アマカノ Second Season + (80)

(最初に終えた雪静シナリオの感想は残念ながらない。何かメモしていた気がするがなくなってしまったし、幸せの波動に包まれているうちに終わって何も書けないまま次に進んでしまった。前作でかなりねちっこく書いてしまったのでもういいのかもしれないが。奏シナリオの感想は以前に書いたものの再掲。)

 

2022.06
 奏シナリオを始めてみた。社会人になって長い時間が経ち、高校を舞台にした標準的な設定のエロゲーにはついて行けないと思う時がある一方で、社会人物の作品だとやっていて仕事を思い出してしまって嫌だなということもある。主人公が就職して、これから社会人として人間関係を築いて行ったり、仕事で社会が成り立っていることに気づいていったりするのを見ると、それがきれいごとであったりしても、自分にとっては高校時代と同じく大昔のことであったとしても、ちょっと気が重くなる。
 奏は可愛らしくて理解がある善き女の子として描かれている。新婚旅行が隣県の温泉宿に自家用車で行くことで、途中で車中泊をしたり、公園でキャンプをしてインスタントラーメンを食べて喜ぶお嫁さん……。おっさんの美しいファンタジーなのかもしれないが、なんだかそういうのに一向に関心がない現実のお嫁さんと照らすと、よい意味で切なくなるものがあるな。

 

2022.07‐08
 背景がすごく色鮮やかで、祝祭感があるのだが、人はいない。世界に祝福されている、世界は明るい、という感覚が新婚旅行や新婚生活のよさであり、二人の幸せが世界の明るさと共鳴し合っているみたいで染み入るものがある。話自体はまったくつまらないのだが、高揚感と多幸感に感染させられる。Pretty Cationと何が違うのかよくわからないのだが、全く違うポジティブな波動を浴びせられる。やっぱり絵の違いが大きいのかな。奏をいろんな背景に場所に連れまわして、その立ち絵を眺めるだけで、いいなあと思ってしまう。日本に本当にこんな場所があるのだろうか。日本海側なのかよく分からないが、森の木々の色も、海の色も鮮やかすぎて、何か非現実的な世界に踏み込んでしまったように感じる(実際に現実ではないのだが…)。ホラー展開とか不条理展開とかになってもおかしくないくらい、世界が明るすぎて(でも世界は静か)、奏が幸せすぎる。これは小説で文章として示されても頭でしか理解できないだろうけど、この作品だと色と奏のおしゃべりで感覚的に表現され、感染させられるのがすごい。いやこれは抜きゲーなんだけど、思わず新婚とか結婚の幸せとかについて考えさせられてしまう。深さとかそういうのは全くないのだけど、ガツンとくる。新婚旅行は日常の社会性から解放されて、旅行と実存(自分探し)みたいな内面的問題からも解放されて、好きなように動き回っても、何もしないくてもよく、そういう無の時間を二人で軽やかに楽しむという稀有な経験だ。別に新婚旅行じゃなくてもそういう経験をできる人もいるだろうけど、僕は旅行というと何か貧乏くさく有意義さを求めてしまって、価値あるものを見て勉強しなきゃとか考えてしまうので、この新婚旅行のポジティブな虚無がすごいものに思えてしまう。二人で初めてのように世界を見て回るけど、その世界は車で行ける隣の県だったりして、世界とかいってもただの行楽地で、虚無を楽しむとかいってもただの消費行動なのだが、そうしたものの描かれ方、僕の目に飛び込んでくる光の具合によって、何やら世界の秘密を垣間見たような気にさせられてしまう。この新婚旅行のエピソード、終わらせたくないなあ。


