うたわれないもの

◆元旦は親が実家に戻り、久々に子供と二人だけの日だった。おやつにミカンを持って、遠くの大きな公園に行って遊ぶなど。途中で神社の前を通ったら長い行列ができていた。まだ言葉を話せず、「こんにちは」すら言えず、友達など一人もおらず、運動神経も発達していないよちよち歩きなので、公園に遊びに行っても他の子供たち(特に年上)がいると委縮してしまい、あるいは何が起きているのか理解しようと無言で立ち尽くして一生懸命見ているのを横からみていると、(はるかに歳をとってからだが)ぼっちだった自分を少し思い出して、人生はつらいことばかりだなあと思ってしまう。子供にとっては僕のそんな情けない感慨などどうでもよく、人間よりもむしろ自動車や金属などの工業製品に目を引かれる時期なので遊具の金属部分をコツコツ叩いたり、空の飛行機に目を奪われたり、月がまだちゃんと出ているか何度も確かめたりとそれなりに忙しくしていて、救われる気もする。
うたわれるものアニメ完結。この第3部は全編通してBGMが第1部のものが多くて懐かしかったけど、最後の2話は第1部の中でも特に印象に残っていた曲(ハクオロが消えて仮面が落ちていくときのBGM「子守唄」)とか、最後の春が来たときの感じとか、クオンの心の動きとか、第1部を思い出させる流れが丁寧に描かれていて印象深かった。待ち続けたエルルゥが最後に幸せになれたのもよかったし、クオンたちにもその可能性が残されたのもよかった。PSは持っていないので第1部しかプレイしなかったが、いいアニメだった。というかやはりBGMだけでうたわれをやっていたあの頃を思い出せて懐かしくなってしまった。今日は子供と二人だけで家の中が寂しかったこともあって、うたわれを思い出しながら子守唄代わりに「子守唄」を何度も歌ってしまった。
◆最終話といえばアキバ冥途戦争も終盤に嵐子が本当にいなくなって、最終話はなごみに焦点を当ててテンポよく進め、最後に時間が一気に2018年までとんでと、素晴らしい出来だった。この最後に持って行くためのシリーズだったのだろう。詳しくは知らないけど、やくざ映画のフォーマットでストーリーが組み立てられていたからか、特に最終話は引き締まった作品になっている感じがした。
◆しかし、先日ブックオフに子供の絵本を買いに行ったときについでに買ってみた高垣彩陽さんの『indivisual』というアルバムを聴いてみたら、夏色キセキの紗季のイメージの歌を期待していていたのだが、全体的に大人ボイスの壮大な感じの歌が多かったため、ヒーラーガールの師匠のイメージ、というかむしろアキバ冥途戦争の店長が歌っているイメージが浮かんできてしまって仕方なかった。
◆何事も中途半端に散らかして生きていることを実感させられている中年男性であるが、オタクライフにおける2022年の中途半端の一つは、小鳥猊下さんのツイートを読んで自分にとって2つ目のソシャゲーになる原神を始めたものの、十分な時間を取れず、グライダーみたいなやつで空を飛ぶアクションミニゲームをクリアできずに早々にやめてしまったことだ。FPS視点のRPGをやるのは初めてで、チュートリアルすらまともに進められず見知らぬところを何時間も意味もなく放浪してしまい、画面酔いして気持ち悪くなった。エッチなイラストで中国製の骨太な物語を楽しめるとのことだが、ほとんどスタートラインにすら立てずに終わってしまい悔しい。FPSのゲームをやってみた感想としては(当然のごとく主人公は女性キャラ)、負担が大きいなということになった。あと、公園でよちよち歩きをする子供を追いかけていったり、おもちゃの車に乗ったのをふらふらと押していくときの視点の動きがFPSだとわかった。
◆嫁がクリスマスプレゼントの交換をしたいというので予算を1000円以内ということにして、彼女が療養から一時帰宅する正月明けに交換することになり、僕は先日仕事の合間に新宿の東急ハンズに立ち寄ってみたのだが、すべてがつまらなく感じて何も買わずに帰ってきてしまった。結局、ダイソーで刺繍糸を買ってきて、ネットでやり方を調べて簡単なミサンガを作ることにした。原材料費は30円くらいだ。ハチナイの本庄先輩を少し思い出したが、そういえば小学校か中学校の頃、ミサンガが少し流行って、編んだ人とかいたのを思い出した(僕も編んだことがあったかもしれないが、あまり覚えていない)。柄は以前から行こうと計画していたグルジアの国旗だが、十字架模様を出すのが難しくて挫折し、一番シンプルで細いものにした。それなりに集中して手を動かして無心になっていく瞬間がある感じが、休暇中に暇な時間を見つけてやっていることもあり、素朴ながら美しい模様が出来上がっていくのを見ながら、これは東方シューティングと同じだと思った。東方が手芸と同じだといってもいいのかもしれない。
◆アマカノSS+の感想メモをいったん出しておく。最初に読んだ雪静シナリオの感想は特に書かなかったか、だいぶ前だったので書いたけどどこかにやってしまったのか覚えていない。前作のときにだいぶ書いたからいいかなと…。奏シナリオだけで約半年かかってしまったので、全部終わらせるには最低でもあと1年かかるかもしれない。他にエロゲーをあまりできなかったこの1年でさえこうだったので、他にやったりしていたらあと2~3年かかってしまうかもしれないと思い、とりあえず出しておくことにした。断片的な感想で、同じことを繰り返しているようだけど気にしない。

 

アマカノss+ 奏シナリオ
(2022.06)
 奏シナリオを始めてみた。社会人になって長い時間が経ち、高校を舞台にした標準的な設定のエロゲーにはついて行けないと思う時がある一方で、社会人物の作品だとやっていて仕事を思い出してしまって嫌だなということもある。主人公が就職して、これから社会人として人間関係を築いて行ったり、仕事で社会が成り立っていることに気づいていったりするのを見ると、それがきれいごとであったりしても、自分にとっては高校時代と同じく大昔のことであったとしても、ちょっと気が重くなる。
 奏は可愛らしくて理解がある善き女の子として描かれている。新婚旅行が隣県の温泉宿に自家用車で行くことで、途中で車中泊をしたり、公園でキャンプをしてインスタントラーメンを食べて喜ぶお嫁さん……。おっさんの美しいファンタジーなのかもしれないが、なんだかそういうのに一向に関心がない現実のお嫁さんと照らすと、よい意味で切なくなるものがあるな。

 

(2022.07‐08)
 背景がすごく色鮮やかで、祝祭感があるのだが、人はいない。世界に祝福されている、世界は明るい、という感覚が新婚旅行や新婚生活のよさであり、二人の幸せが世界の明るさと共鳴し合っているみたいで染み入るものがある。話自体はまったくつまらないのだが、高揚感と多幸感に感染させられる。Pretty Cationと何が違うのかよくわからないのだが、全く違うポジティブな波動を浴びせられる。やっぱり絵の違いが大きいのかな。奏をいろんな背景に場所に連れまわして、その立ち絵を眺めるだけで、いいなあと思ってしまう。日本に本当にこんな場所があるのだろうか。日本海側なのかよく分からないが、森の木々の色も、海の色も鮮やかすぎて、何か非現実的な世界に踏み込んでしまったように感じる(実際に現実ではないのだが…)。ホラー展開とか不条理展開とかになってもおかしくないくらい、世界が明るすぎて(でも世界は静か)、奏が幸せすぎる。これは小説で文章として示されても頭でしか理解できないだろうけど、この作品だと色と奏のおしゃべりで感覚的に表現され、感染させられるのがすごい。いやこれは抜きゲーなんだけど、思わず新婚とか結婚の幸せとかについて考えさせられてしまう。深さとかそういうのは全くないのだけど、ガツンとくる。新婚旅行は日常の社会性から解放されて、旅行と実存(自分探し)みたいな内面的問題からも解放されて、好きなように動き回っても、何もしないくてもよく、そういう無の時間を二人で軽やかに楽しむという稀有な経験だ。別に新婚旅行じゃなくてもそういう経験をできる人もいるだろうけど、僕は旅行というと何か貧乏くさく有意義さを求めてしまって、価値あるものを見て勉強しなきゃとか考えてしまうので、この新婚旅行のポジティブな虚無がすごいものに思えてしまう。二人で初めてのように世界を見て回るけど、その世界は車で行ける隣の県だったりして、世界とかいってもただの行楽地で、虚無を楽しむとかいってもただの消費行動なのだが、そうしたものの描かれ方、僕の目に飛び込んでくる光の具合によって、何やら世界の秘密を垣間見たような気にさせられてしまう。この新婚旅行のエピソード、終わらせたくないなあ。


