トラペジウム

 ツイッターで熱心に勧めている人がいたのでちょっと気になっていた作品をみてみた。自分はリアルなアイドルは生身すぎて関心がなく(アニメキャラと違って目が小さすぎるし、鼻や口が大きすぎるし、髪の毛が重力に逆らっていないし、しゃべり方も不快だし、知性もあまり感じられないし、でも感情は制御できていないようで見ていていたたまれなくなる…)、原作者を知らないどころか乃木坂グループの歌も3秒以上聴いたことがなく、テレビに映っていたらそそくさとチャンネルを変えてしまう人間なので、たとえアニメであってもアイドルものの作品を鑑賞するときにはいつもどこか受け入れきれないものがあるのだが、でも人がこれだけ熱心に勧めていると気になってしまう。
 というわけで、ついに限定生産版DVDを買い求めたのだが、半分くらいは作品そのものに対する関心というよりはファンの熱意に対する関心というか、なんかすごいらしいのを楽しみにしてのことだった。まもなくアマプラで配信されるらしいのだがこういうのは手元に置いておくべきなのだろうし(何度もみているうちに脳が変性してしまうらしい)、そもそもアマプラ会員ではなかったので自分には関係なかった。そうして原画集をパラパラみたりしている。
 こんなふうに事前にハードルを上げてしまい、PVもみて大まかなストーリーを知ってしまったので、正直なところ最後まで、いつになったらエンジンがかかるんだと思いながらみていたところがある。劇場アニメなので実際に短く、無駄っぽいエピソードを積み重ねてキャラクターに感情をなじませる時間があまりとれない。自分にとっての問題であるアイドルの魅力、アイドルはこれほどまでになりたくなるものなのかということは結局最後までほとんど説得的に描かれず、なりたいという熱意と目的意識ばかりが描かれており、目的意識の高い主人公にしても田中ロミオ作品とかでおなじみなのでそれほど過激には見えなかった。最後に夢をかなえてアイドルになったゆうが登場するが、その彼女もインタビューで個性のない受け答えをしていて(注意深く聞けば言葉の裏に公にできない彼女個人の感情が隠されていることを想像できるが)、ありふれたこぎれいな女優みたいで特別な可愛さはないし、とても「光っている」とはいえなかった。と思ってふと冒頭のOP主題歌の部分をみてみたら、ここでゆうにとってのアイドルの魅力が少し描かれていたのだが、まだ話が始まる前だったからぼんやりしていてあまり注意していなかった。
 光るといえば、作中で唯一演出が面白いなと思ったのは、終盤になって未完成だった歌を4人で歌った後に、3人がゆうに話しかける場面だった。陽が沈んで空が紫色になり、電灯がともり始める時間のシーンであり、電灯の光を受けたらしい3人はそれぞれ薄暮れのなかでぼんやりと光っているように描かれていた。これをみて、ふと、本当はCDを買ったのはゆうだけで、やってきた3人はゆうがみた幻なのではないかという気がした。そういう気配のある演出だったように思う。結局、ゆうは3人と和解することはできず、バッドエンドに進む。そして、3人と和解してアイドルになる夢をかなえ、大人になった3人と再会して10年前に撮った写真をみて幸せな気持ちになることを夢想しているだけなのではないか、物語はゆうがCDを買ってあの展望台に上がったところで終わったのではないか。実際にはそんなことはなく、素直にハッピーエンドだったのだが、そういう暗さのある個人的なトーンが似つかわしい作品に思えた。一歩譲って、3人と実際に和解したとしても、ゆうは結局アイドルになれず、別の形で自分の道を振り返るという結末でもよかった気がする。最後の最後でゆうは、「夢をかなえる喜びは、夢をかなえた者にしかわからない」と独白するのだが、夢をかなえたと自信を持って言えない僕にとっては対処に苦しむセリフなので、こういう分かりやすいバッドエンドを欲しがってしまうのかもしれない。夢をかなえたゆうは、手の届かない向こう側に行ってしまったということだろうか。これは何回もDVDをみる苦行を行って脳を変性させないと解けない謎なのかもしれない。その苦行の果てに彼女が光ってくるのかもしれないが、光らない地味な彼女であるからこそ、光らないけど強い思いに駆動され続ける彼女の物語の魅力というものもある。
 ともあれ、サクセスストーリー自体はふわっと描いて、ひたすらゆうの苦闘とけばだった感情を描き続けたおかげで、彼女や他の3人の笑顔が輝き、ED主題歌が響くような構造になっているらしい。と思ったら、こちらの人がゆうの視界の狭さと歪み、そしてその外に広がっていたはずの景色についてずばずば書いていてなるほどなるほど。いずれにせよ、トラペジウムは観て楽しむ作品というよりは思って楽しむ作品であって、それを確認するために観るという作業の駆り立てる中毒性があるということになるのかもしれない。あとはこちらも参考になった。他にも漁ればいろいろ読み応えのある感想が出てきそうで、これが本作を手に取った大きな理由なので、後で漁っておこう。ED主題歌は自分探しについてのストレートすぎる歌だが、実際に「遠回り」した4人が歌うと響くものがあるし、メロディもしみじみ聴けるものになっていよい。奇跡としてのハッピーエンドにも納得してしまうなあ。