2022.09
 奏シナリオの新婚旅行編が終わり。幸福感のある長大なエッチシーンに浸っていると、時間の感覚が消えて、自分が無限に引き伸ばされた無時間的な幸福の中にいると感じることがある。イーガンの『順列都市』か何かでそういう描写があったような気がするが、エロゲーのエッチシーンは没入感が高いので段違いだ。実際に時間は引き伸ばされていて、現実のエッチではあれほど長大な喘ぎ声や長時間の絶頂はおそらく危ないクスリでも使わないと不可能であり、そういう意味ではエロゲーのエッチシーンはドラッグと似たような効果があるのだろう。プレイし終わると没入していた場合は結構時間が経っていることも多い。その意味ではエロゲーは決してストーリーパートや日常シーンが特殊なのではなく、エッチシーンこそがエロゲーエロゲーたらしめている。
 エッチシーンとはまた別の形で、物語としての新婚旅行の特殊性を改めて感じる。以前に書いたことの繰り返しになるかもしれないが、奏との新婚旅行のシナリオを読んでいると、エロゲーの最終地点、物語の袋小路に到達した感覚がわいてくる。これ以上何も考えなくていい、苦しまなくていい、先に進まなくていい、ここにずっといればいいじゃないか、という地点にいるという感覚。新婚旅行には何の課題も設定されず、問題も起きず、ただ心地よい小さなサプライズ(日常ではなく旅行なので)が順番に起き続けるだけだ。急いでもいいし、急がなくてもいい。何か起きてもいいし、起きなくても後ろめたいことはない。新婚旅行で見聞するものに高度な希少性や特殊性は必要なく、見聞から何かを学び取る必要もなく、自分磨きや自分探しをする必要もなく、二人で気ままで快適な時間を共有できたねという認識が残ればよい。新妻は自分を愛しており、自分もその気持ちに応えられる。他には何もしなくていいので、応えることをゆっくりやるだけの時間があり、若さもある。そういう時間は社会性に縛られた人生の中ではかなり特殊であり、そこだけが人生から切り離されて幸せな思い出になることも不思議ではない。新婚旅行ではなく単なる旅行でも似たようなものを得られるとは思うが、人生で一度きりの祝福された旅行としての新婚旅行はやはり特殊だと思う。大げさに言えば、それ以降の旅行は新婚旅行の影を追い求める旅行になるのかもしれない。実際には新婚旅行は相応のお金や時間というコストを支払って手に入れるものであり、生産活動の一切ない、純粋な消費活動に後ろめたさやストレスを感じないことは難しいのだが、それを踏み越えたときに不思議な快感がある。そういう意味で旅行とはエロゲーと同じくらい危険な代物であり、新婚旅行を描くエロゲーはその危険な魅力を凝縮しているのかもしれない(ちなみに、田中ロミオの『終のステラ』の参考文献として最近読んだSFノードノベルであるマッカーシーザ・ロード』は、ここでいう「旅行」とは何もかも正反対の「旅」で、これはこれで優れた読書体験になった)。この作品以後も幸せな抜きゲーはつくられ続けるだろうし、成熟しすぎて腐乱する手前まで来たように感じられるこの作品のクオリティも、いずれ技術的に乗り越えられていくか、あるいはもう乗り越えられたのだろうが、今ここでたどり着いた永遠は失われない。

 

