中村九郎『曲矢さんのエア彼氏2』

曲矢さんのエア彼氏 2 (ガガガ文庫)

曲矢さんのエア彼氏 2 (ガガガ文庫)

 半可通がバレるので適当に引用しつつ。バフチンポリフォニー論はウィキペディアだとこんな感じ:

ドストエフスキーの文学においては、上記のように客観的に叙述し得る単一的な真理は存在せず、各人の思想が否定されずに尊重される。各登場人物は、作者ドストエフスキーと同じように、1人の人間として思想や信念を固持する権利が与えられている。それはすなわち人格の尊重である。ところがトルストイの小説においては、しばしばトルストイの考えに登場人物が近づくことが、真理への到達と同視される。そしてトルストイと反対の意見を持つ人物は、しばしば自己完成からは程遠い人物として描かれるのである。バフチンはこれをモノローグな構成として批判した。

 多分、厳密に見れば、バフチンのいう「ポリフォニー」と「モノローグ」は比喩的な使われ方をすることが多く、厳密に規定された学術用語というよりは、都合のいい観念的な言葉だと思う。トルストイドストエフスキーが完全にこれで割り切れるとは思わないけど、言われてみれば、トルストイの登場人物たちは「納得」していくけどドストエフスキーの登場人物は「反発」することが多いよなあ、とかなんとなく肯かれたりする。
 そもそも、小説という創作物自体が基本的には単線的な構造を持った作者の「モノローグ」である一方で、言葉という記号は常に当事者を「裏切る」可能性を秘めた、ポリフォニックに開かれたものとしての側面も持っている(掛詞とか誤配とか脚韻とか色々)。
 中村九郎氏の小説は文体そのものがすばしっこく「斜め上」にずれていくような切り替えがたくさん入っていることが魅力だけど、このエア彼氏シリーズではそれが設定として露出していて、ポリフォニーとモノローグのオセロゲームのようになっているのが奇妙な雰囲気をかもし出している。小説の作者は登場人物たちの台詞を考えて一人芝居を書きつけていくわけだけど、本書では登場人物たちが自分の「エア」の台詞を考えて一人芝居をしている。それを他人に押し付ける。他人のモノローグを押し付けられた側の登場人物にしてみれば、自分の認識している世界が他人の妄想によって歪められてしまうわけで、ちなみに、このせめぎあいを内向的な形で自己完結的に消化してしまうのが元長柾木氏の「メタテクスト」のテーマだろう(「革命」はそこから創発的な奇跡が起きること、でよかったっけ?)。中村九郎氏の「エア」は、繰り返すけど、露出している。往来で開けっぴろげにエアと会話してしまっていたり、化粧がエアなので実は眉毛がなかったりするヤバさが、描写のひとつの目玉として繰り返し強調される。第1巻が出たときに、同じ邪気眼を扱った田中ロミオの『AURA』とは対照的な突き抜けた感じが好ましく思えたけど、田中ロミオの登場人物が社会というコンテクストの同調圧力に苦しむ、どちらかというと伝統的なタイプの人格だったの対して、中村九郎の登場人物はコンテクストを突き破る方向に活路を見出す、非人間的なまでに分裂した人格の開放的な振る舞いが心地よかったわけだ。露出と異化の問題系は、それを得意としたロシア・アヴァンギャルドと彼らと共に出発したフォルマリズムの好んだ手法だ。曲矢は複数のコンテクストを都合よく使い分けるので、つかみ所がない。本当は木村を好きなのではないか、といっても、分裂気味の人格の「本当」は当てにならない。露出した異化の設定が恋愛というテーマに持ち込まれるとどうなるか。相手を信じることと自分の信念を貫くことの間で振り回される。言葉の力を信じているようで信じていないような振る舞いは、風通しがいいようだけどどこか寂しい。安易に人を信じることを恐れる曲矢に共感を覚えるけれど。