(2022.09)
 奏シナリオの新婚旅行編が終わり。幸福感のある長大なエッチシーンに浸っていると、時間の感覚が消えて、自分が無限に引き伸ばされた無時間的な幸福の中にいると感じることがある。イーガンの『順列都市』か何かでそういう描写があったような気がするが、エロゲーのエッチシーンは没入感が高いので段違いだ。実際に時間は引き伸ばされていて、現実のエッチではあれほど長大な喘ぎ声や長時間の絶頂はおそらく危ないクスリでも使わないと不可能であり、そういう意味ではエロゲーのエッチシーンはドラッグと似たような効果があるのだろう。プレイし終わると没入していた場合は結構時間が経っていることも多い。その意味ではエロゲーは決してストーリーパートや日常シーンが特殊なのではなく、エッチシーンこそがエロゲーエロゲーたらしめている。
 エッチシーンとはまた別の形で、物語としての新婚旅行の特殊性を改めて感じる。以前に書いたことの繰り返しになるかもしれないが、奏との新婚旅行のシナリオを読んでいると、エロゲーの最終地点、物語の袋小路に到達した感覚がわいてくる。これ以上何も考えなくていい、苦しまなくていい、先に進まなくていい、ここにずっといればいいじゃないか、という地点にいるという感覚。新婚旅行には何の課題も設定されず、問題も起きず、ただ心地よい小さなサプライズ(日常ではなく旅行なので)が順番に起き続けるだけだ。急いでもいいし、急がなくてもいい。何か起きてもいいし、起きなくても後ろめたいことはない。新婚旅行で見聞するものに高度な希少性や特殊性は必要なく、見聞から何かを学び取る必要もなく、自分磨きや自分探しをする必要もなく、二人で気ままで快適な時間を共有できたねという認識が残ればよい。新妻は自分を愛しており、自分もその気持ちに応えられる。他には何もしなくていいので、応えることをゆっくりやるだけの時間があり、若さもある。そういう時間は社会性に縛られた人生の中ではかなり特殊であり、そこだけが人生から切り離されて幸せな思い出になることも不思議ではない。新婚旅行ではなく単なる旅行でも似たようなものを得られるとは思うが、人生で一度きりの祝福された旅行としての新婚旅行はやはり特殊だと思う。大げさに言えば、それ以降の旅行は新婚旅行の影を追い求める旅行になるのかもしれない。実際には新婚旅行は相応のお金や時間というコストを支払って手に入れるものであり、生産活動の一切ない、純粋な消費活動に後ろめたさやストレスを感じないことは難しいのだが、それを踏み越えたときに不思議な快感がある。そういう意味で旅行とはエロゲーと同じくらい危険な代物であり、新婚旅行を描くエロゲーはその危険な魅力を凝縮しているのかもしれない(ちなみに、田中ロミオの『終のステラ』の参考文献として最近読んだSFノードノベルであるマッカーシーザ・ロード』は、ここでいう「旅行」とは何もかも正反対の「旅」で、これはこれで優れた読書体験になった)。この作品以後も幸せな抜きゲーはつくられ続けるだろうし、成熟しすぎて腐乱する手前まで来たように感じられるこの作品のクオリティも、いずれ技術的に乗り越えられていくか、あるいはもう乗り越えられたのだろうが、今ここでたどり着いた永遠は失われない。

 

(2022.12)
 約20年ぶりに親と同居の状態に戻ってしまい、隣の部屋で寝てたりするので、リラックスしてエロゲーを楽しめない生活が続いている。仕事も生活も簡単ではない状況が深まり、心のおもりが重くなってエロゲーなんてやっている場合でなくなればなくなるほど、砂漠の旅人がありついたひと口の水のように沁みわたることもある。この作品で描かれているような甘くてエッチで幸せで、ついでに仕事もうまく行っちゃっているような新婚生活。僕の現実でもありえたのかもしれないけど、どこかで選択肢を間違えてしまったのか、気づくとそういうのはないまま中年になっていた。結局自分は人生をなめていて(最近もテレワークで仕事しながらハチナイやったりしてる。エロゲーをプレイできないのでその代償行為なのかもしれないが)、死に物狂いで努力したり、本気で自分の人生の計画を立てて実現に向けて一歩ずつ進んで行くということをしなかったから、その時々の運に任せて何事も中途半端なまま流されて生きてきて、いつの間にか責任たちに追い詰められていって、場合によってはその責任たちと心中するかもしれないようなところまで来ていた。これで人の親とかおかしいのだが。中年の危機かも(と書くとあほくさい感じがしていいな)。しかしながら、そういうときに、まったくありえないんだけど、ありえたかもしれない幸せとしてこの奏との新婚生活を体験することで、自分の人生感覚を補完し、幻肢でバランスを取って倒れないようにする。本当に大した内容も物語もないんだけど、そういう実用性はある作品なんだよなあ(賢者モード)。自分の人生、5年前のあの時、7年前のあの時、12年前のあの時、いや、20年前のあの時にああしていれば、違っていたんじゃないのか。もちろん違っていた。でもその代わりに今手にしているこのささやかなものは手に入らないだろう。今より悪くなっていたかもしれない。中年になっても月4万9000円の狭いアパートで20代みたいな独身暮らしをしながら、つぶれそうな零細企業の社長をやらされていたり、あるいは愛も喜びもない無言の結婚生活を送っていたり、あるいはやけくそになってロシアに渡っていたりしただろうか(社長については可能性が少し高くなってきていて気が重い)。それとも大企業の中で人に揉まれながらすり減っていっていただろうか。そのどの選択肢にもアマカノの奏シナリオを楽しんでいる自分がいて、別の選択肢に想像を巡らしたりしているのだろうか。どれがいいのか、なんて問題はいまさら存在しないのだけど、布団に入ってとりとめもなく考えているうちに寝てしまう。そしてまた次の日が始まる。

傷物語

 『傷物語』をやっと観終えた。いろいろと過剰な作品だった。既にきちんとした考察を読んでしまったので自分にいえることは断片的な感想以上のものではないのだが、一応感想として残しておこう。

  • シネフィルの人たちの基礎教養であるヌーベルバーグとか1960年代の日本の実験的な映画とかほぼ何も知らないので、何か引用されていても漠然とした違和感しか感じ取れなくて申し訳ないが、フランス映画とかには興味がないので仕方ない。
  • 劇場版アニメの特権というか、グロテスク表現とか残酷表現に手加減がなくて、一歩踏み込んだ表現の爽快感がある。アクションシーンでは阿良々木君の人間離れが著しく、映像表現もストーリーテリングから離れて純粋に表現の限界を試しているようなところがあって爽快。この点においては、枯れて寝ぼけたCGに堕してしまったかのようなシン・エヴァよりも先に進んでいるように思った。シン・エヴァにもこれくらい頑張ってほしかった。
  • エヴァといえば、ヒロインの表現においても『傷物語』は過剰で素晴らしかった。これほど羽川さんの本気の表情をたくさん堪能できるとは思っておらず(おっぱいについても、丸出しにするような安っぽいことはおおむねしなかったし、それ以外は表現として全く出し惜しみがなかった)、とても贅沢だった。原作のシリーズではことあるごとに阿良々木君が「羽川は恩人だ」とか「地獄のような春休み」とか繰り返すのがいい加減に鬱陶しいのだが(傷物語を読んだのは遠い昔なのでもうあまり覚えていない)、このアニメの映像表現をみていると、そして声優さんの熱演も聴くと、確かに羽川さんは恩人だし、阿良々木君は地獄を味わっているので、それを証明するためだけに映像化したような気さえする。
  • 全体として、夕方のオレンジ色に染め上げられているか、曇り空や雨、夜ばかりが多くて、空間は広々しすぎていて、建物は巨大で空虚なものばかりで寂しくて不気味なのだが、その中で羽川さんの表情だけはいつも輝いているようだったので、たとえ阿良々木君がこの物語でもっと大きな失敗をして物語シリーズが始まらなかったとしても、羽川さんのことだけ思い出しながらその後の人生を生きていけそうなほどきれいなシーンがあった(第2部)。ここから戦場ヶ原さんルートに進んだのがまったく納得できないような素晴らしい出来だった。
  • 日の丸とか人のいない巨大建築とか、日本の戦後民主主義の問題とからめて論じておられることに異論はないのだが、単純に夜の住人としての吸血鬼、公的権力や公的空間の隙間や裏側でしか生きられない存在という文学的モチーフを強調する装置としてみるほうが個人的には実感しやすい。ヴァンパイア・サマータイムみたいな。そういうふうに文学的モチーフとして丸められてしまった吸血鬼というテーマから本来のポテンシャルを引き出すために、わざわざ日の丸や巨大建築みたいな異様なシンボルを使ったのだろうけど。人間が生活するための合理性を無視したような巨大建築がろくに使われもせずに静かに立ち続けているところに迷い込むと不安になる。それはデパートの人気の少ない空間だったり、ニューオータニみたいな巨大ホテルだったり、高層ビル街だったり、工業地帯だったり、普段の自分の生活とは違う尺度で構成された空間に自分を置かなければならなくなる不安だ。そういう場所では人は自分を見失わないように、多かれ少なかれ吸血鬼のような存在にならざるを得ない。逆にいうと、空間というものは人が絶えず気を配り、人間的になるように世話を焼いていないと、すぐに廃墟のようながらんとした空間に変貌してしまう。若さを失っていく日本では、これからはそういう死んだ空間が増えていくだろうから、死んだはずの近代モダニズム建築を新築のように描く表現には切れ味がある。そして死んだはずの近代オリンピックを新品みたいな競技場で無観客で開催しつつ、実はそこでは2人の吸血鬼が壮絶な殺し合いをしていたというのは、熱い展開だけど同時に孤独でむなしい。死んだけど生きている、生きているけど死んでいる気もする、というような漠然とした不安の中で紡がれる物語シリーズには合っている映像表現なのかもしれない。
  • 原作シリーズはずっと前から文章の水増しがひどくて、果汁3%のジュースを水で薄めたものを飲まされているようなところがあるのだが、この劇場版アニメは文章では描けない迫力を表現することに挑戦して、成功したように思う。これも繰り返せばきっと水増しに思えてしまうのだろうから、一度限りの禁じ手なのかもしれない。そんな作品で羽川さんの姿をたくさん見ることができたことに感謝したい。最後に頭痛が来ていたのが悲しいけど。

終のステラ (85)

