うたわれないもの

◆元旦は親が実家に戻り、久々に子供と二人だけの日だった。おやつにミカンを持って、遠くの大きな公園に行って遊ぶなど。途中で神社の前を通ったら長い行列ができていた。まだ言葉を話せず、「こんにちは」すら言えず、友達など一人もおらず、運動神経も発達していないよちよち歩きなので、公園に遊びに行っても他の子供たち(特に年上)がいると委縮してしまい、あるいは何が起きているのか理解しようと無言で立ち尽くして一生懸命見ているのを横からみていると、(はるかに歳をとってからだが)ぼっちだった自分を少し思い出して、人生はつらいことばかりだなあと思ってしまう。子供にとっては僕のそんな情けない感慨などどうでもよく、人間よりもむしろ自動車や金属などの工業製品に目を引かれる時期なので遊具の金属部分をコツコツ叩いたり、空の飛行機に目を奪われたり、月がまだちゃんと出ているか何度も確かめたりとそれなりに忙しくしていて、救われる気もする。
うたわれるものアニメ完結。この第3部は全編通してBGMが第1部のものが多くて懐かしかったけど、最後の2話は第1部の中でも特に印象に残っていた曲(ハクオロが消えて仮面が落ちていくときのBGM「子守唄」)とか、最後の春が来たときの感じとか、クオンの心の動きとか、第1部を思い出させる流れが丁寧に描かれていて印象深かった。待ち続けたエルルゥが最後に幸せになれたのもよかったし、クオンたちにもその可能性が残されたのもよかった。PSは持っていないので第1部しかプレイしなかったが、いいアニメだった。というかやはりBGMだけでうたわれをやっていたあの頃を思い出せて懐かしくなってしまった。今日は子供と二人だけで家の中が寂しかったこともあって、うたわれを思い出しながら子守唄代わりに「子守唄」を何度も歌ってしまった。
◆最終話といえばアキバ冥途戦争も終盤に嵐子が本当にいなくなって、最終話はなごみに焦点を当ててテンポよく進め、最後に時間が一気に2018年までとんでと、素晴らしい出来だった。この最後に持って行くためのシリーズだったのだろう。詳しくは知らないけど、やくざ映画のフォーマットでストーリーが組み立てられていたからか、特に最終話は引き締まった作品になっている感じがした。
◆しかし、先日ブックオフに子供の絵本を買いに行ったときについでに買ってみた高垣彩陽さんの『indivisual』というアルバムを聴いてみたら、夏色キセキの紗季のイメージの歌を期待していていたのだが、全体的に大人ボイスの壮大な感じの歌が多かったため、ヒーラーガールの師匠のイメージ、というかむしろアキバ冥途戦争の店長が歌っているイメージが浮かんできてしまって仕方なかった。
◆何事も中途半端に散らかして生きていることを実感させられている中年男性であるが、オタクライフにおける2022年の中途半端の一つは、小鳥猊下さんのツイートを読んで自分にとって2つ目のソシャゲーになる原神を始めたものの、十分な時間を取れず、グライダーみたいなやつで空を飛ぶアクションミニゲームをクリアできずに早々にやめてしまったことだ。FPS視点のRPGをやるのは初めてで、チュートリアルすらまともに進められず見知らぬところを何時間も意味もなく放浪してしまい、画面酔いして気持ち悪くなった。エッチなイラストで中国製の骨太な物語を楽しめるとのことだが、ほとんどスタートラインにすら立てずに終わってしまい悔しい。FPSのゲームをやってみた感想としては(当然のごとく主人公は女性キャラ)、負担が大きいなということになった。あと、公園でよちよち歩きをする子供を追いかけていったり、おもちゃの車に乗ったのをふらふらと押していくときの視点の動きがFPSだとわかった。
◆嫁がクリスマスプレゼントの交換をしたいというので予算を1000円以内ということにして、彼女が療養から一時帰宅する正月明けに交換することになり、僕は先日仕事の合間に新宿の東急ハンズに立ち寄ってみたのだが、すべてがつまらなく感じて何も買わずに帰ってきてしまった。結局、ダイソーで刺繍糸を買ってきて、ネットでやり方を調べて簡単なミサンガを作ることにした。原材料費は30円くらいだ。ハチナイの本庄先輩を少し思い出したが、そういえば小学校か中学校の頃、ミサンガが少し流行って、編んだ人とかいたのを思い出した(僕も編んだことがあったかもしれないが、あまり覚えていない)。柄は以前から行こうと計画していたグルジアの国旗だが、十字架模様を出すのが難しくて挫折し、一番シンプルで細いものにした。それなりに集中して手を動かして無心になっていく瞬間がある感じが、休暇中に暇な時間を見つけてやっていることもあり、素朴ながら美しい模様が出来上がっていくのを見ながら、これは東方シューティングと同じだと思った。東方が手芸と同じだといってもいいのかもしれない。
◆アマカノSS+の感想メモをいったん出しておく。最初に読んだ雪静シナリオの感想は特に書かなかったか、だいぶ前だったので書いたけどどこかにやってしまったのか覚えていない。前作のときにだいぶ書いたからいいかなと…。奏シナリオだけで約半年かかってしまったので、全部終わらせるには最低でもあと1年かかるかもしれない。他にエロゲーをあまりできなかったこの1年でさえこうだったので、他にやったりしていたらあと2~3年かかってしまうかもしれないと思い、とりあえず出しておくことにした。断片的な感想で、同じことを繰り返しているようだけど気にしない。

