アマカノ Second Season 雪静

 芸術評論は詳しくないのでとんちんかんな思いつきかもしれないが、絵画と彫刻、あるいは二次元と三次元の大きな違いというのは、奥行きや立体感の有無だけでなく、フレームの有無だと思う。一般に彫刻は絵画のようにフレームに守られて安定した視点から鑑賞するものというよりは、作品の周囲の様々な角度から鑑賞したものを総合して印象を得る。彫刻の鑑賞は安全地帯から行うものではなく、鑑賞する角度や遠近の自由度が高いため、逆に作品から鑑賞者(のプライベート空間)に対する干渉を意識せざる得ず、絵画よりも緊張感があり疲れる。
 エロゲーは二次元芸術なのだが、この作品をプレイしているときにぼんやりと感じていた手ごたえは、絵画というよりは彫刻(フィギュアでもいいが)を鑑賞して楽しんでいるような充実感だった。劇的な展開や壮大で幻想的な物語はなく、ひたすらヒロインの可愛さを鑑賞していくことで話が進んでいくのだが、それが彫刻的な印象だったというか。彫刻のもう一つの特徴として、硬くて無機質な素材でできた、基本的に静止したものだということがある。だからこそ芸術家たちは彫刻で、あえてやわらかいものや動きのあるものを作り、その二律背反で作品に深みを与えようとしてきた。
 まだ雪静のルートを終えただけなので、この印象が他のヒロインでもいえることなのかは分からないが、雪静の可愛さは正面向きの立ち絵の可愛さによる部分が大きいと思う。身体を縮こまらせている防御の姿勢だ。髪の毛も内側に向いていて、厚い質感を感じさせるブレザーやコートも含めてさながら重厚な鎧のようになっている(本作の美術については全ルート終えてから改めて考えてみたい)。斜め向きになっている立ち絵もワイシャツのボタンの隙間から奥がちらっと除いていて非常にハラショーなのだが、この正面の雪静は、凝固して防御していながらもその自信なさそうな気持ちの揺らぎをそのままにこちらに全身で向き合って、その身体をこちらに投げ出してくれている感じが、とてもよい(エロい)! 特に意味のないシーンでも何度もスクリーンショットを保存したくなった。この立ち絵の恋人感がそのまま作品のコンセプトを表しているのだろう。その武器がよく分かっているようで、例えば、図書室での立ち絵を使ったフレームの遊び可愛らしかった
 エロゲーは二次元なのだが、大きなおっぱいとは奥行き(というか「前行き」)であり、その意味では三次元である。したがっておっぱいは彫刻であり、動きであり、二律背反を仮託しやすい象徴である。防御する雪静はおっぱいを隠しているが、それはその立体感を押し隠し、制御しているという意味で彫刻的な姿勢だ。姿勢だけでなく、おどおどしていて口下手で、本の世界でしか安心できず、独り言みたいなしゃべり方しかできない雪静という女の子の在り方が彫刻的であるように思える。
 声についても一言触れておきたい。そのそも本作にたどり着いたのは、松田理沙さんによく似た力丸乃りこさんの音声作品「保育士のなでしこさん」を思い立って購入して、そのやわらかくて高い声(こういう高音を鼻や口蓋に響かせるような声質を専門的にはなんていうんでしょうか)にほわあーとなってしまったためだった。松田理沙の出演作品は残念ながらこれまであまり当たったことがなく、せいぜい「あまつみそらに!」の清澄芹夏くらいだったのだが、個人的にこの役は松田さんの長所を活かしきれていないように思う。「最果てのイマ」のイマも松田さんだそうだが、フルボイス版は邪道派だ。昔ましろ色シンフォニーのアニメを観て、みう先輩の声が印象に残っていた。そこで今回、非18禁の音声だけは満足しきれずに本作とタユタマで飢えを満たすことになった。雪静は上記の通りの性格の女の子なので、松田ボイスはよく合っている。