ハルカの国 明治越冬編

 はじめから終わりまでまったくの隙のないいい話だった。文章が心地よいし、絵もこれまでより洗練されたものになっていた。画面サイズを調整できるようになったこともありがたかった。
 キリンの国の綾野郷のパートと対になる物語であり、雪子の国の後にこの作品が来るというバランス感覚がありがたい。この作者が岩手の山奥の集落を舞台にした話をつくるというだけでもう成功は約束された感があるのだが、それにしてもよかった。ハルカとユキカゼのような関係性の二人の物語ってこれまでいくつも読んだことがあるような気がするし、今回は別に天狗がどうこうという話ではなく、神通力もほぼ出てこないけど、読んでいるときはただひたすら引き込まれた。ここでこういう言葉が出てくるのか、本当にこの村で暮らしていたのでは、と思わされるような、てらいなく紡ぎ出されていく言葉を追っていく面白さがあった。クライマックスの一つになってしまうが、この国の言葉に関するこんなふうなのもあった:「これは、この国の涙だ。この国の言葉は尖ることができない。親から譲られ、使い古された農具のような言葉でしか、一生を語れない人々。その言葉は、丸い。長い年月のなかで摩耗したかのように、丸い。どんな悲しみも、苦難も、彼らの言葉では、雪さえ傷つけられない丸みを帯びる。幼い梅の振り絞る声も、それであった。ツゲや佐一の悲しみも、それであった。巨大な冬の中。まんじりともせず、耐え忍んできた、この国の言葉だった。そして私が流すのは、その国の涙。生きることの、涙だった。」 文脈から切り離し改めて読むと普通のうまい文章なのかもしれないが、意地っ張りだけど若くて素直なユキカゼがこんな感慨に至るまでの流れの中で読むと唸らされるものがあった。最後のカサネの話とか読んでいてぽろぽろ泣けてしまったし、なんでこんな風に心地よく引き込まれるんだろうな。
 東北弁、といっても色々あるのだろうけど僕はよく分からないので一緒くたにしてしまうが、昔、東北出身の年配の人たちに師事して魚の仕事をしていた時に聞かされた。イントネーションも難しいし、例えば筋子を「しずこ」と言ったりするので、理解が数秒遅れてしまったり言い直してもらわないと簡単な意思疎通も難しいことがあって苦労したが、東北弁に特有の温かさも少し体感することができた。寒い土地柄だから言葉が温かくなるのかもしれない。温かさというよりは、ユキカゼのいう丸さの方がふさわしいのかもしれないが。ハルカやユキカゼの標準語と違っていても、その言葉にも自分のリズムやスピードや論理はあって、背負っているものがにじみ出てくる。酔っぱらって、誰が偉いかについて議論する男たちのくだりもよかったな。ゴーゴリが描くウクライナ人とかを思い出した。
 ハルカとユキカゼはどちらも雌の化けということになっているが、その言動は完全に男のものであって、キリンの国や雪子の国から続く男の友情のテーマに位置づけることができる。でも化けとしての彼らは雌だからか中性的な存在であり(雄の化けもいるのだろうけど)、村のカミサマとしてのハルカは女性であるからこそカミサマが務まっているところがあるように感じる。立ち絵のハルカのたたずまいも絶妙だった。カサネや他の村人を子供の頃から見守り、みとることができるのはやはり永遠に老いない不思議な化けであるハルカだからできるのであり、彼女の懐であるからカサネは最後に子供に戻れる。中性的とはいってもこれが逆に言動が女の雄の化けだったらこうはいかないだろうから、男女はやはり非対称であり、日本のカミサマ的なもの女性的であることには感謝しかない。冒頭部分をもう一度読んでみると、初めに読んだ時には男が語っているのは前作の連想で幽霊が見せる過去の一場面か何かなのかと思ってそのまま流してしまったが、これは彼の最後の晩のことだったとわかる。だから未練はよくないと繰り返していたんだな…。それをハルカも鮮明に覚えていたわけか。
 ハルカはユキカゼを後任者にするために手元に置いたのかと思いながら読んでいたが、少なくともこの作品の中ではそこまではいかなかった。二人のかけあいをまだまだ見ていたかったのでありがたい。
 これはフィクションなのに、と思う。この時代のこの地方に限らず、これまで伝えられた歴史や伝えられなかった歴史未満のものがたくさんある中で、わざわざ荒唐無稽な設定を織り込んだフィクションを読んで感動したり、何かわかったふうなことを書いたりする意味はあるのだろうか。まあ、あるわけなんだが。きっとこういう形でないと届かない心のどこかに届いてくれるのだと思う。
 年末から何もせずこのシリーズを読んだり寝たり菓子を食ったりだらだらと過ごしていたが、そろそろ起きて皿洗ったりカレーつくったり年賀状書いたりしなきゃ。でも仕事はまだ。巣篭もりをもう少しだけ続けたい。