『天気の子』

 テレビ放映の録画を見た。せっかくなので何か感想を書いておきたいのだけど難しい。一番難しいのは、ストーリーやキャラクターの好悪というよりは、美術面のディレクションというか詩学のようなものだと思う。新宿を中心とする東京の風景があまりに写実的過ぎて居心地が悪い。特に作中に夥しく氾濫している様々な店やブランドの広告やロゴだ。僕たちの目は日頃から広告という視覚的暴力にさらされて傷ついていると思っている人間にとっては、アニメという物語作品に事あるごとに仕掛けられている広告は目の凌辱のようなものなのだが、それは新宿と舞台とする物語なら同時に自然な風景なので受け入れるしかなくて、非常に居心地が悪い。純粋な商業広告だけではなく、例えばJRの身近な駅の看板のロゴは通勤を思い出させてそれだけで疲労を与える。僕は通勤に新宿駅を使っているので反射的にそうなるだけで、地方の人とかならこの作品を見て東京の生活に憧れたりするのだろうか(それはさすがに地方の人に失礼な話だ)。ロゴや広告というのは原理的に目を引き付けるようにできていて、しかも個々のロゴや広告同士には何のつながりもなくバラバラなので暴力的だ。それはCMやテレビ番組と同様で、見られるために視覚的に配慮された情報であり、そのこぎれいな視覚的要素が他の「本質的」な要素に優先されていることが僕を苛立たせる(今回のテレビ放映ではCMも作品と連続したアニメ仕様になっていて地獄だった。なるべくスキップしたが)。普通のアニメとかでは実在の特定ブランドが分からないように処理されていたり、パロディになっていたりするのは、考えてみれば視聴者の目に対する優しい配慮だったということになってしまう。新海作品はなぜかその都市の風景の暴力性をむき出しにしてしまうのだが、スポンサーとかそういう商業的動機はそれほど重要でないレベルの成功を収めたクリエイターの作品なのだから、何かしら意味のあることなのだろう。それは新海作品の美術の無駄な(あるいは過剰な)こぎれいさにも通じているような気がする。刻々と色や形を変える空は確かに美しい。でも僕は古い人間だからか、100年以上前の詩で描かれたような空は美しいと感じても、新海作品の全く意味ない空の美しさは受容が難しい。まあ、こういう嫌味は今まで何度も指摘されてきたことなのだろうけど。話が逸れたが、新海氏には僕には見えていないものが見えていて、僕はそれを共有することができないのだろう。一番ありそうなのは、僕にとってこの風景の時代は同時代すぎて、しかもその同時代のうちでも僕にとってあまり居心地のよくない部分が切り出されているので不快感を覚えずにはいられないが、新海氏はこの風景に別のものを見ているということなのだろう。東京の風景は変わる。今の気分からは想像することが難しいが、20年後にはこの作品の新宿を見て懐かしくて泣きそうになるかもしれない。新海氏はそういう視点から、失われる予定の風景に何らかの思いを乗せて描いているのかもしれない。視聴後すぐの直接的な感想だからどうしてもこんな調子になってしまうが、時間を空けて僕の中で処理された後であれば別の言葉が出てくるのかもしれない。ついでに言っておくと、クライマックスでなんかおしゃれな感じの男性ボーカルの歌が流れ始めるというこのパターンも、トレンディドラマ(なんて言葉がまだあるのか知らないが、要はオタク的感性を逆撫でするものといいたい)みたいで好きになれない。

 以上の重大なノイズのせいでこの作品の魅力に気づくのはけっこう難しくなってしまっているのだが、終盤で不快な東京の風景が消え、水没した空想上の東京に切り替わると、少し居心地は良くなった。おとぎ話から日常に帰るのではなく、日常がおとぎ話に変容するという転倒した構成は気が利いていた。本当はあの後の物語こそが見たいものであるはずだが、作中で実際に見せられたものの大半は極めて散文的でストレスフルな東京の生活と、どこかで見たようなキャラクターやストーリー展開(小粒化した秋山瑞人作品風)だ。考えてみれば、僕は時代の内側の人間であり、主人公の少年に同化しすぎてしまっているのかもしれない。作中で描かれた常に雨が降る東京の風景は、僕の精神状態を誇張してデフォルメしたものなのかもしれない(そもそも創作物における雨は定番の内省用装置だが)。晴れは垣間見ることしかできない。晴れ渡った天上の草原には、夢の中でしかたどり着けない。美術がこぎれいだからこそ、「本当」はもっと無条件に美しい世界がどこかにあると夢想してしまう。それはそれで悪いことではないけど、目の前にはこの不愉快でこぎれいな現実しかなく、それは基本的にはどこかで見たような物語で乗り切るしかないのだろうか。

 かつてAirKanonを通過して夏や冬の空気や景色に新しい情感を見出せるようになったように、この作品を見たおかげで東京の風景を少し受け入れらるようになるだろうか。よくわからないけど、少なくとも今の時点では、いわゆる聖地巡礼はありえない。あったとしても若干ひねくれたものになる(これが40過ぎのおっさんが書くことか、と我ながら戦慄…)。でも、こんな形で反省させられたのは、この作品が東京とその空と住民というある程度大きな塊をおかしな切り口で描いた物語だったからだと思う。空虚であることである種の存在感を獲得するのが新海作品、という評価が適切かどうかは僕にはまだよくわからないが。

 我ながら芸がないが、最後に声の話をしておこう。ヒロインの陽菜の声がぼんやりした感じなのはよかった。くぐもった彼女の声はこの雨の世界にふさわしい。僕らの耳を優しく閉ざしてくれる。そして、いつか突然やってくるつかの間の晴れを夢見させてくれる。