雑記(うたわれ実況、アマカノ2、進撃・ゴブスレ)
◆最近は博衣こよりさんのうたわれるもの散りゆくの実況動画をみていた。1回の配信が8~10時間くらいあって(途中でお花摘みタイムが入ったりする)、他にも毎日のように何かしら長時間配信しているらしく、仕事とはいえスタミナがあって好きでないとできないないはず。まったく疲労を感じさせずに夢中で楽しんでいるのがすごい。話し手としてはサロメさんのようなカリスマはないが、作品にまっすぐ向き合っていて反応も安定していて、エッチ方面の反応もよいのがオタクフレンドリー。体を壊さず続けてほしいものだ。
うたわれるものは何年もロストフラグをプレイしていて、今月は水着ニライカと水着シュクレが2アカウントで出たので割と調子がよいが(もう一つのサブアカでは何も出ず、中年ハクがいないのでレベルもまもなく後発のサブアカ2に抜かれそう)、初代うたわれはストーリーをほぼ忘れていたので実況を楽しむことができた。「散りゆく者への子守歌」は単なるコンシューマ移植かと思っていたのだが、戦闘システムを変更してキャラを増やしたリメイクらしく、ロスフラで見覚えがないと思っていたキャラとかもここが初出かと納得したりした。デリホウライ(すっかり忘れていた)やディー(すっかり忘れていた)やミコト(すっかり忘れていた)やクーヤ(そういえば夜におしゃべりに来てたなと懐かしく思い出した)やウルトリィ(そういえば赤ちゃんの子守りの話だったなと懐かしく思い出した。赤子の名前がフミルィルだったのは今回初めて認識した)などストーリーを忘れたままロスフラのキャラとして使っていたが、よい復習にもなった。とはいえ、自分のプレイ時に一番印象的だったシーンである、最後に仮面がゆっくりと降りてくるシーンと、エルルゥの最後の一枚絵のシーンのインパクトは、当然ながら自分のプレイ時の体験を超えるものではなかった。リメイクは3Dのシーンが多くて人形遊び感が強くなりすぎている印象もあった。最後にハクオロが仲間の一人一人と別れの言葉を交わすシーンはあんなに長かったっけかな。続編のハクの別れと似ていて、そっちに寄せて作り直したのだろうか。自分のプレイ時の記憶はほぼないので分からない。あと、一番の違いはキャラボイスがついていることだが、いつもながら確かにキャラの印象がくっきりして深くなる一方で(エルルゥの絶叫とか素晴らしい)、テンポが損なわれる感じも多少あった。自分が初代をプレイしたのは20年くらい前だが、いつかまた声なしで再プレイしてみたいなとちょっと思った。
そうこうしているうちに8月ももう終わり。週末から翌週前半はこよりさんの実況をみる日々が続いている。ロスフラはTo Heartコラボで、あかり、マルチ、カミュを3アカウントでどうにか入手できた。みな強い。コラボストーリー自体は他愛もない話で、To Heartや痕のSDキャラが粗い解像度でそのまま出てきてワイワイやっていた。その感じはLeafの当時の作品のクリア後のおまけとかであったかなというような。ロスフラは話がなかなか進まない。9月はカワタキャラが出るらしいので少しガチャが楽しみだが、やはり進まないのだろう。ハチナイもほぼガチャを引いて時おり短いキャラストを読むだけの静かなゲームになってしまったし(それでも毎日ログインしているが)、FGOとか崩壊スターレイルとか、何か新しいゲームをやるべきなのかもしれないな。そんなことしている場合じゃないのだが。
◆最近は子供がゲゲゲの鬼太郎にはまっており、寝る前にVKで昔のエピソードを見せたりしている。僕が子供の頃に見ていたのは80年代中頃に放送されていた第3期らしく、オカリナの穴から鬼太郎や仲間たちがぴょこぴょこ出てくるアイキャッチをみて懐かしくなった。エンディングに出てくる大きな顔のお化けとか案山子のようなお化けの絵も見覚えがあり、40年くらい忘れていたのに記憶が残っていたことに驚いた。アニメ自体はアクションシーンにせよ脚本にせよ子供向けアニメとして今でも通用するくらい手堅くつくられていて、いいアニメだったんだなと思った。エンディング主題歌の「へへへ、へへへ、ヘッヘッヘ、いうこと聞かない悪い子は夜中迎えに来るんだよ」を歌ってあげると子供が神妙に聴き入り、いたずらが止まるのもありがたい。子ども自身も「朝はメドコでぐーぐーぐー、楽しいな、楽しいな」と歌っていて、口ずさみやすい歌の偉大さよ。第4期のED歌はいまいち、第5期以降はOPも聞くに堪えなかった。
しかし、鬼太郎やお化けの本を見すぎたせいか、子供が極端な怖がりになって少しの時間も部屋に一人でいられなくなり、トイレにも行けなくなってしまったのは失敗だった。お化けはまだ早かった。子供は相変わらず見たがるが、しばらくセーブすることにする。
◆先日、久々に三浦半島に海水浴に行ってきた。妻がやる気を出したので2週連続になった。今回は割と砂が細かくて石が少なく、泳ぎやすかった。子供も最初は怖がって泣いていたが、一度岩場でカニや貝をとって遊んだ後は浅瀬で波に揺られて遊んでいた。なぜかロシア人の家族もいたので挨拶した。あと、灯台のところに行って貝殻を拾ったりした。早起きして8時くらいには及び始め、昼過ぎには帰宅の途に就くのだが、帰りの高速で眠くなってしまい少し怖かった。せっかく車もあるし、年に一度は海に行くのはいいな。
◆アマカノ+がエッチシーンに入ってしまった時の骨休めなどに先日からアマカノ2を始めているのだが、ボリューム感がすごくて圧迫される。ちとせが身体を斜めにしている立ち絵はとんでもない盛り上がりと厚みをみせていて、風景画の山塊の質量感を観照するようにしげしげと眺めてしまう。ちとせと玲が身体を向き合わせている立ち絵を見るたびに、中国内陸部の峡谷を流れる川を小舟で下りながら迫りくる岩塊の迫力に押されるような感覚を覚える。エロゲーのヒロインを眺めてムラムラしつつ、一方で風景画を鑑賞するような楽しみも味わうことができる。今期のアニメ『瑠璃の宝石』のヒロイン二人のたくましい身体を鉱物を算出する大地を象徴する大地母神に例えている人がいたが(瑠璃ちゃんの足のごつさは社会主義リアリズムのデイネカの絵の女性の足を彷彿とさせるものもあり、金槌を振るう美少女たちを描く『瑠璃の宝石』は21世紀のソ連アニメとして見ることも可能だったりするのだろうか)、アマカノ2のヒロインたちにもそのような大地母神的、あるいは社会主義的な肉体賛美をみることができる。パッケージ絵ではみんなの目が切れ長すぎてちょっと厳しいかなと思っていたけど、立ち絵はそんなことはなくてよかった。
そのような驚きが一服すると、秋の柔らかい光が絶えず浸透しているようなこの作品のヒロインたちの優し気な表情をみながら、もうこのシリーズでは将来の結婚まで描かれるのがだいたい確定されているので、特に一枚絵をみていると「ああ、この女の子と結婚するのか。今はこんな高校生だけど」という未来から現在を回想するような感慨がしみじみと沸いてきて、何だか今の自分だどこにいるのか分からないような涅槃の空気に包まれる。けっこうとんでもない作品なんじゃないかなこれは。