 体験版が出たときに誰かが、田中ロミオがシミルボンで紹介したマッカーシーザ・ロード』に雰囲気が似ていると書いていて、確かにシミルボンでべた褒めされていたので読んでみて面白かったのだが、体験版より先の部分まで読んでみると、父親が無垢な子供を守る旅という『ザ・ロード』の中心的なモチーフまで同じで驚いた。自分にとって最高に大切なものを未来に向かって「運ぶ」こと。タルコフスキーの『サクリファイス』ではイタリアの浴場遺跡をろうそくの灯を消さないまま端から端まで歩こうとする男が印象的だったが、『ザ・ロード』ではそれが自分の息子というもっと明るくて具象的なものになって、この作品ではさらに可愛いアンドロイドの女の子になった。そしてアンドロイドを娘と認めて自分の持つすべての最良のものを伝え、渡すことをクライマックスにする物語に感動させられ、「時代はもう俺の嫁ではなく、俺の娘になったか」と浄化されてしまった中年エロゲーマー。しかし嫁と結ばれるのではなく、娘が(半ば勝手に)生まれるのでもなく、娘を人として育てることは、エロゲーマーにあまりにもきれいで美しいものを求めるので、途中で耐え切れなくなって幸せな顔をしながら死んでしまうかのようだ。実際にはジュードのようにストイックに仕事に生きることも難しいので、その意味できれいすぎて耐え切れなくなる部分もあるかもしれない。しかし、クラナドを読んで結婚や家族を持つことに夢を見たり、智代アフターを読んで就職して恋人と同棲することに夢を見たりするエロゲーマーがいたように(本当にいたのは知らないが少なくとも僕は就職する気になった)、この作品を読んで自分一人だけの人生設計をやめて子供を育てたくなっちゃうエロゲーマーもいるかもしれないから、少子化対策推奨作品なのかもしれない。Key作品のファンは年齢層がある程度広がっているだろうけど、田中ロミオのファンはもう中年の人が多いだろう。既に小中学生の子育ての真っ最中だったり、あるいは今から子供を持つにはもう難しくなっていたりするだろうから、この作品のきれいすぎるメッセージは届かなかったりするのだろうか。
 といってもこの作品は育児の物語ではまったくなくて、フィリアとの道中とかけあいは普通にエロゲー的なフォーマットで進められていく。だからあの抱っこひもみたいな担架で負傷したフィリアをだっこして走っている一枚絵では、フィリアのエッチなふとももと赤ちゃんみたいに抱っこされているギャップが、後から振り返って見ても味わい深い。それはともかく、フィリアが人間の残虐な一面を見てことあるごとに情緒不安定になり、ジュードと意見が相違して不機嫌になり、不器用なジュードは死んだ妻のことを思い出したりしているのを見て、僕も「女ってのは…」と思わず不適切な反応をしてしまう部分があった。フィリアは自分の軽率な同情が結局は多くの人を死なせる結果になってしまったことについて、「でも私はただ…」と繰り返して泣くことしかできず、明らかに自分に不利益になると分かっていても感情的に反応して銃を受け取ろうとしない。こちらが説明しようとすると怒る。ここでは子供であることと女であることが未分化の状態で描かれているようで、対照的に終盤の「人間」になったフィリアは危険な悪人を平気で撃ち殺し、人を助けながらも自由に生きている成熟した大人になっているが、それはすでに「俺の娘」だと認識されているフィリアであり、嬉しいけど一抹の寂しさも感じる。まだヒロインを所有したがる癖が抜けていないオタクなので、エピローグの主人公無しで成長してしまった娘に寂しさを覚える。幸せな未来を想像できるから救いだけれど、フィリアはこの先、恋をしたり家庭を持ったり子供(他のアンドロイドとか)を育てたりして、(公爵の描いた計画とは異なり)いつかはリソースを使いつくして死んでしまうのかもしれないが、それはもう父の関知できることろではない。父は運び終わって、いさぎよく退場したのだ。
 それにしても、最初は『ザ・ロード』のようにホームレスみたいなストイックなサバイバル描写が続いていくのでそういう物語なのかと思っていたが、後半は古典的で派手なSFのギミックがたくさん出てきてそれはそれで楽しませてもらった。その描写が陳腐に思われなかったのは田中ロミオの筆力と、地味で素晴らしいたくさんの背景画のおかげだと思う。このご時世、AIで描けちゃいそうな感じの絵が多かったと言ったら怒られるかもしれないが、仮にそうだったとしてもこの作品にとっては何のマイナスにもならないだろう。チャプター扉で出てくる座標のようなものから推測すると、この物語はどこか北京かソウルか、あるいは大陸とくっついてしまった日本あたりから始まって、ベトナムやタイを通ってシンガポールから洋上の軌道エレベータまでを旅する話らしい。現代では世界で最も活気や可能性がありそうなこのルートが、文明の痕跡がまばらで緑にのまれてしまったエリアとして描かれている。どこかのメコンデルタあたりの風景の明るい寂しさが印象的だった。フィリアが泳いだ海はベトナムあたりのビーチだろうか。『ザ・ロード』で親子がたどり着いた海は水も風も冷たい最果てだったけど、フィリアは楽しい思い出を作ってコンブまでかぶってよかった。ちなみに、物理メディアがほしい派で絵がきれいだったのでこの海のシーンのタペストリが特典になったソフマップ版を購入したが(小説が付いているのは高すぎて見送ったが少し未練がある)、例によってタペストリを飾る場所はない。部屋の中につくるかなあ。この海でのことをフィリアは後できっと何度も思い出しただろう。
 終わってみると、結局、公爵の偉大な計画がなくても何だか人類は救われてしまいそうな明るいエピローグだった。Keyの甘さなのかもしれないし、ご都合主義なのかもしれないが、遠い未来のおとぎ話なのだしまあいいか。森の中の旅も、都市遺跡の探索も、デリラとの交流も、島や宇宙での出来事も、悪夢のようなことばかりだったけど(すべては人生に比喩だ)、フィリアはジュードとの旅がずっと続けばいいと思っていただろう。でもそうはならず、別れなくちゃいけないのは人間でもロボットでも変わらないのだった。

 

(10月3日追記)

 あらためて雰囲気のいい作品だったなと思ってCCギャラリーを見返してみると、やっぱり絵がよかったことがわかる。プレイ中は個々の絵はわりとさっと流して見てしまうのだが、写実的にでありながらも全体的に暗めのくすんだ色調で統一されているのがいいのだと思う。田中ロミオがそうした絵に合うような抑制された文章がうまいのも『最果てのイマ』とかでわかっている。絵の構図が何となく美術館の絵を想起させるものも多い。19世紀に象徴主義印象主義が登場する直前か登場した直後くらいの、成熟し、あるいは爛熟した写実主義のような、情感を充溢させながらもあくまでフォトリアリスティックな技能の枠にとどまる絵たち。自然の風景画や廃墟の絵が多いことも美術館の絵画の雰囲気につながるように思う。廃墟といっても一般的な古代ローマの廃墟ではなくて、遥か未来における21世紀的な都市や未来都市の廃墟なのだが、抑制された色調のおかげで鑑賞向きな落ち着いた絵になっている。19世紀の写実主義古代ローマを離れて自国の現代の都市や田舎に美を見出していったので、21世紀的な都市や商業施設が廃墟として描かれるのも普通に美術的に見えてしまう。舞台になったのは温暖湿潤なはずの東アジアから東南アジアであり、作中でも暑がっている描写はあるが、絵はあくまで涼しげで、風景画にしても人物画にしてもむしろ寒そうに見えるものが多い。滅びた世界、失われた世界だからだ。この空気感が、僕の場合はロシア美術の風景画を見る目を思い出させてくれる。昔、留学していたころは美術館に行くのがストレス解消の一つで(ロシア語を聞いたり話したりするストレスから解放されながらも知的好奇心を満たせた)、モスクワの古本屋とかで安い画集を買い集めて眺めていたりした。PCゲームのデジタル画だと美術館や画集よりもさらによい画質でリラックスして鑑賞できるメリットもある。とはいえ、いちいち美術史を持ち出さなくてもオタク文化では以前から空想都市を描くジャンルがあったので、そっちから来た部分が多そうだ。でも、この作品に登場する植物や空や建物の描き方をみているとやはり美術館の方を連想してしまう。
 エロゲーにおいても優れた背景画を持つ作品はこれまでたくさん出ただろうけど、色彩が明るすぎたり、原色的すぎたり、甘ったるすぎたり、構図が乱暴だったり、単純に枚数が少なかったりして、この作品のようなじんわりした統一感を出すことはあまりなかったと思う。例えば、『マルコと銀河竜』は背景画や一枚絵の物量がすごかったが、明るいコメディに合わせたつるっとした明るい感じの色彩であり、目に優しくなかったし、まったく美術館的(アカデミック)ではなかった。Winters作品のように暴力的な原色が狂気を醸し出す場合もある。エロゲーを始めたての頃は、KanonAirのきつい色彩に驚き、うたわれるものの優しい色遣いに潤う思いがしたものだったが、やがて全体的に明るくてシャープすぎるエロゲーの色彩に目がなじんでいってしまった。この作品では、ロードムービータイプのストーリー、すなわち移動する目による物語だからということもあるだろうし、運び屋のストイックな生き方を反映した抑制された色調ということもあるかもしれない。フィリアがこの先、運び屋として生きていくとして、彼女が主人公だったらもう少し雰囲気が違う背景画になるだろうか。エピローグの彼女が立つどこかの山の開けた場所の絵は、くすんだ色調の中にも明るい開放感がたっぷりと感じられて嬉しくなる。その後に出てくる遠景の絵は、構図が完全に17~18世紀くらいの廃墟絵画のものになっていて、僕たち鑑賞者は額縁の外に追い出されてしまう。フィリアたちのこの先の人生に思いをはせながら。

 

