エヴァとハチナイ

エヴァQ
 エヴァンゲリオン新劇場版Q(2012年)を観た。
 あまり評判は良くなかった気がしていたが、観てみたら結構よくて、中だるみも感じず最後まで見入ってしまった。エヴァの世界で何か新しいことをやろうとしても、たとえそれが公式のものであったとしても、すべてが二次創作のように見えてしまう環境の中で、今までのエヴァを裏切らないものを作ろうとすればこうなるかもしれないと納得できるものだった。かつてのような圧倒感を体験することはもはやなかったけど、それも含めての続編ということだと思う。結局、エヴァは単にストーリーで語られている出来事の連なりとしての物語なのではなく、それを作ったことや観たことも含めての作品という祝福された創作物だ。
 印象に残ったのは、陰鬱や廃墟や暗い巨大構造物(ロボットや選管も含めて)の物量感だ。エヴァが世に出てからの年月、僕がエヴァを初めて観てからの年月、いつの間にかここまで大量にグロテスクなものが堆積し、撒き散らかされてしまったかという感慨だ。旧劇場版でも巨大な綾波の残骸のようなグロテスクなものは描かれたし、テレビ版の頃から内臓をぶちまけたオタクのような痛ましさはあったわけだが、今回はそれが造形美的なインパクトを失って時間がたち、薄暗さが皮膚感覚になってしまったような世界になっていて、まったく居心地は良さそうではないのだけど、これなんだよなと安らげそうなものを感じた。夢の中の感覚に近いのかもしれない。レイがいないことで悪夢のようになった世界なのかもしれないけど。
 登場人物たちもみんなどこか疲れたみたいで、シンジに説明するのも億劫で(チョーカーのボタンを押せなかったミサトを好意的に解釈すれば、シンジをこれ以上巻き込まないためにみんながわざと彼と距離を置いているのかもしれないが)、誰も元気に笑ったり和んだりする気力がない。(マリを除けば)元気があるのはアスカだけだ。この作品にはシリーズを通していろいろとモチーフの反復や対称があって面白いが、最後のアスカがシンジの手を引っ張って歩いていくというモチーフには、破でレイを引っ張り出したシンジや、旧劇場版の最後で手を触れることなく気持ち悪いと言うしなかったアスカと対比したくなる良さがあった。映画の古典的な手法だろうが、最後に遠くに歩いて行って小さくなっていく終わり方もよかった。

八月のシンデレラナイン
 アニメがあまりによかったので(ひいきにしている野球チームが今期はいいとこなしなのでフィクションは一層爽快に感じられる)、ついに初めてソシャゲーに手を出してしまった。といっても何がソーシャルなのかよくわからず(まとめブログ「ハチナイ速報」を楽しめることだろうか)、ひたすらいろんなパラメータを理解して数字の最適化を目指すパズルのような作業を続けるだけで、それで週末の時間の大半がつぶれて生活に支障が出るのだけど、そんな無意味な作業をやりながら高速で明滅するヒロインたちの絵や声(大半は単純な反復)の流れに身を浸していると、これは東方シリーズにおける弾幕と同じようなものだと思えてくる。大量の数字に身を浸し、明滅する花火を眺めている。ある種のデータ浴のようなセラピーなのだろう(作品のコンセプトである「青春・女子高生・高校野球」のよさや各キャラの可愛さを堪能した上で)。長時間やっていると逆に疲れるが。ちなみに現在の僕のチームは評点が約1万5000、キャプテンは宇喜多茜、ピッチャーは岩城良美、最強に育てたいのは野崎夕姫。無課金でどこまで飽きずに続けられるかはわからないけど。

ウィザーズコンプレックス (75)

 マルセルさんのおすすめや討論会のおかげで結構事前の期待値が高まってしまったけど、やはりアイリスと学園長の関連が一番面白かったかな。といっても、先達の言葉に飲み込まれないようにと意識したせいで、かえって少し限定された読み方になってしまったかもしれない。他にはamaginoboruさんの整理の仕方が参考になった。

〇学園長と作品の枠組み
 学園は教育施設なのだけど、基本的には放任主義だ。学園長はパッシブな教育者であり、大枠を定めただけで、あとは学生たちが勝手に何かを学んだり得たりするのを待っているだけだ。学園は教育を受ける場ではなく、疑似的な社会であり、そこで多少無茶なことをしても物事を解決できるという陽性体験を与えることが、事後的に教育となる。大戦制度が学生に悪い影響を与えたとしてもそこから何かを学んでもらえれば結構だし、大戦で死者が出るような惨事が起きたとしても(生き残った学生たちが)そこから何かを学んでもらえれば結構、今度は自分がその罪を背負って生きていくだけだ、とまでは考えていないかもしれないけど、多分惨事が起きることは想定していないし、これはハッピーエンドを約束されたエロゲーなので実際に起きない。反対にすべてが安全地帯で健全な教育的配慮の下で行われるのは生ぬるいし、少しばかり傷ついても人はその傷を抱えて生きていくべき、というイデオロギーを背負わされたのが学園長だ。
 アイリスルートの終盤でやや唐突に挿入される過剰な母子の感動シーン。ここでは学園長は母親的なものイデオロギーを背負わされて人格が消えているようで、ストーリーラインを突き抜けた不気味なぬくもりと化している。だからこそ、5戦目で授業をさぼらせるルールのゲームを設定して教育者としてはタガが外れた行為を行い、自分も大戦に参加して楽しみ、批判もされ、あわよくば罰せられたいというはた迷惑な願望を抱いたのではないかと想像したくなるような余白がある。大戦制度について「仕組みが悪いんじゃない。使い方が悪いだけ」というアイリスは、学園長を代弁しているようにも弁護しているようにも思えた。そしてそんな風に弁護されてしまう学園長の残念さがよい。学園長本人はそこまでは考えていないかもしれないし、考えていたとしても一連の流れに抵抗せず、受動的なキャラクターであり続けているところにアイリスと同じ宿命が感じられて、ときどきアイリスが学園長と似た表情をするのをみて、それがエッチシーンにもあったりするとますますほっこりした。
 エロゲーではプレイヤーはクリックしていくことしかできないのだから(あとはエッチシーンで主人公と同時に達することくらいか)、勧善懲悪の隙のないこじんまりした作り話を見せられてもちょっとむなしい。欲望は割れ目や隙間に惹きつけられる。アイリスをはじめとするこの作品のキャラクターたちのように、どこかに不連続なものや暴力的なものを感じさせる日常に浸されながら生きていくのがちょっと現実的でいいような気がする(この辺の感覚は作中ではシャリーにもあった)。作品外も含めたコンプレックス、複合体としての作品だ。