ちとせルートに入ったのだが、初めてのエッチシーンに至るまでの流れが素晴らしかった。はじめは添い寝だけ、次は下着で添い寝、次は風呂に入って裸を見せ合うだけ、次は手でしてもらうだけ、次は手でしてあげるだけ、というふうに何日もかけて数学的な規則正しさで次第に完全なエッチに近づいていき、主人公も従順にそれに従う。このじらしの厳粛さに思わず笑ってしまいそうになるのだが、しかしそこにはちとせの神聖な無垢さがあり、主人公も至極真面目にちとせを思いやっているので、こちらは笑うわけにはいかず、夏なので下半身を開放したまま、優しく長く引き伸ばされた前戯に酔いしれるしかない。この完全にユーザーを信じ切ったつくりがアマカノの真骨頂だ。初エッチの次の夜あたり、今度はちとせが恥ずかしそうに裸で添い寝してくれるのだが(裸で寝るのが好きらしい)、この裸なのに添い寝するだけで、しかもそれでお互い納得して幸せを感じているというのが素晴らしい。これはフィクションでしか描けない、エロゲーでしか成立しない美しいじらしだ。アマカノの世界は基本的に主人公とヒロインしかいなくて、人生を描いているはずなのに全てがエッチシーンかその前段階であるような狂気じみた世界なのだが、それでも人生の中でのこの時期をブラックホールに次第に近づいていくよう何かのように無限に引き伸ばすのは正しい。
アマカノ+の方は少し進めたが、聖が実は依存キャラなのがやはりよい。
◆7~8月は立て続けにAbemaで「進撃の巨人」の2期から最後までと「ゴブリンスレイヤー」2期を一気に観て、中年のおっさんの時間の使い方としてあまりに情けないのだが、それでもどちらもけっこう楽しめた。進撃の巨人はもう観てから時間が経ってしまったのであまり感想を書く気がないのだが、ミカサが最後までエレンへの思いを貫くことができてよかった。エレンは結局終盤は燃え尽きたみたいになっていて、未来を見ることができるという設定のせいでややこしくなってしまった観があった。あとは火だるまになって燃え尽きたハンジが印象的だった。ピークが可愛かった。しかしこの閉塞感(壁と巨人)と開放感(立体起動装置のアクションや外の世界への夢)がごちゃまぜになった奇妙な暑苦しい物語が、世界中のオタクたちにある程度共有されたというのは不思議なことだな。ゴブリンスレイヤーの方は、2期を冷静に見てみると、まさしく純粋なセックス&バイオレンスであって、登場人物に固有名がなくて「ゴブリンスレイヤーさん」とか「耳長の」とかしか呼ばなくて、ゴブスレの顔とかいう不要情報が排除されて(他の男キャラもドワーフのおっさんと人外のリザードマンなので男情報は慎重に排除されている)、いつもかっこいい鎧と兜しか描かれないというストイックさがバランスをとっているようにみえた。各キャラは自分のステレオタイプをそれぞれ全うするだけであって特に機知に富んでいるわけでもなくけっこうダサいのだが、女の子たちにかっこ悪い固有名がつかないのは素晴らしく、女神官ちゃんや女大司教さんや牧場娘ちゃんを純粋にその視覚情報と声だけで記憶に刻むことができるのがよい。いかにこのゴブリンスレイヤーの世界が箱庭的なままごとであったとしても、このストイックさとみんなの声や姿から伝わるものに嘘はないと思える。
ハッピーライヴショウアップ!その2
ハッピーライヴショウアップ!その1 - オネミリエ の続き。
「第1幕」の終わりまで。本当に実況的に垂れ流しているだけで、必要のない記録なのかもしれないが一応残しておく。この作品が自分にとってきわめて特別なものになることはすでに分かっている。
あと、大量のスクショがあるので怒られたりしたら修正するかもしれない。
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滝本竜彦『超人計画インフィニティ』、石川博品『魂たち』
単行本化していたことを最近知って読んでみて、相変わらずの健筆でよかった。『超人計画』にはどんな感想を書いていたっけと見ようとしたが、どうやら感想を書いていなかったらしい。そうか。『超人計画』を本棚から久しぶりに引っ張り出してきたら、背表紙が褪色して寂しい風合いが出ていた。インフィニティの方は表紙の著者の写真がきつくて、前作みたいに安倍吉俊さんの可愛いレイちゃんのイラストを載せておけばいいのにと思ったが、僕の記憶違いでレイちゃんのイラストは文庫版だけだったみたいで、手に取った2003年のソフトカバー本の表紙はインフィニティと同じく著者のきつい写真だったことを思い出した。別に滝本氏の外見がきついというわけではなく、むしろ清潔感のある比較的整った顔だと思うが、自意識丸出しというか自意識以外には何もないような本の表紙としてはきつすぎるということであり、それをわかっていて突きつけてくるのだ。読者を安心させず、何かに駆り立てようとしてくる。
前作をパラパラとめくってみたところ、ハイテンション過ぎてちょっとついていきにくそうなところがそれなりにあることに気づき、自分も常にヒリヒリした現在しかないはずの滝本氏の文章も相応に歳をとってしまったのだなと寂しくなった。ブログに感想を残さなかったので(ブログを始める前に読んでいたのだろう)当時の読書体験の印象はほぼ失われており、内容も忘れていたが(NHKはマンガやアニメでがあったのでコンテンツとして延命され、内容も記憶された)、当時の自分にとってはかなり衝撃的な本だったはずだ。内容を忘れていたのは、悪乗りっぽいきつさもあったからかもしれない。ちなみに、本作は表紙カバーを外すと真っ白な地に英語で署名と著者名が記されただけのそれっぽい洋書のようなデザインになっているので、そこを隠せば電車の中でも読むことが可能だった。
本作は落ち着いた読みやすい内容になっていて、アラフィフになった滝本氏がアラフィフになった僕に向けて書いた作品だったといえるかもしれない。現在の滝本氏の生活がどうなっているのかは全く知らず、この本の主人公の極貧の限界氷河期生活は脚色されたものである気もするが、それでも主人公の語りに中では現在と過去はほぼ同質なほどに地続きになっているので(まるで2010年代がスキップされたかのよう)そこまで気にならない。おっさんらしく性欲や他人への関心が枯れ気味なのでほどよくブレーキをかけられるのはよいし、活力の枯渇は致命的なことなのでにわかには受け入れがたいのもわかる。音楽制作に関するパートは、自分は滝本氏の音楽は聴いていないのでよくわからなかった。物語は超人(とレイちゃん)の極貧生活エッセイから青山さんの登場で超人のラブコメへと転がっていき、ラブコメは予定調和的に成功しないが、それでも主人公は青山さんと再会して「歩き出す」。これを著者は主人公の成長を描いたビルドゥングスロマンだと称しているが、成長したかしてないかは重要ではない(誰でも時間が経てばある部分では成長し、ある部分では成長せず、ある部分ではむしろ劣化するだろう)。それにしてもやはりお金なのかと寂しくなる。滝本氏はNHKで成功して一時期は派手な生活を(鬱状態で)送ったことがあるらしいので僕とは根本的に認識の断絶があるのだろうが、これだけお金におびえる人生を送らなければならないなんて(アラフィフでもこうなのだから、残念ながらほぼ人生のすべてがこうだったようなものだ)何か間違っているはずだ。女性に何か贈り物をしようとして、ダイソーに何か面白いものがあるかなと考えると、「100均のものをもらって喜ぶ女性なんてどこにいるの」とレイちゃんが突っ込む。確かにそうでした。すみませんでした(自分なら嬉しいけどな…)。それにしても、本書で20年ぶりくらいに呼び出されたレイちゃんは老いてゆく寂しい男性にとってますます有能な存在だった。その実用的なアドバイスは、普段その手の実用書や自己啓発本を全く読まない僕の心にすっと届いてしまい、元ネタが胡散臭そうなのでかえって不安になるくらいだ。彼女と「超人思想」を人生の両輪にして生きていく。僕にはそこまでの勇気はないから、その思考実験(と実践?)をしてくれる滝本氏に感謝している。