いまさらのNHKにようこそと牧野由依ボイス

 先日、ふと思い出して買ってしまったアニメ『NHKにようこそ!』(2006年)を観始めた。もう15年も前のアニメ、そして原作小説は20年前の作品であり、時代の向こうに流れ去ってしまったのかもしれないが、僕の中に残っていた当時の感情はすぐに戻ってきた。いまだに現役の作品であることを嬉しく確認すると同時に、その後の僕の人生の生活圏や行動範囲がこの作品の舞台に近いところばかりで、8話の「中華街にようこそ」で最近行ったばかりのみなとみらいや中華街が出てきたときには(2006年当時にはまったく縁のない場所だった)、親からは最近白髪がずいぶん増えたと心配されるほどおっさんなのに、自分はいまだにNHKにようこその聖地巡礼をしていたのか、ほとんど呪われているんじゃないか、とちょっとショックを受けた。そして現役でありながらも、時代の空気を色濃くまとっている。それはときどき崩れる作画や滲むような色彩に表れているように思えるし、アキバ・オタク文化が世間で認知されて盛り上がっているようにみえた、明るくて勢いのあった時代の描写にも表れているようにみえる(対照的に佐藤と山崎の生活はひたすら暗く、それこそがこの時代のリアルな雰囲気であったことも含めて)。こんだけエロゲーで盛り上がり、エロゲーで驚き、こいつら楽しそうだなあ、楽しかったなあと思い出される。この前のシュタゲと同じで、今の自分にとってもいい位置に収まる作品になっている。とはいえエロゲーの時代は過去のものとかいう言説はわりとどうでもよくて、いまでも僕の部屋には未プレイの作品がいくつもあるし、古い作品を再プレイすることも不可能ではないのだが、これからは生活スタイルを変えなければならなくなるのでこのまま埋もれていってしまうものもあるのかもしれない。でもサクラノ刻の予約はそろそろするかな…。
 あらためてアニメを観返すと、オープニングアニメと歌の素晴らしさを感じる。顔がよく見えない若い女性たちが開放的な足取りで何度も画面を横切るのだが、これはオタク的というよりはファッション雑誌のモデルのようなデザインで、今の言い方に直すなら陽キャの女性たち、オタクがモニタの向こうにみる外の世界の女性たちであり、特にオタク的な性欲の対象にはならないけど屈託がなくて眩しい存在だ。全体的にオープニングアニメはとんでもなくさわやかでカラフルな色調で満たされていて、陰のある佐藤や岬ちゃんもポップアートのように軽やかで明るく描かれている。その後に続く屈託しまくっている本編と対照的過ぎて、オタクが幻視する夢、切ない祈りのように思えてくる。歌も爽やかで、低音男性ボイスとのハモりが優しい。
 とはいえ、この作品は何といっても岬ちゃんだ。改めて観るといい声をしている。柏先輩とか山崎とか、他の声優さんの演技も素晴らしいのだが、やはり岬ちゃんは魂のヒロインであり、天使の声をしていることを再確認する。いまさらながら牧野由依さんのCDを2枚買ってしまった(もう一枚買ったのだが手違いで別のCDが届いて返金された)。『天体の音楽』と『マキノユイ』という初期のアルバムだが、これ半分岬ちゃんが歌ってるだろと思える瞬間が多い。当時はなぜかCDを漁るという方に頭が行かなかったが、声優の音楽CDとしては割と品質が良い方のようなので、しばらく聴いてみたい。これまで坂本さん、堀江さん、悠木さん、小倉さん、花澤さん、上坂さん、東山さん、麻倉さんなどいろいろな声優の音楽CDを聴いてみたが、声はともかく、伴奏や編曲などの楽曲の質がアルバム全体を通して高い水準にまとまっていると思えたのは花澤さんのCDくらいで、他は明らかにこの声に合ってないだろというような曲や手抜きの曲が多くて、歌詞も薄っぺらくて、がっかりさせられがちだった(僕の好み的に声をじっくり聴きたいのに、アップテンポに声を張り上げて個性が消えている曲とか多い)。牧野さんが声優として、歌手としてどう評価されているのかよくわからないが、あまりメジャーではないようで、強烈すぎた花澤さんに持っていかれてしまった知る人ぞ知る可愛い声の声優という感じだろうか。僕の中では岬ちゃんの人という認識になっていて他の役のことは知らないので(あとアクエリオンのザーウミの歌が印象的)、この人が歌う全ての曲に岬ちゃんの存在を感じ取ることができてありがたい。先日、所用で地方に片道300kmのドライブをして帰りは一人だった時には、眠らないように高速で牧野さんのCDを大音量でかけながらぶっ飛ばして、NHKのエンディング曲を感慨深く聴いたりした。直近のアルバム(といっても2015年)では傾向が変わって非オタク向けっぽくなってしまったようだが、できれば岬ちゃん路線を大切にして歌い続けてほしい。

アニメ『瀬戸の花嫁』

 夏の終わりに。
 キャラクターが絶えず大声を張り上げている騒々しいラブコメで、子供向けのギャグやリアクションが多くて乗り切れないところもあったが、終わってみると楽しかった。暑苦しい男キャラたちにもいつしか慣れてきた。北斗の拳とかターミネーターとかギャグマンガっぽい猿とか御曹司とかメガネ委員長とか、ネタがたぶん当時としても古かったりするけど、そもそもヤクザものというジャンル自体が昭和なのであまり新しさをどうこう言っても仕方ないところがある。悲しいかな、既にエロゲー老人になりつつあるので、エロゲーパロディ回でKanonとかAirとかのパロディがでてきたら普通に楽しんでしまった(政さんの「お兄ちゃん…」で笑った)。原作マンガが連載されていたのが2002年から2010年、アニメは2007年ということで、今から思えばアキバカルチャーが一番注目されていた時代だった。その明るさというか楽天的な雰囲気がよく似合う作品だった。騒々しいギャグも、声優さんたちの熱演として心地よく聞けてしまうところがあった。永澄や燦ちゃん、政さん、お父さんズは当然として、るなちゃんも巻ちゃんもみんなよくがんばった。桃井はるこさんと野川さくらさんのOP主題歌もアニメともども好きで、毎回あの夏らしいイントロで引き込まれ、ダンスのシーンを思わず見てしまう。
 ギャグセンスはかなり違うけど、勢いと雰囲気は僕にとってのギャグマンガの原点であるザ・モモタロウに似ていたのも懐かしさの一因だ(今回思わず古本を買い直してしまった)。筋肉がたくさん出てきて暑苦しいところも。ラブコメというところでは、これまた今となっては懐かしいラブひなを思い出したりした。
 あとは何といっても方言だった。これがあったから見続けたといってもよい。香川県あたりの方言らしいのだが、僕にとってはこの辺の瀬戸内海の方言は香川も愛媛も広島も区別がつかず、小中学生の頃の夏休みの帰省の記憶に結びついている。自分は永澄くんのような中学生ではなかったし、人魚にも極道の組に遭遇したこともなかったけど、毎年夏休みに東京から帰省する父の故郷の小さな島に、強烈な広島弁を話す少し年上の従弟三姉妹がいて、燦ちゃんのお父さんにちょっと似た感じの彼女たちのお父さんが酒で焼けたようなガラガラ声の広島弁で、東京や大阪から遊びに来た甥の男の子たちを歓迎してくれた。砂浜のような黄色い砂が散る坂だらけの細い道、そのわきの溝を這うカニ、黄色い砂だらけの神社前広場のお祭り、墓参り、潮風、夏の海と強い日差し、砂浜に打ち上げられたクラゲ、泳ぐと足に触れる黒々とした海藻の海、ミンミンゼミ、アブラゼミツクツクボウシクマゼミ、未舗装の細い山道を上がる不思議な農業作業車、蜜柑山、ラムネ、海釣り、船酔い、車酔い、甲子園中継。今思えば贅沢な夏の記憶だ。アニメでは瀬戸内海が舞台なのははじめの2話くらいで、後はだいたい埼玉県の中学校の話なのだが、OPアニメのおかげで瀬戸内海の夏の気分が思い出されて優しい気持ちになった。他の視聴者は少し違っていたのかもしれないが、やはり燦ちゃんや瀬戸内組の面々のおかげでだいたい同じようなものを見ていたと思う。そういえば、従姉妹たちのうちで一番元気だった末娘は東京で結婚して割と近くに住んでいるので、いつかDVDを貸して彼女の息子たちと一緒に観てもらうというのもいいかもしれない。
 後日出たOVAは映像が丁寧で話もいつも通りのクオリティなのだが、一度完結した物語の後で中途半端な日常回が数回入ったみたいになっていてすわりが悪かった。あと、原作者さんのプロフィールをみたらこの作品で燃え尽きてしまったみたいになっていて、ツイッターをのぞいたら元気そうだったけど意味がよく分からなくて少し悲しくなった。Wikipediaの制作の経緯とかによると、関わった人たちが単なる仕事以上の熱意と愛情を注いだ作品だったようで、いいものを見せてもらった。