〇アイリスと自他の境界
 作品との距離がそんなだとヒロインを好きになったり信じたりすることは難しくなるのかもしれないけど、そこはオタクなので絵や声を媒介に都合よく処理できたりする。というわけで、一度共感してしまうとよっぽどのことがないとアイリスを嫌いになることはないし、そのよっぽどのことは起こらなかった。言動があまりに幼かったりしても基本的には温かく見守るだけだ。そんなセリフは聞き流せばよいのだし、それは僕だって成長しなくてもよいのだということを保証してくれるあそびの部分だと考えてもいい。
 アイリスのどうしようもなさはアイリスの可愛さで中和され、さらには昇華されるので、別にアイリスが好きだという散歩をするのを眺めているだけでも心地よい(部屋の中を立ち絵がシュールに水平移動するのが素晴らしい)。アイリスは歩いていると何も考えないでいられるので散歩が好きだというが、こうしたプチ体育会系快楽主義はトルストイが農業に精を出したのと同じだ(性欲魔人だったトルストイに例えるのはアイリスに失礼か)。月光浴が好きだというのにも、そうしたひんやりとした小さな快楽主義が感じられる(こんな書き方をしてしまっても絵を見ればアイリスのきれいな感情が伝わる)。アイリスの魔法属性は光。浄化するもの、消失するものとしての光は、破滅と浄化を望みながらも空虚であるアイリスによく似合っており、僕の汚い欲望や同一化のまなざしもきれいに吸い込んでくれる。ママ……。
 アイリスが告白したシーンはきれいな流れだったと記憶している。いつものぐずぐずとしたためらいがなくて、「好きです」から始まって思い切りよくどんどん踏み込んできて驚いた。字面を見てもエロゲーとしては標準的な告白のセリフなのかもしれないけど、あのアイリスが言葉を詰まらせずに「私に頼っていいよ」と言い切ったり、「その言葉、信じていい?」と聞いてくるのはじわりとくるものがあった。
 アイリスルートの、主人公が実は異邦人で外国人的な立場にあるという指摘にどれだけ意味があったのかはわからないけど、仮に他のルートではそんなことには気づかなかったとしても、いろいろと不安定なこのルートでそのことに気づいたのは適切なのかもしれない。このルートでは主人公は一番ヒロインに似て声が小さく(主人公なのだからある意味で当然だが)、似た者同士だったと思う。主体性が発揮されたのはアイリスに寄り添うという行動のときのみだ。アイリスにとっては必要なのはあからさまな他者(王子様)ではなく、自分によく似た他者であり、自分の一部として自己愛に近い感情で愛せ、しかも頼れる人だ。
 そんなわけでアイリスは最終的には少し調子に乗りすぎて失敗するくらいが可愛い。ほのかとの一騎打ちの最後の一手とか、最後の閉会式で唐突にお付き合いしてますと発表するところとか微笑ましたかった。ちなみに、閉会式でアイリスとほのかがようやく念願を果たすシーンでは、二人の特徴的な立ち絵が使われていて、アンドレイ・ルブリョフの三位一体の天使たちのイコンによく似ている。ここにはいないもう一人の天使は学園長の立ち絵がしっくりきそうな気がするがやめておこう。あと、一言付け加えるなら、「おっぱいが大きくて元気な私」は実はアイリスのもう一つの姿だ(謙遜しているだけで相当大きくてよい)。

〇ほのかと女の子の概念
 ほのかはキャラクターとしてはどちらかといえば苦手だった。アイリスの言葉を借りて言うとこんがらかるかもしれないけど、「恵まれている」女の子過ぎて、ついていける自信がなくなるからだ。ちょいフランス語とか、序盤でなんかよくわからない皿とか紅茶の葉っぱの話が出てきて、こりゃだめかもと思った。「女の子っぽい」にも僕にとってよい「女の子っぽい」とよくない「女の子っぽい」があって、我ながら自分勝手だが、ほのかと恋人同士になったとしても、竜胆家のご両親(上品で朗らか)ともお近づきになるのは大変だし、自分のいろいろなところを否定していかないとだめなのだろうなと思われる。「王子様」になるには歳を取りすぎたかも。ほのか自身には何の罪もないし、むしろ一葉がいなかったらいろいろとあらぬ誤解を受けて人生苦労しそうな人ではある。
 そんなほのかだが、告白からエッチまでが速攻すぎてやや面食らい、楽しくなった。そしてエッチシーンでは永遠に続くかと思われるような長い喘ぎ声。いや~、エッチなヒロインはいいですね。こんな感じで運命の相手と出会ってそのまま幸せを突っ走るというのもいいのかもしれないが、ほのかという女の子を魅せる展開というよりは、学園の制度を改革する話が多くてほのかの印象は薄くなった。印象に残った、というか笑ってしまったのは、アイリスとの戦いの美少女サンドイッチだ。その前にシャリーが魔力をすべて主人公に吸い取られて降参するというのもちょっとエッチだったが、このサンドイッチでなんだか苦しんでいるらしい主人公が楽しそうで、かなりかっこ悪くてよかった。エピローグで申し訳程度にコンプレックス要素(「大戦システムというコンプレックスを解消」)が出てきたこともよかった。

〇一葉と愛の構文
 一葉のセリフは、同じくらいの長さの文が多くて、あまり緩急がない。「~だけど、でも~ね」といった2つのブロックがセットになっている印象で、主語が長いことが多い。日本語は主語が長いと重たく感じる。一葉の言葉はそうした自制の言葉であり、語彙も硬い。偶然にも本作のヒロインと名前が同じノラとと2のアイリス・ディセンバー・アンクライの声優さんだが、アイリスは元気でコミカルで声の幅が広いヒロインだったのであまり気にならなかったが、一葉は割とモノトーンなサムライガールなのでちょっと重苦しい印象がある(ちなみにノラととのパトリシアの声優さんがこちらのアイリスになっていたせいで、アイリスの深刻なセリフにもどこか愛嬌が感じられてしまったかもしれない)。そのことは本人も自覚があったのかもしれない。一葉は愛の言葉を囁けない。主語が長い構文は向いていない。でも囁きたい。他の言い方ができないけど、でも言っておきたい、という気持ちがせめぎあっている言葉であり、発声のように聞こえる。
 だからこそ、エッチシーンでは窮屈な一葉が窮屈で甘美な言葉の直後に開放的すぎるポーズをとってしまっていて微笑ましい。特に唐突感のある最後のエッチシーンの構図は、エロゲーとしてはそれほど珍しいものではないが、一葉という女の子を考えると濃密な秘教空間というか、一対一に包み込む幸せな空間であって、剣士・一葉の達人の間合いを堪能できるのであった。あと最後の海の絵も可愛かった。
 話が前後してしまったが、一葉の物語は、ほのかへの依存の話だった。「ほのかの隣にいること以外は何もする余裕がない」という自分への言い訳。そんな息苦しさを抱えながらもまっすぐな彼女が、お守りとかぬいぐるみとか、小物に自分の気持ちを託そうとする弱さをみせるのがよい意味で女の子らしかった。こんな子と素直に甘えあっていくことこそが幸せってもんだろうな。

