うたわれ雑談

 月初はソシャゲーの月間イベント開始日なので忙しいのだが、今回は諦めていたうたわれのメインアカウントにログインできるようになってしまい、サブとメインの両方でイベントを消化することになって特に大変だった(さらにハチナイもあったのだがその話は今回は割愛)。メインアカウントは半月前にログインできなくなり、エミュレータ経由のPCプレイヤーなのでサポートの対象外なのだが、ダメもとで問い合わせたけどやはりだめだったので諦め、サブアカをつくって進めていたのだった。
 2周目となるので効率的に進めることができたが、さすがに半月で1年分の遅れを取り戻すことはできないし、この間に来てくれていた強いキャラやお気に入りのキャラがないので、縛りプレイのようだった。攻略サイトをちゃんと見るようになったのはプレイ開始から半年くらいしてからかな。でも非効率で適当にプレイしていたのもいい思い出みたいなもので、今となっては弱くなってしまったキャラにもずいぶんお世話になったものだと思う。直近では年末に来てくれた、ぼーぱるばにーツクヨミがお気に入りで、戦友のハクオロとの協撃でとんでもないダメージを叩き出してくれるので壮快だし、CVの大西沙織さんの美声が素晴らしく、本来は好みのタイプの声でもキャラでもないのだが、こればかりは何度も聞き入ってしまう。タイトル画面に設定して白い太ももやきれいな目や魅惑的な表情を眺めて癒されていた。
 そんなふうに懐かしがりつつも、次第にメインアカウントを忘れてサブアカに慣れてきて、こっちで来てくれた正月マツリとニライカでそれなりに強くなり、遺跡も強い人に戦友になってもらって黒アクタで2つクリアし、だんだんこっちで進めていくことに楽しくなってきたところだった。マツリの3Dモデルがくるんと回るときのおっぱいの存在感とか好きだった。
 ログインできない原因は本体アプリの更新をしていなかったことらしく、先週のアップデートの際に更新できた可能性があった。そうすればメインアカウントでマツリかニライカをお迎えできたかもしれないし、素材ももっと手に入っていたと残念になるが仕方ない。またツクヨミに会えただけでも良しとしよう。こっちは石が少ないのでガチャはあまり楽しめないのだが。
 2月のイベントはホワイトアルバム2とのコラボ。結局僕は2はプレイしなかった。たぶん楽しめただろうけど、10年前の発売当時は、もうあの1の時のような三角関係の切ない物語におのれの感情を燃やしたいと思える若さは失っていた。エロ助の熱心な感想たちを横目にしつつも、僕のための物語ではないかなと思っていた。今も同じような気持ちだ。とはいえ、うたわれのコラボで気楽に読む分にはいいかな。2でも1と同じ歌をヒロインたちが歌っていて懐かしい気もする。でもあまりキャラデザは好きではないので、お迎えできなくてもそれほど悔しくない。自分はリーフではやはりみつみ美里甘露樹カワタヒサシの3氏の絵が好きらしい。ぼーぱるばにーはカワタ氏の真骨頂だと思う。ミナギケモルルも好きだし(どちらも声も素晴らしい)、自分には特にカワタ氏の絵が合っているのかもしれない。
 アカウントの切り替えはバックアップの作成と読み込みなのでかなり時間がかかり(他のやり方は分からない)、あまり頻繁にはやりたくないので、これからはサブアカで遊ぶ時間がなくなっていくかもしれない。マツリ、ニライカ、コタマたちは、可能性の海から一瞬だけ現れた不思議な存在であり、またその海の中へと消えていってしまう(ニライカ/アトゥイなので海のイメージ)。それを言うならゲームなんてデータの海から一部を掬い出して勝手に楽しんでいるだけのようなものなのだが。

ハルカの国 大正決戦編

 連休が終わって時間を取りにくくなり、小分けして読んでしまったせいか、全体としては面白かったけど、少し散漫な印象を抱いてしまった。物語としても、これまでの伏線に決着をつけるような展開(ハルカとユキカゼの関係、愛宕という国の危機)や今後の展開の伏線(人間の国による干渉)といった作品の前後につながるような要素が目立ち、この章の内部で完結するような要素である風子(と八千代)の物語は面白かったけどややインパクトが弱かった。余呉の里での竹細工の話、「幽霊」のように消されていく狗賓という存在、イカズチ丸の秘祭、狐の里の話などのエキゾチック要素ももちろん面白かったのだが、このシリーズのレベルが高すぎて慣れてしまった観があった。こうしたイベントをハルカとユキカゼが普通に通過してしまったからかもしれない。二人はもう、大きく変わることはないのだ。
 冒頭のハルカのコミカルな喜びようが楽しかった。その反動で、ヒコでの30年を「何もできず、失敗だった」と振り返るのは寂しかった。
 風子ははじめはちいかわみたいだなと微笑ましく見てたことろもあったのだが、彼女自身の苦しみややがて明かされていく背景をみて感情移入が深まっていった。星空のCGはよかったし、最後のトラユキの写真もよかった。次章以降にも登場してほしいな。
 八千代はユキカゼとの焚火の前の会話で普通に盛り上がっていて何だか笑えたのが印象的だった。ユキカゼに対する見方が風子と同じというのもよかった。おトラの話まで出てきて。「最後まで話すと湿っちまうけれど、楽しいこともあったよな。笑えることもあったよな」
 ハルカとユキカゼは結局、愛宕の国における客人であるまま、この地に埋もれていくようにみえる。「とにかく、そういう荷物になるもの抱えて、なんとかかんとかやってきたという自信のような。人から見ればよいものでもない、生きているうちにたまった錆びのようなものがあって。そういうもの、あるな、と思っていると。寂しいのだけれど……寂しくても、生きていける気がしたんだよ。このまま最後まで、歩いて行こうと思えた。それが、嬉しかった……」というユキカゼの感慨。全ては過ぎ去ってゆき、どこにも「帰るべき本当の故郷」なんてものはなく、誰もが自分の人生を客人として生きていく寂しさがまた染み入るものがある。
 次章以降は時代が戦後の昭和に飛ぶとのことで、エキゾチック要素は期待できない(キリンの国にはまだあったが)。昭和の物語を楽しく読めるのか分からないが、最後まで見届けたい。でもこのまま落ち着いた感じで終わってほしくはないな。その前にまずは完成を待たねばならないが。

ハルカの国 明治決別編・星霜編

明治決別編
 最後まで楽しく読ませて頂いたけど、今回は五木がゴールデンカムイにいそうな感じのキャラであり(どっちが先に出たか分からないが)、ユキカゼの戦いや葛藤についてもアクションが多かったせいもあってか、那須きのこ作品でありそうな感じの描写や展開で、読んでいてうっすらした既視感がつきまとい続けた。むろん、だからといって面白くなかったわけではない。そしてやはりハルカとユキカゼの愉快な道中のかけあいを読めたのは感謝。ユキカゼのすぐに図に乗ってしょうもない方向に行くけど根は素直なのは、なんかどこかで見たことがあるような愛らしいキャラなんだけど、戦前の小説のような少し古い言葉を使うところが味わい深いんだよな。はじめは言いくるめているハルカも、ユキカゼが勢い任せに放り出した言葉に虚を突かれてなるほどと納得したり、反対に逆上したりして立場が入れ替わったりするのが、みていてほのぼのとする。五木もそんな二人をみて変わった、あるいはいろいろと思い出したようだった。東北の地理感は今でもよくわからないくて、盛岡から出て最上川を下ると酒田に出ることができるとか、紅花(紅殻町博物誌を思い出す)と古手(なんていう言葉もあまり気にしたことがなかった)の貿易とか秋田県の経済圏とか、興味深いお話だった。