www.youtube.com

日々のかけら

 前回書いてから2ヶ月ほど空いてしまったので、何か最近のことでも取りとめなく書いておきたい。
◆できればこれが最後のフィギュアになるかなと思いつつ、綾波レイ・ロングヘアバージョンのフィギュアを買った。髪だけでなくて手足も長くなってしまって、それでも綾波レイの雰囲気は残っている。シン・エヴァのDVDが出たらたぶん買うのだろうけど、たぶん上映版から大した変更はないだろうから、冷めた気持ちで記念品として手元に置いておくくらいになりそうだ。
◆フィギュア用というわけではないのだが、部屋の中に場所がなくなってきたのでダイソーで買ってきて本棚から水平に突き出すように差し込む木の板がだいぶ増えてきて、本棚が樹木のように広がってきてしまった。その小枝たちにフィギュアやアニメ、マンガなどが乗って賑やかな感じになっている。アニメは最近は居間のテレビで観ることが増えており、そのために買った中国製の安いDVDプレイヤーが活躍している。以前は録画したものを観ていたのだが、そんなに録画もあるわけではないので買った。テレビは主に夜、妻氏の足裏マッサージをしながら二人で観ていて、基本的にアニメに関心のない彼女は途中で寝てしまうことも多いのだが、僕と一緒にいると落ち着くので大人しく観ている。最初に観たのは録画した『明日ちゃんのセーラー服』で、これでアニメも二人でそこそこ楽しめると信用してくれたようで、次に『夏色キセキ』を観てこれもどうにか成功した。その次にヤフオクで買った『瀬戸の花嫁』を観始めたが、これはノリが子供向けのドタバタラブコメのようなので完走できない可能性がある(評判はいいらしいので僕だけでも観るつもりだが)。エヴァのテレビシリーズも観始めたが、縦横比が崩れて横長になってしまうので休止。京アニKanonも観始めた。あと、録画した異世界薬局も観ているが、若干興味を持ってもらえているようだ。邪神ちゃんも少し気に入っていた。
◆同じく僕と一緒にいられるという理由で、ドライブに出かけることも好きで、運転中にアニソンやエロゲーのBGMをかけている。ときどき興味を持って、何の曲かと聞くので、砂漠のエロゲーだとか(朱)、弥生時代エロゲーだとか(天紡ぐ祝詞)、人生のエロゲーだとか(Clannad智代アフター)、一番泣いたエロゲーだとか(ONE)、僕がいちいち鬱陶しく説明して鬱陶しがられたり引かれたり、たまに感心されたりして、ともかくおしゃべりできるのが嬉しいようだ。彼女も気に入っているBeautiful world(エヴァの歌だがラーメンの歌と認識されている)や倉木麻衣の古い歌が流れると機嫌がよくなり、唐突に田中理恵百人一首朗読や、ペルシャ旅行で買ったペルシャ民謡が流れ始めると脱力し、相対性理論ボンジュール鈴木やSOUL'd OUTの歌を小さな声で一緒に歌って笑ったりしている。
◆妻氏は体も心も弱くてすぐに参ってしまうので、リラックスしたままお手軽に外出できるドライブが好きなようだ。決して乗り心地のよくないMTの軽自動車なのだが、車に乗る機会が減るからと自転車を買おうともしない。よく出かけるのは江の島方面で、先日は三浦半島に海水浴に行ってきた。僕は泳いだのは7年ぶりくらいで、8時には駐車場が満員になる可能性があると聞いたので6時過ぎに家を出たのだがガラガラで拍子抜けした。水の透明度が低く、足元にある岩がみえずに踏んでしまって足が痛くなったが、エメラルドグリーンがかった海に揺られて気分転換になった1日だった。
◆また、先日はみなとみらいの高層ホテルに一泊したいという希望に付き合って、簡単に日帰りで行けるところに車で行ってわざわざ宿泊してきた。県の補助制度で1人7000円分の割引・クーポンを使えたおかげだ。みなとみらいは完全の僕の関心の対象外なのだが、たまにはこちらも付き合う必要がある。台風前の風に揺れる夜の観覧車や、夜も温まったままの波打ち際の広場や、中華街の雑貨屋や花文字。散財に僕がいい顔をしないので(途中で付き合いきれなくなって感情が死んでしまう)終始楽しいというわけではないのだが、終わると全部ひっくるめて楽しかったということになる。出かけた後には僕が絵日記のようなへたくそな絵を描くのが楽しみだそうで、それを大切にして元気のない時などに眺めているという。最近はラーメン屋巡りやブックオフといった男くさいことも楽しんでくれるようになって、金がかからなくなってきて助かる。我が家の家計にあまり余裕がないと何度もぼやくのは面白くなく、妻氏もお金のことを考えると頭がさえて眠れなくなって睡眠薬を追加したりしなければならなくなるのだが、何度も繰り返したせいか彼女にも貧乏性思考が少し身についてきたようで助かる。二人で一番よく行く店はおそらくダイソーなのだが、適度な無駄も許容できる生き方をするのなら、ダイソーレベルで満足できる感覚を手放したくない。この水準にとどまった方が小さな幸せに気づきやすいからだ。昨日は車で奥多摩の鍾乳洞に行こうとしたが、あと5kmまで来た山の中で今日はもう混んでるから入れないと言われ、五日市の奥にある滝に切り替えた。ひと気のない夕方の山の中で力強い滝を眺めてリフレッシュ。ほとんど車の中で過ごした1日だった。
◆この夏は本格的に植物栽培を始めた。始める余裕ができてよかった。実益を兼ねたいところだが遊び半分であり、ミニトマト、トマト、ブルーベリー、パセリ、ゴーヤ、シシトウ、ナスなど、収穫できるようになったものもあるが収量はわずかだ。植物に水をかけるという簡単なことで何かを育てているという感覚を得られ、会話のタネになるのが一番のメリットであり、本当に育つのは運が良ければ程度でいい。今日は彼女が竜胆の鉢を500円で買ってきたので、僕は『神樹の館』の話をしてしまった。
エロゲーは最近は月に数回しか起動していないのだが、アマカノSS+ですぐにエッチシーンで止まってしまいなかなか進まない。感想は少し書いたが、まとまりがないので当面はメモのままだ。サクラノ刻、ブラックシープタウン、田中ロミオ新作は買いたいと思っているが、このペースではいつになったらプレイできることか。ロシアのエロゲーの第2作も発売されたが、舞台が80年代の日本ということもありプレイしないかもしれない。来年発売の『ONE.』も気になるが、テキストがそのままだったら買ってもプレイするだろうか。リライトされたとしても、ストーリーがそのままだったらどうだろうか。
ツイッターのキャンペーンに当選してクレヨン先生の素敵な絵葉書(1~5周年記念イラスト各1枚)を贈っていただいたので感謝のエントリでも書こうと思ったのだが、ハチナイについて何か書くのは意外に難しかった。物語を楽しむよりも、野球のミニゲームを遊んでいる時間の方が長くなってしまったので(始めた頃は過去のエピソードをどんどん読むが、それが終わると更新ペースでしか読まなくなるので進行が遅く感じるようになるということもある)、ファミコンのような単なるパズルゲームと大して変わらない印象になっていく。ファミコンも子供の頃にドラクエ3ファイファン3を楽しんだ思い出があるが、いまさら何かまとまったことを書くのは難しい。そうしたゲームのインターフェイスのデザインや効果音のようなディティール、そして難しいクエストをクリアした時の達成感を懐かしく感じるように、ハチナイでも毎日のように見ているSDキャラの動きやインターフェイスのデザイン、適時打を打つ時の水着野崎さんや着物太結ちゃんや花嫁柚や温泉本庄先輩のカットインをそのうち懐かしく思うようになるのかもしれない。毎日依存症のように立ち上げて様々なアイテムを集めているが、すでにある程度URでスタメンを組めるくらいには強くなって(チーム評価49450)、メンバーが固定化されて新鮮味がなくなってきてしまったので、投じる時間に対して得られる楽しさが減り、遊ぶモチベーションは弱くなってきてしまっている。これがソシャゲーのライフサイクルなのだろうか。
夏色キセキを妻氏と観る前、春ごろに再視聴した時に書いたメモも古くなってしまったけど貼っておこう:夏色キセキの5巻、紗季の島に行く話を見返した(ゆううつフォートリップ、旅の空のさきのさき)。好きな話だ。島に着く前に夜明けの海をみながら紗季と夏海が言い争いをして涙が出てきてしまうシーンで、またぐっと来てしまった。どういう仕組みなんだろうな。紗季はずっと抱えていて、夏海がずっと紗季のことを考えていた描写があって、うちに来ればいいよ、と言ってしまって、ついに溢れてきてしまったのがよかったのかな。あと、考えてみれば、夏海と小晴はけっこう似た性格の女の子らしいから、紗季は引っ越し先で小晴と仲良くなって、夏海を思い出したりしそう。千晴の方が可愛いのだが。紗季が消える夢を見て、その後で実際に消えてしまうのだが、そのことで紗季にはいろんなことから目をそらして消えてしまいたいという思いもあったことがほのめかされる。実際には目をそらさずにむしろまわりがよく見えてきてしまい、気持ちの上でも引っ越しを受け入れられるようになるのだが。オーディオコメンタリーも聴いてみたが、監督にとってもこだわりと苦労があったエピソードだったらしい。大枠のストーリーはシンプルだけどそこにいろんなものを込めるのが大変なんだな。何度も書き直したという脚本家さんの話もなかなか面白かった(なぜフェリーのパートが長くなったかとか)。監督からロジカルに組み立てるように何度も指導されたとのことだが、夏海との言い合いから消失、消失の解除まで、確かにきれいに組み立てられていることにあらためて気づいた。言い争いのシーンで紗季役の高垣さんも収録時に泣いてしまったそうで、その思い入れを聞けたのもよかった。
◆アニメ『シャインポスト』が楽しみになっている。第4話の杏夏の回から3回連続で素晴らしい回が続いて、第5話と6話の理王様の回は2回とも思わず涙ぐんでしまった。僕はアイドルものが基本的に好きではないのだが、気がついたら最近はアイドルものばかり摂取している。そういう作品ばかりということもあるのだが(今ならラブライブやルミナス・ウィッチーズやExtream hearts、あと寝る前はいまだにOnly one yellのいろんなバージョンを聴いていて、睡眠導入剤になっている。なお、Selection Projectはキャラデザや表情のニュアンスが多分今までみたアイドルアニメで一番よかったが(動画工房の絵が好き)、ストーリーはアイドルものとしては最悪に近かった。終わり方もひどかったけど、そういうひどさがかえって想像を掻き立てていつまでも気になる作品にしているのかもしれない…とか書いているうちにまた気になりだして、思わずネットでクリアファイル(EDの最後の決め顔たちを印刷したもの。特に鈴音と野土香の表情が素晴らしい)をポチってしまった)、そういうふうに何度も同じような話をみていると、歌と踊り、特にライブコンサートという、形あるものとして残らずに消えていくものに夢をみるアイドルという存在と、形がないからこそそこに無限の価値を見出そうとするアイドルファンという存在の不思議な関係に、自分もいつのまにか巻き込まれそうになっていくのを感じる。エネルギーのあった若い頃にはまらなくてよかったというべきか。その関係の物語はだいたい、アイドルがビジネスとして売れ始めると終わってしまうのは、アイドル文化がまだ成熟していないからなのか、それとも成熟しすぎたせいなのか知らないが、シャインポストをみていると、売れないこと(そして売れなくても「ふむ姉さん」や気絶する姉さんや理王様を褒めて光る客のような温かいファンがいること)こそがアイドルとして輝くための重要な条件のように思えてしまう。そう考えると、アニメは折り返しの6話まで進んで主要メンバーの問題はだいたい解決され、あとはグループが成功していくだけのようなのでクライマックスは終わってしまったのかもしれないが、それでも毎週楽しみにしていきたい。肝心の歌はまだ気に入ったものがないのだが、こちらも期待したい。