作家としての滝本氏の集大成は、おそらく今のところは2018年の『ライト・ノベル』だろう(感想)。それを書いた後にも人生は続いていき、過去の呪いであるかのような温かい本書が生み出されてしまうことは、『ライト・ノベル』の必要性をあらためて高めるのかもしれない。今から20年後、70歳が見えてきた滝本氏は、『超人計画ファイナル』のようなものを書くだろうか。この20年はいろいろあったようで一瞬だった。
『ボクは再生数、ボクは死』のスピンオフ短編集。3編のうち2編(「キャッシュマネーフェスティバル」と「殺戮の街」)は以前にカクヨムで公開されていたものを読んでいたが、やはり質がよいのでまた読んでしまった。新作の「二十一世紀の乙女たち」はシノのアバターを制作したぱおぱお氏をめぐる物語で、『ボクは再生数、ボクは死』のもう一つのエンディングを見せてもらったような感じだ。ぱおぱおとその伴侶の関係が『ぼくたちのリメイク』の主人公とシノアキの関係によく似ていて、天才女性クリエイターを横から(後ろからか)そっと見る喜びと寂しさを再び味わえる。しかしこの静かな生活。ハッピーエンドのはずなのに寂しさに満ちているのはさすが石川先生だ。『冬にそむく』の余韻も残っているような…と思い返そうとしたら、『ぼくたちのリメイク』と同じエントリで書きかけの感想があったのも何かのめぐりあわせか。
『ボクは再生数、ボクは死』の作品世界の広がりを感じさせる短編集だった。シリーズ化してくれたら嬉しいが難しいのかな。あと、石川先生がエロゲーのシナリオを書いてくれたらというのもささやかな期待だ。今回、本格的な18禁描写もあったし、どこかでそういう企画出ないかな。
トラペジウム
ツイッターで熱心に勧めている人がいたのでちょっと気になっていた作品をみてみた。自分はリアルなアイドルは生身すぎて関心がなく(アニメキャラと違って目が小さすぎるし、鼻や口が大きすぎるし、髪の毛が重力に逆らっていないし、しゃべり方も不快だし、知性もあまり感じられないし、でも感情は制御できていないようで見ていていたたまれなくなる…)、原作者を知らないどころか乃木坂グループの歌も3秒以上聴いたことがなく、テレビに映っていたらそそくさとチャンネルを変えてしまう人間なので、たとえアニメであってもアイドルものの作品を鑑賞するときにはいつもどこか受け入れきれないものがあるのだが、でも人がこれだけ熱心に勧めていると気になってしまう。
というわけで、ついに限定生産版DVDを買い求めたのだが、半分くらいは作品そのものに対する関心というよりはファンの熱意に対する関心というか、なんかすごいらしいのを楽しみにしてのことだった。まもなくアマプラで配信されるらしいのだがこういうのは手元に置いておくべきなのだろうし(何度もみているうちに脳が変性してしまうらしい)、そもそもアマプラ会員ではなかったので自分には関係なかった。そうして原画集をパラパラみたりしている。
こんなふうに事前にハードルを上げてしまい、PVもみて大まかなストーリーを知ってしまったので、正直なところ最後まで、いつになったらエンジンがかかるんだと思いながらみていたところがある。劇場アニメなので実際に短く、無駄っぽいエピソードを積み重ねてキャラクターに感情をなじませる時間があまりとれない。自分にとっての問題であるアイドルの魅力、アイドルはこれほどまでになりたくなるものなのかということは結局最後までほとんど説得的に描かれず、なりたいという熱意と目的意識ばかりが描かれており、目的意識の高い主人公にしても田中ロミオ作品とかでおなじみなのでそれほど過激には見えなかった。最後に夢をかなえてアイドルになったゆうが登場するが、その彼女もインタビューで個性のない受け答えをしていて(注意深く聞けば言葉の裏に公にできない彼女個人の感情が隠されていることを想像できるが)、ありふれたこぎれいな女優みたいで特別な可愛さはないし、とても「光っている」とはいえなかった。と思ってふと冒頭のOP主題歌の部分をみてみたら、ここでゆうにとってのアイドルの魅力が少し描かれていたのだが、まだ話が始まる前だったからぼんやりしていてあまり注意していなかった。
光るといえば、作中で唯一演出が面白いなと思ったのは、終盤になって未完成だった歌を4人で歌った後に、3人がゆうに話しかける場面だった。陽が沈んで空が紫色になり、電灯がともり始める時間のシーンであり、電灯の光を受けたらしい3人はそれぞれ薄暮れのなかでぼんやりと光っているように描かれていた。これをみて、ふと、本当はCDを買ったのはゆうだけで、やってきた3人はゆうがみた幻なのではないかという気がした。そういう気配のある演出だったように思う。結局、ゆうは3人と和解することはできず、バッドエンドに進む。そして、3人と和解してアイドルになる夢をかなえ、大人になった3人と再会して10年前に撮った写真をみて幸せな気持ちになることを夢想しているだけなのではないか、物語はゆうがCDを買ってあの展望台に上がったところで終わったのではないか。実際にはそんなことはなく、素直にハッピーエンドだったのだが、そういう暗さのある個人的なトーンが似つかわしい作品に思えた。一歩譲って、3人と実際に和解したとしても、ゆうは結局アイドルになれず、別の形で自分の道を振り返るという結末でもよかった気がする。最後の最後でゆうは、「夢をかなえる喜びは、夢をかなえた者にしかわからない」と独白するのだが、夢をかなえたと自信を持って言えない僕にとっては対処に苦しむセリフなので、こういう分かりやすいバッドエンドを欲しがってしまうのかもしれない。夢をかなえたゆうは、手の届かない向こう側に行ってしまったということだろうか。これは何回もDVDをみる苦行を行って脳を変性させないと解けない謎なのかもしれない。その苦行の果てに彼女が光ってくるのかもしれないが、光らない地味な彼女であるからこそ、光らないけど強い思いに駆動され続ける彼女の物語の魅力というものもある。
ともあれ、サクセスストーリー自体はふわっと描いて、ひたすらゆうの苦闘とけばだった感情を描き続けたおかげで、彼女や他の3人の笑顔が輝き、ED主題歌が響くような構造になっているらしい。と思ったら、こちらの人がゆうの視界の狭さと歪み、そしてその外に広がっていたはずの景色についてずばずば書いていてなるほどなるほど。いずれにせよ、トラペジウムは観て楽しむ作品というよりは思って楽しむ作品であって、それを確認するために観るという作業の駆り立てる中毒性があるということになるのかもしれない。あとはこちらも参考になった。他にも漁ればいろいろ読み応えのある感想が出てきそうで、これが本作を手に取った大きな理由なので、後で漁っておこう。ED主題歌は自分探しについてのストレートすぎる歌だが、実際に「遠回り」した4人が歌うと響くものがあるし、メロディもしみじみ聴けるものになっていよい。奇跡としてのハッピーエンドにも納得してしまうなあ。