星霜編
 年末年始に録画した『響け!ユーフォニアム』劇場版(というか総集編)をながら見して、昔のテレビ版を懐かしく思い出したりしていたのだが、このシリーズは卒業とか受験とかコンクールとか、そういう毎年の強制イベントを軸に物語が組み立てられていて、みんなそのイベントを経て強制的に成長させられちゃうなと改めて思った。
 それに比べてこの作品の化けたちにはそういうものが用意されていないので、一度背負ったものがいつ解消されるのか分からず、たぶん待っていてもいつまでたっても解消されないという重みの中で生きている。自分がいつ消えるのか、現在の自分がライフステージのどの位置にいるのか分からず、これまで自分にアイデンティティを与えてくれていた社会制度も崩壊して不確かなものになる中で、家族を営んだりせずに一匹狼や一匹狐や一匹狸として生き、やがて時代に追い越されていく。「やめなって。いいんだよ。全部はっきりさせなくていいの。ここはそういう所にしよ」というおトラの言葉の裏に彼女の寂しさを感じてしまう。彼女たちの寂しさがずっと感じられたから、ユキカゼとおトラとクリが四畳半の一室で寝起きし、荷物を処分して少し広くなったら川の字で手をつないで寝るというシーンがとてもよかった。また、ユキカゼは、「おトラの手を取りたかったわけでもない。ただ、クリと繋いでいるところ、おトラだけそうしないのは何だか嫌だったから、一応、聞いてみたのだ」などと述懐しておりユキカゼらしい。
 それにしても、改めてちょっと再読してみると、前半の「生活狐」パートでおトラの元気な姿をみるとたまらないものがある。台帳とちびた鉛筆を持つ立ち絵を見返すと、確かに鉛筆を左手で持ってたりして…。クリのうどんをかたくなに拒否するあたりからおかしいなとなって、2回目に尾道に行く前くらいから不穏な流れが鮮明になって息苦しくなっていくけど、それでも彼女はクリのトラブルを解決する手際も鮮やかで、旅立つまでずっとゆるぎないおトラだった。
 3人での生活が回っている限りは、生活狐であるユキカゼの抱える問題は浮上してこない。ユキカゼは去勢されたように腑抜けたことをこぼす時もあるけど、3人の生活を楽しんでいて、そこに『最果てのイマ』の場合と同じような空気をまとったグノシエンヌが流れたりする。
 個人的に酒を飲むのが楽しいと思ったことはほぼないのだが、金がかかるとか美味しくないとか飲んだ後が面倒くさいとかいろいろあるが、それは何よりもまず一緒に飲む相手がいないからなのだなあと改めて思う。この作品の登場人物は実に仲良く酒を飲む。ちょっと飲むか、という誘い方がいつもよい。やけ酒酔いつぶれるのも潔い。相手をいたわったり、一緒に喜びをかみしめたりするために、何気ない日常の中で飲むのがよい。後に、もう分からなかくなったおトラが酒を飲んで、一瞬だけ「おいしい」と元に戻るシーンに驚いた。何かの具体的な思い出ではなくても、よみがえってくる感覚があったのだろう。
 ユキカゼとゆっくり酒を飲みながら、何か未練はないかのかと聞かれて、おトラは、「ないね。なんだかんだと周りにも恵まれたし、あたしも上手いことやれる性分だったし。あたしは運が良い方だったよ。本当にそう思う。未練なんてないね。とても文句なんか言えない。明日、ぱっと消えちまっても文句ない。むしろ有り難いよ、そういう気持ちの良い方が。そう思わない?」と語るわけだが、その裏では自分の財産をこっそりユキカゼとクリに移していて、クリが独り立ちできるようあれこれ仕込んでいたりする。未練はないよという言葉は、同時に未練がないようにするよと自分に言い聞かせる言葉でもあったのだろうけど、彼女の口から聞けたのはよかった。
 寝落ちするおトラにこれからどうするのかと問われたユキカゼは、なぜ自分がまだ居残っているのか、いつまで自分は不確かな時を生きるという恐れを抱えていなければいけないのかと自問する。居残りとしての人生と居残りの終わりとしての死。「あの頃(何も知らずにハルカにくっついていた頃)のままだったら、寂しさもないかわりに、居残る意味もなかった気がする」というが、それはつまり孤独ではなくなったけれど居残るのは寂しいことだという感覚を抱えて生きていくということであり、どうにもままならない。おトラやクリと生きていく嬉しさは分かるけど、そのためには生きることの寂しさも感じなければならず、しかもおトラやクリとの暮らしの方はいつ終わるとも知れない脆さの上に成り立っていて、実際に崩れていく。条件の不利な戦いだが、誰も有利な条件の人なんていない。ハルカくらいか。まあ、ハルカについては次章でまた物語があるか。ハルカがユキカゼを独り立ちさせたように、ユキカゼとおトラはクリを独り立ちさせるわけだが、独り立ちさせたからといってユキカゼが抱える寂しさがなくなるわけではなく、何だか深まったようにも思える。
 言葉をこねくり回していたら素直な感想から外れてしまった気がする。本当はきちんと再読してよく消化したいし、自分の言葉でもっと感想を残しておきたいところだけど、今はそのエネルギーはない。あと、次章も読みたい。とにかく、正月からいい作品に出会えてよかった。点数はハルカの国が完結してからにしようと思っているが、この星霜編単独で過去最高の90点、ハルカの国全体では最高点の95点にしてもいいのかもしれない(どんな作品でも100点は原則的につけない)。おトラもクリも、出てきたときは安易なキャラかなという印象を持ったんだけどなあ。安易じゃなさ過ぎたな。家族になっていた。僕も読みながら一緒に酒を酌み交わし、煙管をくわえて思案し、一緒にうどんを食べ、カンパニを夢想し、尾道を歩き回り、川の字になって寝たような気になった。この時代、この時間の空気を吸ったような気になった。しかしなんであそこでおトラは目覚め、去ってしまったんだろうな。残酷すぎるように思える。でも、もし連れていけたとしてもやっぱり駄目だったのか。やがてくる別れがたまたまああいう形になっただけなのだろうか。あれはメタファーみたいなものか。だからあの場面についてはユキカゼは沈黙したのか。ユキカゼが自分の手とおトラの手に結んでいた帯は、彼女がいなくなったので刀の鞘に巻かれていた。ハルカは昔、ユキカゼにあまり呪いを背負い込むなと助言していたけど、仮初めとはいえ家族くらいは切り離さなくてもいいよねと思う。
 それにしても、ユキカゼは男装、おトラとクリは女装だし、それぞれの言動もそれらしいので、父と母と娘みたいな構図になりがちだが、ユキカゼとおトラの間に恋愛的な心の動きが全然ないのがいいな。ふつうはこうはいかない。繰り返しになるけど、雷の夜に川の字になって手をつないで寝るシーンが素晴らしい。文章のリズムとか演出の間とかも含めて素晴らしいので、最後に写経しておこう。回想シーンとかない不便なシステムなので読み返すの大変だし。

ユ:あのな、その、クリが教えてくれたのだけど
ト:ふん?
ユ:どうやら手を繋ぐと、雷避けにいいらしいよ。明日の天気も良くなるらしいから、お前の出発にも晴れた方がいいからって
ト:手?
おトラが覗き込む。
ト:あら、やだ。あんたたち、お手てつないで寝てたの。ドジョウすくいみたいのが
あははは、と声をたてて笑うおトラ。
ク:ふに
寝言をもらすクリ。
ト:あーおかし。わらわかしなさんなって。声たてちゃったじゃない。はぁ、可愛いね、あんた達。それで?え?あたしもあんたと手を繋ぐってのかい
ユ:もし良かったらな
ぱし、と手を叩かれる。
ト:やだよ。あんたと手つないで寝るのなんて変だよ。
ユ:そうか?うん、そうだな。変だな
ト:変さ。あたしとあんたがさ。おかしいよ
あはは、と笑っておトラが転がる。差し伸べた手は所在なく、おトラとの間に落としていた。
おトラの手を取りたかったわけでもない。ただ、クリと繋いでいるところ、おトラとだけそうしないのは何だか嫌だったから、一応、聞いてみたのだ。向こうが「いらない」と言えば、それで良かった。
ああおかし、とおトラは何度か繰り返す。静まったと思ったらまた肩を振るわせていたので、よほど私とクリの様子はおかしなことになっているらしかった。
不意に。私の手に触れるものがある。
おトラだ。おトラが、私の手を握ってきた。
ト:けど、あんた等があたしのために祈祷してくれてんのに、あたしが参加しない法もないね
ユ:…………
ト:あんたは両手で、手が暑いだろうけどさ
ユ:いや、大丈夫だよ。温くていいぐらいだ
ト:そうだね。雨が降って、また寒くなった。冬だ
おトラが長い息を吐く。
ト:おかしいね。あんたとあたしがさ、手つないで。狸の御姫様も混じって川の字になって。しぶとく生きてりゃ、面白いことがあるんだね
ユ:そうか?
ト:うん、面白い。ほんとに面白いよ