 

アマカノss+ 奏シナリオ
(2022.06)
 奏シナリオを始めてみた。社会人になって長い時間が経ち、高校を舞台にした標準的な設定のエロゲーにはついて行けないと思う時がある一方で、社会人物の作品だとやっていて仕事を思い出してしまって嫌だなということもある。主人公が就職して、これから社会人として人間関係を築いて行ったり、仕事で社会が成り立っていることに気づいていったりするのを見ると、それがきれいごとであったりしても、自分にとっては高校時代と同じく大昔のことであったとしても、ちょっと気が重くなる。
 奏は可愛らしくて理解がある善き女の子として描かれている。新婚旅行が隣県の温泉宿に自家用車で行くことで、途中で車中泊をしたり、公園でキャンプをしてインスタントラーメンを食べて喜ぶお嫁さん……。おっさんの美しいファンタジーなのかもしれないが、なんだかそういうのに一向に関心がない現実のお嫁さんと照らすと、よい意味で切なくなるものがあるな。

 

(2022.07‐08)
 背景がすごく色鮮やかで、祝祭感があるのだが、人はいない。世界に祝福されている、世界は明るい、という感覚が新婚旅行や新婚生活のよさであり、二人の幸せが世界の明るさと共鳴し合っているみたいで染み入るものがある。話自体はまったくつまらないのだが、高揚感と多幸感に感染させられる。Pretty Cationと何が違うのかよくわからないのだが、全く違うポジティブな波動を浴びせられる。やっぱり絵の違いが大きいのかな。奏をいろんな背景に場所に連れまわして、その立ち絵を眺めるだけで、いいなあと思ってしまう。日本に本当にこんな場所があるのだろうか。日本海側なのかよく分からないが、森の木々の色も、海の色も鮮やかすぎて、何か非現実的な世界に踏み込んでしまったように感じる(実際に現実ではないのだが…)。ホラー展開とか不条理展開とかになってもおかしくないくらい、世界が明るすぎて(でも世界は静か)、奏が幸せすぎる。これは小説で文章として示されても頭でしか理解できないだろうけど、この作品だと色と奏のおしゃべりで感覚的に表現され、感染させられるのがすごい。いやこれは抜きゲーなんだけど、思わず新婚とか結婚の幸せとかについて考えさせられてしまう。深さとかそういうのは全くないのだけど、ガツンとくる。新婚旅行は日常の社会性から解放されて、旅行と実存(自分探し)みたいな内面的問題からも解放されて、好きなように動き回っても、何もしないくてもよく、そういう無の時間を二人で軽やかに楽しむという稀有な経験だ。別に新婚旅行じゃなくてもそういう経験をできる人もいるだろうけど、僕は旅行というと何か貧乏くさく有意義さを求めてしまって、価値あるものを見て勉強しなきゃとか考えてしまうので、この新婚旅行のポジティブな虚無がすごいものに思えてしまう。二人で初めてのように世界を見て回るけど、その世界は車で行ける隣の県だったりして、世界とかいってもただの行楽地で、虚無を楽しむとかいってもただの消費行動なのだが、そうしたものの描かれ方、僕の目に飛び込んでくる光の具合によって、何やら世界の秘密を垣間見たような気にさせられてしまう。この新婚旅行のエピソード、終わらせたくないなあ。