物語シリーズの物語

あにもに「傷物達を抱きしめて──映画『傷物語』とアニメーションの政治性」
『もにラジ』第3回「『傷物語』と現代日本の傷痕」
 『傷物語』のアニメは他の物語シリーズのDVDと一緒に1年ちょっと前に買い集めていたけど、まずはテレビシリーズの方を観てからにしようと思っているうちに時間が過ぎていって、ついに面白いネタバレの批評文を読んでしまった。『傷物語』はそんなことになっちゃってたのか。テレビシリーズの方は今は『終物語』のはじめの方まで観ていて、だれてしまった印象でなかなか進まない。実際にはあのむらの多いキャラクターコメンタリーも合わせて全部2回ずつ観なくちゃいけないのと(今のところ一番好きなのは井上麻里奈さん演じる老倉育の回のコメンタリー)、大半は昔ニコニコ動画で観たものだし、さらに言えば原作を読んでいるし、原作の冗長な文体がいよいよ鼻について厳しくなってきているので、何重にも冗長な視聴体験になってしまってどうにも熱心に観ることができないのであって、アニメ作品自体の出来が悪いというわけではないような気もしているのだが……。
 ともあれ、傷物語だけではなくて原作も含めた物語シリーズ全体に及ぶような今回面白い視点を提示してもらったおかげで(コロナ禍と吸血鬼をテーマにした『死物語』も今ならもう少し違う風に読めるかもしれない)、視聴のモチベーションが少し上がったような気がする。いつになれば傷物語にたどり着けるかはまだ分からないが。
 物語シリーズのアニメの不思議な背景美術や演出については、昔は物珍しかったけど、いつしか驚くのが面倒くさくなってしまい、今ではシャフトの手癖のようなものだろうということにして、結局今日にいたるまできちんと考えてみることもしなくなっていた。でも、考えてみれば、モダニズム建築、昭和の敗戦と慰霊の歴史、東京五輪、郊外、都市伝説、東浩紀斎藤環伊藤剛らが語ったアニメの平面性といったヒントはこれまで僕も多少は触れてきていたのであって、なんで物語シリーズのアニメを観ながらそっちの方に頭が行かず、羽川翼のおっぱいとかのことしか考えなかったのか不思議なくらいだ。あの幾何学的な背景美術にはそういう歴史的な思考を阻止するような不気味なところがあるので、僕の思考は怖がって、非幾何学的な形状の羽川翼のおっぱいの方に逃げていってしまったのかもしれない。そしてそれは戦後日本の歴史と同じなのかもしれない(同じなわけはない)。
 美術史も建築史も素人の単なる思いつきだが、モダニズム建築と日本の右翼思想や建築の政治性を結びつけるならば、ソ連社会主義リアリズムを批評的に継承したソツアートやコンセプトゥアリズムのしぐさと物語シリーズに類似性を見出すこともできるような気がする。カバコフコーマル=メラミードの絵画、グロイスの『全体主義様式スターリン』、さらにさかのぼればロシア・アヴァンギャルドの浮遊する幾何学的オブジェや構成主義の鉄筋コンクリート信仰などは、近代日本が夢見た、そして今ではノスタルジーさえ感じるかもしれないような、歴史の重さからの解放と至高性を希求した歴史の残骸としてのモダニズム建築に通じるような気がする。カバコフたちの作品は社会主義リアリズムのローマ建築のような静謐さや荘厳さをシニカルでグロテスクに、でも時にはどこか優しく表現していて、うっすらとほこりをかぶった展示品の趣きがあるが、物語シリーズでは政治的で危ういモダニズムのシンボルが新品のように提示されていて、それはそれで確かに不気味だったことに気づかされた。よく言われているように、日本もロシアも後進国として歪な近代化をやろうとして痛い目に遭った歴史があるので、共通点が見つかるのは必然なのだろう。
 まったくの偶然だが、昨日はふと昔見たニコニコ動画などを見返していて、あらためて初音ミクの『Chaining Intention』の動画よかったよなあと(当時はあざとさや一部のカッコ悪さが鼻につく部分もあったが、今となってはそういう感情は風化している)、作曲者の他の曲などをいまさらながら漁っていた(初めてメルカリでCDを買ってしまった)。ニコニコで初音ミクムーブメントが盛り上がったのは2000年代後半から震災までくらいの間で、ネット文化の幸福な雰囲気の時代だったと記憶(あるいは錯覚)している。作曲者のTreow氏の他の曲で、ミクの声に歌詞をつけずにハミングとして楽器的に使っているようなものをあるのだが、ロシアのエロゲー『無限の夏』でもそういうBGMがあって、そもそもミクという攻略ヒロインまでいるのだが、そのエロゲーの背景美術が社会主義リアリズム的、あるいはソツアート的なノスタルジックなものだったことを思い出した。物語シリーズはもちろん、声優陣の好演が最大の見どころの一つではあるのだが、いつか、一話くらいは音声をすべて初音ミクでつくってみるとか、あるいは声優たちの声をミクの声みたいにサンプリングしてつくってみれば、初音ミクという思想とその時代性が、無機的に漂白された慰霊碑のような街並みを心象風景として生み出した物語シリーズの時代性と共鳴して、ちょっといい具合になるかも……。

 

 あと、都合により一時取り下げていたブログ記事を加筆して再公開:

daktil.hatenablog.com

ユメミルクスリ (65)

 ずっと前から少し気にはなっていた作品だけど、「面倒くさい感情に巻き込まれそうだな」と先送りにしているうちに15年以上が過ぎていた。その間に僕の生活もだいぶ変わってしまって、今では大好物のはずの逃避行のテーマで呼び起こされる感情も懐かしさが先に来るかもしれない。何より歳をとった。中年男性の逃避行にロマンはないので、今の自分の年齢と現実を考えずにゲーム世界に没入しようとするのだが、この15年の間にモニタは大きくなり、そのせいで小さくなったゲームウィンドウを拡大することもしないまま最初の会長ルートを終えてしまった。その後でディスプレイの設定をいじればよかったことに気づいて粗めの1280x720にしたら、Windows XPの頃にもどったみたいで懐かしくなった。とはいえ、学校での人づきあいに緊張しなければならない生活はもはや記憶の遠い彼方であり、会社人としても新しい人づきあいがほぼなくなって久しい(仕事や会社は順調ではないのだが)。
 それでもこの作品を始めたきっかけとなったのは、ネットで近隣の高校の評判などを調べてみたことだった。毎日家人くらいしか話し相手がなく、新しい話題も大してあるわけでもなく、相手は僕相手でも一日に一定時間何か話をしないとストレスが溜まってしまい健康回復に支障をきたすので、すぐに何か差し迫った選択しなくてもよくて気晴らしになるような明るい話題となると、子供の将来のことをネタにあれこれ無責任なおしゃべりをすることに落ち着いていく。どんな専門を勉強するかとか、どんな部活をやるかとか、そんな他愛もないことだ。今住んでいる地域は僕や家人が生まれ育ったところではないので、どんな高校があるのか知らないことに気づいて調べたところ、口コミサイトで現役高校生やその親が自分の高校についてあれこれ語っているのを見つけて、今は便利になったものだと感じると同時に、現役高校生が陰キャとか陽キャとかスクールカーストとか言ってて窮屈そうでちょっと気の毒だった。そしてちょっとだけ大昔のそういうひりつくような空気を思い出して、ユメミルクスリやってみようかなと思い立ったのだった。
 弥津紀先輩はまあよくある会長キャラ(CV一色ヒカルさん)の話かなと思っていたが、かなり追い詰められて不安定になった女の子の投げやりにがんばっている感じがよくて目が離せなかった。ハイスペックな才女がやけくそに転がっていく生き方は、1回目のプレイではそのままバッドエンドに転がっていって消えてしまい、それはそれで余韻があったのだが、やはりやり直してハッピーエンドにたどり着いてよかった。クスリをキメてホテル最上階のバルコニーから落下した彼女は、主人公の家の二階まで木を伝ってよじ登ってくる。そんなアップダウンもいつかは終わる。転がり続けた石は妊娠という現実にぶつかってようやく止まる。明日を感じられないという不安を消すための狂騒が、子供が生まれることで前向きに落ち着けたというのは、当たり前のことなのかもしれないけど弥津紀先輩の生き方を見た後だと感慨深かった。健康というのは当たり前のようで当たり前ではなく、苦労しないとそれを手に入れられない人もいる。安息する彼女をみられたのはやはりよかった。
 次のケットシー・ねこ子は、これぞこの作品で読みたかったような切なくなる話だった。結果的に終わりよければすべてよしになったとはいえ、この話で描かれた大半の部分はドラッグというわかりやすい悪の上に成り立っていて、全ての喜びも悲しみもきらめきも、偽りの幻だと言えないこともない。でも僕自身も別に義人のような生き方をしているわけではなく、どこかにゆがみを抱えながらそれを見ないふりをして喜んだり悲しんだりしているところがあるので(作中の色がない生き方云々のくだりはさすがに僕の歳になるとあまり響かなかったけど)、ねこ子の悲痛な明るさに、妖精郷というあまりにも頼りない幻をひたむきに探し続ける姿に心を奪われ、明け方の別れ際に楽しさと寂しさを覚える。そしてそんなふうに探すことで失い続けてしまう彼女を見ていられた時間があまりにも早く終わってしまったこと、早く終わらせなければいけなかったことを寂しく思う。原画担当のはいむら氏はラノベをアニメ化したものの方でおなじみで、前から全体的にキャラクターの頭が大きくて肩幅が狭いことで未熟な頼りなさを表現しているのが印象に残っており、ラノベ原作は読んでいないがイラストの淡い色使いがよさげだったのだが、ねこ子はそのよさが十分に発揮されたキャラクターデザインになっていたと思う。痩せていて小柄で軽そうだけどそれなりに均整がとれているようにもみえる身体はまさに妖精のようで、優しいクリーム色の軽やかな衣装も同じ。そして不自然なピンク色に曇った、爛々と輝く瞳。利用している電車や駅で時折、ショッキングピンク魔法少女コス及び同じ色のツインテールのかつらで女装した異様なおっさんを見かけることがあるのだが(最近はコロナ禍で僕もテレワークだしあまり見かけないのだが、妖精郷に旅立ってしまったのだろうか)、現実の妖精コスはそんな風にどうしてもギラギラした悲しいものになってしまう。ねこ子の淡い妖精スタイルはこの作品の美術の優しい色使いのおかげか、主人公の目という色眼鏡のおかげかはわからないが、かん高くてせっかちな彼女の声と対照的に柔らかくて儚げでとてもよい。髪の毛も柔らかい色のブロンドになっているのはお約束のオタク文法なのかと思っていたが、わざわざウィッグをかぶっていたことが後に判明した。宏子ちゃんはこの衣装を着て変身するとき、あるいはさらにこの衣装を自分で選んだとき、どんな気持ちだったのかなと想像したくなるような衣装だ。エンディングの観覧車の中で花火に照らされて彼女の瞳は半分、またピンク色に染まるが、そまるのは瞳だけではなくて夜空全体であり、彼女を包む空気の全てであり、これもまた幻想的な妖精郷につながっていることがわかって嬉しい。高みを目指していた彼女は観覧車で高みに到達した後で、そのまま地上まで観覧車で降りてきてしまうのだが、色づいた世界はいつまでも残っていてほしい。
 最後のあえかルートはどうにも微妙な出来だったが、素直に感動できなかったのは僕が歳を食ったおっさんになっていじめの問題が身近でなくなってしまったことも一因だと思う。それにしてもテキストが不親切で読みにくかった。陰湿ないじめとか悪役とかそれを恐れて日和る主人公とかはそういう物語なのでいいのだが、主人公があえかに対してデリカシーのない幼稚な言動を繰り返すのでストレスがたまった。主に後半になって主人公が覚悟を決めるまでの間なのだが、もう少し女の子を大事に扱うか、せめてデリカシーのなさが目立たないように描写してほしかった(とりあえず自分のことは棚に上げる)。あえかはみんなとはズレた不思議な女の子だからいじめられたと説明されていたけど、読んでいてズレていた印象はなく、むしろ一番常識的だったし(ついでに声が一番きれいだった)、主人公の方がよっぽどズレていたようにみえた。それも意図的な演出だったのかもしれないが、とにかくいじめという物語レベルだけでなく、主人公の魅力という半分メタレベルでも気の毒なあえかについてのストレスフルな物語だった。そのおかげで終盤の屋上で二人がアントワネットに復讐するシーンカタルシスがあっただけではなく、ようやく文体に対する緊張が解けて、純粋に文章を楽しんでブラックユーモアに笑うことができた。その後のハッピーエンドに至る流れもよかったのだが、個人的にはその少し前の、あえかが南国とかのきれいな写真を見ながらいつのまにか眠ってしまったシーンが印象に残った。別に海外旅行がしたいとか具体的に考えているわけではなく、旅行会社の営業ツールであるイメージ写真の中に逃避するような、そんなところに小さな安らぎを見出そうとするしかないような彼女が、ようやく主人公という一緒に戦ってくれる人をみつけて、安堵してその写真を見ながら寝落ちしてしまったというのが可愛くもあり、切なくもあった。しかし全体的にストレスがたまるシナリオだったので、エピローグの二人の穏やかな生活、特にあえかの幸せをもう少し楽しませてほしかった。