〇鳴とキャラクターのサイズ
 キャラクターとしての完成度が高すぎてコメントをつけるのが難しい。セリフの引用を羅列しておいた方がましかもしれない。「女子としてそいつはだめだ!」「は~、やっぱあいつはダメだな。ここは、あたしがちゃんと恋愛について教育してやらないと……」「いやもう、背伸びすんのはむりだとつくづく思ったね」「ははは……とたんにキャラが男っぽくなったな。すっげぇリードされてる感じがする」「性的な目で見られるの、嫌いじゃない。エッチな目で視姦されたら、報われるって感じるんだ……」
 こういったことを素直に口に出してしまっても決して男臭くはならない。でも単に羅列しても、鳴の声や表情がないとだめっぽいようだ。鳴の楽しさは、しいて例えるなら、『最果てのイマ』の子供時代のあずさや『こころリスタ』のまりぽ先輩、あるいは赤毛のアンの楽しさと近い。「あんた」という主人公への奇妙な呼びかけは、「おたく」が起源なのかもしれないけど、慎重さと気楽さと雑さが鳴なりに混ざった独特のニュアンス、距離感になる。腕を組む思案顔の率直さ、裏表のなさちんちくりんさ。目はそらしても顔はそらさない。ぶっきらぼうな語尾だけど丁寧な突込み(愉快なオタク)。告白も思い切りがいいし、すごく嬉しそう(a, b, c, d)。
 鳴の物語はキャラクターが完成しているので何であってもよかったのかもしれないが、とりあえず「ガチ勢とエンジョイ勢の物語」だったとしておこう。もともと素直な言動の子だから、ターニャのように拗らせすぎることはなかっただろうし、鳴がガチ勢に紛れ込んでしまった方が間違いだったのかもしれない。鳴にとってはそれは子供らしい全能感のモードと同義なのだろうし、病的なほどに去勢された人でなければ、人は誰でも自分の中に多少のガチの分野とエンジョイの分野くらいは持っているだろう。それを無理やり自分の生き方だと思い込んでしまったことによる喜劇という程度の話だったといったら鳴に失礼かもしれないが、そんな軽くてさわやかな読後感だった。エピローグの「じゃ、ゲームでもするか」の絶妙な軽さ。
 一言、奇妙なパラレルスピークの魔法についても。事前情報でキャプチャーを見て、『ギャングスタ・リパブリカ』を引き継いでこういうのがどのルートでも延々と展開されるのかと思っていたけど、このルートにちょっとあるだけだった。「強大権力生徒会(オリガルヒ)」にニヤリとしてしまったが、これも含めておおむねこっぱずかしいラップバトル(?)だった。念のため無粋なつっこみをしておくと、オリガルヒはどちらかというとネガティブな言葉なので本人たちが自らオリガルヒと名乗ったことはないし、90年代の遺物であって2000年代以降にはプーチン政権に牙を抜かれてしまったので政治力は有しておらず、その辺を勘違いしているターニャのナイーブさを愛でるしかない。パラレルスピークはパロールエクリチュールを同時に作用させるものとのことだが、「パロール」の英語も「エクリチュール」の日本語もこっぱずかしかった。でも鳴はそういうことも素直に言える子なんだな。

 序盤を進めながら思ったのは、これは鬱病者としてのアイリスがストレスにさらされ続け、周りを気にかける余裕もないまま苦しむのを眺める作品であり、こういうぎりぎりの人間はまわりに迷惑をかけながら生きていくしかないし、まわりはそれを許してあげなくてはいけないということを説く病理的な物語であり、でもアイリスは天使のように可愛いので僕の現実認識に対する癒しであるという結論なのかな、とやや物騒なことを考えていた。でもアイリスはどうやら幸せを見つけたみたいだし、繰り返しになるが、実はおっぱいも大きくて元気なアイリスにもなりえる存在だった。もっと幸せな物語はいくらでもありえたのかもしれないけど、このアイリスが一番なのだと思う。

・あとはおまけシナリオを少しずつやって追記かな。

古いこと

エヴァ

エヴァンゲリオンがネットフリックスで配信開始というニュースとともに、ロシアの古参オタクたちがエヴァの思い出を語るエントリが流れてきた:

https://otaku.ru/all/evangelion-in-memories/

エヴァのロシアで最古のファンサイトとやらも:

http://nge.otaku.ru/index.htm

いくつか動画も流れてきたが、新劇場版のPVは今更ながらきれいだ:

www.youtube.com

なんだかいろいろ懐かしくなって、ダメ押しで「序」を見返して、「破」はためらっているところだけど、「Q」のDVDをついにポチってしまった。破を映画館で見た段階で(もう10年前になるのか…)もう新劇場版はあせって観る必要はない、観たくなった時に観ればいいと思って少し距離を置いたけど、Qは公開から7年経って、Beautiful Worldを買ってみたり新劇場版の絵柄や空気感でさえも少し懐かしさを感じられそうなくらいなのでそろそろいいのかもしれない。序を観て、絵がきれいだから見ていてじんわりと懐かしい快感があるように思えた。

 われながら成長がないが、こういう自分にとって大事な作品を持っているのはいいことだと思う。

 

 古事記

 和香様をプレイしてから久々に読書したくなってブックオフで見つけた本。不勉強で知らなかったけど、当然ながら折口信夫以降にもそういう問題系の研究は続いていたし、日本神話についてもこういう読みやすくて面白い本は出ていたのだった。例えば、アマテラスとスサノオの二項対立についてもすっきり説明されていたし、スサノオ自身についても和香様の文脈でも消化できるような気がした。あとウィキペディアを見たら著者の中西先生は「令和」の発案者で憲法9条改正反対論者だと書かれていて頼もしく思った。

和香様の座する世界 (75)

