みすずの国、キリンの国 (85)

 このブログの記事によく星をつけてくださるすごい方が熱心に紹介していて以前から気になっていたが、先日のヒラヒラヒヒルの感想でもまた推しておられたので、嫁さんが子供を連れて帰省してくれて一人の時間がとれるこの年末年始にようやく手をつけてみることになった。もともと名作フリーゲームとして評価が高いことは知らなかった。
 天狗の国は電化されていないということで、現代の日常ではすでに失われてしまったような何気ない日用品や言葉がまだ現役で、一種の桃源郷になっている。でもそこでは神通力のない人間は差別対象であり、行きにくい。『みすずの国』はそんなところに行く羽目になった女の子のサバイバルの物語だ。新しい世界に飛び込んでいって、得難い出会いをして、そこで生きていく覚悟を決める。青春。爽やかな印象を受けるのは、もちろん登場人物たちの性格もあるけど、季節的にもひんやりした山国の物語、高地の物語ということがある。なんか蚊とかいなそうだし(実際はいるのかもしれないが)。
 個人的には天狗といえば、ザ・モモタロウのクラマキッド・テングテング、もう内容は忘れてしまった黒田硫黄大日本天狗党絵詞、東方プロジェクトの射命丸文たち、レイルソフトの帝都飛天大作戦、あとは恋愛フロップスのイリヤちゃんが股間につけていたお面くらいで、こんな風に山の中の天狗たちの暮らしそのものを正面から取り上げたものは初めてだ。これまで読んだ民俗学の本とかにも天狗の話はあまり出ていなかった気がする。東方では二次創作も含めるとイラストとかでけっこうあるかな。秋のイメージが強くて、やっぱり山の中の涼しげな空気が似合う。とはいえ、東方シリーズはあくまでごった煮の作品世界。天狗の文化を中心に据えたこの作品とは違う。
 鞍馬山とか愛宕山とかも身近にない。山といえば自分が生まれ育った東京の奥地とか、子供の頃の夏休みに帰省していた九州の山とかで、自分はあまり山に行っていないな。狭い日本にいれば、ちょっと遠出すると必ずといっていいほど山があるので、山が珍しいというほどではないけど。
 こういう記憶とか距離感が、「山には(あるいは山奥には、山の向こうのどこかには)失われてしまった何かがある」という感覚につながって、この物語に入っていきやすくするのだろう。前近代的な天狗に国には、現代的な閉塞感はない。そこには若くて魅力的な天狗たちが住んでいて、人間は彼ら自身やその暮らしに魅入られていく。『みすずの国』ではサブキャラの人間たちは早々に絶望を感じて3年間の留学生活を我慢の時間として過ごすことになるわけだけど、山とは正反対の広大な平原の国とはいえ、若い頃に留学先の人や文化に魅了された経験がある自分にとっては、美鈴の挫折や戦い、そして彼女が呼吸するひんやりした空気は、なんだか自分も感じているように思える。というか若い頃を思い出させてくれる。この物語は留学の序盤で終わってしまい、その先を読めないのが残念だ。終盤で神通力に目覚める片鱗を見せたみすずが、その後才能を開花させて優秀な使い手になるようなご都合展開はないかもしれないし、3年間の留学を終えても、ただヒマワリと別れて下山して、人間界での日常に戻るだけかもしれない。そう考えるとあそこで物語を終わらせたことは優れた解のようにも思える(美鈴についての続編があるのかどうか知らない)。あと、その後の日常の一こまを描いたスピンオフマンガ「早春賦」もよかった。こっちの空気は涼しいを通り越して寒いだった。
 天狗の国も内側に階層を抱えていて、桃源郷である天狗の国にはさらなる桃源郷である綾野郷がある。『キリンの国』のこの綾野郷での生活を描いたパートは圧倒的だった。この桃源郷をいちばんいい角度から描いてる。それはもちろん外側からのまなざしによるものであって、ロシアでいえば貴族であるプーシキントルストイの描いた美しい農村の暮らしなのだけど、でもやっぱりこういうのなんですよ。解像度を高めていけば自分にも杏たちと同じ風景が見えているような気になる。山に囲まれて、その向こうに思いをはせながら生きる日々。