ハルカの国 明治越冬編

 はじめから終わりまでまったくの隙のないいい話だった。文章が心地よいし、絵もこれまでより洗練されたものになっていた。画面サイズを調整できるようになったこともありがたかった。
 キリンの国の綾野郷のパートと対になる物語であり、雪子の国の後にこの作品が来るというバランス感覚がありがたい。この作者が岩手の山奥の集落を舞台にした話をつくるというだけでもう成功は約束された感があるのだが、それにしてもよかった。ハルカとユキカゼのような関係性の二人の物語ってこれまでいくつも読んだことがあるような気がするし、今回は別に天狗がどうこうという話ではなく、神通力もほぼ出てこないけど、読んでいるときはただひたすら引き込まれた。ここでこういう言葉が出てくるのか、本当にこの村で暮らしていたのでは、と思わされるような、てらいなく紡ぎ出されていく言葉を追っていく面白さがあった。クライマックスの一つになってしまうが、この国の言葉に関するこんなふうなのもあった:「これは、この国の涙だ。この国の言葉は尖ることができない。親から譲られ、使い古された農具のような言葉でしか、一生を語れない人々。その言葉は、丸い。長い年月のなかで摩耗したかのように、丸い。どんな悲しみも、苦難も、彼らの言葉では、雪さえ傷つけられない丸みを帯びる。幼い梅の振り絞る声も、それであった。ツゲや佐一の悲しみも、それであった。巨大な冬の中。まんじりともせず、耐え忍んできた、この国の言葉だった。そして私が流すのは、その国の涙。生きることの、涙だった。」 文脈から切り離し改めて読むと普通のうまい文章なのかもしれないが、意地っ張りだけど若くて素直なユキカゼがこんな感慨に至るまでの流れの中で読むと唸らされるものがあった。最後のカサネの話とか読んでいてぽろぽろ泣けてしまったし、なんでこんな風に心地よく引き込まれるんだろうな。
 東北弁、といっても色々あるのだろうけど僕はよく分からないので一緒くたにしてしまうが、昔、東北出身の年配の人たちに師事して魚の仕事をしていた時に聞かされた。イントネーションも難しいし、例えば筋子を「しずこ」と言ったりするので、理解が数秒遅れてしまったり言い直してもらわないと簡単な意思疎通も難しいことがあって苦労したが、東北弁に特有の温かさも少し体感することができた。寒い土地柄だから言葉が温かくなるのかもしれない。温かさというよりは、ユキカゼのいう丸さの方がふさわしいのかもしれないが。ハルカやユキカゼの標準語と違っていても、その言葉にも自分のリズムやスピードや論理はあって、背負っているものがにじみ出てくる。酔っぱらって、誰が偉いかについて議論する男たちのくだりもよかったな。ゴーゴリが描くウクライナ人とかを思い出した。
 ハルカとユキカゼはどちらも雌の化けということになっているが、その言動は完全に男のものであって、キリンの国や雪子の国から続く男の友情のテーマに位置づけることができる。でも化けとしての彼らは雌だからか中性的な存在であり(雄の化けもいるのだろうけど)、村のカミサマとしてのハルカは女性であるからこそカミサマが務まっているところがあるように感じる。立ち絵のハルカのたたずまいも絶妙だった。カサネや他の村人を子供の頃から見守り、みとることができるのはやはり永遠に老いない不思議な化けであるハルカだからできるのであり、彼女の懐であるからカサネは最後に子供に戻れる。中性的とはいってもこれが逆に言動が女の雄の化けだったらこうはいかないだろうから、男女はやはり非対称であり、日本のカミサマ的なもの女性的であることには感謝しかない。冒頭部分をもう一度読んでみると、初めに読んだ時には男が語っているのは前作の連想で幽霊が見せる過去の一場面か何かなのかと思ってそのまま流してしまったが、これは彼の最後の晩のことだったとわかる。だから未練はよくないと繰り返していたんだな…。それをハルカも鮮明に覚えていたわけか。
 ハルカはユキカゼを後任者にするために手元に置いたのかと思いながら読んでいたが、少なくともこの作品の中ではそこまではいかなかった。二人のかけあいをまだまだ見ていたかったのでありがたい。
 これはフィクションなのに、と思う。この時代のこの地方に限らず、これまで伝えられた歴史や伝えられなかった歴史未満のものがたくさんある中で、わざわざ荒唐無稽な設定を織り込んだフィクションを読んで感動したり、何かわかったふうなことを書いたりする意味はあるのだろうか。まあ、あるわけなんだが。きっとこういう形でないと届かない心のどこかに届いてくれるのだと思う。
 年末から何もせずこのシリーズを読んだり寝たり菓子を食ったりだらだらと過ごしていたが、そろそろ起きて皿洗ったりカレーつくったり年賀状書いたりしなきゃ。でも仕事はまだ。巣篭もりをもう少しだけ続けたい。

雪子の国 (80)

 期待していたのはこういう話ではなかったのだけど(いきなり15年後のふくよかな美鈴が出てきてしまったし)、読まされる作品だった。重いし、いわゆる裏日本の暗い話だし、「山の涼しい空気」どころか凍死しそうな寒さの寂しい田舎町の空気だし、正月からこれかという重たさや暗さがある。なんとなく恩田陸の小説を連想させた。国シリーズではあるけど、かつての雪子の国はもうなくなっていて、現在の雪子の国は彼女にとって厳しい日本という国であり、また彼女を受け入れてくれたこの田舎町になっている。前作から一転してこの物語では天狗の暮らしはほぼ描かれておらず、ウルマの影のように儚い気配にとどまり、ホオズキも言葉をほとんど話さない。綾野郷に比べるとなんとも陰鬱な田舎町であり、都会は都会で無機質で憂鬱な環境音が飽和している。それでもハルタにとってはこの田舎町が故郷になる。別にこの町の風景を愛でているというわけではなくて、この町で知り合った人、お世話になった人、自分が過ごした時間を思い返すと、自然と故郷という感情が出てくるのだろうな。なんで東京ではダメで、この町に来てからハルタは自分を変えることにしたのかいまいち理屈が分からないが、こういうのは理屈ではないのかもしれない。一応、幽霊事件に関心があったからとか本人は言っていたが、幽霊事件はきっかけであって、幽霊が入り込むような心の隙間がハルタにあったからなんとなくこの町に引き寄せられて、自分を変えてみる気になったということなのだろう。こういう何気ないところから物語ができていくのがよい。
 その果てにたどり着いたのがウルマを見たあの不思議な草原だった。写真を加工したようなものも多かったりして、決してお金をかけて作っているような感じではないのだけれど、この作品には印象的な心象風景のような絵がいくつかある。草原の前に、薄暗い空を背景に何か背の高い草が生えている絵もそうだ。懐かしいようだが、どこか不穏な感じもあって、まるで夢の中のようだ。薄暗い絵や真っ白な背景の絵。この作品のビジュアルイメージには遠い昔の記憶の中や夢の中の絵が多くて、そうではない学校や近所の風景にしても、田舎町だからかどこか暗さや静かさがあって、まるで夢や記憶の中の画像のように沈んだ印象がある。ユリのようなカラッとした性格の可愛いお姉さんは、この町に溶け込むことは難しいようにみえて、他方でここでは彼女自身からも影が滲み出てきてしまうようなところがある。
 こんな風景の中で生きているからか、みんななかなか「肝心なこと」を話さない。幽霊事件が起きても地元の人は特に関心も示さないのは、みんな目の前の現実を生きているからだなんて説明されていて、それはもっともなことなんだろうけど、この作品はその現実をなぜか薄暗い光の中で描いていることが気になってしまう。そしてそんな中でのハルタのとぼけたのんきな表情に癒される。猪飼とのかけあいも楽しい。このあたり(山口県?)の方言とか知らないのだが、方言キャラである猪飼の言葉には広島の方の方言のけっこう混じっているらしく、彼の乱暴だけど知的な言葉は聞いているだけで楽しい。彼が天狗とかかわりがある人間だったらこの作品はもう少し前作に近い物語になったのかもしれないが、そうではない独立独歩の一般の人間であったことがこの作品の主題とトーンを決定しているように思える。雪子は魅力的なヒロインではあるけどやっぱりテンプレをベースに作られたキャラクターに見えてしまうところがあって、存在感の強さでは猪飼の方が圧倒的だ。いっそ、猪飼が女の子だったらよかったんじゃないのと思ってしまう(雪子の心配が絶えないだろうが)。まあそれは冗談にしても、前作の濃厚すぎる男の友情シーンに比べると、猪飼は独立独歩だしハルタもつかず離れずだから、男キャラに関しては今回の方は読み心地はずっと良かった。
 作者のブログを拝見したら登場人物たちの言葉に関する興味深い説明があった:

やはりノベルゲームは「思う」という能動的な想像をもってようやく楽しめるものだと思う。物語の先が気になるという情報の追いまわしばかりでなく、表現に立ち止まり思う時にも物語体験の充実がある。雪子の国、もはや制作当時の思いを忘れ、空となった表現だけが残っていた。それ故に、今の我輩の「思う」がよく喚起されて楽しめた。作品鑑賞は一つのコミュニケーションと考える。この時、コミュニケーションの相手は作者と言うよりも登場人物を我輩は想定する。だからこそ、彼らの言葉、振舞いは器であって欲しいと思う。彼らの意図そのものが現れているのでなく、彼らの意図を表現する手段として言葉、行動が用いられる。人は言葉という細かな記号を使うまえにまず、何かを期待しているし、何かを恐れている。それらの表出として言葉を発し行動に現れて欲しいのだ。まるで本人の中に言葉があって、それがそのまま吐き出されたと感じる台詞には「思う」が起こらない。コミュニケーションが発生しないのである。人は筆舌に尽くしがたい心を常に生きている。故に、意図はいつでも台詞を越えるものなのだ。だからこそ、言葉を介するコミュニケーションに悲しさや寂しさという情緒が生まれる。

 この作品の魅力的な暗さに通じる話にも思える。
 猪飼の話で終わりかと思ったら、その後も物語はよい意味でだらだらと続いていき、東京の家族や先輩のような新しいキャラも出てきて、瀬戸口作品の後半のような面白さがあった。キャラクターの立ち絵にもみんな味がある。それなりに整った顔立ちで、不快感とかはないのだけれど、それでもみんな他人であるというな、どこかよそよそしさのある感じ。そんな他人の一人である義父との対話の試みは、お互いに歩み寄ろうと粘り強く頑張るけど、それぞれの背負ったものがあるせいで手を取り合うに至ることができないというもどかしさが描かれていて、これがそれっぽい愁嘆場とか激昂シーンとかご都合展開とかでごまかされていなかったのがよかった。とはいえ、ハルタが実際になぜ卒業を待たずに20歳で転学しなければならないのか、彼の直感の根拠が何なのかは、いまいち描写が少なくてよく分からなかったし、雪子を東京に呼び寄せるのも悪くはない気もしたのだが(東京に来たら窒息して、先輩の元彼女のように山に帰ることになるだろうか)。あと、義妹ちゃんとのラブコメ及びそれを監視する雪子もちょっと見てみたかったが、それをやると作品の趣旨から逸脱するのだろうな。
 だらだら書いてきてしまったのでそろそろまとめるか。というわけで、この作品の暗さは僕が勝手に感じた主観的な印象であって、そもそも僕自身も再読したら異なる印象を持つ可能性もあるが、こういう暗さを背負いながらも明るく地道に生きていく登場人物たちに少し元気をもらえた気がする。

みすずの国、キリンの国 (85)

 このブログの記事によく星をつけてくださるすごい方が熱心に紹介していて以前から気になっていたが、先日のヒラヒラヒヒルの感想でもまた推しておられたので、嫁さんが子供を連れて帰省してくれて一人の時間がとれるこの年末年始にようやく手をつけてみることになった。もともと名作フリーゲームとして評価が高いことは知らなかった。
 天狗の国は電化されていないということで、現代の日常ではすでに失われてしまったような何気ない日用品や言葉がまだ現役で、一種の桃源郷になっている。でもそこでは神通力のない人間は差別対象であり、行きにくい。『みすずの国』はそんなところに行く羽目になった女の子のサバイバルの物語だ。新しい世界に飛び込んでいって、得難い出会いをして、そこで生きていく覚悟を決める。青春。爽やかな印象を受けるのは、もちろん登場人物たちの性格もあるけど、季節的にもひんやりした山国の物語、高地の物語ということがある。なんか蚊とかいなそうだし(実際はいるのかもしれないが)。
 個人的には天狗といえば、ザ・モモタロウのクラマキッド・テングテング、もう内容は忘れてしまった黒田硫黄大日本天狗党絵詞、東方プロジェクトの射命丸文たち、レイルソフトの帝都飛天大作戦、あとは恋愛フロップスのイリヤちゃんが股間につけていたお面くらいで、こんな風に山の中の天狗たちの暮らしそのものを正面から取り上げたものは初めてだ。これまで読んだ民俗学の本とかにも天狗の話はあまり出ていなかった気がする。東方では二次創作も含めるとイラストとかでけっこうあるかな。秋のイメージが強くて、やっぱり山の中の涼しげな空気が似合う。とはいえ、東方シリーズはあくまでごった煮の作品世界。天狗の文化を中心に据えたこの作品とは違う。
 鞍馬山とか愛宕山とかも身近にない。山といえば自分が生まれ育った東京の奥地とか、子供の頃の夏休みに帰省していた九州の山とかで、自分はあまり山に行っていないな。狭い日本にいれば、ちょっと遠出すると必ずといっていいほど山があるので、山が珍しいというほどではないけど。
 こういう記憶とか距離感が、「山には(あるいは山奥には、山の向こうのどこかには)失われてしまった何かがある」という感覚につながって、この物語に入っていきやすくするのだろう。前近代的な天狗に国には、現代的な閉塞感はない。そこには若くて魅力的な天狗たちが住んでいて、人間は彼ら自身やその暮らしに魅入られていく。『みすずの国』ではサブキャラの人間たちは早々に絶望を感じて3年間の留学生活を我慢の時間として過ごすことになるわけだけど、山とは正反対の広大な平原の国とはいえ、若い頃に留学先の人や文化に魅了された経験がある自分にとっては、美鈴の挫折や戦い、そして彼女が呼吸するひんやりした空気は、なんだか自分も感じているように思える。というか若い頃を思い出させてくれる。この物語は留学の序盤で終わってしまい、その先を読めないのが残念だ。終盤で神通力に目覚める片鱗を見せたみすずが、その後才能を開花させて優秀な使い手になるようなご都合展開はないかもしれないし、3年間の留学を終えても、ただヒマワリと別れて下山して、人間界での日常に戻るだけかもしれない。そう考えるとあそこで物語を終わらせたことは優れた解のようにも思える(美鈴についての続編があるのかどうか知らない)。あと、その後の日常の一こまを描いたスピンオフマンガ「早春賦」もよかった。こっちの空気は涼しいを通り越して寒いだった。
 天狗の国も内側に階層を抱えていて、桃源郷である天狗の国にはさらなる桃源郷である綾野郷がある。『キリンの国』のこの綾野郷での生活を描いたパートは圧倒的だった。この桃源郷をいちばんいい角度から描いてる。それはもちろん外側からのまなざしによるものであって、ロシアでいえば貴族であるプーシキントルストイの描いた美しい農村の暮らしなのだけど、でもやっぱりこういうのなんですよ。解像度を高めていけば自分にも杏たちと同じ風景が見えているような気になる。山に囲まれて、その向こうに思いをはせながら生きる日々。ブラック労働だけどメリハリはあるし、自分たちの労働の価値、汗の価値を信じられ、美しい形式もある。天狗の国がやがて消えてゆく運命にあることと相似的に、この綾野郷も永遠ではないし、そこで暮らす杏だってもうすぐ結婚して「地」に足がついてしまうだろう。この3つともがモラトリアムの中にあり、そこに迷い込んだ圭介たちだってモラトリアム真っ只中なのだが、そのすべてが今この瞬間だけの最高をみせてくれている。見上げた空に歌が消えていく。こういうのは映画とかでもよくある手法なんだろうし、例えばレーミゾフの『ポーソロニ』はこういうシーンだけ集めた詩的散文なのだろうけど、この作品の綾野郷は没入感が深くてめまいがしそうだった。
 だからこそ、その後の圭介とキリンの濃厚すぎる「男の友情」のシーンにかなり困惑してしまった。いや、男が男にあんなラブレターみたいなの書かないでしょ…。本人に直接言わないで照れ隠しするでしょう、ふつう。別れるシーンからして二人が見つめ合ったりしてて、何かのスキンシップが始まるんじゃないかとこっちとしてはひやひやしてたから、手紙で済んで助かったのかもしれないが。まあでもキリンをみているとゲイでも違和感ないのかもな。ヒマワリがいなくなっても何とかなっちゃいそうなところがある。僕にとってはよい男の友達というのは正面から向き合って見つめ合うような相手ではなく、横に並んで互いに視界に入っていながらも共に前を見ているような、あるいは前後逆の横になって反対方向を見ながら意思疎通できるような位置関係であって、仮に疎遠になりそうになっても無理に関係を維持しようとしたりはしない。まあ、だから今は友達と呼べるような深い関係は何も残っていなし、これまでだってそんな時期はほとんどなかったのだが。
 ともあれ、圭介にはまたぜひともキリンの国に帰ってきて、杏に会いに行ってあげてほしい。よくわからん天狗破滅計画とかもういいから、この村での人生に埋もれてくれ。現実的には、その頃には杏は村の別の男に嫁いでいて、子供までいたりするのかもしれないけど、あんな風に完璧な角度で綾野郷を描いた作品であるのなら、そんなリアリズムは捨てて圭介と結ばれる杏を描いてもいいんじゃないの。まだ綾野郷の魅力は書き尽くされていないような気がする。
 養蚕。小学校の頃、家庭で蚕を飼って繭をつくらせるのが必修だったけど、あれって今でも一般的なのだろうか。桑の木も通学路のわきにけっこう生えていて、学校帰りとかに甘い実をよく食べていたけど、今では身の回りに見かけなくなった気がする。蚕や蚕の糞の匂いも忘れてしまった。繭をつくってもうまく蛾にならずに死んでしまったものも多かったし、蛾もプルプル震えるばかりですぐに死んでしまったし(交尾して卵も生んだんだっけ。記憶が曖昧)、繭をつくらずに下痢をして死んだものもいたし、なんか楽しいというよりは死の不安や気持ち悪さを学ばせる体験だったような気がするが(とってきた桑の葉を蚕が一生懸命食べるのを見るのは嬉しかったかな)、この作品を鑑賞するのに少しでも役立ったのはよかった。限界的な肉体労働の経験はほぼないけど、あえて挙げるとすれば、異国の僻地の漁村でサケ漁を少しやった時のことが思い出される。サケは人間の睡眠時間など気にせず遡上するときはするので、疲れていても早朝に叩き起こされることがある。僕は技術も経験も腕力もない若造なのに、ある日起きれなくて寝坊してしまい、高齢の大先輩に覚悟のなさを叱られて恥ずかしかった。これもあまりよい記憶ではない。こうした居心地の悪い遠い記憶を、この綾野郷のおっぱいが半分みえている女衆に交じって朝から晩まで必死で働き、最高のひと夏を過ごした、という存在しない記憶によって昇華したということにしておきたい。
 なんか最後は肉体労働賛歌みたいな感想文になってしまったが、このシリーズの主題はたぶん違うのだろう。なのでこの先は綾野郷のパートのような話が出てこなくなるとしたら残念だ。自分にとっては『キリンの国』がピークということになるのかもしれない。それでも清涼な山の空気を描き続けているこのシリーズなら、この先もきっと魅力的な物語を紡ぎ続けてくれると思う。というわけで、次に進む。