追記。奇跡ということでいえば、ゆうがアイドルになれたことよりも、彼女の空回り、彼女の間違った努力が、運よく4人を結びつけて予定とは違う形で仲を深めていってくれた優しい奇跡の連続の方が重要なのかもしれない。それは間違いだったとゆうが認めたときに、それでもよかった、楽しかった、青春だったと仲間たちが間違いを塗り替えてくれたこと、そしてそのおかげでゆうも前に進めたこと。それが奇跡の力の秘密ということであり、それにたいしてゆうはありがとうと言ったのだろう。この作品はアイドルになれた奇跡というよりは、そこに至るまでの小さな奇跡の連続を見守る物語だったということなのかもしれない。
追記2。ゆうの努力が間違っているというのは外からの視点であって、彼女自身にとってはその時にできる最善のことを全力でやっていた。まわりに向ける悪意があったわけでもなく、たぶん本当にまわりを笑顔にできることが幸せだと思っていたのだろう。自分が信じて全力でやっていたことが間違っている可能性というのは怖いことであって、そんな中で助けてくれる何らかの善意が奇跡的に存在するということがこの作品の魅力なのだろう。
追記3(6月15日)。詳細なイベントレポートを読ませて頂いたりして(1,2;しかしこの方のレポートスキルがプロを超えるレベルで戦慄する)、ゆうだけでなく他の女の子たちが抱えていた弱さ(シナリオで表立って発展させずにさりげなくほのめかす程度であり、ほとんど裏設定じみたレベルのものもある)を認識した上で改めて思い返すとまた味わいが違ってくる。そもそもゆうの思いつきが成功してアイドルとしてデビューして成功する可能性はもともと低かったのだろうし、案の定すぐに限界が来たのだけど、ゆうはそこにかけるしかないと思った。それは他の3人にとっても必要なことだったのだろうけど、別にアイドルとして仲良くならなければならなかったわけではない。でも人生は「なければならない」だけで進んでいくものではなく、「なってしまった」ことの方が多い。
よみうりランドのバンジージャンプと房総の海岸は偶然僕にも経験があって、代々木の駅前は今でも仕事で通ることが多い。どれも今となっては大してよい記憶ではないのだけど、この作品でそのイメージが少し塗り替えられ、浄化されていく。アニメを観るというのはそういう側面もあるな。
それから原作小説も買ってしまった。小説自体というよりは半分以上は表紙イラストがよいから購入した。まだちゃんと読んでいないけど(表紙を眺めるだけで満足してしまう)、ゆうの一人称で描かれるのでアニメとはかなり違った印象になりそうだ。アニメはこれを3人称に変換しつつも一人称的な視点を細かい描写に散らすことで、毒を薬に変えたような不思議な味わいの作品をつくることに成功させたのかもしれない。
追記4(6月20日)。
原作小説を読み終わった。何ともいわくいいがたい代物で、アニメを観ないでこれを読むだけだったら読み流して「自分には合わなかったな」で終わってしまっていた可能性が高い。これを読んでも結局、なぜゆうがこれほどアイドルに惹かれるのか、その魅力は分からない。アイドルが光る、というのはただのキャッチコピーであって、この小説自体、作者のセルフプロデュースの道具なんじゃないかと邪推したくなるところだ。晴れてアイドルになった後が描かれているエピローグの異様さは変わらない。アイドルという職業が特に楽しそうには描かれていないのだが、それでも本人は幸せだと言っている。何のために書かれたのか腑に落ちないエピローグ。それは人の人生に意味なんてないこと、確定した物語なんてないことと同じで、作者もキャラクター達も個々の読者もばらばらな方向を向いていて、それでもいいんだ、それが普通なんだと言われているような感じなのかもしれない。そんなみんなが共有できるのは、夢を追ったり追っていなかったりした高校生の頃の時間と、その果てに現在の自分がいるという認識だ。見方によっては寒々しい結論だし、改めて人から言われるようなことでもないのだが。
素直に受け取るなら、アイドルになる前の戦いが本編であって、その後はおまけということになる。そう考えるなら、ゆうの一人称の語りに日本語として稚拙な表現や行き当たりばったりの雑な比喩が多いことも、露悪的な言葉が多いことも、高校生の自意識を反映した文体ということになるが(エピローグでも変わっていないので作者の素なのだろうが)、それを生のまま読者にぶつけるという趣向。そうしても作品として成立するだけの強さを持ったものとしてゆうのキャラクターが設定されているともいえる。意地悪く言えば、可愛い女の子が一生懸命頑張っていれば、内面はすかすかで可愛くなくても外からは分からないので、応援できてしまう。それで務まってしまうのがアイドルという仕事だ(知らないが)。
そういう読後感を抱いてしまうのだが、これをゆうの一人称ではなく、絵(アニメ)による三人称の物語として描くと不思議なことに優しい物語にもなりうる。ゆうの姿を見ずに話を聞いているよりは、語らないゆうが動いているのを見る方が、実は世界は優しかったということにできるので、アニメ化の功績はそこにあるのだろう。ゆうがアイドルという夢を一瞬忘れるくらいに他の三人と楽しく過ごしていたことを示唆する瞬間がある、というかそういう瞬間をねじ込んでいて、例えばそれをシンジが写真に撮っていたりもする。苦しい時もあったけど、楽しい時もあったと振り返るためのツールとしての視覚表現。人は視覚に騙されるのかもしれないが、時には救ってくれるのも視覚だ。そもそもゆうがアイドルに憧れたのも、子供の頃にテレビでアイドルを視たことが始まりだ。ゆうは言葉で表現すること、聴覚的な表現は苦手らしく、「本心」は基本的に隠して話そうとせず、言葉ではなく視覚的な「可愛さ」(言葉も可愛さの一部なのだろう)で人を笑顔にすることを夢見ている。そこには何の悪意もないし、実際にみんな勝手に笑顔になっていた。寒々しいようで温かい話だ。世の中にはもっと悲しいことや強い悪意なんかがあるのだろうけど、アイドルはいちいちそんなことに寄り添って受け入れたりはしない。相手のことをよく知らなくても可愛さで浄化できる。そういうやり方もある。それがゆうのやり方であり(くるみは正反対なのかもしれない)、それを実践するためにアイドルへの強い思い入れが必要なのだろう。とりあえずそういうことにしておいてから原作の表紙をまた眺めてみる。
これでこの作品を消化したということにしておいていいだろうか。また気が向いたら観直してみようかな。
ハッピーライヴショウアップ!その1
前から一度はエロゲーの実況プレイをやってみたいと思っていた。手抜きでもくだらなくてもいいから、自分が楽しんでプレイした記録をいろいろな形で残しておきたい。けっこう人の実況プレイとかも好きだし、自分も一回くらいはやってみよう。と思っていたことをふと思い出し、ロシアネタのゲームだしちょうどいいだろうということで、お試しでとりあえずOPムービーが流れるまでやってみた。動画を撮るのが本当の実況プレイだが、自分の声は聞きたくないので文字だけ。実況といってもただのプレイメモのつぶやきと画像の羅列だし、ゲームに慣れたらだんだんコメントが減っていってしまうと思う。このブログにキャプチャをたくさん載せられるのか、載せていいのかはよくわからない。終わったらいつものゲーム感想も書くかもしれないし、今回で実況に飽きるかもしれない。でもとりあえずこんなご時世だからこそ何も気にせずロシアネタを楽しみたい。というわけで、ヌー・パイェーハリ!