 ビックリマンシールは僕が小学1~3年生くらいの頃に流行っていた気がする。大量に買ってチョコをゴミ箱に捨てる問題も話題になった直撃世代だった。一番かっこいいのはヘッドロココ。ホログラムの迫力があったのは魔肖ネロ。ググってみたら、他にもサタンマリアとか聖フェニックスとかシャーマンカーンとか懐かしい画像が出てきた。ヘッドシールのきらきらした背景装飾は、あの時代に子供だった自分には宝石のようにきれいだった。ビックリマンチョコはそんなにたくさん買った覚えはないし、買えるほどお小遣いがあったわけではなかったけど、気がついたら最終的には1000枚くらいはあったと思う。飽きた人からもらったりしたのかな。それも中学生の頃にはなくなっていた。
 どこかから来て、どこかへと去っていった小さな神々たち。裏の変な説明文は全く意味が分からなくて、何かの呪文のように個々の単語から断片的に雰囲気を感じ取っていただけだった。確かマンガとかアニメとかあった気がするが、そちらには関心は向かなかった(ビックリマンシールのキャラクターが動いたり、声を出したり、自我があったりするということがなんだか不気味だった)。

 ビックリマンのシステムが周到に考え抜かれた凝ったものだったと知ったのは、ビックリマンなどすっかり忘れていた大学生の頃、大塚英志の本を読んでだった。どんな趣旨だったか詳しくは忘れてしまったが、体系的な情報をあえて断片化して「大きな物語」を想像させる技術としての疑似的な神話、みたいな話だったと思う。ビックリマン世界の全貌を示す必要はない。おおもとのストーリーで勝負するのではなく(ストーリーは終わってしまうのでビジネスとして問題がある)、ディティールで何となく気を引く。日常の細部に溶け込んだ風習。思い出してみると、ビックリマンでかっこよかったのは西洋風の名前や格好をしたキャラクターたちばかりだった気がする。和風のキャラクターもいたが、マージナルなのが多かったと思う。
 そういうどこかインパクトが弱い存在が、日本の八百万であり、ぬらりひょんや都市伝説に出てくる妖怪たちだ。そのおおもとである古事記の神々など子供の日常では全く聞くことがないし(少なくとも我が家では)、聞いたとしても、例えば天照大神が何をやった神なのかよくわからない、というか聞いてもピンとこない。せいぜい浦島太郎や桃太郎みたいな昔ばなしが記憶に残るくらいだ。だいたい神様は神様であって、神様に固有名があるということ自体が奇妙に思えた。
 そういうよくわからない神々の話を、古代世界における歴史の書き換えや宗教学・神話学的な要素のずれやねじれを発見しながら再構成していくのは、世界の裏側を覗き見るような面白い作業であり、もっと眺めていたかった。そして小さな疑似的神話であるこの作品にビックリマンシールシステムが導入されているのは巧みな仕掛けだ。
 もう一つの思い出は、高千穂牧場だ。高校生くらいの頃だったかな。一家及び祖父母と夏の高千穂牧場(宮崎県)に行って、散歩してアイスクリームを食べてきた。それだけ。起伏に富んだ緑の草地が遠く広がる、明るくて気持ちの良い場所だった。天孫降臨の地の碑文のようなものも見たかもしれないが、当時は全く関心がなかったし、覚えていない。アイスクリーム以外で覚えているのは草木の緑と山、草地を渡る風といった自然だ。あれから20年以上がたち、祖父は亡くなり、祖母は寝たきりの痴呆。家族は散り散りになり、会えなくなった者もいるし、会っても昔のように気楽に笑えない。さして楽しかったわけでもないが、あの明るい高千穂に、若くて平穏だったかつての自分たちを思い出したくなる。遠くなってしまったけど、遠くはないような記憶。日本の曙の時代もそんな風に若くて平穏だったのかなという幻想。実際、日本人は昔から古事記万葉集を読んでそんな幻想を大切にしてきたのではないか。最初の和歌といわれる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」は幻想の歌であって、僕にとっては行ったことのない出雲ではなく、記憶と空想の中の高千穂の風景とどこかつながっている。
 さらに付け加えるなら、僕が学生の頃に家族で登った富士山だ。このブログにも昔書いたと思うが、富士山でも日本の風景を神話と結び付けられる。頂上は月面のクレーターのようなので風情があるというよりは異界じみているのだが、それでも美しい女神だという木花之佐久夜毘売を祭る神社がありご褒美となっている。家族にとっては最後の大きな旅行だった。当時、家族はすでにばらばらになりかけていたが(僕もまもなく一人暮らしになった)、あの山頂の時間と空間を共有したのは意味があったと思う。
 もう一つ思い出した。ザ・モモタロウだ。確か小学校4~5年生くらいの頃に連載していたと思う。当時はプロレスなんて子供のじゃれあいとしてしか知らず、興行としてのプロレスシステムにはまったく関心がなかったが、僕にとってザ・モモタロウは絵柄にしてもギャグにおいてもお色気においても教養や情報においてもちょっと背伸びして読める最高の教科書だった(ドラゴンボールは背伸びが不要だし、他には身の回りにはギャグが面白いマンガはなかった)。特に印象に残ったのは、うらしまマリン編とシュテンドルフ・ヤマトタケル編だった。うらしま編は元ネタが、シュテンドルフ編はそれ自体が、いずれも時間をテーマにした少し悲しい話で、今に至る自分の好みの一部を形成している。
 他にもまだ何かあるかもしれないが、僕と日本の神話のつながりはこんなものだと思う。あとはすべて成人してから本を読んで得た知識だ。日本神話は僕の日常生活からはあまりにも遠い。結婚して妻の実家に行ったら、床の間に天照大神を描いた日本画の掛け軸みたいなのがあって、本当に一般人が日常的に跪拝しているのだ知ってびびった。こうしたことのすべてが詰め込まれ、僕にとっては重層的になっているように見えるのがこの『和香様の座する世界』だ。
 やっと前置きが終わった。が、他に書きたいことはもうあまりない。
 一つあった。江の島だ。江の島や湘南といった地名は僕のようなオタクにとっては最も縁遠い場所のように思われるし、今でも基本的にはそう思う。しかし、妻と出会って初めて出かけたのが江の島だった(というか、それ以外にはほとんどデートをしなかった)。カップルがいっぱいいてうざいだろうけど(自分もその一部なのだがとてもそうは思えない)、そんなに遠くないし、いっかという程度の気持ちだった。実際、江の島には何かとても美しいものやとんでもないものがあるわけではなく、ちょっとした散歩ができるだけだ。あとは水族館があるので、間が持たないということはない。まあ、当時はそんな知った風なことをいえる余裕もなく、ただ単純に相手が自分に関心を持って、楽しく話そうとしてくれているということだけで驚きであり、ちょっと感激していたわけだが(今はお互いわがままになった)。
 今考えてみても、江の島は特に厳かであるとか、神気に満ちているとかいうことはない。ただのデートスポットだ。狭い島に狭い道があって神社がごちゃごちゃしているので、何かしらの運動の感覚はあるし、島までの細い道を渡るという水平運動もあるので、適度に疲れるのだが、何しろ人が多いので空気が緩んでいる。そんなわけだから、あんなふうにべんてん様が江の島を愛していると考えると優しい気持ちになれる。神様との緩いきずなだ。そういうきずなを和香様も受け入れている。僕は人の多い行楽地の空気が嫌いだし、もう好きになることもないだろうが、そういうストレスの中だからこそ記憶に残るような楽しい瞬間や温かい気持ちってのもあるんだよな。
 たぶんギリシャ神話も同じような温かさを持つのだろうが、僕はギリシャ語が分からないので神の名や事物のニュアンスを感覚的に受け取ることができない。今回『和香様』を進める中でウィキペディアやら何やらを見ながら、日本神話にも(様々な編集を経たにせよ)きちんとした設定があってストーリーもあったんだと知って勉強になった。
 神々と同じ時間の流れの中を生きるというのは、僕たち人間の、あるいは日本人のオタクの、一つの夢だ。神話の再演はそのようにして古代から延々と続けられてきた。そもそもは、ままならない世界の物理に介入し、世界や自分を解釈しなおすことでコントロールするための技術だ。それは世界や自分を安定させるための功利的な技術だが、他方で、本当の神話の中に埋没して沈殿してしまいたいという思いもどこかにあったと思う。巻き込まれ、巻き取られようが、都ちゃんとの国生みや琉々葉様との竜宮や地上での穏やかな暮らしに安らぎをみる。神代とはいつまでも続いてほしい時代であって、現在へとつながってほしくはない。それはこの物語が鏡の中の物語として閉じ込められていることで達成されているのかもしれない。海の神、不老不死のニライカナイのイメージは、和香様たちに似つかわしい。タイトル画面の和香様と琉々葉様は、赤く染まった空の光の中にいるが、あれは若さに満ちた古代の曙の光だろうか。それとも去り行く神々の黄昏の光だろうか。どちらにしても、神様たちはそのなかで頼もしく不敵な笑みを浮かべている。

