高野史緒『カラマーゾフの妹』

カラマーゾフの妹

カラマーゾフの妹

 なってないよと叩くことは簡単だけどもそれで溜飲が下がるわけでもなく、カラマーゾフの兄弟をよく読んで当時のロシアのことを良く調べて書いたという愛情の深さに敬意と親近感を抱くことは出来るけどかといってドストエフスキーの小説の域に達したというにはあまりに卑小というか、現代の味気ない言葉で書かれた小説で、これを江戸川乱歩賞の審査委員の人たちのように褒める気にはまったくなれない。文体がいいと褒める人たちは何なのだろうか。文体のしょぼさと、そこから透けて見えるドストエフスキーの小説をミステリやキャラクター小説として読もうという最近の風潮(?)は、きっと亀山氏の新訳が受け入れられたことと同じ文脈なのだろうなと。亀山氏はとても面白い本を書く人だけども、そういう負の遺産を作ってしまったということはあると思う。大胆な読み方は面白い。でも、謎解きをして「発見」することで反対に失われてしまう読み方もある。江川卓氏の謎解きシリーズは登場人物の名前とかいうような初歩的な部分に留まっていたので害は少なかったけど、それでもひとつの源流だったらしい。自分のでもよくしくじるので厭になるが、専門用語というものは恐ろしいもので、それで縛られると全体の見方もゆがむ。キャラクター小説はキャラクターを立たせるための属性やアクセサリーで簡単にキャラを縛ってしまう。これがポリフォニー小説だと僕らが思っているドストエフスキーの作品の濃度を残酷なまでに薄め、異様な熱気と饒舌をきれいに拭い去り、まるでコンビニで売っているガムテープか何かのように無駄にさっぱりしたパッケージに入れてしまう。そういうパッケージと設定で売る商品臭が感じられる小説だった。ドストエフスキーは自分の魂の問題を小説に全てぶち込んで書いていたのに、この小説の作者はそこまで引き受け切れていないように見えて、だからここでは全体が商品のキャッチコピーのようなトーンになってしまう。もちろん、作者に悪意があるわけではなく、誠実に書かれた作品だし、終盤ではカタルシスのようなものもあった。でも使用されている言葉があまりにも現代的に陳腐で、霊感が導く射程があまりにも短くて、これが現代日本人の限界か、などと汚い言葉が出てきてしまう。できればロシア人の目には触れてほしくない作品だ。亀山氏はこの小説に自分の本の強調された短所を見るか、それともこんな小説でも褒めちゃうんだろうか。ドストエフスキーの小説はミステリとしても読めるのだろうけど、そうすることで失われるものはあまりにも大きい。高尚(あえてこんな言い方をしてみる)な部分や霊的な調子がなくなった抜け殻のような小説を読んでそう思った。改めていうのも馬鹿らしいが、設定よりも言葉の流れ方のほうが思想的なものを多く表すんだな。