久々に見返してみた。観たのは3回目くらいか。最初に観たのはエロゲーを始める前の頃、エヴァンゲリオンで受けた衝撃というか傷を再び受けたくて安倍吉俊氏関連の作品を漁っていた頃、海賊版だか海外版だかよく分からないアニメのDVDをヤフオクで買っていた頃だ。今回は初めて話が割りとすっきりと飲み込めた。ネットワーク用語に関する知識がようやくアニメに追いついたからだと思う。そうしてみると、説明的なせりふを最小限に省き、言葉よりも目や顔のアップや風景などのイメージに語らせようという姿勢が強いのがよくわかり、ずいぶんとよく練って作っていたのだなと思った。インフラの変容が社会の変容につながる物語。唐突に思えた一つ一つのイメージもずいぶんと論理的で雄弁であるように思えた。神話としてのlainと一人の小さな女の子としての玲音はきれいに統合されることはなく、玲音自身の不可避の選択によってほとんどlainのみが残る結末だが、そういう残酷な終わり方にこそ惹かれてしまう。どうにもならないすれ違いだ。今のネットワークはたとえ飛び交う情報は不透明だとしても生態系としてはずいぶんとクリアになってしまったように思えるが、そんな環境でlainという神話が必要とされるかはよく分からず、だからこそ空気のように透明になったlainの痕跡を時折思い出したくなる。
 2週間後、時間が取れたのでついでに灰羽連盟も見返してしまった。こっちは割りと昔見たときの印象に近かった。

幻月のパンドオラ (60)

 こころリスタとこころナビは大変楽しませてもらったが、こちらはいまいちだったかな。この2作にとっての電脳世界に比べると、本作でのゲーム世界はあまり魅力的に感じなかった。個人的にそれほど豊かなゲーム体験を持っているわけではなく、アクションゲームは好きではないので仕方ないか。エロゲー以外で思い入れのあるゲームといえばドラクエ3ファイファン3くらいだが、RPGは本作にはあまり関係なかった。どんなことでも楽しめる精神をウニ先輩は説くが、そこまではちょっとついていけなかったっす。そういうことも含めて、ウニ先輩のまっすぐな若さはよかったけど、口癖とCVがいまいちだった。真切役の成瀬未亜さんはさすがで、安心して聞いていられた。魅力的な女の子として描かれていたし、絵も大変きれいでした。特にベランダに座っている一枚はいいですね。
 最後に途中まで撮っていたスクリーンショットでも貼っておくか。а, б, в.
 次は姫さま凛々しく。他のもやりつつのんびり進めていきます。