続きを読むバンドリのこと
連休はだいたいバンドリシリーズのアニメを観ているうちに終わってしまった。流れとしてはBlack Sheep Town → 久々にMusicusの感想を読み漁る → アベマで無料公開していた同じバンド物のバンドリを1、2、3、MyGoと続けて観る(モルフォニカはテレビでやっていたのを先日観た)となる。ついでに、最近はAve Mujicaで裏方として活躍していたSOUL'd OUTのベストアルバムをいまさらながら買って聴いたりもしていた。Musicusには音楽とその背景となる物語を切り離すべきだと主張するキャラがいて、バンドリではもろに物語につなげる展開が多かったりするのだが、自分としてはやはり音楽をめぐる情念の物語が好きなのだろう。バンドリを一通り見終えた今なら、チープに聞こえた音の裏にそれを奏でるキャラクターの姿が思い浮かんでより身近に聞こえる。客がライブハウスに足を運ぶのもそういう部分が多いのかもしれない。臨場感(あるいは没入感)というのは知覚できる情報が重層的であればあるほどよいということ。
ChatGPTによれば、バンドリとラブライブを比較すると、前者は写実的・現実的で、後者は幻想的・理念的であり、それは脚本の文体から物語の展開やキャラクターデザインに至るまで様々なところに現れているらしい(1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8)。投げた質問が図式的だったから回答もこんなに図式的になってしまったところがあるのかもしれず、眉唾な部分も大いにありそうだが、仮にバンドリが写実的で現実的であるとすると、それはこれまでに「夏色キセキ」や「菜なれ花なれ」でも感じられたような綾奈ゆにこ脚本アニメにおける会話やストーリー展開のテンポ・脱線・間のつくりかたがバンドリでも感じられたからかもしれない。この緩さや余白については夏色キセキのスタッフコメンタリーで水島精二監督が語っていて、地味なんだけど花田十輝脚本作品にはない渋い特徴であり、作品受容に窮屈さを感じさせない柔らかさにつながっているような気がする。
以前にも書いた気がするが、バンドリに興味を持ったのは「ぼくたちのリメイク」のアニメOPで流れていたPoppin'Partyの歌「ここから先は歌にならない」の戸山香澄(愛美さん)の歌声で、KOTOKOさんみたいに歌える人が他にもいるんだと思ったことがきっかけだった。香澄は見たままのキャラクターでそのまま突っ走っていった。かけあいで面白かったのは市ヶ谷有咲で、MyGoの椎名立希(「は?」)と同じく、突飛なキャラに振り回される突っ込み役がバンドリでは冴えているように思う。あと有咲はなんかエッチなのでその点でも人気が高そうだ。
振り返ってみると、バンド物の物語というのは結局、バンドを結成したり、解散の危機を乗り越えたり、どこかでライブを成功させたりすることの話になってしまって、これまでにさんざん摂取して飽きているはずなのに気が付くとそこに落ち着いているので、その枠組みではなくそこに至るもっと細かいところを楽しめないとだめなのだろう。バンドリではその点楽しめたし、これらの要素が(アニメ内では)あまり描かれなかったRoselia(というか湊友希那の安定感)、Pastel*Palettes、ハロー、ハッピーワールド!(というか弦巻こころの非現実感)などもそれぞれ個性的で楽しそうに描かれていた。ウィキペディアをみると、ソシャゲもあるためか各キャラの設定や物語がかなりたくさんあるようで、それがアニメにも奥行きを与えているのだろう。
Poppin'Party以外にも定番の物語がフルセットで展開されたRaise a suilenとMyGO!!!!!もそれぞれ面白かった。特にMyGOの方については、先にAve Mujicaを観てしまっていたので、愛音とかそよとかこんなキャラと物語だったのかという楽しさもあった。MyGOとAve Mujicaはそれまでの仲良しバンドアニメではなく、いつになっても仲良くなれない、いつバンドが崩壊するか分からない緊張感があり、歌がすべてをなんとなく解決してしまうわけではないのもよかった(観ていて疲れたかもしれないが)。Ave Mujicaは大仰なストーリー展開にはやや冷めてしまった部分もあったが(3Dキャラの美しさと演出の切れ味でもたせた)、It's my goの方は高松燈がコミカルな面でもシリアスな面でも「おもしれー女」としてパワーがあって最後までだれなかったし、歌声もよかった。歌声についてはセレプロの八木野土香を演じた人(羊宮妃那さん)だと知って納得した。
とはいえ、バンドリシリーズを通じて個人的に刺さった歌があったかというと心許ない。いいフレーズや音があったとしてもどこかで出会ったカッコよさの再現であることが多くて、このバンド、この歌でなければならない必然性がない感じがする。もっと音楽に詳しい人が聴けば個性がはっきりわかるのかもしれないが、僕にはどれも似たようなアニソンに聞こえてしまう。たとえ愛美さんや羊宮妃那さんの歌声に個性があったとしても、伴奏も含めた全体ではそれが薄れてしまうというか。羊宮さんの声や語りはかなり独特なのでMyGOはバンドリでは一番個性的かもしれないが。作中では楽曲についていちいち技術的に説明されず、女の子たちが頑張れば「自然」にできてしまうわけで、創作の神秘についてはあえてブラックボックスにされ、視聴者の想像にゆだねられている。これはバンドリに限った話ではないし、たぶん音楽に詳しい人にしかわからない楽しみ方もあるのだろう。
というわけで、以前に駅の看板などで見かけてもうっとうしいなとしか思わなかったバンドリとようやく出会うことができ、ラブライブやアイマスよりはこっちかなと思うに至った。とりあえず今はMXの再放送を録画するなどしているが、また新作アニメが出るなら次はきちんと観てみたい。
Black Sheep Town (80)
やはり心の健康のためには時おり瀬戸口作品を読むことが必要なようで、ヒラヒラヒヒルから1年半くらい開いてからだったので栄養が染み渡る感じがした。本当はもっと早く読みたかったけどSteamはログインのパスワードを忘れてしまい何だか面倒そうなので放っておいたら、ありがたいことに安価な物理パッケージ版が昨年末に出ると知ってようやく手に入れることができた。デフォルメ強めのマンガ寄りのキャラデザなので少し不安だったが、始めてみるとすぐに慣れ、小さな口絵のようなキャラ表示も見やすく、まばたきしたりゆらいだりするアニメーションもとてもよかった。女性キャラはちょっと目が大きすぎる場合もあるけどみんな可愛く、男性キャラはジェフリーとかフェルナンデスとか渋いおっさんが特によかった。控えめなアコースティックな感じの音楽も疲れなくてよかった。声なしだったがテクストに集中できたのはよかった。
ギャングややくざ物のジャンルには詳しくないのでジャンル的なリアリティがどれくらいあるのかよく分からないが、Y地区という町の雰囲気が五感で感じられるように何度も重層的に描かれていて、読み物として面白く、没入感があったのはやはりノベルゲームならではだ。たくさんの登場人物のモノローグ(アーカイブとされる「作者」のモノローグも)の語り口からもその雰囲気は感じられる。