2022.12
 約20年ぶりに親と同居の状態に戻ってしまい、隣の部屋で寝てたりするので、リラックスしてエロゲーを楽しめない生活が続いている。仕事も生活も簡単ではない状況が深まり、心のおもりが重くなってエロゲーなんてやっている場合でなくなればなくなるほど、砂漠の旅人がありついたひと口の水のように沁みわたることもある。この作品で描かれているような甘くてエッチで幸せで、ついでに仕事もうまく行っちゃっているような新婚生活。僕の現実でもありえたのかもしれないけど、どこかで選択肢を間違えてしまったのか、気づくとそういうのはないまま中年になっていた。結局自分は人生をなめていて(最近もテレワークで仕事しながらハチナイやったりしてる。エロゲーをプレイできないのでその代償行為なのかもしれないが)、死に物狂いで努力したり、本気で自分の人生の計画を立てて実現に向けて一歩ずつ進んで行くということをしなかったから、その時々の運に任せて何事も中途半端なまま流されて生きてきて、いつの間にか責任たちに追い詰められていって、場合によってはその責任たちと心中するかもしれないようなところまで来ていた。これで人の親とかおかしいのだが。中年の危機かも(と書くとあほくさい感じがしていいな)。しかしながら、そういうときに、まったくありえないんだけど、ありえたかもしれない幸せとしてこの奏との新婚生活を体験することで、自分の人生感覚を補完し、幻肢でバランスを取って倒れないようにする。本当に大した内容も物語もないんだけど、そういう実用性はある作品なんだよなあ(賢者モード)。自分の人生、5年前のあの時、7年前のあの時、12年前のあの時、いや、20年前のあの時にああしていれば、違っていたんじゃないのか。もちろん違っていた。でもその代わりに今手にしているこのささやかなものは手に入らないだろう。今より悪くなっていたかもしれない。中年になっても月4万9000円の狭いアパートで20代みたいな独身暮らしをしながら、つぶれそうな零細企業の社長をやらされていたり、あるいは愛も喜びもない無言の結婚生活を送っていたり、あるいはやけくそになってロシアに渡っていたりしただろうか(社長については可能性が少し高くなってきていて気が重い)。それとも大企業の中で人に揉まれながらすり減っていっていただろうか。そのどの選択肢にもアマカノの奏シナリオを楽しんでいる自分がいて、別の選択肢に想像を巡らしたりしているのだろうか。どれがいいのか、なんて問題はいまさら存在しないのだけど、布団に入ってとりとめもなく考えているうちに寝てしまう。そしてまた次の日が始まる。


2023.01
 今日は地元でお祭りがあって、子供をベビーカーに乗せて屋台を見て回ってきたのだが、幼児に合うようなものは売っておらず、そもそもどれも値段が高すぎるので僕の食欲も失せてしまい(お面くらい買おうかなと思ったがアンパンマンとかのが1000円、ひょっとことか民芸系のが1500円で馬鹿らしくなった。ダイソーで100円で売ってる)、つくづくこういうイベントは自分にはだめだなと思った。コロナワクチンの副反応で寝ていた妻が来ていたらまた気まずくなっていたのでちょうどよかった。
 その夜、久々に起動して奏のアペンドの最後のエピソードを見たら、奏と娘と3人で屋台を見て回り、たくさん食べ物を買って(といってもあの感じだと全部で3000円分くらいかな)、その場でエッチなキスをして幸せでめでたしめでたしという内容で、なんだかキツネにつままれたような気分になった。(ここまで書いて子供が夜泣きを始めたので中座、添い寝するとすぐに泣き止み、ぽかぽかと温かい。)一方で、3000円くらいでこの一瞬を手に入れられるのならまったくありだと思う自分もいて、この世の仕組みはまことに不思議なものだと思った次第(たぶん、ここで軽く3000円を出すような生き方をすれば何かあるたびに出すわけで、僕には経済的にも性格的にも難しいかもしれないが)。

 ついでに穂波ルートを開始。
 奏ルートの濃密な空気で、人生の何かをつかんだ感じになってから、穂波ルートで受験生に「巻き戻される」の、よい。このめまいに近い感覚がエロゲーの醍醐味の一つ。
 何気に穂波の声もいいな。さえずっているのをずっと聞いていても心地よい。


2023.09
 ついヤフオクで穂波の抱き枕カバーを落札してしまいそうになったが、最後にどうにか競り合いから脱落することができて事なきを得た。ほっとした勢いで初代アマカノ、アマカノ+、アマカノ2をポチってしまった。そのうちアマカノ2+も確保しておこう。抱き枕カバーはまだウォッチしている。このシリーズを全てプレイし終える頃には子供が小学校に上がっているだろうなあ…
 現在は涙香ルートを進めている。雪静、奏、穂波、涙香と進めていくうちに、アマカノはエロゲーライフのカナンであるとの感慨が深まっていき、もはや感想を書く必要もない境地に至りつつあるかもしれない。書いたとしてもこれまでの感想の反復か軽い変奏にしかならないかも。何も新しい発見はなくても、積み重なっていくものはある。物語としては大して面白くなくても、人生は物語ではないのだから問題はない。面白い人生と愛のある人生は必ずしも一致していなくて、面白くなくても愛のある人生の幻を見せてくれるアマカノをプレイしつつ、自分の人生にそのぬくもりを加えていこう。