 

追記。奇跡ということでいえば、ゆうがアイドルになれたことよりも、彼女の空回り、彼女の間違った努力が、運よく4人を結びつけて予定とは違う形で仲を深めていってくれた優しい奇跡の連続の方が重要なのかもしれない。それは間違いだったとゆうが認めたときに、それでもよかった、楽しかった、青春だったと仲間たちが間違いを塗り替えてくれたこと、そしてそのおかげでゆうも前に進めたこと。それが奇跡の力の秘密ということであり、それにたいしてゆうはありがとうと言ったのだろう。この作品はアイドルになれた奇跡というよりは、そこに至るまでの小さな奇跡の連続を見守る物語だったということなのかもしれない。

 

追記2。ゆうの努力が間違っているというのは外からの視点であって、彼女自身にとってはその時にできる最善のことを全力でやっていた。まわりに向ける悪意があったわけでもなく、たぶん本当にまわりを笑顔にできることが幸せだと思っていたのだろう。自分が信じて全力でやっていたことが間違っている可能性というのは怖いことであって、そんな中で助けてくれる何らかの善意が奇跡的に存在するということがこの作品の魅力なのだろう。

 

追記3(6月15日)。詳細なイベントレポートを読ませて頂いたりして(;しかしこの方のレポートスキルがプロを超えるレベルで戦慄する)、ゆうだけでなく他の女の子たちが抱えていた弱さ(シナリオで表立って発展させずにさりげなくほのめかす程度であり、ほとんど裏設定じみたレベルのものもある)を認識した上で改めて思い返すとまた味わいが違ってくる。そもそもゆうの思いつきが成功してアイドルとしてデビューして成功する可能性はもともと低かったのだろうし、案の定すぐに限界が来たのだけど、ゆうはそこにかけるしかないと思った。それは他の3人にとっても必要なことだったのだろうけど、別にアイドルとして仲良くならなければならなかったわけではない。でも人生は「なければならない」だけで進んでいくものではなく、「なってしまった」ことの方が多い。
 よみうりランドバンジージャンプと房総の海岸は偶然僕にも経験があって、代々木の駅前は今でも仕事で通ることが多い。どれも今となっては大してよい記憶ではないのだけど、この作品でそのイメージが少し塗り替えられ、浄化されていく。アニメを観るというのはそういう側面もあるな。
 それから原作小説も買ってしまった。小説自体というよりは半分以上は表紙イラストがよいから購入した。まだちゃんと読んでいないけど(表紙を眺めるだけで満足してしまう)、ゆうの一人称で描かれるのでアニメとはかなり違った印象になりそうだ。アニメはこれを3人称に変換しつつも一人称的な視点を細かい描写に散らすことで、毒を薬に変えたような不思議な味わいの作品をつくることに成功させたのかもしれない。