中盤から人がどんどん死んでいく。死ぬ前に何かを悟ったり、満たされたりする場合が多いので、そういうシーンがあると死亡フラグにように見え始めてくるし、知っている人がどんどん死んで物語終わりに近づいていくとひんやりした涼しさが漂い、そういう涼しさや無常観を抱えながらもそれまでと同じようにどうにか生きようとする人々の切なさがギャング物や殺し屋物の醍醐味なのだろう。この作品はそれを十分に堪能することができるし、瀬戸口作品のいつものツボもそれに近いところにあるようだ。さまよえる羊には暖かい毛が生えているので涼しいところでも生きていけるのだが、それを刈られて哀れな姿をさらすこともある。人生はどうやら苦行や悪夢のようなもので、人生の休日は死ぬときにようやく訪れるらしいのだが、それでも改めて振り返るとそうして生きてきたことに何らかのきらめきを感じたり、大変だったけどやりきったというささやかな満足感を得られることもあるらしい。でも基本的にはつらい。この作品で一番印象的だったシーンの一つは、太刀川先生が死ぬ前に、ミアオが死ぬ前に目を覗き込んで予想外に喜びの感情が流れ込んできて自分は絶望していたのでショックを受けたことを思い出したところなのだけど(ここでもBGM「南まで500マイル」がよかった)、ここで端から見ると苦行をしているようにしか見えなかった太刀川先生は、実は自分がずっとミアオの神秘的な喜びの影を追いかけていて、ミアオに何か恩返しをしているつもりで患者たちを診ていたと思い直し、ようやく安らぎを手に入れつつもこれまで生きてきたことを前向きにとらえる。他のキャラクターにも似たような瞬間はあって、欲望の町で自分の欲望のために行動しているはずが、なぜか無私無欲で人のために行動しているような結果になるのは不思議なことだ。何か自分なんてどうでもよくなるような大きなものに遭遇してしまう。うまく言葉にできないが、遠いローズ・クラブの時代や亮たちの子供時代が、現在との対比である種の活気や明るさ、子供らしい自由の感覚と共に回想され、同時に明るさだけではなくて現在につながる暗さや死の影の根源も既にあったりして、懐かしさだけではなく寂しさが漂うのも関係があるように思う。
タイプBの発症や介護のテーマはヒラヒラヒヒルと共通している。たぶん、普通に生産性や効率を求める社会からは零れ落ちた要介護者が施設に隔離されることと、普通の人たちにとって危険なタイプBやタイプAがY地区に隔離されるのにはのには似たところがあって、亮や能見さんが「生産性」のない介護という仕事に安らぎのようなものを見出すのは、現実の介護業界で働いている人や身内の介護をしている人にとっては当たり前のことなのかもしれないけど、僕にとっては子供の相手をするのと同じで大げさに言えば生きる意味を考え直すきっかけになる。とはいっても実際には意味なんてものはなく、いつのまにか必要に迫られてやることなんだけれど、そんなことをいうなら人生なんていうのもいつのまにか必要に迫られてやることの連続なのかもしれず、生産活動である仕事と非生産的な介護や子守りは等価なのかもしれない。そういうことを思い出させてくれるような施設生活の描写だ。掘り下げはなかったけれど八龍会のボランティア団体としての活動にも似たような側面がありそうだった。
人が次々と死んで涼しくなっていくが、最後はそんな時代を潜り抜けた4人が集まって終わる。これは物語をきれいに締めるために用意された演出のようなものなのかもしれないが、僕としては松子があんな形で死んだままだったらあんまりだと思っていたので嬉しかった。しかしその分、キラ☆キラやMusicus!にあったようなえぐるような読後感はなく、穏やかな終わりだった。瀬戸口氏は今回の作品では脚本だけでなく「監督」も務めたとあったけど、路地のしわざということにして、一度はこういうハッピーエンドもやってみたかったということなのかな。殺し合いばかり描く物語だからこそ、救いのある終わりに意味はあると思いたい。どうせまだすべては続いていくのだし。描かれなかったけど、しばらくしたら亮はシウにも会って、さくらがYSを抜けるか亮がYSに復帰するなんていう物語があったっていい。灰上江梨子のその後についてももっと読みたかった(最後の方でサーシェンカの前で泣いた後から一人称が「私」になってしまったので、それを区切りに新しい物語が始まったとみることができる)。……続編が出れば喜んで読むけど、まあ、軽く想像するだけにとどめておいた方がいいのだろう。ちなみに、tipsでは三芳の「捜査上の失態や問題行動が多く、完全に出世コースから外され、いまだにY地区でタイプA犯罪の捜査をしているが、本人はまんざらでもないようだ」にほっこりした。三芳(星<ひかり>っていう名前なのね…)の物語も面白そうだな。
ロシア要素についても一言。瀬戸口作品には毎回何かしらの形でロシア要素やキリスト教要素が入ってくるのがちょっとした楽しみで、今回はキリスト教要素はほぼなかったけど(人身売買神父のエピソードは短すぎで、どちらかというとタイプB病院や八龍会のボランティア活動に教会的なものが感じられた程度、あとは作品タイトルにもなっている羊のイメージか)、ロシア要素の方は今回は直球できていて楽しめた。といってもいつものドストエフスキー的な思索や語り口は全編にちりばめられていてことさらロシアらしさが強調されているわけではなく、今回はゴーゴリ的な怪奇物というジャンルと(強いて言えばY地区という空間を活写する切り口も『ネフスキー大通り』みたいだったけどこれは別にロシア文学の専売特許というわけではない)、ギャングとクスリの自由で荒廃した世界が90年代やその影を残す現代のロシアとからめられていて面白かった。ロシアは奈倉有里さんのエッセイで描かれるようなインテリゲンツィヤの国であると同時に、ナイーブでダサいマッチョなマフィアの国の側面も残している。ロシアンマフィアという日本のフィクション作品で昔から描かれているようなダサくてガチな人々は確かに存在していたらしく、今でも時折90年代の亡霊のような男たちが逮捕されたり殺されたりすることがある。歴史的にはソ連時代の70年代くらいにさかのぼり(もっとさかのぼることもできるが)、ロシアの不良少年たちの間でのボクシングブームを支え(五輪強国であるスポーツ大国としてのロシアの裏面)、ペレストロイカ期から90年代にかけてはボディガードビジネスや様々なグレービジネスの端々に見え隠れしていた。有名なのはモスクワの巨大市場チェルキゾンとか。全国に様々な派閥があり、ジェム(極東最大だったコムソモリスク・ナ・アムーレのマフィアグループのボス)とかヤポンチク(モスクワの有力マフィア)とかカリスマがたくさんおり、特にモスクワ州リューベルツィやタタルスタン共和国は武闘派マフィアの根城として有名だった。ロシアで北野武映画の評価が高いのにはこういう背景もある。個人的には、昔モスクワの地下鉄で大きな荷物を抱えて苦労していた学生だった自分を助けてくれ、なぜかそのまま自宅でロシア語を教えてくれることになった無骨なおじさん(見た目はCMでコーヒーを飲む宇宙人を演じるトミー・リー・ジョーンズに似ていた)を思い出す。彼は以前にボディガードをやっていたが当時は妻はどこかのダーチャにおいて一人でモスクワのアパートで暮らしていたようで、殺風景なだだっぴろい部屋で子供向けの絵本を教科書に奇妙なロシア語レッスン(スラングを教えられたり、ラジオで一緒にクラシックを聴いたりした)を何回かやってくれ、ウィーンに留学中だった娘と見合いをさせられそうになった。ベズマーチェルヌィフ[母なし]という恐ろしげな名字だった。今思うに、ソ連で育って90年代に苦労して、娘を育ててようやく一息ついたら自分には寂しい生活しか残されていなくて、そんなときにロシアが大好きな危なっかしい日本人の若者と偶然知り合って、これも何かのめぐりあわせだと思ったのかもしれない。ありがたいことにそういう親切なロシア人との出会いが何度かあって、これは旅行とか出張とかではなく、時間のある留学生として行かなければできなかったことだと思う。それから当時のロシアには物乞いが多くて、いつも同じ場所で両手を地面について体をゆすっているおばさんの物乞いとか、自分にはいつまでたっても慣れられなくて通り過ぎるたびに心が少し波立っていたことも思い出す。脱線してしまったが、普通の人がいて、マフィアがいて、飲んだくれがいて、ヤク中がいて、インテリがいて、成金がいて、敬虔な正教徒がいて、オウム信者がいて、シャーマンや魔女がいて、それがごちゃごちゃにシャッフルされている悪夢や幻覚のようなものがロシアという国だ。と改めて考えてみると、今回の作品でロシア要素が現れたのはサーシェンカの来歴に限った話ではなく(ちなみに、ロシアには今でも近づくのが危険とされるグレートホールのようなオカルティックなスポットがいくつかある)、Y地区というのはロシアのエッセンスが瀬戸口フィルタを通して日本に現れたものとみることもできるのかもしれない。