 

 感想のさらに余白に。
・和香様と琉々葉様の神様モードの装束が非常に残念。
・最後にやはりいい一枚絵が欲しかった。
・全体的にせっかく古代や神々が題材なのだから、Fateみたいなアクションの絵ではなく、もっと大人向きの幻想的な景色やシーンの絵などが欲しかった。
・冒頭の和香様がポンと飛び出してくる絵は好き。
北都南さんと一色ヒカルさんと青山ゆかりさんは神代の声優。僕のエロゲー神話時代の息吹を感じた。
・久々に男声ボイスも切らずに聞いた作品だった。
・なかなか仕事をさせてくれないエッチシーン(都ちゃんを除く)。恋人というよりは上司だから、あるいは家族だから、という感じでドキドキがない。テキストも照れ気味で中途半端であり、ロミオ作品にしてはフェチシズムがあまりなかった気がする。神々のエロスはからっとしていて、文章で表すのは難しいのかな。メーカーの方針で男っぽいヒロインが多いというイメージだが、そのせいで僕の好みから外れているのかもしれない。
・これまでやった古代日本に取材した作品だと、『天紡ぐ祝詞』と『うたわれるもの』だが、『和香様』も含めて、どれも寂しさと優しさを感じられてよい。自分にとって初めての古事記ファンタジーがこの作品だったのは幸せだ。大ボリュームの続編や外伝も読んでみたいけど、きりがないかな。
・無理に他のロミオ作品と比較する必要はないが、苦労して自分の空間を作り上げようとした『最果てのイマ』とは対照的に、群像劇物の『和香様』では空間は多少の分節を含みつつもどこまでも連続しており、その中を神や人が招き招かれ自由に行き来している温かい世界。
・他にも良質な日本神話ファンタジーを読んでみたい。いつか出雲など古代の聖地に行ってみたい。江の島は次に行く時が楽しみ。

・八重垣の歌の作者とされるスサノオの本作での立ち回りはショックといえばショックだが、このスサノオにはまた違う物語があったのだと思いたいところだ。思えば目から生まれたとされるアマテラスとツクヨミと比べると、鼻から生まれたスサノオは動物じみていて、前半生の乱暴者と天界追放・ヤマタノオロチ退治以降の神はもともとは別人でそれを一つの神につなげた神話であるか、あるいは動物的で精神的に病んだ状態からの回復を象徴する儀礼の神話なのか(ヤマタノオロチスサノオ自身という解釈)、あるいは何らかの編集がなされた神話のようにも思える。ものの本を読んだわけではないのでただの戯言だが。いずれにせよ、本作ではスサノオ本人は登場しなかったが、アマテラスのシナリオにより琉々葉様と藤子が再演した。八重垣の歌はそうしたことがすべて終わったあとのことだ。

欲張りなモニタと控えめな演出

 年末に秋葉原に行ってPCを買い替えて、10年くらい使った小さなノートPC(15.6インチ)からバカでかいモニタ(23インチ)のデスクトップPCになってゲームを堪能する環境が整った。家で仕事をするときはブラウザのタブを50個くらい一気に開いたりすると言ったら、店員に少しパワーのあるものをと勧められて買ったやつだ。中古で合計4~5万くらい、さらに大きなノートPC(出張用)も中古で3万円くらいで買った。どれも新品同様のぴかぴかのパソコンで、いい時代になったものだと思いながら、でかい袋を抱えて家まで持ち帰るところまで含めて秋葉原に通っていた昔を懐かしんだのだが、そこで満足してしまって新しいPCにエロゲーをインストールしていないこともあって、すっかりプレイが止まってしまった。
 久々にやってみたエロゲーはマルセルさんが楽しんでおられるはぴねす2の体験版。前作はその昔体験版をやって断念したのだが、2の体験版をやってその時の違和感を思い出した。僕はこのメーカーの立ち絵の使い方が好きになれないということだ。テキストはそれほどストレスなく読めても(体験版の範囲ではまったりと可愛い女の子を愛でるだけの必要にして十分なゲームという印象で、唯一主張らしい主張があったといえば、花恋のシャツのボタンの隙間がひっそりと開いていて大変すばらしかったということで、高校時代の思い出を昇華してくれた)、立ち絵で割と台無しにされてしまう感があった。すなわち、はっきりしすぎた表情とそれをさらに強調する漫符(ハートマークとか)だ。もっと曖昧で中間的なはずのヒロインの心理状態がデフォルメされてしまう。そのデフォルメされた顔がいくらかわいかったとしても、やっぱりデフォルメ(変形、単純化)なのだ。それをいったらわずか数種類から十数種類の立ち絵であらゆる状態を表すというエロゲーの立ち絵のシステム自体が原理的にデフォルメなのだが、もう少し中間的な表情やニュートラルな表情だってある。ある立ち絵から別の立ち絵への切り替わりは0から1への切り替わりであり(滑らかに動いて変わるように見えるすばらしい技術もあるが)、1つの立ち絵自体は静的である。動きは原則的には複数の立ち絵が切り替わることによって、あるいは複数の立ち絵を想像することによって、複数の中の一つの顔という形でとらえられる。ところが、立ち絵が優れていると、単に止まって瞬きすらせずに凍り付いた絵であっても、ヒロインがかすかに呼吸しながらこちらを見つめているように感じることもあるものだ。そういう息づいている感じがこのメーカーの絵や漫符の演出ではあまり感じられなくて、読んでいて没入が難しい。立ち絵がひょこひょこ動くのも好きではない。システムで漫符を消せれば少しは落ち着きそうな気がするけど、残念ながらそんなボタンはないようだ。というわけでハードルが高いメーカーなのだった。
 昨日ノラととのおまけシナリオが出たとのことで、久しぶりにまたエロゲーをちょっとだけやった。人気投票の結果によるリポーターの小話と、シャチアフターのちょっといい話だ。シャチは高いポテンシャルを感じさせるのにシナリオが短くてもったいないヒロインなので、短くてもこんな風に補ってもらえたのはありがたい。そしてシャチとの花見をこっそり楽しむという話もよかった。なんだかシャチの声が囁き声のような発声ばかりで、それが意図的な演出なのかどうかわからないけどとてもよかった。桜を背景にそんなシャチと向き合うと、自然とメッセージウインドウを消して立ち絵と声を鑑賞せざるを得なくなる。大きなモニタ万歳である。花見というよりはシャチ見になる。令和の宴会から1000年以上経って、こんなにささやかで美しい花見をひっそりと楽しめる時代に感謝だ。肝心の花見のシーンは5分くらいしかなくて、二人は風邪をひかないようにとすぐに帰るのだけど、そうした日常、またいつでも来れるから欲張らないという控えめな喜びが心地よい。シャチといつでも散歩できるなんて実際はとんでもない幸せなのだ。