ヒラヒラヒヒル (80)

 先にトゥルーエンドをみてからバッドエンドを回収する形になってしまったので後味があまりよくないのだが、まあ気を取り直して。Steamのパスワードを忘れてしまってめんどくさくなったこともあり、ブラックシープタウンはプレイしていないので、瀬戸口作品はMusicus以来となる。大正時代が舞台で小説家の家に住み込む書生とかバンカラな気風とか柔道とかが出てきたこともあり、井上靖の自伝小説のような昔の小説のひんやりした青春の肌触りを思い出した。鎮柳先生と明子さんとお辰さんと武雄の食事風景の軽妙なやり取りには、『吾輩は猫である』のユーモアを思い出したが、瀬戸口作品では前からこういう描写もよかったことも思い出した。絵も素晴らしい。瀬戸口作品はこれまでデフォルメがきつめのアニメ的な絵がつくことが多かったけど、この作品をやるとこういう写実的な絵でこそ本領が発揮されるんじゃないかと思った。今のエロゲーやアニメでは目に宇宙でも入っているんじゃないかというほど複雑に描き込まれた絵が多いけど、こういうシンプルだけど力強いまなざしの絵でも物語は十分に引き締まる。力強すぎて、別に加鳥先生とか田村さんとかとそこまで見つめ合いたいわけじゃないんだよと困惑してしまうくらいだ。発症の際の光に包まれる演出もうまかったし、その後の描写はゴーゴリの『狂人日記』を思い出した(ゴーゴリまでさかのぼらなくても他にたくさんあるだろうけど)。声優さんもみんな美声で、別に変な語尾とか萌え台詞とか言わなくても演技を十分に堪能できる。みんなよかったけど、あえてエロゲーマーとして挙げるなら朝さんの可愛らしい声と仮面の異相のギャップが素晴らしかった。バッドエンドを見てしまったあとでは、トゥルールートで正光と実質同居しながら日々の幸せをかみしめていたであろうことが救いだ。トゥルーの明子のエンディングも明るくて素晴らしかった。しかしあれだけ様々な悲劇がそこら中に転がっていることを見せつけらえれた後であのような平穏と幸せはありうるのかと思ってしまうところもあるが。2人の主人公の語りが交互するという構成は、語りの内容もあり、『アンナ・カレーニナ』を思わせた。ありがたいことに、この作品ではどちらもリョーヴィン・キチイのペアのようなものだった。正光のやや異常な純粋さについては、『白痴』のムイシキン公爵を思い出した。小説中にはあまり描かれていなかったけど、ムイシキンも最終的には発症してしまったし、精神疾患者であることを強調すればひょっとしたらこういう物語になっていたのかもしれない。
 テーマについて触れることも避けるわけにはいかない。大正時代を舞台にしていて、重厚な古典小説のような装飾要素も充実しているけれど、いうまでもなく「ひひる」とそれを取り巻く社会問題や自己の問題というのは、現代に通じるテーマ、すなわち老々介護、認知症、ひきこもり、鬱病家庭内暴力、さらには子育てにまで通じるものだ。現代の人間なら自分か自分の近しい身内がこれらの問題のどれか一つを抱えているなんて当たり前のことだろうし、僕も身の回りの「ひひる」のことを考えずにはいられなかった。いつ治るのか分からない、基本的には治らず緩やかに悪化していくだけ、一生のつきあいとなる、経済的余裕がなければ厳しい、声を荒げず、プレッシャーを与えず、忍耐を持って接していかなければならない。幸せは苦しみの連続の中のつかの間の光という形でしかやってこないのだとしたら、生きるってのは大変だなと改めて思う。この架空の大正時代は、社会制度の発展とかは遅れているけれど、なんだかんだいって人間には活力があり、社会もある程度はひひるを受け入れている。老いた今の日本でこんなふうに清冽で美しく生きることは簡単ではないではないだろうし、そこにこの作品のメッセージはあるのかもしれない。などとタイトル画面に映る小さな主人公たちをみながら思う。

ONE.体験版の感想をぐだぐだと

 ONE.の体験版をやってみた。
 懐かしかった。

 はじめの方はなんか一文一文かみしめて読んでしまった。テクストは原作とほぼ同じのように感じたけど、途中から見慣れない文章も出てきた気がする。僕が忘れていただけかもしれない。

 「リファイン」というのがどういうものか不安があったけど、18禁でないだけで基本的には原作そのままのストーリーということのようだ。僕がそれを望んでいたかと言われれば答えようがなく、リファインが製作されたという事実を所与のものとして受け入れるしかないのだろう。それにしても店舗特典はどうにかならないものか。確かにエロゲーだけど、これはファンが望んでいるものなのだろうか。とらのあなのアクリルプレートが一番ましかもしれないけど、あえてほしいというほどでもない。