先日、保育園の保護者会で炎上案件があって、感情に振り回されやすい(「もやもやする」らしい)お母さん方が、ちょっとした間違いを犯した一人の母親を公開処刑的に追い詰めて退園に追い込んでしまって非常に気持ち悪い思いをした(悪者を守ろうとするような僕の意見は「優しい」「それが理想なんだけど」と褒められたが少数意見にとどまり、結局「安全」を求める「現実的」な若いお母さんたちの怒りやもやもやに押し流された)。Y地区では詐欺や窃盗はおろか人殺しだってしながらそれでもがちゃがちゃと生きていくのであって、人を殺しても誰かを憎む必要はないとうそぶく亮の言葉に、女の世界と男の世界は違うなと改めて不適切な感慨を抱いた。望んだ排除よりも望まれない共生や包摂の方がまだ健康であるというのは、ヒラヒラヒヒルと共通の瀬戸口作品のテーマなのかもしれない。
ともかく、まさにあのシナリオチャートのような複雑な多面体としての物語である。そこにはいつも死が隣り合わせにあって、だからこそ人は生きている。そして自分にとってのそんな非日常の物語だからこそ、自分には必要な物語だったのかなと思う。
ドラゴンボールとサロメさん
サロメさんのドラゴンボールのゲーム実況をけっこう見ていて、実況の面白さもさることながら、原作マンガを思い出させる構図が多くて懐かしくて楽しませてもらった。ドラゴンボールは子供の頃に単行本を集めていたマンガの一つで、ジャンプでリアルタイムで読み始めたのはいつだったか、記憶が定かではないが桃白白くらいからだったか。テレビのダイマ(進行を引き延ばしてテンポが悪いのが懐かしかった)をみて「かめはめは~」とあっさり受け入れて真似している幼児には、当時の小学生にとっての「気」の概念や舞空術の衝撃はわからないだろうなあ。それにしても、あれだけ懐かしさを覚えたのは、原作マンガの絵のうまさやデザインの見事さのおかげで脳みそに感覚的に刷り込まれていたからなのだろう。ストーリーはもう古典となって陳腐化してしまったかもしれないが、あのキャラクターたちの姿勢やポーズの力の入り具合や抜け具合が生み出す心地よいリズムはまねできない。一つのスタイルとして、作品世界としてユニークで完成されていた。ブルマの若い頃の話はまだ僕も小学生だったので下ネタのギャグとしてしか分からなかったが、ビーデルが悟飯のところに通って髪を切るまでのラブコメは何度も食い入るように読み返して、自分のキャラ萌えの原点の一つになった。サロメさんの実況ではピッコロと悟飯、そしてとくにベジータをめぐる語りが見どころで、初見とは思えない鋭さで言語化していって、僕にとっても新しい発見があったりした。所々とばしながら聞いていたが、それでもベジータ編から魔人ブウ編までの長い物語に何度も寝不足になってしまった。ドラゴンボールについてはもう少しきちんと語っておいた方がよい気がするし、今回を逃すともう機会がないかもしれないが、面倒なのでここまで。
そして実況が終わると、懐かしさのあまりスーパーサイヤ人になった悟空のフィギュアを買ってしまった。男キャラのフィギュアを買ったのは今回が初めてで、アリエクスプレスでフィギュアを買ったのも初めて。7000円くらいのが初回割引で1000円だったので手が出た。調べても日本で同じものが発売されていないようなので中国独自のパチモンなのかもしれないが、出来はとても良い。ただし化粧箱なしの袋詰めの状態で届き、配達も玄関前までではなくなぜか玄関前の階段の中ほどに置かれていて、おそらく本来はきちんと組み立てられているはずのものが頭、上半身、下半身に分かれていて経年劣化で膨張したのかうまく組み立てられず、かなり力を入れたり叩いたりしてようやくパーツがはまるといった具合で、その中国クオリティに嬉しくなった。美少女フィギュアならこうはいかないが、この悟空はフリーザ編のぼろぼろになった姿のものであり、フィギュアの素材も普通のPVCよりも硬めの石膏のような材質と重さで、ポリマーというよりは石から切り出したような荒々しい手触りなので少し乱暴に扱っても問題なく思えるし、シーンにもあっている。残念ながらバランスがいまいちで、立たせると前に倒れやすいので仕方なくしばらくは悟空の目の前に同じくらいの大きさのしょうゆのボトルを置いていたのだが、いい加減ちゃんと飾ることにした。倒れないように紐で支えることにしたのだが、面倒なのでありもので適当にやったら悟空が紐でつながれた狂犬のようになってしまった。とりあえずしばらくこのままでいいか。
アニソン、ハチナイ
正月休みは終わったけど近況を少し。
●最近はたまに一人で外出すると「only my railgun」と「リンク~past and future~」(16bitセンセーションED)を何度も聴き返すことが多くて、聞き飽きない。他にも2024年によく聴いた曲としては、「Won(*3*)Chu Kiss Me!」、「とげとげサディスティック」、「iを解きなさい」、「ヨナカジカル」、「祝福」、「Only my yell」などがあった。古い曲でもやはり好みのものは何度も聴いてしまう。
●あとはやはり遠野ひかるさんのキャラソンはよい。負けインの「Love 2000」を先ほど思い出して購入したので改めて書いておくと、はじめに認識したのはバミューダトライアングルカラフルパストラーレ(2019年)のセレナバージョンの「シャボン」で、アニメ自体は地味な作品だし、セレナというキャラにも特別な思い入れはないけど、曲はこの5年間で何度聴いたことか。つつましい歌詞と癒しボイスの過不足ない歌になっている。次はShow by rock!!ましゅまいれっしゅ!!(2020年)のホワンの歌「ヒロメネス」で(ついでにデルミンの「Have a nice music!!」も好き)、この時まではまだ遠野ひかるさんという声優を認識しておらず、ただ歌声が好きで聴いていた。ましゅまいれっしゅの歌は他にもあるけど、遠野さん単独の歌はあまりないようで、あとリリース方法がごちゃごちゃしていてよくわからずアマゾンでも単品で売っていないようなので聴いていない。それで今回の「Love 2000」。これは負けイン第1話のEDで流れたときに、僕は知らない曲だったのだが、近くにいたアニメに全く関心のない嫁が急に反応してしきりに懐かしがっていた。アニメ自体もEDアニメの出来もよかったので毎回見ながらそのうち買おうと思っていたのがその後忘れ、今回思い出して買ったが、歌だけで聴くとフルコーラスでも結構あっさりしていてちょっと拍子抜けした。でもこれも何度も聴くことになるのだろう。遠野ボイスの魅力は低音とやわらかいファルセットの心地よさであり、あまりテンポの速くない曲が合うと思うのだが、いずれそういう曲をつめ合わせたアルバムが出ることに期待したい。