ブログだけどダイアリー

 はてなダイアリーからはてなブログに移動したので、とりあえず何か書いておこう。たまには日記らしい日記でも。
 今日は久々に親に顔を見せ、外食をしてきた。あまり話し込むことはできなかったが、初めてロシア料理を食べさせてウォッカで乾杯することはできた。近くにある職場を見たいというので、鍵を開けて見せた。こんなことで多少でも孝行になるのならありがたい。
 この冬は週末はほとんど鍋なのだが、今日は生スケソウダラを入れようとしたら寄生虫だらけで妻が泣いてしまったので、なぐさめたりからかったり、ネットをみたりしているうちに夜になった。
 やらなければならないことは何一つ捗っていないけど、やった方がいいことはいくつかやった一日だった。
 平日は帰宅が24時くらいのことが多い。小さな生活だ。
 仕事で名前が売れるのが鬱陶しくなってきた。今年こそは仕事を減らして趣味の時間を少しは取り戻せるかな。このままでは脳のある回路が死んでしまいそうだ。でもこのブログの自分は死なない。ここは現前する文章の国だ。適当でもいいから続けていこう。

ボンジュール鈴木

THE BEST OF BONJOUR SUZUKI

THE BEST OF BONJOUR SUZUKI

 たまらず「やがて君になる」のOPを買ってしまい、ほどなくこのアルバムにも手を出してしまった。完全に「フィット」するわけではないことは分かっているはずだけど、僕はこういう買い方、すなわち何か曖昧な雰囲気みたいなもののにつかまってその幻影を求めてアルバムを買ってみてそれは幻影に過ぎなかったことに気づくような買い方ばかりしている。といってもあまり音楽は買わないほうだけど。
 思い返してみると、「ユリ熊嵐」のOPも耳に残っていたし、OPとEDがなかったら最後まで見ていなかったかもしれないくらいだったし、「くまみこ」のOPと「宇宙パトロールルル子」のEDも印象があった。だからアルバムにたどり着く前に手順は踏んでいたようだ。
 若い頃にジュディマリやチャラ(正確にはあいのうた1曲)にはまったが、好きだったのは声だった。歌詞とか美的センスとかはダメだった。嫌いというわけではないが、どう考えてもオタクの男が入り込んでよい世界ではないからだ。自分は存在してはならず、純粋な耳になるしかなかった。考えてみれば、それは百合の世界を干渉する男オタクと構図的には似ている。
 ボンジュール鈴木もこの系列になる。ある意味でさらに先に進んだようで喜ばしいのかもしれない。キラキラした伴奏の音色は閉塞感があってエモーショナルで、神聖かまってちゃんの音楽を女の子っぽく(実在しない空想上の女の子っぽく)して、しかもサビの部分は大半がかすれた裏声で歌っている(気がする)。技術的に歌唱力があるとかないとか、そういうことはどうでもよくなるような濃密な質感がある。ラップによる歌い出しが多いが、嫌いなラップでさえもこの声、このテーマならかなりすんなりと受け入れられることに気づいた。
 とはいえ歌詞はやはり「素面」で聴くのは難しそうだ。今朝、出勤前にアマゾンで買ってダウンロードし、通勤電車で聴いてみてが、いくらボンジュールといったって朝から聴くにはこってりしすぎている。以前に買ってしまってから何度も聴いている「ヨナカジカル」(「ステラのまほう」ED、これも百合的な雰囲気を持つ作品だ)と同じで、仕事が終わってから聴くべき歌、きわめてボンソワールな音楽だと思う。
 特に一番の目当てだった「あの森で待ってる」の歌詞は救いようがなく非実在的だ。例えば、「5番目のpupee "コレット"」のように丁寧に変態チックであれば、エロゲー的な世界観に近いので受け入れやすい:

毎週水曜日にハートマークして
ショーケースの中で ずっと待ってるよ
壊れちゃうまでいい子のふりしてあげるから
恥ずかしい言葉でも 何だって言うし なんだってやるよ

 ……というか、これは男オタクの存在が少し許されている世界か。それもまたありがたい。
 フランス語を使うクリエイターらしいが、突き抜けた「不適切さ」はフランス語やフランス的なセンス(?)を加えれば不思議と適切なところ(距離感)に収まるのかもしれない。ちなみに、歌のPVを観てしまう誘惑に抗うことはできなかったが、当然ながら観て後悔した。出来が悪いとか、ボンジュールさんの容姿がどうとか、そういう問題ではなく、そもそも実写の事物は映りこむべきではない成分で構成された歌なのだ。
 それにしてもきれいな音だな。好きな音を並べている。夢中で。夢の中で。こういう女の子的なナルシシズムはいいな。