 テクスト以外は確かに今風のきれいなものにリファインされているようだ。音楽は原作の質感を十分に想起させつつ、音色がうるさくない程度にゴージャスになっている。絵については、全体的に今風に明るくなっている。あと、横長の画面になったからか、主人公の家とか空間がいろいろと広く感じる。一枚絵もだいたい原作と同じで懐かしかった。登校時の走る長森の絵とか、授業中のノートの絵とか、あったなあと。七瀬登場シーンの転んでいる有名な絵はさすがに変わっていて少し残念。肝心のキャラの絵は、どう判断していいのか難しいところだが、何かの評価を下すことはできない。原作の絵があまりに印象に残っているからだ。リファインではヒロインたちがみんな、顔がふっくらしてしまった。原作の長森の立ち絵はエロゲー最高峰の一つといえるほどよいのだが(表情がゆっくりかわるのとかもよい)、リファインの長森も別に悪いわけじゃない。優しい感じがあって、ゆっくりとふわふわ揺れるようなエフェクトがあって(このエフェクトについては、特に茜のキャラによく合っていると思う)。季節は11~12月。あまり意識していなかったけど、静かな秋の陽光のやわらかい日差しが長森の茶色っぽい髪や目や、赤・茶系統の服の色をにじませるのがよいのかもしれない。他のヒロインたちもみな秋の陽ざしを受けてか少し柔らかく発光しているようで、この色彩の感触は確かクラナドをプレイした時にも感じたことを思い出した(あっちは春だが)。

 モノローグのシーンは丁寧に作られているけど、女の子の字のようなフォントだけは好きになれない。これは重要なシーンだからもう少し配慮が欲しかったかな。水平線と海についてのテクストが何か所か見覚えない気がしたけど、ちょっと変わったのかな。

あとは声だ。僕がプレイしたONEは声なしだったが、声のあるリファインはやはり感触が大きく変わる。どのヒロイン(といっても繭と澪は未見)もあまり癖が強くない声で助かるが、このまま聞き続けて僕のプレイ体験が書き換えられてしまうが少し惜しい気もする。クリアした後では、もう原作を読み返してもこのリファインの声が頭の中で聞こえるようになるのだろうか。思い切って声を切ってプレイしてみるのもありだろうか。特にみさおの話はやっぱり声なしで、真っ白な画面を見て音楽だけ聴きながら読むしか正解はない気がする(それではリファインの意味がないが)。

 この作品をプレイして何か自分は得られるのだろうか。エヴァの新劇場版が始まった時にはまた何かすごい体験をできるのかもという期待も少しあったが、これはそういう企画ではない。原作をプレイしていた時間、2004~05年頃の自分に帰れるわけでもない。中途半端な気持ちでプレイし終えても、あれから20年近い時間が経ち、今の自分はここにいるという事実が身に染みるだけかもしれない。それに対して「永遠は、あるよ」と答えるのがこの作品なのだが、それでいいのか…… 仮にあまりよいプレイ体験とはならなかった場合、口直しに久々に原作を読み返し、やっぱりこっちがいいよ、と頷ければそれでいいのか…… あるいは、製作者たちの思いとか、他のファンの人たちの熱い語りとかを聞けばいいのだろうか、いや、そういうわけではない。16bitセンセーションとかけっこう楽しく見ているせいか、歳をとったせいか、考えが横道にそれていき、われながら面倒くさい。まだ発売まで時間があるから考えをまとめなくともいいんだけど、このまま放っておくと買わずにスルーして、後から少し後悔するかもしれないな。

アマカノ Second Season + (80)

(最初に終えた雪静シナリオの感想は残念ながらない。何かメモしていた気がするがなくなってしまったし、幸せの波動に包まれているうちに終わって何も書けないまま次に進んでしまった。前作でかなりねちっこく書いてしまったのでもういいのかもしれないが。奏シナリオの感想は以前に書いたものの再掲。)

 

2022.06
 奏シナリオを始めてみた。社会人になって長い時間が経ち、高校を舞台にした標準的な設定のエロゲーにはついて行けないと思う時がある一方で、社会人物の作品だとやっていて仕事を思い出してしまって嫌だなということもある。主人公が就職して、これから社会人として人間関係を築いて行ったり、仕事で社会が成り立っていることに気づいていったりするのを見ると、それがきれいごとであったりしても、自分にとっては高校時代と同じく大昔のことであったとしても、ちょっと気が重くなる。
 奏は可愛らしくて理解がある善き女の子として描かれている。新婚旅行が隣県の温泉宿に自家用車で行くことで、途中で車中泊をしたり、公園でキャンプをしてインスタントラーメンを食べて喜ぶお嫁さん……。おっさんの美しいファンタジーなのかもしれないが、なんだかそういうのに一向に関心がない現実のお嫁さんと照らすと、よい意味で切なくなるものがあるな。

 

2022.07‐08
 背景がすごく色鮮やかで、祝祭感があるのだが、人はいない。世界に祝福されている、世界は明るい、という感覚が新婚旅行や新婚生活のよさであり、二人の幸せが世界の明るさと共鳴し合っているみたいで染み入るものがある。話自体はまったくつまらないのだが、高揚感と多幸感に感染させられる。Pretty Cationと何が違うのかよくわからないのだが、全く違うポジティブな波動を浴びせられる。やっぱり絵の違いが大きいのかな。奏をいろんな背景に場所に連れまわして、その立ち絵を眺めるだけで、いいなあと思ってしまう。日本に本当にこんな場所があるのだろうか。日本海側なのかよく分からないが、森の木々の色も、海の色も鮮やかすぎて、何か非現実的な世界に踏み込んでしまったように感じる(実際に現実ではないのだが…)。ホラー展開とか不条理展開とかになってもおかしくないくらい、世界が明るすぎて(でも世界は静か)、奏が幸せすぎる。これは小説で文章として示されても頭でしか理解できないだろうけど、この作品だと色と奏のおしゃべりで感覚的に表現され、感染させられるのがすごい。いやこれは抜きゲーなんだけど、思わず新婚とか結婚の幸せとかについて考えさせられてしまう。深さとかそういうのは全くないのだけど、ガツンとくる。新婚旅行は日常の社会性から解放されて、旅行と実存(自分探し)みたいな内面的問題からも解放されて、好きなように動き回っても、何もしないくてもよく、そういう無の時間を二人で軽やかに楽しむという稀有な経験だ。別に新婚旅行じゃなくてもそういう経験をできる人もいるだろうけど、僕は旅行というと何か貧乏くさく有意義さを求めてしまって、価値あるものを見て勉強しなきゃとか考えてしまうので、この新婚旅行のポジティブな虚無がすごいものに思えてしまう。二人で初めてのように世界を見て回るけど、その世界は車で行ける隣の県だったりして、世界とかいってもただの行楽地で、虚無を楽しむとかいってもただの消費行動なのだが、そうしたものの描かれ方、僕の目に飛び込んでくる光の具合によって、何やら世界の秘密を垣間見たような気にさせられてしまう。この新婚旅行のエピソード、終わらせたくないなあ。


2022.09
 奏シナリオの新婚旅行編が終わり。幸福感のある長大なエッチシーンに浸っていると、時間の感覚が消えて、自分が無限に引き伸ばされた無時間的な幸福の中にいると感じることがある。イーガンの『順列都市』か何かでそういう描写があったような気がするが、エロゲーのエッチシーンは没入感が高いので段違いだ。実際に時間は引き伸ばされていて、現実のエッチではあれほど長大な喘ぎ声や長時間の絶頂はおそらく危ないクスリでも使わないと不可能であり、そういう意味ではエロゲーのエッチシーンはドラッグと似たような効果があるのだろう。プレイし終わると没入していた場合は結構時間が経っていることも多い。その意味ではエロゲーは決してストーリーパートや日常シーンが特殊なのではなく、エッチシーンこそがエロゲーエロゲーたらしめている。
 エッチシーンとはまた別の形で、物語としての新婚旅行の特殊性を改めて感じる。以前に書いたことの繰り返しになるかもしれないが、奏との新婚旅行のシナリオを読んでいると、エロゲーの最終地点、物語の袋小路に到達した感覚がわいてくる。これ以上何も考えなくていい、苦しまなくていい、先に進まなくていい、ここにずっといればいいじゃないか、という地点にいるという感覚。新婚旅行には何の課題も設定されず、問題も起きず、ただ心地よい小さなサプライズ(日常ではなく旅行なので)が順番に起き続けるだけだ。急いでもいいし、急がなくてもいい。何か起きてもいいし、起きなくても後ろめたいことはない。新婚旅行で見聞するものに高度な希少性や特殊性は必要なく、見聞から何かを学び取る必要もなく、自分磨きや自分探しをする必要もなく、二人で気ままで快適な時間を共有できたねという認識が残ればよい。新妻は自分を愛しており、自分もその気持ちに応えられる。他には何もしなくていいので、応えることをゆっくりやるだけの時間があり、若さもある。そういう時間は社会性に縛られた人生の中ではかなり特殊であり、そこだけが人生から切り離されて幸せな思い出になることも不思議ではない。新婚旅行ではなく単なる旅行でも似たようなものを得られるとは思うが、人生で一度きりの祝福された旅行としての新婚旅行はやはり特殊だと思う。大げさに言えば、それ以降の旅行は新婚旅行の影を追い求める旅行になるのかもしれない。実際には新婚旅行は相応のお金や時間というコストを支払って手に入れるものであり、生産活動の一切ない、純粋な消費活動に後ろめたさやストレスを感じないことは難しいのだが、それを踏み越えたときに不思議な快感がある。そういう意味で旅行とはエロゲーと同じくらい危険な代物であり、新婚旅行を描くエロゲーはその危険な魅力を凝縮しているのかもしれない(ちなみに、田中ロミオの『終のステラ』の参考文献として最近読んだSFノードノベルであるマッカーシーザ・ロード』は、ここでいう「旅行」とは何もかも正反対の「旅」で、これはこれで優れた読書体験になった)。この作品以後も幸せな抜きゲーはつくられ続けるだろうし、成熟しすぎて腐乱する手前まで来たように感じられるこの作品のクオリティも、いずれ技術的に乗り越えられていくか、あるいはもう乗り越えられたのだろうが、今ここでたどり着いた永遠は失われない。

