雪子の国 (80)

 期待していたのはこういう話ではなかったのだけど(いきなり15年後のふくよかな美鈴が出てきてしまったし)、読まされる作品だった。重いし、いわゆる裏日本の暗い話だし、「山の涼しい空気」どころか凍死しそうな寒さの寂しい田舎町の空気だし、正月からこれかという重たさや暗さがある。なんとなく恩田陸の小説を連想させた。国シリーズではあるけど、かつての雪子の国はもうなくなっていて、現在の雪子の国は彼女にとって厳しい日本という国であり、また彼女を受け入れてくれたこの田舎町になっている。前作から一転してこの物語では天狗の暮らしはほぼ描かれておらず、ウルマの影のように儚い気配にとどまり、ホオズキも言葉をほとんど話さない。綾野郷に比べるとなんとも陰鬱な田舎町であり、都会は都会で無機質で憂鬱な環境音が飽和している。それでもハルタにとってはこの田舎町が故郷になる。別にこの町の風景を愛でているというわけではなくて、この町で知り合った人、お世話になった人、自分が過ごした時間を思い返すと、自然と故郷という感情が出てくるのだろうな。なんで東京ではダメで、この町に来てからハルタは自分を変えることにしたのかいまいち理屈が分からないが、こういうのは理屈ではないのかもしれない。一応、幽霊事件に関心があったからとか本人は言っていたが、幽霊事件はきっかけであって、幽霊が入り込むような心の隙間がハルタにあったからなんとなくこの町に引き寄せられて、自分を変えてみる気になったということなのだろう。こういう何気ないところから物語ができていくのがよい。
 その果てにたどり着いたのがウルマを見たあの不思議な草原だった。写真を加工したようなものも多かったりして、決してお金をかけて作っているような感じではないのだけれど、この作品には印象的な心象風景のような絵がいくつかある。草原の前に、薄暗い空を背景に何か背の高い草が生えている絵もそうだ。懐かしいようだが、どこか不穏な感じもあって、まるで夢の中のようだ。薄暗い絵や真っ白な背景の絵。この作品のビジュアルイメージには遠い昔の記憶の中や夢の中の絵が多くて、そうではない学校や近所の風景にしても、田舎町だからかどこか暗さや静かさがあって、まるで夢や記憶の中の画像のように沈んだ印象がある。ユリのようなカラッとした性格の可愛いお姉さんは、この町に溶け込むことは難しいようにみえて、他方でここでは彼女自身からも影が滲み出てきてしまうようなところがある。
 こんな風景の中で生きているからか、みんななかなか「肝心なこと」を話さない。幽霊事件が起きても地元の人は特に関心も示さないのは、みんな目の前の現実を生きているからだなんて説明されていて、それはもっともなことなんだろうけど、この作品はその現実をなぜか薄暗い光の中で描いていることが気になってしまう。そしてそんな中でのハルタのとぼけたのんきな表情に癒される。猪飼とのかけあいも楽しい。このあたり(山口県?)の方言とか知らないのだが、方言キャラである猪飼の言葉には広島の方の方言のけっこう混じっているらしく、彼の乱暴だけど知的な言葉は聞いているだけで楽しい。彼が天狗とかかわりがある人間だったらこの作品はもう少し前作に近い物語になったのかもしれないが、そうではない独立独歩の一般の人間であったことがこの作品の主題とトーンを決定しているように思える。雪子は魅力的なヒロインではあるけどやっぱりテンプレをベースに作られたキャラクターに見えてしまうところがあって、存在感の強さでは猪飼の方が圧倒的だ。いっそ、猪飼が女の子だったらよかったんじゃないのと思ってしまう(雪子の心配が絶えないだろうが)。まあそれは冗談にしても、前作の濃厚すぎる男の友情シーンに比べると、猪飼は独立独歩だしハルタもつかず離れずだから、男キャラに関しては今回の方は読み心地はずっと良かった。
 作者のブログを拝見したら登場人物たちの言葉に関する興味深い説明があった:

やはりノベルゲームは「思う」という能動的な想像をもってようやく楽しめるものだと思う。物語の先が気になるという情報の追いまわしばかりでなく、表現に立ち止まり思う時にも物語体験の充実がある。雪子の国、もはや制作当時の思いを忘れ、空となった表現だけが残っていた。それ故に、今の我輩の「思う」がよく喚起されて楽しめた。作品鑑賞は一つのコミュニケーションと考える。この時、コミュニケーションの相手は作者と言うよりも登場人物を我輩は想定する。だからこそ、彼らの言葉、振舞いは器であって欲しいと思う。彼らの意図そのものが現れているのでなく、彼らの意図を表現する手段として言葉、行動が用いられる。人は言葉という細かな記号を使うまえにまず、何かを期待しているし、何かを恐れている。それらの表出として言葉を発し行動に現れて欲しいのだ。まるで本人の中に言葉があって、それがそのまま吐き出されたと感じる台詞には「思う」が起こらない。コミュニケーションが発生しないのである。人は筆舌に尽くしがたい心を常に生きている。故に、意図はいつでも台詞を越えるものなのだ。だからこそ、言葉を介するコミュニケーションに悲しさや寂しさという情緒が生まれる。

 この作品の魅力的な暗さに通じる話にも思える。
 猪飼の話で終わりかと思ったら、その後も物語はよい意味でだらだらと続いていき、東京の家族や先輩のような新しいキャラも出てきて、瀬戸口作品の後半のような面白さがあった。キャラクターの立ち絵にもみんな味がある。それなりに整った顔立ちで、不快感とかはないのだけれど、それでもみんな他人であるというな、どこかよそよそしさのある感じ。そんな他人の一人である義父との対話の試みは、お互いに歩み寄ろうと粘り強く頑張るけど、それぞれの背負ったものがあるせいで手を取り合うに至ることができないというもどかしさが描かれていて、これがそれっぽい愁嘆場とか激昂シーンとかご都合展開とかでごまかされていなかったのがよかった。とはいえ、ハルタが実際になぜ卒業を待たずに20歳で転学しなければならないのか、彼の直感の根拠が何なのかは、いまいち描写が少なくてよく分からなかったし、雪子を東京に呼び寄せるのも悪くはない気もしたのだが(東京に来たら窒息して、先輩の元彼女のように山に帰ることになるだろうか)。あと、義妹ちゃんとのラブコメ及びそれを監視する雪子もちょっと見てみたかったが、それをやると作品の趣旨から逸脱するのだろうな。
 だらだら書いてきてしまったのでそろそろまとめるか。というわけで、この作品の暗さは僕が勝手に感じた主観的な印象であって、そもそも僕自身も再読したら異なる印象を持つ可能性もあるが、こういう暗さを背負いながらも明るく地道に生きていく登場人物たちに少し元気をもらえた気がする。