とはいえこれでいいのかなとやや疑問な演技もあって、独り言のつぶやきのようなセリフがきちんと相手に向かって言っているようなイントネーションになってしまっているのは違和感があった。しかし、そのままボソッと呟けばよかったのかというとそれも疑問で、おそらく音声化が不可能なニュアンスのしゃべり方をする女の子なのだろう。それを松田さんが音声化すると、イントネーションに対して文章が一押し足りないようなちょっと変なしゃべり方になっていて、「~だね」とか「~かなあ」とか文末の着地を和らげる助詞があればいいのに(あるようなイントネーション)、なぜか断言めいた言い方になっていしまっていて、その歪みが可愛らしい。これをからかってあげて愛でたい気もするが、そうするとしゃべり方が普通になってしまうかもしれなくてもったいない。主人公(当然本名プレイ)はどこまでもイケメンでやさしく、しゃべり方でからかうことなんてしないで自分でも筆談を楽しんでいたくらいなので、後日談や続編でも特に触れられないままなのかもしれないが、だとすれば主人公はむっつりすけべの変態だという解釈が可能だ。
 おっぱいの話に戻ろう。おっぱいが彫刻的に制御され、最後まで隠されたままであれば大問題だが、おっぱいは顕現するべきものであり、その前提で隠されている。初めて雪静のおっぱいが顕現した時の驚きを表現することは難しい。これほどまでの防御されながらも激しく主張されていたおっぱいがついに姿を現したとき、それは期待ほどではなく軽く失望した、などということはなく、それまでにずいぶんと上がってしまっていたハードルをさらに超えるほどのおっぱいだった。乳首が大きい!大きくて丸い!しかしおっぱいも大きいから下品な感じではなく、調和がとれている!透明感があって、果物ようで、マスカットのように美しい。僕はエロゲーをプレイすることを食事に例える仕草が好きではなく、できるだけ控えるようにしているのだが、この美しいおっぱいと乳首を果物に例える誘惑に抗うのは難しい。2回目のエッチの時のおっぱいも素晴らしかった。1回目であれだけ驚かされたのだから、さすがにもう難しいだろうと思ったところで再びやられた。3回目はさすがに趣向が変わり、おっぱいが閉じられた状態から差分でとんでもない形に変化してしまい、あまりのエロさに衝撃を受けてお先に失礼してしまった。この3回が特に印象的だったが、その後のエッチシーンもどれも素晴らしいものだった。まだ残っている後日談のシーンが楽しみだ。ただし、主人公がやたら広範囲にぶっかけたがることはあまり好きではなく、僕は精液ではなく雪静の身体をもっと見ていたかった。あと、雪静がやたら卑語を口にするのはどうしたものか。いうまでもなく受け入れて共犯者になるしかないのだけど、らめえ系の崩れた言葉の濫用はライターさんにもう少し自制してほしかった。そんなステレオタイプの卑語を使わなくても雪静は十分にエッチなのだから。それから、いちいち書くようなことではないかもしれないが、口でしてくれているときなどのセリフのイントネーションが妙に落ち着いてしまっていて、セリフとは乖離してスーパーの試食コーナーで感想でも口にしているみたいな感じになってしまっていたのはやや残念だったが、雪静の意外とたくましい一面だということにしておこう。
 エッチシーンはダイナミックなものばかりなのだが、雪静との物語は特に読んでいて面白いわけでもない平坦な日常の連続だ。部屋で一緒に画集を眺めたとか、本屋で一緒に買い物をしたとか、ケーキを作って渡したら周りの人も祝福してくれたとか、雪の上を歩いたら風が吹いて雪が夜空に舞い上がってきれいだったとか、平坦な日常の中に小さな幸せを見つけていく。雪静はそうした小さな幸せに感激して、ときには泣いてしまう。それがただ積み重なっていくだけの物語は、エロゲーとしては枯淡の境地なのかもしれない。ただ美しい造形がそれ自体で豊かな物語であるように。