 

2022.12
 約20年ぶりに親と同居の状態に戻ってしまい、隣の部屋で寝てたりするので、リラックスしてエロゲーを楽しめない生活が続いている。仕事も生活も簡単ではない状況が深まり、心のおもりが重くなってエロゲーなんてやっている場合でなくなればなくなるほど、砂漠の旅人がありついたひと口の水のように沁みわたることもある。この作品で描かれているような甘くてエッチで幸せで、ついでに仕事もうまく行っちゃっているような新婚生活。僕の現実でもありえたのかもしれないけど、どこかで選択肢を間違えてしまったのか、気づくとそういうのはないまま中年になっていた。結局自分は人生をなめていて(最近もテレワークで仕事しながらハチナイやったりしてる。エロゲーをプレイできないのでその代償行為なのかもしれないが)、死に物狂いで努力したり、本気で自分の人生の計画を立てて実現に向けて一歩ずつ進んで行くということをしなかったから、その時々の運に任せて何事も中途半端なまま流されて生きてきて、いつの間にか責任たちに追い詰められていって、場合によってはその責任たちと心中するかもしれないようなところまで来ていた。これで人の親とかおかしいのだが。中年の危機かも(と書くとあほくさい感じがしていいな)。しかしながら、そういうときに、まったくありえないんだけど、ありえたかもしれない幸せとしてこの奏との新婚生活を体験することで、自分の人生感覚を補完し、幻肢でバランスを取って倒れないようにする。本当に大した内容も物語もないんだけど、そういう実用性はある作品なんだよなあ(賢者モード)。自分の人生、5年前のあの時、7年前のあの時、12年前のあの時、いや、20年前のあの時にああしていれば、違っていたんじゃないのか。もちろん違っていた。でもその代わりに今手にしているこのささやかなものは手に入らないだろう。今より悪くなっていたかもしれない。中年になっても月4万9000円の狭いアパートで20代みたいな独身暮らしをしながら、つぶれそうな零細企業の社長をやらされていたり、あるいは愛も喜びもない無言の結婚生活を送っていたり、あるいはやけくそになってロシアに渡っていたりしただろうか(社長については可能性が少し高くなってきていて気が重い)。それとも大企業の中で人に揉まれながらすり減っていっていただろうか。そのどの選択肢にもアマカノの奏シナリオを楽しんでいる自分がいて、別の選択肢に想像を巡らしたりしているのだろうか。どれがいいのか、なんて問題はいまさら存在しないのだけど、布団に入ってとりとめもなく考えているうちに寝てしまう。そしてまた次の日が始まる。


2023.01
 今日は地元でお祭りがあって、子供をベビーカーに乗せて屋台を見て回ってきたのだが、幼児に合うようなものは売っておらず、そもそもどれも値段が高すぎるので僕の食欲も失せてしまい(お面くらい買おうかなと思ったがアンパンマンとかのが1000円、ひょっとことか民芸系のが1500円で馬鹿らしくなった。ダイソーで100円で売ってる)、つくづくこういうイベントは自分にはだめだなと思った。コロナワクチンの副反応で寝ていた妻が来ていたらまた気まずくなっていたのでちょうどよかった。
 その夜、久々に起動して奏のアペンドの最後のエピソードを見たら、奏と娘と3人で屋台を見て回り、たくさん食べ物を買って(といってもあの感じだと全部で3000円分くらいかな)、その場でエッチなキスをして幸せでめでたしめでたしという内容で、なんだかキツネにつままれたような気分になった。(ここまで書いて子供が夜泣きを始めたので中座、添い寝するとすぐに泣き止み、ぽかぽかと温かい。)一方で、3000円くらいでこの一瞬を手に入れられるのならまったくありだと思う自分もいて、この世の仕組みはまことに不思議なものだと思った次第(たぶん、ここで軽く3000円を出すような生き方をすれば何かあるたびに出すわけで、僕には経済的にも性格的にも難しいかもしれないが)。

 ついでに穂波ルートを開始。
 奏ルートの濃密な空気で、人生の何かをつかんだ感じになってから、穂波ルートで受験生に「巻き戻される」の、よい。このめまいに近い感覚がエロゲーの醍醐味の一つ。
 何気に穂波の声もいいな。さえずっているのをずっと聞いていても心地よい。


2023.09
 ついヤフオクで穂波の抱き枕カバーを落札してしまいそうになったが、最後にどうにか競り合いから脱落することができて事なきを得た。ほっとした勢いで初代アマカノ、アマカノ+、アマカノ2をポチってしまった。そのうちアマカノ2+も確保しておこう。抱き枕カバーはまだウォッチしている。このシリーズを全てプレイし終える頃には子供が小学校に上がっているだろうなあ…
 現在は涙香ルートを進めている。雪静、奏、穂波、涙香と進めていくうちに、アマカノはエロゲーライフのカナンであるとの感慨が深まっていき、もはや感想を書く必要もない境地に至りつつあるかもしれない。書いたとしてもこれまでの感想の反復か軽い変奏にしかならないかも。何も新しい発見はなくても、積み重なっていくものはある。物語としては大して面白くなくても、人生は物語ではないのだから問題はない。面白い人生と愛のある人生は必ずしも一致していなくて、面白くなくても愛のある人生の幻を見せてくれるアマカノをプレイしつつ、自分の人生にそのぬくもりを加えていこう。

 …数日後。たわむれに札を入れて子供を寝かしつけ、戻ってきてみたら一気に奏、穂波、涙香の抱き枕カバーを落札してしまっており、困惑している。かつての高島ざくろカバーの成功体験があるからどうにか場所を工夫して飾ることもやぶさかではないが、きちんと覚悟を固めないままゲットしてしまった。まあ、他にも袋に入れたままの特典のやつとかあるし、とりあえず保管しておくだけでもいいが。いっそ肝心の雪静のカバーも狙ってしまおうか……
 …雪静のカバー、落札。コンプリート。
 ……かなり安かったのでもしやと思ったが、やはり偽造品らしい。使用するとしても飾って少し離れたところから眺めるだけなので問題ないといえばないのだが、ここまでの流れにまいった。こういう人が買うから業者がいなくならないんだろうなあ。開封してないのでわからないが、せめてできのよい偽物であってくれ。

(後日、雪静のカバーを開封してみた。本物と見比べていないので分からないが、少なくともゲームのCGと比較すると、陰影が弱くがっかり感があった。局部もなんか落書きみたいに適当だった。とりあえず畳んで片づけた。せっかく買ったのでいつかは飾って鑑賞してみるかもしれないが、そもそも5.5畳かつ3面+中央に天井まで本棚のある自室には出しっぱなしにするスペースはなく、天井からつるせるようにDIYしなければならないのが面倒。あと、横向きの絵柄ものはつるせない。思えば独身の頃のアパートで高島ざくろカバーを贅沢に飾って毎日鑑賞していたのはよい経験だった。)

 

