木緒なち『ぼくたちのリメイク』、石川博品『冬にそむく』

 前にアニメを観て気になっていたシリーズが完結したことに気づいて一気に読んでみた。アニメではOPソングがよかった他には(今回CDを買ってしまった)、地味で暗めけど熱のある作風が印象に残っていた。らくえんとか思い出した。
 原作小説は、そんなアニメのいいところが詰まった、地味で暗めだけど熱のある作品であり、物語はアニメよりずいぶんと遠くまで進んでいて楽しませてもらった。人生に選択肢はあったとか、あそこがやり直せたらとか、そういうのは少なくとも僕にとってはある程度歳をとってから出てくる考えであり、若い頃は選択肢などない瞬間瞬間の現在をひたすらに生きていた気がする。歳をとると生活がパターン化するし、この先の見通しについても選択肢が無限からある程度絞られたものになるので可視化されてくるんじゃなかろうか。そういう意味では、自分がたどってきた道を何度も振り返り、現在の生き方に意味を与えようと考え込んでばかりいる主人公の物語が、中年の自分にとって面白かったのは了解できる。田中ロミオ作品にせよシュタゲにせよ、ループ物に名作が多いのは、そういう熱量を込められるジャンルだからなのだろうか。
 木緒なちという人の名前はよく何かのロゴのデザインとかでクレジットされている人というイメージで、エロゲーやアニメで触れたことはあったようだけど、ご本人が前面に出た作品を読んだのは今回が初めてだった。この作品のテーマに合わせた意図的なものなのかわからないが、色気のない平易な文章で、平易すぎて引っかかりのないプロットを読まされているような感覚になるところも少なくなかったが*1、真骨頂はそのプロットをテーマに沿ってうまく配置して物語を転がしていくことなのだろう。デザイナー的な発想のように思える。半沢直樹的な地味な見せ場が多かった(半沢では派手なのは顔芸と怒声だった)。扱うテーマがタイムリープと創作論と人生論という重くて複雑なものなので、文章自体はシンプルでベタであっても、主人公や他のキャラクターたちの悩みに等身大で付き合っているようでむしろよかったのかもしれない。人生においては派手な出来事しか起きないなんてことはないし、僕らはなんだかんだいって平凡な出来事を懸命に経験しているし、ラノベでここまでベタに人生を語ってもいいのだ。三人のヒロインから結局一人を選ぶのだが、ラブコメっぽくハーレムエンドにしたり先送りエンドにしたりせず、みんな選べないくらい魅力的だけどそれでも一人を選ぶという実直さも作風にあっていた。作中で何度も言われている「無駄なことなんて何一つない」という地味だけど温かい言葉をかみしめたくなる作品だった。
 ケーコさんは勝手にライアーソフトのケーコさんに由来するのかと思っていたが、この作品の主題が込められた名前だった。彼女がどのようにして出現したのか、その仕組みが完全には説明されたなかったことで、恭也の物語はギミックに回収されず、神秘的な明るさに包まれた聖者伝の趣きを得ることになる。もともと超人というか聖人じみたキャラクターだとは思うけど、そう考えればお色気シーンとかが素朴すぎることも納得できるのかも。シノアキやナナコからクロダやタケナカまで、この作品のクリエイターたちが感じさせる不思議な強さと魅力はそういう聖者的なものによるような気がするし、絵師さんもそれを伝える明るさを表現していたような気がする。自分もこんな仲間たちをつくれるような青春を送っていたら、必死に生きていたらと思うけれど、そうでない人のためにこそある作品だ。そして、地味で暗めと書いたけど、人は皆、自分の人生という神秘的な物語を生きるのだから、最後に小説を逸脱するようなこういう明るさはけっこう好き。

 

 

 ラノベらしからぬ話といえばらしからぬし、これこそが本来のラノベなのだといえばいえそうにも思える。日本の純文学作品のようでもあるし、外国文学のようでもある。ようは最近読んでいなかったけど昔読んだことがある印象的な小説の感覚を思い出させるような作品だった。「冬」がコロナ禍のメタファーであるのは確かにその通りなのだろうし、若者特有の閉塞感を描いているというのも確かのそうなのだろうが、歳をとってからもこういう感覚を抱くことはあると思う。小さなことを積み重ねていき、その都度心を揺らしたり安定させたりしながら守っていく生活。経済的にも心理的にもこの先楽になっていく可能性は低く、雪かきのような徒労じみた労働の重力に縛られ、みなとみらいのような日常から遊離した場所になんとなく居心地の悪さを感じる。そんな生活であっても、恋人がいれば違って見える。近所に引っ越してきたという偶然から始まった特別な関係。二人にはそれぞれの生活があるのだろうけど二人だけの時間はゼロから始まる。
 二人の会話は二人だけの会話であって(学校などでは話さないし)、僕はそれをのぞき見しているような言葉で成り立っているのだが(ちょっとネットスラングが多い気もすれば今の若い人の会話を知らないのでどれくらいリアルなのか分からない)、こういうはたから見ると少し恥ずかしいプライベートな言葉を積み重ねることで少しずつ関係を強固にしていく。美波は目の覚めるような美人ということだが、こういう関係を築くにあたって美男美女であるかどうかはあまり意味がなくて、幸久もこの作品世界が性欲を減退させる冬の鬱病的な不安に満ちているからか、美波に対して性欲の視線を向けることが極端に少ない。大事なのは二人が言葉や時間を共有することなのだ。
 5月の連休、旅行や行楽地に出かけて思い出作りをすることもできたのだろうけど(一応多摩動物園に行ったのはそれらしいイベントだった)、結局は子供と一緒に近所を散歩したりブランコに乗ったり車のおもちゃに乗せたりして、子供を保育園に預けて時間を取れた仕事のない平日も、妻と二人でブックオフに子供用の絵本を買いに行ったり(最近、子供が深夜に盛大に嘔吐して何冊かだめにしてしまった)…<ここで感想は力尽きて数ヶ月経ったが、この小説ならこういう終わり方でもいいか>

*1:個人的には、引っかかりのなさを補っていたのが、現実のトポスの言及の多さだったように思う。大阪と福岡はなじみがないけど、川越はちょっとだけ、車を買いに行ったときに似たような小江戸の話を車屋の担当者から世間話でされたのを思い出したし、西武線も学生時代を思い出した。小田急線の登戸や百合丘はなじみが深く、新宿西口から南口にかけてのエリアや大崎、五反田のエリアもなじみ深くてイメージしやすかった。だからどうしたという話ではあるのだが、なんとなく身近な話のように思えてしまった。