ブラック労働だけどメリハリはあるし、自分たちの労働の価値、汗の価値を信じられ、美しい形式もある。天狗の国がやがて消えてゆく運命にあることと相似的に、この綾野郷も永遠ではないし、そこで暮らす杏だってもうすぐ結婚して「地」に足がついてしまうだろう。この3つともがモラトリアムの中にあり、そこに迷い込んだ圭介たちだってモラトリアム真っ只中なのだが、そのすべてが今この瞬間だけの最高をみせてくれている。見上げた空に歌が消えていく。こういうのは映画とかでもよくある手法なんだろうし、例えばレーミゾフの『ポーソロニ』はこういうシーンだけ集めた詩的散文なのだろうけど、この作品の綾野郷は没入感が深くてめまいがしそうだった。
 だからこそ、その後の圭介とキリンの濃厚すぎる「男の友情」のシーンにかなり困惑してしまった。いや、男が男にあんなラブレターみたいなの書かないでしょ…。本人に直接言わないで照れ隠しするでしょう、ふつう。別れるシーンからして二人が見つめ合ったりしてて、何かのスキンシップが始まるんじゃないかとこっちとしてはひやひやしてたから、手紙で済んで助かったのかもしれないが。まあでもキリンをみているとゲイでも違和感ないのかもな。ヒマワリがいなくなっても何とかなっちゃいそうなところがある。僕にとってはよい男の友達というのは正面から向き合って見つめ合うような相手ではなく、横に並んで互いに視界に入っていながらも共に前を見ているような、あるいは前後逆の横になって反対方向を見ながら意思疎通できるような位置関係であって、仮に疎遠になりそうになっても無理に関係を維持しようとしたりはしない。まあ、だから今は友達と呼べるような深い関係は何も残っていなし、これまでだってそんな時期はほとんどなかったのだが。
 ともあれ、圭介にはまたぜひともキリンの国に帰ってきて、杏に会いに行ってあげてほしい。よくわからん天狗破滅計画とかもういいから、この村での人生に埋もれてくれ。現実的には、その頃には杏は村の別の男に嫁いでいて、子供までいたりするのかもしれないけど、あんな風に完璧な角度で綾野郷を描いた作品であるのなら、そんなリアリズムは捨てて圭介と結ばれる杏を描いてもいいんじゃないの。まだ綾野郷の魅力は書き尽くされていないような気がする。
 養蚕。小学校の頃、家庭で蚕を飼って繭をつくらせるのが必修だったけど、あれって今でも一般的なのだろうか。桑の木も通学路のわきにけっこう生えていて、学校帰りとかに甘い実をよく食べていたけど、今では身の回りに見かけなくなった気がする。蚕や蚕の糞の匂いも忘れてしまった。繭をつくってもうまく蛾にならずに死んでしまったものも多かったし、蛾もプルプル震えるばかりですぐに死んでしまったし(交尾して卵も生んだんだっけ。記憶が曖昧)、繭をつくらずに下痢をして死んだものもいたし、なんか楽しいというよりは死の不安や気持ち悪さを学ばせる体験だったような気がするが(とってきた桑の葉を蚕が一生懸命食べるのを見るのは嬉しかったかな)、この作品を鑑賞するのに少しでも役立ったのはよかった。限界的な肉体労働の経験はほぼないけど、あえて挙げるとすれば、異国の僻地の漁村でサケ漁を少しやった時のことが思い出される。サケは人間の睡眠時間など気にせず遡上するときはするので、疲れていても早朝に叩き起こされることがある。僕は技術も経験も腕力もない若造なのに、ある日起きれなくて寝坊してしまい、高齢の大先輩に覚悟のなさを叱られて恥ずかしかった。これもあまりよい記憶ではない。こうした居心地の悪い遠い記憶を、この綾野郷のおっぱいが半分みえている女衆に交じって朝から晩まで必死で働き、最高のひと夏を過ごした、という存在しない記憶によって昇華したということにしておきたい。
 なんか最後は肉体労働賛歌みたいな感想文になってしまったが、このシリーズの主題はたぶん違うのだろう。なのでこの先は綾野郷のパートのような話が出てこなくなるとしたら残念だ。自分にとっては『キリンの国』がピークということになるのかもしれない。それでも清涼な山の空気を描き続けているこのシリーズなら、この先もきっと魅力的な物語を紡ぎ続けてくれると思う。というわけで、次に進む。