 どんなふうに評価されているアーティストなのか知らずに書いた感想だったけど、音楽メディアでも似たような語彙で説明されているみたいで驚いた。個人的な発見のあったのでそれだけで十分だ。
http://veemob.jp/2015/11/30/boujoursuzukiinterview/
http://meetia.net/music/bonjour-suzuki-best/

滝本竜彦『ライト・ノベル』

ライト・ノベル

ライト・ノベル

 まだ考えがまとまっていないというか、まとめる必要があるのかよく分からないので、書きながらどうするか決めよう。
 偉そうな物言いになってしまうが、歴史がない作品だ。スピリチュアル系の気配が濃厚だ。スピリチュアル系は文学外の絶対的な価値観を根底においているため、歴史と教養といった一般的な価値観、美と技術の積み重ねは二の次になり、しばしば一般的には稚拙で安っぽい技法も躊躇なく採用する。一般的な(という言い方が通用するのかという問いかけはひとまずおいておいて)読者は置いてきぼりにされ、何かを悟ったように語りは進み、終わる。
 そうなるとさすがに宗教小説のレベルなので違うが、本作にはそういう危うさがある。NHKにようこそ以来、読み物としての面白さはキャラクターの一貫性にも繊細な文体によっても保障されていたが、本作では(少なくとも一読した限りでは)複雑すぎるキャラクターの入れ子構造や、文学外に飛び出した図式的・数学的で無味乾燥で「下手くそ」な記述や言語感覚で、言葉の芸術としての作品はところどころ破綻している。「読者に光を届けるために精緻に作りこまれた小説」という説明は、評価軸によっては一瞬で崩れ去りそうだ。キャラクターたちが苦労してみつけたそれぞれの大切なものも、とても壊れやすいようにみえるが、わざわざ壊れる場面を描くのも無益なのでこれで正解なのだろうか。
 本作の元になった文章は滝本氏のサイトで以前公開されていた。NHKにようこそを出してからも道が定まらずいろいろ苦労していた中で、スピリチュアルに「はまって」いたと仄聞することもあったが、滝本氏のブログからはあっち側に軸足が移ってしまった感が出ていて勝手な失望感のようなものを抱いた。滝本氏は言葉の芸術家として技術を磨き、質の高い文学作品を生み出す、なんていう悠長なことをやっている余裕はなく、もっと即物的な救いを捜し求めた結果、「教養」を身につけまいまま、半分文学の外に飛び出してしまったわけだ。そしてそれはスリリングなことだ。
 本作では言葉では芸術として伝えられないことが描かれている。芸術として伝えられないから、「情報」として表示されている。めたとんの不思議な言葉や絵、主人公の母親が哲学に淫して辿った垂直的な宇宙遍歴、美沙のチラシ裏小説群。それらの凄みは言葉で表現され切っていない。確かに一部は美しい言葉で表現されているが、どこかで諦められている。この未充足感は、仮に優秀なクリエイターによってアニメ化されたり「メディアミックス」(このNHKにようこその時代を感じさせる言葉が無反省に出てくるところも遠近感がなくて面白い)されたとしても、きっと同じように満たされることはないだろう。それは欲望の残滓であり徴候だからだ。

 光は僕たちの体の細胞の隅々、心の部屋の隅々、その中にあるいくつもの物語の隅々に流れ込んでいった。

 こういわれたらそう受け止めるしかなく、それを表現する言葉の巧拙の問題は消えてしまう。作者による言葉の暴力といってもいいのかもしれないが、この作者はその暴力をひたすら読者に「光」や「温かさ」にようなものを伝達するために行使するのである。作者が修めたらしい催眠の技法と同じだ。光や温かさは外部からの入力による感覚の一種だが、内部器官の問題でもあるので確かに自分でも主観的に多少はコントロールできる。でも小説がそんなに功利的なものであってもいいのだろうか。本作に見られる混乱というか、散らかった感じは、滝本氏自身がその点についてまだ答えを出していない証拠のようにも思える。本当に悟ってしまったら文学作品はもはや不要になり、教義書で十分になってしまうかもしれないからだ。
 でも分からない。僕の頭はまだ濁っていて、きちんとこの作品を受け入れていないのかもしれない。これが究極の答えであり、滝本氏がもう何も書かないというのなら、この作品を何度も読み返して何かを掘り当ててみたい気もするが、もっと「よい」次の作品を書くというのなら、そっちのほうが楽しみになってしまうのかもしれない。この作品に対する誰かの解説や、さらには作者による解説は、果たして必要だろうか(僕は読みたいだろうか)。この作品を読んだ後に残るもの、得られるものはなんだろうか。大切なものの弱さと寂しさの感覚であり、その感覚が許される空間が存在しているということを知らされた安堵感なのかもしれない。弱いからこそ言葉や何かの温もりにすがりつき、小さな光を手にしたいという夢を抱くことができる。
 なんだかNHKへようこそやその他の滝本小説と似たような感想になってしまった気がするが(以前にサイトで公開されていたときの感想とか:http://d.hatena.ne.jp/daktil/20150802 )、同じ作者なのだから当然なのかもしれない。違うところを目指しても同じところに帰ってくる。それは必ずしも悪いことではないのかもしれない。僕にとっても何か大切なものがあるところなのだろう。

もののあはれは彩の頃。 (60)