 

追記4(6月20日)。
 原作小説を読み終わった。何ともいわくいいがたい代物で、アニメを観ないでこれを読むだけだったら読み流して「自分には合わなかったな」で終わってしまっていた可能性が高い。これを読んでも結局、なぜゆうがこれほどアイドルに惹かれるのか、その魅力は分からない。アイドルが光る、というのはただのキャッチコピーであって、この小説自体、作者のセルフプロデュースの道具なんじゃないかと邪推したくなるところだ。晴れてアイドルになった後が描かれているエピローグの異様さは変わらない。アイドルという職業が特に楽しそうには描かれていないのだが、それでも本人は幸せだと言っている。何のために書かれたのか腑に落ちないエピローグ。それは人の人生に意味なんてないこと、確定した物語なんてないことと同じで、作者もキャラクター達も個々の読者もばらばらな方向を向いていて、それでもいいんだ、それが普通なんだと言われているような感じなのかもしれない。そんなみんなが共有できるのは、夢を追ったり追っていなかったりした高校生の頃の時間と、その果てに現在の自分がいるという認識だ。見方によっては寒々しい結論だし、改めて人から言われるようなことでもないのだが。
 素直に受け取るなら、アイドルになる前の戦いが本編であって、その後はおまけということになる。そう考えるなら、ゆうの一人称の語りに日本語として稚拙な表現や行き当たりばったりの雑な比喩が多いことも、露悪的な言葉が多いことも、高校生の自意識を反映した文体ということになるが(エピローグでも変わっていないので作者の素なのだろうが)、それを生のまま読者にぶつけるという趣向。そうしても作品として成立するだけの強さを持ったものとしてゆうのキャラクターが設定されているともいえる。意地悪く言えば、可愛い女の子が一生懸命頑張っていれば、内面はすかすかで可愛くなくても外からは分からないので、応援できてしまう。それで務まってしまうのがアイドルという仕事だ(知らないが)。
 そういう読後感を抱いてしまうのだが、これをゆうの一人称ではなく、絵(アニメ)による三人称の物語として描くと不思議なことに優しい物語にもなりうる。ゆうの姿を見ずに話を聞いているよりは、語らないゆうが動いているのを見る方が、実は世界は優しかったということにできるので、アニメ化の功績はそこにあるのだろう。ゆうがアイドルという夢を一瞬忘れるくらいに他の三人と楽しく過ごしていたことを示唆する瞬間がある、というかそういう瞬間をねじ込んでいて、例えばそれをシンジが写真に撮っていたりもする。苦しい時もあったけど、楽しい時もあったと振り返るためのツールとしての視覚表現。人は視覚に騙されるのかもしれないが、時には救ってくれるのも視覚だ。そもそもゆうがアイドルに憧れたのも、子供の頃にテレビでアイドルを視たことが始まりだ。ゆうは言葉で表現すること、聴覚的な表現は苦手らしく、「本心」は基本的に隠して話そうとせず、言葉ではなく視覚的な「可愛さ」(言葉も可愛さの一部なのだろう)で人を笑顔にすることを夢見ている。そこには何の悪意もないし、実際にみんな勝手に笑顔になっていた。寒々しいようで温かい話だ。世の中にはもっと悲しいことや強い悪意なんかがあるのだろうけど、アイドルはいちいちそんなことに寄り添って受け入れたりはしない。相手のことをよく知らなくても可愛さで浄化できる。そういうやり方もある。それがゆうのやり方であり(くるみは正反対なのかもしれない)、それを実践するためにアイドルへの強い思い入れが必要なのだろう。とりあえずそういうことにしておいてから原作の表紙をまた眺めてみる。

 これでこの作品を消化したということにしておいていいだろうか。また気が向いたら観直してみようかな。