 いちおうまとめらしきことを書いておくと、この作品の魅力は、主人公たちが倫理や道徳の規範を踏み破った時に得られる解放感や刹那的なきらめきだった。踏み出した先にも幸せはあり、もし規範に復讐されることがあったとしても二人でなら受け止められるというふうに終わり、読後感が爽やかだ。プレイするのがずいぶん遅くなってしまったが楽しませてもらった。

 最後に音楽についても一言。OP曲「せかいにさよなら」と淡い色調の絵のムービーを何年も前から気になっていたので、プレイし終わってそれが既知のものになってしまったのが少し残念な気もするが、やはりいい曲だった。BGMも聴きやすくて、久々にデータ吸出し、変換・編集作業をやってしまった。しばらくは音楽を聴いて余韻を楽しもう。

劇場アニメ雑感:『リズと青い鳥』のことなど

 『負荷領域のデジャヴ』、オカリンと牧瀬氏のラブストーリーだったなあ。90分という限られた時間できれいにまとまっていて、この二人がお似合いの二人だということを改めて認識した。オカリンは本編とゼロでさんざん苦しんだ姿を見せていたので、この作品でもまたそういうのばかり見せられ続けたらこちらが疲れてしまうところだったけど、そこは軽めにして牧瀬氏が中心の進行に移ったのがよかった。ヒロイン中心の方が当然目は喜ぶし、声優さんの熱演もよかった(凶真憑依のシーンも面白かった)。劇場用に作られていたからか、花とか街並みとかの背景カットの入れ方とか間の取り方とかが贅沢なシーンが多かったのも目に優しくてよかった(キャラクターの顔とかはテレビ版とそんなに変わらなくてもうひと頑張りほしかったが、画面構成がきれいなシーンが多かったのでこれでよかった気もする)。そのせいか画面が暗めの色調になっていることが多かったが、この二人にはたまにはそういう落ち着いた感じもいいと思う。2005年で一つだけ小さな改変をするというその仕掛けのささやかさも、ゼロの「相互再帰マザーグース」みたいな優しさを感じてよかった。総じて、シリーズで最後に観たし、これが正史でもいいよというくらいには心地よい作品だった。
 画面が暗いといえば、こちらは感想を書きにくいのだが、『涼宮ハルヒの消失』も暗かった。こちらも背景が素晴らしいアニメで、間の取り方とかアニメシリーズで京アニの演出を楽しんでいたあの頃をすぐに思い出せてよかった。正直なところ、こちらは話が今の自分が楽しむには陳腐化しすぎていると感じたが、絵については滋味が高いシーンが多かったと思う。京アニがすごいだけなのかもしれないが、最終兵器彼女イリヤの空のアニメを観ていると、背景については2000年代後半にそれ以前と断絶するほどの大きな進化があったように思う。
 と書いたが、『イリヤの空、UFOの夏OVAの3巻と4巻を観たら、凝った絵が多くて感心してしまった。解像度が低いのが残念だけど。正直なところ、そこまで期待していなかったけど、結構楽しんでしまっている。ちなみに、好きなシーンの一つは、OPの最後にイリヤの長い髪の先の房のあたりが空中で気持ちよさそうに滑らかにうねるところだ。概してOPは素晴らしいがこのシーンはいつも目が吸い寄せられる。イリヤがこんなふうに風を受けて自然体になれるような話は本編ではついぞなかったので、せめて髪の毛だけでも気持ちよさそうに泳いでいてくれ。
 『リズと青い鳥』も観た。のぞみを映す視線はみぞれの視線で、機嫌がよさそうなのぞみが次の瞬間に何をするのか、何を言い出すのか、息をひそめて見守っているような緊張感がある。緊張感がありすぎてホラー映画のようになっている。のぞみはただの気のいい女の子のはずなのだが。冒頭の二人が合流して部室まで歩いて行って朝練を始めるまでのシーンが、何気ない日常のはずなのに、それを「何気ない日常」の記号として描いていなくて、次の瞬間に崩壊するかもしれない繊細なバランスの上に成り立っている一瞬の連続として描かれていて緊張する。そういう緊張はその後もたびたび出てくる。二人はなかなか言葉を交わさない。意味のある言葉を交わさず、言葉は意味をかわすために発せられる。何か決定的な言葉が発せられてるのを待っているような、でもそんな言葉は発せられてほしくないような瞬間が続く。のぞみに比べるとみぞれを映す視線は安定しているかもしれないが、みぞれ自身は安定していないので美しいものを鑑賞させていただいているような気になる(うがった見方で振り返るならば、それがみぞれを見つめるのぞみの視線だということもできるかもしれないが。それともりりかの視線だろうか)。だけど、ここまで書いてみたことはことごとく間違っているかもしれない。極論めいたことをいうと安易な決めつけになってしまうけど、この作品では意味が定着していないしぐさやカット、記号的にパッケージ化されていないしぐさやカットがたくさんあって、「解釈(言語化)」しようとするとすぐに揺らいでしまうような繊細さと緊張感に満ちている。みぞれの気持ちを言語化してみても、「のぞみ……」とか「のぞみっ!」とかみたいな超意味言語にしかならないだろう。観る者は視覚情報を「解釈」しようとする欲望からは自由になれないけど、もう少し意識をあやふやなまま泳がせておいて、繊細な絵をひたすら眺めて解釈の揺らぎを楽しみ続けるということをしてもいいような気がしてくる。タルコフスキーソクーロフの画面をぼんやり眺めているときみたいに(この2人を安易に並べてしまうのは雑すぎるか)。この場合、ぼんやりと眺めるのはロシアの重くて暗い幻想ではなく、こちらが成仏してしまいそうなほどの美少女たちの楽園なのだが。さっきはホラーと書いたのに楽園になってしまった。最後にのぞみはみぞれに何を伝えたのだろうか(解釈したがることから逃れられない)。のぞみは後頭部しか描かれていないので、常識的に解釈すると、のぞみがどんな顔をしているか想像させるカット、あるいはのぞみの顔は重要ではなく、それを見て表情を明るくするみぞれの方に注目すべきカット、つまりのぞみ視点のカットということになる。みぞれはこれまでで一番明るく、嬉しそうな表情を見せているが、セリフは聞こえてこないので何があったのかわからない。これまでの流れでは言わなかったような、あるいは想像できなかったようなことをのぞみは言ったのかもしれない。僕たち視聴者は、みぞれが喜びそうな何通りもののぞみの言葉以前の言葉や表情以前の表情を想像して楽しむことができる。そういう詩のようなシーンがたくさんあった気がする。またいつか見返したい作品だ。