 時間は必ずしも線状のものではなく、分断された断片から断片へと飛躍したり、他の断片がオーバーラップしてきたり、どこかが引き伸ばされて高密度になっていたり、どこかが抜け落ちて希薄になっていたりする。そのことを実感するのは「思い出す」という行為を通じてであり、同時にその行為によって時間が線状であるべきであることも再認識させられる。
 双六はそのような時間の機構を露出させるシステムであり、価値としての時間はそれを認識し、統合する主体の問題に還元され、線状ではないので時間の断片を双六のシステムのせいにして好きなように並べ替えられる。本作は複雑なサイコロの盤面がある凝ったゲームのように見えるが、実際にはサイコロを振って運任せにストーリーが進むわけではないので(設定の調整を除けば)けっこうシンプルであり、それを複雑な物語のように見せているのはうまく感じた。時間の流れはどこかに終点を仮構するからこそ感じられる。本作では登場人物が死に飲み込まれようとしている人ばかりであり、賽の河原や反魂法の説話、サイコロという突然死を意識させる決まりもあり、「もののあはれ」の空気が常にどこかに漂っていたような気がする。秋は華やかな彩りが忍び寄る死の陰影を帯びる季節であり、京都という歴史の町は死者の空間であることを意識させる。
 ただし、みさきルートは双六/時間物要素が薄まって、Fateのような古典的な団結&異能バトル展開になってしまったのでやや興ざめだった(最終ルートはさらに大味でひどかった)。その中でも面白かったのは、大誠と縁の対峙のシーンで、ぽっちゃりしたサブキャラの大誠が縁の凶器でミンチにされながらも一瞬で復活するシーンが立ち絵と文章だけで何回も繰り返されながらも、大誠がまさかの本気の説教で縁を救ってしまうというシュールなマゾ展開がよかった(縁の渾身の「寄るなァッ」に切実感があった)。それはともかく、みさきは声がきれいなので話すのを聞いているのは心地よい。
 反対に一番よかったのは、琥珀との橋の上でのシーンだった。琥珀は少し目をそらすことが多いのだが(猫はまっすぐ見られると恐怖を覚える生き物だ)、ここではまっすぐこちらを見て、少しずつ静かに言葉を吐き出す。背景の夕暮れの橋と川と紅葉は、ひんやりと鮮やかに色づいているけれど、死の気配もにじませている。琥珀と何を話したのか覚えていないけど、言葉が揮発しても空気感や琥珀の吐息と声のトーンだけが記憶に残っている。一言ずつ噛み締めながらゆっくり話し、本人が意図しなくても寂しそうなトーンになってしまうのがよい。あえてたとえるなら、オーラがあったときの綾波レイのようだ。その声でエッチシーンというのは楽しいし癒される。とかく裏を読みがちなこの作品のキャラクターの中で、シンプルで大切なことしか話さないのが心地よかった。確認したら、声優の白雪碧さんという方はらぶおぶのイサミさんの人だった。琥珀シナリオは(クレアシナリオも同様だけど)、終わりの気配を漂わせながら双六をあがるのが印象的だったのかもしれない。
 ついでに、本作は涼しげな寂しさと幽玄の気配を湛えた音楽が結構よかった。フレーズが短くてすぐ繰り返しになってしまうので曲数が少ない印象になるのが残念だったが、のん気な日常ともバトル的なやかましさとも違う、秋の空気を感じさせる曲が多かった。双六によってシーンが断片化されていても、すんなりと空気感を作り出していた。こういうのは生演奏でも電子音楽でも変わらないし、むしろ電子音楽のほうが神秘的かもしれない。
 悪かったのはエッチ関連。ストーリーから切り離されていたので高まった末ではなく、平和になった日常で他にやることがないから告白してエッチという流れになったのはいただけない。本編での繊細なやりとりはなんだったのか。かといって本編では落ち着いてエッチもしてられなかっただろう。本編後に回すにしても、もう少し工夫するわけには行かなかったのか。
 ただし、そもそもエッチシーンというのは初回は別にしてもある程度物語から切り離されたコンディションで迎えざるを得ないことが多いので(一気にプレイする時間が取れなかったり、間隔が短かったりして日を改めなければならないことが多い)、ある意味で双六のコマのように前後から独立してしまっていて僕も感情の流れやキャラを忘れかけていることがある。だからエッチパートになってヒロインたちが急にエッチになってしまっても非難できないし、お互いに忘れてしまっているのでさっさとエッチに突入するというのは、現実的でそれなりに味わい深いことなのかもしれない。物語の興奮や感動は遠く置き去ってしまった。目の前のヒロインの自己同一性を保障するのは、その遠く離れ去ったものの影や名残を絵と声と音楽が伝えるからだ。エロゲーはそもそもそういうフラットなものであり、現前するヒロインのまなざしの中に「奥行き」を勝手に読み込むためのものであるはずだ。だからこのエッチシーンの構成は一つの形になっているのかもしれない。…「俺はただ黙々と、この可愛い尻を掴みながら陰茎をひたすらに抽送している。」
 不思議な場面があった。そういえば物語中でも、物部を引き摺り下ろした後のプレイヤーはどうなっているのか、僕たちは主人公たちに憎まれるべき存在なのではないのかということには触れずに流してしまっていたなあ(触れるとHAIN作品になるというのは一つの答えだろうけど)。


 「(私、きみ)は運がいい」というのはロシア語では「(私、きみ)に運んでいる(везет)」、過去形の「運がよかった」は「(私、きみ)に運んだ(повезло)」という。誰が何を運んだのかは明言されない。日本語でも「運」であり、本人が感知できない(あるいは言語化することが禁忌である)何かが何かを運んだ結果、幸せな結果が生じたということだ。たとえそれがいかに作為的であっても、人生にはそういう瞬間があるのだろう。それが大切な人を見つけるきっかけになれば幸せなことだ。

石川博品『夜露死苦! 異世界音速騎士団"羅愚奈落" 〜Godspeed You! RAGNAROK the Midknights〜』

 久々に石川博品の傑作を読んだ!ネルリ以来だ!と思ったが、そういえば後宮楽園球場も四人制姉妹百合物帳も平家さんと兎の首事件もあたらしくうつくしいことばも傑作だったので、ネルリ以来ではなかった。いい小説をたくさん書く人だ。ビッとしている。
 しかしネルリ以来と思えるくらいにすばらしい小説だった。言葉に対する感度が高い作家だから、異世界物といってもファンタジーという異世界、暴走族という異世界、Jポップ風乙女という異世界、青春という異世界が多層的に重なり合って、美しい言葉の工芸細工のようになっていた。文体や表象だけでなく、カズパートとリコパートの間の絶妙なずれ、というか余白が時には滑稽で、時には切なく、惚れ惚れとする。
 パロディ文体の奇形的な進化はニンジャスレイヤーで限界に達したと思っていたが、石川センセの暴走族文体がまた別の到達点になった。中盤は少し中だるみしたように感じた瞬間もあったが(「俺また何かやっちゃいました?」的な展開がベタに出てきているように思われた)、見事な終盤でどうでもよくなった。リコのモノローグだけの部分で終わったということは、カズがどのように振舞い、何を考えていたのかは正確にはわからないし、わかる必要もないということだ。むしろ、カズは途中から「陰キャ」から神話的な暴走族へと変貌しているように思われる瞬間もあったりして、実はリコサイドが現実で、カズの目に移る世界がウソなのではないだろうかと思いがよぎったこともあった。「藪の中」の美しい応用であり、美しい真実は現実を侵食できるものだと思えた。男と女の世界観はこれほどまでにかけ離れているという比喩のようにも思われたが、これだけかけ離れているのにむしろすがすがしい。かけ離れているからこそすがすがしいのかもしれない。いずれにせよ、そう思わせる魔法のような作品だ。
 羅愚奈落や他のヤカラの皆さんの人物描写は浅かっただろうか。人間というよりは記号として描かれていただろうか。人間というよりは、異常な言葉を話す怪物だっただろうか。言葉は動物の鳴き声のように種類が少なくとも、動物の鳴き声のようにうそ偽りなく、全力で発せられる。そんなトロい人間性など暴走族には必要ない。速度の中で生きているのだ。後に残るのは美しい幻だけだ。