●子供はまだウルトラマンにはまり続けていて、車に乗っているときはウルトラマンブレーザー、ウルトラマンアーク、ウルトラマンセブン、ウルトラマンタロウとドラゴンボールダイマの主題歌をリピートしないとうるさくて閉口している。子供にとっては自分でも口ずさめるセブンやタロウの歌がいいらしく、意味も分からないままよく「わーるかなほしがーふーるーさーとーだー」と歌っている(確かに「わるかな」と聞こえなくもない)。アークの歌は難しくて早くて歌えないけど、それでもところどころ耳コピした歌詞を歌っている。ソフビによる戦いごっこに付き合わされたり、寝る前に怪獣図鑑を読むようせがまれたりして面倒なのでそろそろ飽きてほしいけど、今度またウルトラマンショーをみにショッピングモールに行くことになっている。先日録画したジャッキー・チェンの「酔拳」をみせたらアクションシーンに大喜びしていた。
●澤田なつボイスのエロゲーを無性にやりたくなって、「かけぬけ★青春スパーキング!」と「ハッピーライヴショウアップ!」を購入。それぞれの感想はクリアしてから書くとして、自分が楽しめそうな澤田なつ作品はこれくらいしかないかな。別名義でもいろいろ活躍している人なので作品数があまり多くないのが残念だが、とりあえずあるものは楽しみたい。かけぬけは11月に仕事で神田に行ったときに、秋葉原が見えたのでつい魔がさして久々にソフマップに足を運んで買った。人の少ない店内でゆっくり時間をかけてあれこれ品定めしていると、失われたエロゲーマーとしての自分を取り戻しているみたいで「静かな喜び」がある……。ハッピーライヴの方は架空のロシアが舞台ということで前から気になっていたけど中古価格がそれほど安くないので先送りにしていたところ、年末に納得できる価格のを見つけたのでセパレート帰省する妻子を東京駅まで見送りに行った帰りに買った。連休の間に始めたかったけどまだインストールしていない。かけぬけの方はじっくり読むほどの作品ではないのでとばし読みしていて、目当てのヒロイン以外はまもなく終わる。
●少し前にも書いたけど、オフライン移行から1ヶ月近く経ったハチナイについても何か書き残しておかないと。2024年のゲーム運営の展開をみると、もっと続けるという選択肢も残しながらもどこかの時点で畳むことに決めたようで一抹の寂しさが残る。最後のハチ生ではまだ1日2万人のユーザーがログインしていると発表されていたけど、売上が問題だったのか、発展性がないからこれ以上リソースを割けないと判断されたのか。オフライン版に毎日ログインしてデイリーミッションをやっていると、キャラとストーリーの新規追加がないと味気ないけど、ゲームとしてこれ以上発展させていくのも難しいのだろうなという気もする。野球という現実のスポーツのルールに一応縛られているから、出場できる選手の数や試合中に行う選択の結果もおのずと限られてしまう。ストーリーについては、ハチ生で山口Pはレナvs高坂に力を入れていたと言っていて、僕が一番印象に残った試合もそれだったので納得感はあったけど、クライマックスのはずの最後の夏の本校vs清城はほとんど見せばなくあっさり終わってしまって寂しさがあった。サービス終了でなければもっと別のシナリオ展開もあったのだろう。大学生編が始まった時や新一年生たちが登場した時の期待も後が続かず、やがてしぼんだ。「青春」。このゲームの売り文句でもあるが、「若い頃のきらきらしたまぶしい体験」というだけでなく、「あの頃に全うできずに消えていった可能性たち」というようなある種の後悔や苦さも含めた切なさという意味で合っていたのかもしれない。スポーツは基本的に、試合結果の場合も大会でほとんどのチームはいつかは負けるし、個人においても無限に成長し続けられるわけではなくいつかは天井のぶつかるので、失敗や満たされない思いを内包しているといえる。ハチナイは「女子でありながら男子に勝てる実力をつけ、それを認めさせる」というさらにハードルを上げた目標を掲げさせることで、基本的には明るくライトな美少女たちの日常を描きつつも、実は彼女たちを過酷な環境に置いていて、そこで心を燃やしていく彼女たちに僕たちは魅せられていたのだろう。それに加えて、いわば肉体を見られること、心を読まれることに特化したスポーツとしての歴史を持つ野球と美少女との相性の良さもあった。有原の身体、東雲の身体、野崎ちゃんの身体、ともっちの身体、直江ちゃんの身体、花山ちゃんの身体、小麦の身体、宇喜多ちゃんの身体、ここちゃんの身体、阿佐田先輩の身体etcは、女の子としての日常とは別に、野球をプレイするときに特別な美しさを発揮するわけで、それはいろいろなシーンのイラストで繰り返し描かれ、そのたびに僕たちはその美しさをあらためて発見してきた。太ももがいいとかそういう単純な話ではなく(もちろんよい太もももたくさんあったが)、練習や試合の一コマとして描かれる土を蹴る足、雨でぬかるんだグラウンド、疲れた身体を冷やす夕方の空気の美しさであったり、一方では野球しているはずの身体が、他方で水着になったりおいしいものを食べたり連れ立って遊んだりと若い女の子らしく華やぐシーンの楽しさであったりした。開発スタッフが顔出しして定期的に動画配信する「ハチ生」をみるにつけても、制作者たちもそういう美しさを信じて作り続けてくれたのだろうなという感じはした。終盤はストーリーがやや失速した観もあったけど、無償のオフライン版を作ってくれたことをはじめとしてスタッフの心意気は最後まで見事だった。僕はオフライン版のために中古で安いアンドロイドのタブレットを買って12月17日に備えていたのだけど、ストレージ容量が足りなくてSDカードを買い足し、ネットをみながらそのSDカードを内部ストレージ化する裏技を調べて四苦八苦していて、ハチナイのアカウント連携が12月17日のぎりぎりになってしまって焦っていた。ハチナイのサポート係とは何度かやり取りをしていて頂いて、12月17日の14時(だったかな)のサービス終了を前に、当日の午前中になっても山口Pご本人から対応のメール返信が来て、申し訳なくも大変ありがたかったし、それでもまたトラブルが起きて次の日以降にまた問い合わせをしても、サービス終了前から問い合わせている件だから対応しますと別の方が出てくださって、結局最終的にうまくインストールとアカウント連携できるまで付き合ってくれたのにはハチナイの意地を見た。2019年のアニメを偶然見てその終了後あたりにダウンロードした自分にとって初めてのソシャゲーだったが、それからまもなく、新宿駅の地下道にグラウンドの土で制作された壁画が登場して通勤途中に見に行き、特にヘッドスライディングする宇喜多ちゃんの絵に魅せられたことを覚えている(アニメでも宇喜多ちゃんの話はよかった)。思えばこの頃から作品の熱気を感じていた。そのハチナイもこうして閉じられてしまった。山口氏は最後のハチ生で、いつか誰かがこのハチナイを引き継いでくれればというようなことを言っていて、復活の可能性にわずかな含みを残したが、現実的にはあまり期待しすぎず心のどこかで待ち続けるくらいだろう。信頼度9の最後のストーリー、確か2人ぶんだけ読めるはずだけど(レベル690くらいなので1人はまだだいぶ先だが)、決めかねている。想像の余地はまだ残しておきたいからなあ。なんだかんだでこれが終わると気持ちの整理がついてしまいそうで。



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