 最後に剣崎梨々香についても。彼女にとって魂の一日だったプールの日が一瞬で終わってしまったのは笑えたが、先輩後輩関係について思い出させてくれるキャラクターだった。ここで唐突に自分語り。たまたまなのか分からないけど、僕の場合も先輩たちに対する畏怖や憧れのような感情を抱く体験をしたのは高校の部活だった。1学年上の部長は華奢な美少年タイプの人で、副部長も背はそれほど高くないけどもう少しがっちりした体格で、進学校にしては珍しく、こちらは力を持て余したヤンキーみたいなところがあった(失礼な言い方になるが顔も関西のコメディアンぽかった)。部長のポジションは左サイドバックで、これは基本的に子供の頃はうまくない子にあてがわれるあまりのポジションのイメージがあり、僕の学年でも地味な子たちがやっていた。相手チームの花形である右フォワードなどに振り回されるやられ役のポジションだ。しかし、部長が目の覚めるような鮮やかなプレイを連発し、バックなのに相手のフォワードを翻弄するのを見てイメージが変わった。南米的なリズムや欧州的な体力でサッカーをするというよりは、一瞬で決着がつく真剣の立会いをみているようなところがあり、バックがやるには危なっかしい気もするのだが、勝つのはいつも部長だった。一つ一つのタッチがサッカー選手らしくない無防備さであり、でも実はそれは罠なので突っ込んでいくとかわされる。取れそうで取れない不思議な間のプレイスタイルだ(右利きなのに左サイドバックだったことも関係している)。やられ役のはずが気づくと一番美しいプレイをしていた。当時の僕の印象が強烈だっただけかもしれないが、後年、テレビなどでプロのプレイを観てもあの時の部長のプレイの美しさを上回る選手をみたことがない。一つだけ近い印象を受けたものを挙げるとすれば、今となっては記憶が曖昧だが、井上靖の『夏草冬濤』か『北の海』に出てくる先輩だった(この話は前にも書いたかも)。澄ました優等生のようでいながら結構すさんだところもあるような人だった。副部長のポジションはセンターバック。センターなのでサイドバックほどあまった人用というイメージはないが、こちらも相手チームの花形であるセンターフォワードを抑えなければならず、しかもサイドバックとは異なり基本的にオーバーラップして攻撃に参加することはほぼ許されず、ひたすら守りに徹する苦労人のポジションだ。それをいささかヤンキーじみた攻撃的な人がやっていて、ときどき手を抜いているようにみえながらも危なくなると爆発的な瞬発力をみせるのは頼もしかった。プレイスタイルはしなやかな豹をイメージさせるもので、部長と違って不思議な間を使うことはなかったけど、やはり僕とは違う次元にいることが感じられた。そして梨々香こと僕(唐突な女体化ごめんなさい)。サッカー部は公立の進学校ながら3学年合わせて50人以上いるような大所帯で、結局最後までレギュラーになれなかった僕は、左足をうまく使うようなこともできず2軍のサイドバックとかボランチを中途半端にやっていて終わった3年間だった。そんなわけだから部長たちとの接点などないはずなのだけど、僕がぼっちぎみの優等生キャラだったからか、ポジションが近かったからか、数人のグループでパス回しをする練習の時などに部長と副部長がよく僕に声をかけて混ぜてくれた。僕もなんとなく先輩たちの近くにいて、声をかけてもらうのを図々しく中途半端に待っていた。今考えるとなんで声をかけてくれていたのか謎だが、当時は僕も10回に1回くらいは美しいプレイを決めることができ、他のうまい人たちとは違うリズムを持っていたからだとうぬぼれていて、その自信は確かに僕の実力の向上に役立っていた。りりかと違って一緒に練習する以上のことがあったわけではなく(そういえば体育祭の準備チームでも部長と一緒で、一緒に授業をさぼって大工仕事をしたりした思い出とかもあるけど長くなるので割愛)、僕がこっそり憧れていただけで終わった高校時代だったけど、りりかの気持ちはわかる気がする。2つ上の学年にもすごい人たちがいたけど、体格とかが違いすぎたし半年足らずで引退してしまったので、どちらかというと神話的な霊獣のような存在だった。1つ上の部長たちは身近だった。りりかたちの吹奏楽部も大所帯で、パート練習とかあるのをみると、同じグループの先輩に憧れられるような人がいるのは幸せなことだと思う。りりかはインディアンの酋長のような奇妙な髪型と着崩しをしているのだが、そういうまだ何者にも定まっていなくて浮ついた自分が、無駄なく研ぎ澄まされた先輩たちに惹かれていく。先輩に近づくのは緊張するし怖い気もするけど、その光というかエネルギーを少し浴びてみたくて吸い寄せられる。そんなインディアンもいつかは先輩にならなくてはならない。先輩に憧れる後輩でいられる幸せな時間は一瞬だけであり、そんな一瞬の理不尽な美しさを描いている作品だった。

 たまたま劇場用アニメ(一部はOVA)を連続して観たことになったけど、どれも間の取り方とか背景美術とか視覚的な処理とかが新鮮に見えたシーンがたくさんあって、自分がいつのまにか(ニコニコとかで観る)テレビシリーズ用アニメを観すぎてそのフォーマットに毒されていることを気づかされた日々だった。いやあ、映画って本当にいいものですね…

夏色キセキ

 監督が「王道」的な物語にすると言っていて、確かに王道という言葉でイメージできるようなバランスの取れたいい話になっているのだけど、もちろんそれだけではなくて、なんというか仲良し4人組の女の子たちが共有する濃密な空気みたいなものが満ちていて、そこがこの作品が愛されている理由なんだろうなと思う。技術的なことはよく分からないので単なる印象だけど、切れのある演出とか絵面とかがなくても、これだけお互いのことを考えたり見たりしている4人組の夏を12話かけてじっくり描くというのは贅沢なアニメなのかもしれない。女の子の数がもっと多かったり、もっと引き延ばされた終わりのない日常を描いている作品は他にもたくさんありそうだけど、1人が最後に別れることを前提にした4人だけの夏は、わりと淡白な絵柄だけどとても濃い。実際はそうでもないかもしれないが、あまりサブキャラがなくて、ずっと4人の声ばかり聴いているような没入感がある。声だけのせいではなくて、アニメ的なガジェットとか、派手なアクションとか変身シーンとか魔法シーンとかなくて、視覚的なファンタジー要素は地味な石が光るだけのシーンしかないので、視聴者としては4人の女の子との顔の表情とか手足の動きとかを見るしかなくて(例えば、夏海と紗季、優香と凛子がくっついてしまうエピソードでは、地味な追いかけっこが長々と丁寧に描かれていて4人の身体の動きが記憶に残る)、そうしたストイックな女の子鑑賞作品であることが没入感を高めている。そして4人の女の子の絵がやはり地味に可愛くて、少し力を抜いてずっと見ていられる心地よさがある。例えば分かりやすいところでいえば、OPにおける紗季のこの表情が印象に残る。紗季は髪の毛のボリュームがあって少し重たい印象がある女の子なのだが、それが風で持ち上がりかけていることや、大人になりかかって生き方を考えるようになる中でふとぼんやりどこかを眺めているような一瞬の表情に目を奪われる。EDでは終盤に一瞬挿入される凛子のこの表情がよい。単に不思議系の女の子の真顔というわけではなく、この年齢の等身大の女の子が今現在も何かを見ているという強さというか余裕のなさというか、むき出しな一瞬を感じる(むき出しといえば、この凛子の姿勢とか顔の丸さも印象的だ。うまく言葉にできず自分でも何を言っているのかよく分からないが)。どれも一瞬のカットであり、抜き出した絵単体というよりは、前後との文脈の中での差異としても印象に残る。例えば、上の凛子のアップの顔はなんかゴロっと生で置かれるような挿入のされ方をしていて、むき出し感が高まっている。ちなみに、EDは改めてみると4人の部屋の順番に移していくカットとか、アスファルトに映る走る4人の影が変わっていく様子とか、4人を間接的に描く細かい演出がエモーショナルで面白い。もちろん本編にも改めてみればそういう一瞬がたくさん見つかると思う。一つ一つ挙げていく気力はないが、不思議なストーリーが、終わりに向かっていく焦燥感を微かに感じさせながらも、概ね毎回優しく終わるのもよかった。例えば、お化け屋敷を探検するエピソードは、シュタインズ・ゲートというよりは(最終話はさすがにシュタゲ風味を感じたが)、温かいオカルト話「きよみちゃん」を思い出した。
 個人的にはやはり紗季の表情と声が一番印象に残る。大人になったらきつめの美人になりそうな女の子で、既に落ち着いた表情とか物憂げな表情とかお母さんじみた物言いとかもするけど、まだ中学生なので丸さや幼さも残っていて不安定で絶妙なバランスになっている。第1話でかなり尖ったところを見せていたので、その後の友情にも常に陰影がついていたようでよかった。あと、八丈島に行くエピソードで透明になって全裸でうろついていたのも素晴らしかったし、小学生の自分にヌンチャクで殴打されて痛がっているのも可愛かった。4人のリーダー的ポジションにいない子が一番複雑に描かれていて、彼女がきっかけのエピソードが多かった。そのせいか不思議なバランスのとれた4人組になっていて、この感じこそがキセキだった。「終わらないものは思い出になってくれない」と言ってループする夏を終わらせようとする紗季は、個人的には作品のかなめになっていると思う。たぶん、他の女の子たちについても同様の感情移入で見ることはできるけど(例えば、凛子が手作りのコンサートチケットを見せたところで泣きそうになってしまったし、失恋や失敗を味わった優香を通して夏休みをみるのもいい)、僕の場合はたまたまこうなってしまったということだと思う。
 この作品が下田の町おこし的な意味を持っていたり、スフィアという声優ユニットに合わせて作られていたりすることは、個人的にわりとどうでもよいのだが(もともとアニメによる町おこしにも、物語やキャラクターから離れた声優という存在にも特に関心を持っていないし、キャラ声ではない声優ソングもあまり好きではない)、せっかくDVDなので特典のメイキング映像も並行して観た。メイキング映像はあまり集中してみると、声優やスタッフの顔とか言葉が作品を鑑賞する際のノイズになってしまうので軽めのながら見をするのが望ましく、とはいえどうしたって記憶に残ってしまうので本当に視聴してよかったのか分からないが、とりあえず関係者たちの顔と善意が見えたのはよかった。ついでに、いつか下田に行ってみる機会があるかは分からないが、行ったら面白いだろうなとお手軽な脳内聖地巡礼を想像する際の手助けにもなる。
 僕がこの作品の感想を書くとどうしてもおじさんが眩しい少女たちをじっくりと鑑賞する構図になってしまうのだが、作品自体はそんなおじさんとは関係なく美しく存在していて素晴らしい。

夏色キセキ