2023.10
 ようやくすべてが終わった。セーブデータを見ると、最初が2021年2月となっているから2年半くらい前か。まだ子供も生まれていなかったし、僕も平社員だったし、コロナ禍でロシアも静かだったころだ。
 読み返してみると、奏シナリオしかまともに感想を書いていないなあ。最初にやった雪静のシナリオから、途切れない安息感や幸福感のプラトーが続いていた感じなのだが。
 最後に読んだ涙香シナリオについても一言だけでも書いておくか。涙香は年上キャラで背が高いだけでなく、髪とか身体のボリュームが大きくて日本人離れしていて、前作にもまして若干の威圧感を受けるのだが、現実にいたらちょっと周りの目を気にしたくなるようなボリューム感も、この作品世界では自分だけに向けられたものであることが実感されて天の恵みに感謝する気持ちも芽生える。彼女自身も自分のサイズの大きさを楽しむと同時に少し恥ずかしがっているような雰囲気があり、一色ヒカルさんボイスにもその二面性を感じさせるよさがあった。あと関係ないが、川のほとりの森の中でのエッチシーンは、夏に読んだからか、こんなところで肌をさらしたら蚊に刺されるよと少し心配してしまった。
 それにしても、エピローグ的な部分ではどのシナリオでもヒロインにそっくりな女の子が子供になっていて笑ってしまう。女系社会か。それとも主人公の脳に異常があり、本当は男の子でも女の子と認識してしまっているのかと思いたくなる。実際、目に映るのはやさしくてエッチなヒロインばかりであり、自分以外に男は存在せず、いたとしても立ち絵はなく、声もなく(男性キャラの声は切っている)、書割みたいな無害な存在であるこの作品世界は、狂人の目に映る世界といってもまちがいではない。幸せと狂気が表裏一体であることを確認させてくれる作品だ。狂気なんていうのは程度の差はあれそこら辺にいくらでも転がっているものなのだから、重要なのは幸せの方だ。起動して彼女たちのCGギャラリーを見るだけでもその欠片を味わうことができるし、それにとどまらず何度か雪静の回想シーンを立ち上げてしまったこともある。
 賢者モードになってまたくだらないことを書いてしまった。一言でこの作品を前向きに評価するなら、老子いわく、上善は水のごとし、ということになるだろう。

木緒なち『ぼくたちのリメイク』、石川博品『冬にそむく』

 前にアニメを観て気になっていたシリーズが完結したことに気づいて一気に読んでみた。アニメではOPソングがよかった他には(今回CDを買ってしまった)、地味で暗めけど熱のある作風が印象に残っていた。らくえんとか思い出した。
 原作小説は、そんなアニメのいいところが詰まった、地味で暗めだけど熱のある作品であり、物語はアニメよりずいぶんと遠くまで進んでいて楽しませてもらった。人生に選択肢はあったとか、あそこがやり直せたらとか、そういうのは少なくとも僕にとってはある程度歳をとってから出てくる考えであり、若い頃は選択肢などない瞬間瞬間の現在をひたすらに生きていた気がする。歳をとると生活がパターン化するし、この先の見通しについても選択肢が無限からある程度絞られたものになるので可視化されてくるんじゃなかろうか。そういう意味では、自分がたどってきた道を何度も振り返り、現在の生き方に意味を与えようと考え込んでばかりいる主人公の物語が、中年の自分にとって面白かったのは了解できる。田中ロミオ作品にせよシュタゲにせよ、ループ物に名作が多いのは、そういう熱量を込められるジャンルだからなのだろうか。
 木緒なちという人の名前はよく何かのロゴのデザインとかでクレジットされている人というイメージで、エロゲーやアニメで触れたことはあったようだけど、ご本人が前面に出た作品を読んだのは今回が初めてだった。この作品のテーマに合わせた意図的なものなのかわからないが、色気のない平易な文章で、平易すぎて引っかかりのないプロットを読まされているような感覚になるところも少なくなかったが*1、真骨頂はそのプロットをテーマに沿ってうまく配置して物語を転がしていくことなのだろう。デザイナー的な発想のように思える。半沢直樹的な地味な見せ場が多かった(半沢では派手なのは顔芸と怒声だった)。扱うテーマがタイムリープと創作論と人生論という重くて複雑なものなので、文章自体はシンプルでベタであっても、主人公や他のキャラクターたちの悩みに等身大で付き合っているようでむしろよかったのかもしれない。人生においては派手な出来事しか起きないなんてことはないし、僕らはなんだかんだいって平凡な出来事を懸命に経験しているし、ラノベでここまでベタに人生を語ってもいいのだ。三人のヒロインから結局一人を選ぶのだが、ラブコメっぽくハーレムエンドにしたり先送りエンドにしたりせず、みんな選べないくらい魅力的だけどそれでも一人を選ぶという実直さも作風にあっていた。作中で何度も言われている「無駄なことなんて何一つない」という地味だけど温かい言葉をかみしめたくなる作品だった。
 ケーコさんは勝手にライアーソフトのケーコさんに由来するのかと思っていたが、この作品の主題が込められた名前だった。彼女がどのようにして出現したのか、その仕組みが完全には説明されたなかったことで、恭也の物語はギミックに回収されず、神秘的な明るさに包まれた聖者伝の趣きを得ることになる。もともと超人というか聖人じみたキャラクターだとは思うけど、そう考えればお色気シーンとかが素朴すぎることも納得できるのかも。シノアキやナナコからクロダやタケナカまで、この作品のクリエイターたちが感じさせる不思議な強さと魅力はそういう聖者的なものによるような気がするし、絵師さんもそれを伝える明るさを表現していたような気がする。自分もこんな仲間たちをつくれるような青春を送っていたら、必死に生きていたらと思うけれど、そうでない人のためにこそある作品だ。そして、地味で暗めと書いたけど、人は皆、自分の人生という神秘的な物語を生きるのだから、最後に小説を逸脱するようなこういう明るさはけっこう好き。

 

 

 ラノベらしからぬ話といえばらしからぬし、これこそが本来のラノベなのだといえばいえそうにも思える。日本の純文学作品のようでもあるし、外国文学のようでもある。ようは最近読んでいなかったけど昔読んだことがある印象的な小説の感覚を思い出させるような作品だった。「冬」がコロナ禍のメタファーであるのは確かにその通りなのだろうし、若者特有の閉塞感を描いているというのも確かのそうなのだろうが、歳をとってからもこういう感覚を抱くことはあると思う。小さなことを積み重ねていき、その都度心を揺らしたり安定させたりしながら守っていく生活。経済的にも心理的にもこの先楽になっていく可能性は低く、雪かきのような徒労じみた労働の重力に縛られ、みなとみらいのような日常から遊離した場所になんとなく居心地の悪さを感じる。そんな生活であっても、恋人がいれば違って見える。近所に引っ越してきたという偶然から始まった特別な関係。二人にはそれぞれの生活があるのだろうけど二人だけの時間はゼロから始まる。
 二人の会話は二人だけの会話であって(学校などでは話さないし)、僕はそれをのぞき見しているような言葉で成り立っているのだが(ちょっとネットスラングが多い気もすれば今の若い人の会話を知らないのでどれくらいリアルなのか分からない)、こういうはたから見ると少し恥ずかしいプライベートな言葉を積み重ねることで少しずつ関係を強固にしていく。美波は目の覚めるような美人ということだが、こういう関係を築くにあたって美男美女であるかどうかはあまり意味がなくて、幸久もこの作品世界が性欲を減退させる冬の鬱病的な不安に満ちているからか、美波に対して性欲の視線を向けることが極端に少ない。大事なのは二人が言葉や時間を共有することなのだ。
 5月の連休、旅行や行楽地に出かけて思い出作りをすることもできたのだろうけど(一応多摩動物園に行ったのはそれらしいイベントだった)、結局は子供と一緒に近所を散歩したりブランコに乗ったり車のおもちゃに乗せたりして、子供を保育園に預けて時間を取れた仕事のない平日も、妻と二人でブックオフに子供用の絵本を買いに行ったり(最近、子供が深夜に盛大に嘔吐して何冊かだめにしてしまった)…<ここで感想は力尽きて数ヶ月経ったが、この小説ならこういう終わり方でもいいか>

*1:個人的には、引っかかりのなさを補っていたのが、現実のトポスの言及の多さだったように思う。大阪と福岡はなじみがないけど、川越はちょっとだけ、車を買いに行ったときに似たような小江戸の話を車屋の担当者から世間話でされたのを思い出したし、西武線も学生時代を思い出した。小田急線の登戸や百合丘はなじみが深く、新宿西口から南口にかけてのエリアや大崎、五反田のエリアもなじみ深くてイメージしやすかった。だからどうしたという話ではあるのだが、なんとなく身近な話のように思えてしまった。