(2022.09)
 奏シナリオの新婚旅行編が終わり。幸福感のある長大なエッチシーンに浸っていると、時間の感覚が消えて、自分が無限に引き伸ばされた無時間的な幸福の中にいると感じることがある。イーガンの『順列都市』か何かでそういう描写があったような気がするが、エロゲーのエッチシーンは没入感が高いので段違いだ。実際に時間は引き伸ばされていて、現実のエッチではあれほど長大な喘ぎ声や長時間の絶頂はおそらく危ないクスリでも使わないと不可能であり、そういう意味ではエロゲーのエッチシーンはドラッグと似たような効果があるのだろう。プレイし終わると没入していた場合は結構時間が経っていることも多い。その意味ではエロゲーは決してストーリーパートや日常シーンが特殊なのではなく、エッチシーンこそがエロゲーエロゲーたらしめている。
 エッチシーンとはまた別の形で、物語としての新婚旅行の特殊性を改めて感じる。以前に書いたことの繰り返しになるかもしれないが、奏との新婚旅行のシナリオを読んでいると、エロゲーの最終地点、物語の袋小路に到達した感覚がわいてくる。これ以上何も考えなくていい、苦しまなくていい、先に進まなくていい、ここにずっといればいいじゃないか、という地点にいるという感覚。新婚旅行には何の課題も設定されず、問題も起きず、ただ心地よい小さなサプライズ(日常ではなく旅行なので)が順番に起き続けるだけだ。急いでもいいし、急がなくてもいい。何か起きてもいいし、起きなくても後ろめたいことはない。新婚旅行で見聞するものに高度な希少性や特殊性は必要なく、見聞から何かを学び取る必要もなく、自分磨きや自分探しをする必要もなく、二人で気ままで快適な時間を共有できたねという認識が残ればよい。新妻は自分を愛しており、自分もその気持ちに応えられる。他には何もしなくていいので、応えることをゆっくりやるだけの時間があり、若さもある。そういう時間は社会性に縛られた人生の中ではかなり特殊であり、そこだけが人生から切り離されて幸せな思い出になることも不思議ではない。新婚旅行ではなく単なる旅行でも似たようなものを得られるとは思うが、人生で一度きりの祝福された旅行としての新婚旅行はやはり特殊だと思う。大げさに言えば、それ以降の旅行は新婚旅行の影を追い求める旅行になるのかもしれない。実際には新婚旅行は相応のお金や時間というコストを支払って手に入れるものであり、生産活動の一切ない、純粋な消費活動に後ろめたさやストレスを感じないことは難しいのだが、それを踏み越えたときに不思議な快感がある。そういう意味で旅行とはエロゲーと同じくらい危険な代物であり、新婚旅行を描くエロゲーはその危険な魅力を凝縮しているのかもしれない(ちなみに、田中ロミオの『終のステラ』の参考文献として最近読んだSFノードノベルであるマッカーシーザ・ロード』は、ここでいう「旅行」とは何もかも正反対の「旅」で、これはこれで優れた読書体験になった)。この作品以後も幸せな抜きゲーはつくられ続けるだろうし、成熟しすぎて腐乱する手前まで来たように感じられるこの作品のクオリティも、いずれ技術的に乗り越えられていくか、あるいはもう乗り越えられたのだろうが、今ここでたどり着いた永遠は失われない。

 

(2022.12)
 約20年ぶりに親と同居の状態に戻ってしまい、隣の部屋で寝てたりするので、リラックスしてエロゲーを楽しめない生活が続いている。仕事も生活も簡単ではない状況が深まり、心のおもりが重くなってエロゲーなんてやっている場合でなくなればなくなるほど、砂漠の旅人がありついたひと口の水のように沁みわたることもある。この作品で描かれているような甘くてエッチで幸せで、ついでに仕事もうまく行っちゃっているような新婚生活。僕の現実でもありえたのかもしれないけど、どこかで選択肢を間違えてしまったのか、気づくとそういうのはないまま中年になっていた。結局自分は人生をなめていて(最近もテレワークで仕事しながらハチナイやったりしてる。エロゲーをプレイできないのでその代償行為なのかもしれないが)、死に物狂いで努力したり、本気で自分の人生の計画を立てて実現に向けて一歩ずつ進んで行くということをしなかったから、その時々の運に任せて何事も中途半端なまま流されて生きてきて、いつの間にか責任たちに追い詰められていって、場合によってはその責任たちと心中するかもしれないようなところまで来ていた。これで人の親とかおかしいのだが。中年の危機かも(と書くとあほくさい感じがしていいな)。しかしながら、そういうときに、まったくありえないんだけど、ありえたかもしれない幸せとしてこの奏との新婚生活を体験することで、自分の人生感覚を補完し、幻肢でバランスを取って倒れないようにする。本当に大した内容も物語もないんだけど、そういう実用性はある作品なんだよなあ(賢者モード)。自分の人生、5年前のあの時、7年前のあの時、12年前のあの時、いや、20年前のあの時にああしていれば、違っていたんじゃないのか。もちろん違っていた。でもその代わりに今手にしているこのささやかなものは手に入らないだろう。今より悪くなっていたかもしれない。中年になっても月4万9000円の狭いアパートで20代みたいな独身暮らしをしながら、つぶれそうな零細企業の社長をやらされていたり、あるいは愛も喜びもない無言の結婚生活を送っていたり、あるいはやけくそになってロシアに渡っていたりしただろうか(社長については可能性が少し高くなってきていて気が重い)。それとも大企業の中で人に揉まれながらすり減っていっていただろうか。そのどの選択肢にもアマカノの奏シナリオを楽しんでいる自分がいて、別の選択肢に想像を巡らしたりしているのだろうか。どれがいいのか、なんて問題はいまさら存在しないのだけど、布団に入ってとりとめもなく考えているうちに寝てしまう。そしてまた次の日が始まる。