 …数日後。たわむれに札を入れて子供を寝かしつけ、戻ってきてみたら一気に奏、穂波、涙香の抱き枕カバーを落札してしまっており、困惑している。かつての高島ざくろカバーの成功体験があるからどうにか場所を工夫して飾ることもやぶさかではないが、きちんと覚悟を固めないままゲットしてしまった。まあ、他にも袋に入れたままの特典のやつとかあるし、とりあえず保管しておくだけでもいいが。いっそ肝心の雪静のカバーも狙ってしまおうか……
 …雪静のカバー、落札。コンプリート。
 ……かなり安かったのでもしやと思ったが、やはり偽造品らしい。使用するとしても飾って少し離れたところから眺めるだけなので問題ないといえばないのだが、ここまでの流れにまいった。こういう人が買うから業者がいなくならないんだろうなあ。開封してないのでわからないが、せめてできのよい偽物であってくれ。

(後日、雪静のカバーを開封してみた。本物と見比べていないので分からないが、少なくともゲームのCGと比較すると、陰影が弱くがっかり感があった。局部もなんか落書きみたいに適当だった。とりあえず畳んで片づけた。せっかく買ったのでいつかは飾って鑑賞してみるかもしれないが、そもそも5.5畳かつ3面+中央に天井まで本棚のある自室には出しっぱなしにするスペースはなく、天井からつるせるようにDIYしなければならないのが面倒。あと、横向きの絵柄ものはつるせない。思えば独身の頃のアパートで高島ざくろカバーを贅沢に飾って毎日鑑賞していたのはよい経験だった。)

 

2023.10
 ようやくすべてが終わった。セーブデータを見ると、最初が2021年2月となっているから2年半くらい前か。まだ子供も生まれていなかったし、僕も平社員だったし、コロナ禍でロシアも静かだったころだ。
 読み返してみると、奏シナリオしかまともに感想を書いていないなあ。最初にやった雪静のシナリオから、途切れない安息感や幸福感のプラトーが続いていた感じなのだが。
 最後に読んだ涙香シナリオについても一言だけでも書いておくか。涙香は年上キャラで背が高いだけでなく、髪とか身体のボリュームが大きくて日本人離れしていて、前作にもまして若干の威圧感を受けるのだが、現実にいたらちょっと周りの目を気にしたくなるようなボリューム感も、この作品世界では自分だけに向けられたものであることが実感されて天の恵みに感謝する気持ちも芽生える。彼女自身も自分のサイズの大きさを楽しむと同時に少し恥ずかしがっているような雰囲気があり、一色ヒカルさんボイスにもその二面性を感じさせるよさがあった。あと関係ないが、川のほとりの森の中でのエッチシーンは、夏に読んだからか、こんなところで肌をさらしたら蚊に刺されるよと少し心配してしまった。
 それにしても、エピローグ的な部分ではどのシナリオでもヒロインにそっくりな女の子が子供になっていて笑ってしまう。女系社会か。それとも主人公の脳に異常があり、本当は男の子でも女の子と認識してしまっているのかと思いたくなる。実際、目に映るのはやさしくてエッチなヒロインばかりであり、自分以外に男は存在せず、いたとしても立ち絵はなく、声もなく(男性キャラの声は切っている)、書割みたいな無害な存在であるこの作品世界は、狂人の目に映る世界といってもまちがいではない。幸せと狂気が表裏一体であることを確認させてくれる作品だ。狂気なんていうのは程度の差はあれそこら辺にいくらでも転がっているものなのだから、重要なのは幸せの方だ。起動して彼女たちのCGギャラリーを見るだけでもその欠片を味わうことができるし、それにとどまらず何度か雪静の回想シーンを立ち上げてしまったこともある。
 賢者モードになってまたくだらないことを書いてしまった。一言でこの作品を前向きに評価するなら、老子いわく、上善は水のごとし、ということになるだろう。