紫影のソナーニル (75)

(体験版時の雑感12
 気のせいかどうかは確認していないけど、中盤まで多義的で解釈を逃れるようなところがあった語りと設定の歪みが、終盤でだんだん一義的な方向に収束されていってしまったように見えたのは残念といえば残念。作品としてはきちんと話を完結させる必要からそうなるのは分かるけど、話の枠組みが見えてこないうちに、自分や他のキャラクターたちの足場がどうなっているのか分からないうちに、とにかくわけの分からない存在に翻弄され、自分ではどうにもできない理不尽なストレスにされている人たちを見て、黒すぎて白くなってしまいそうな彼らに寄り添うことに安らぎを覚えられるからなのかもしれない。必死に生きる彼らは全てを終わらせたくもあり、終わらせたくなくもありという感じで、天使に少しずつ削り取られるのは苦しくても、過去と記憶を持たないリリィのたてるさざなみは受け入れ、その結果諦めて全てを終わりにする覚悟さえできる。当事者の誰もが何が起きたのか理解しないまま、語りは何かの言葉尻に乗って勝手に進められる。そういった言葉の仕掛けが、今は思い出せないけどいくつもあったような気がする。それがちょうど同時代の象徴主義が好んだ手法で、そうした仕掛けはすぐさまある意味の連鎖を喚起するのだけど、それが半分夢の中のように歪んだ連なり方をしたおかしな磁場を作り出す。カトリーンが見せつけられるルフランも、ルシャが見まいとする鉄化の進行も、毎晩恋を思い出すジャンジャーの悪夢も、全ては名状しがたい不安の感情を皆が抱えているところから来ていて、これは現象数式実験云々の設定とは関係ない。そしてその不安に抗うために彼らが描いて見せる幸せの感覚はあまりに儚いもので、それを形に残そうとしたら「地下の詩」のような弱々しいものにしかならないのが世紀末の精神的風土だ。作品の設定的な部分とは別として、このニューヨークで300万人の生活の代わりにほんの数組の人たちの思い出しか描かれなかったのは、そこまでエリシアの心が弱っていて、少しずつ人と会う中でゆっくりと自分の悲しみを消化していかなければならなかったからで、事実エリシアは登場してもふらふら歩いてはめそめそと泣くばかりだった。そして、そんなエリシアの姿がなければリリィやエリィの姿が引き立たないのだから仕方ない。
 リリィが目にしたものは死んだ人たちが残した思いといえるようなものだったけど、結局それは死んだ人たちのものだ。その意味ではエジソンの言い分は全く正しい。そんなものに目を向けなくても、やるべきことはほかにいくらでもあるはずだ。あえてそちら側に立つところにこのシリーズの魅力的な暗さがあるのだろう。シャルノスではメアリは巻き込まれた第三者だったが、この作品でリリィ/エリシアは当事者であり、その閉塞感にはさらに広がりが与えられている。また、ヴァルーシアでは異国情緒の白昼夢とふたをしてしまうこともできたかもしれないが、この作品の廃墟や天使や鉄(鈍化)のメタファーは僕らの日常的な想像力の範疇にあるものだ。
 そんな中で正しい答えにたどり着けたリリィはほとんど奇跡的といってもいい。別に自分が100年前に生きていたわけでもなくて、ただ単に歴史として文学として本を読んで耽溺していたことがあるだけなのでこういうと滑稽だが、僕自身は象徴主義や世紀末の喜怒哀楽が残していったものを多分自分の中で整理し切れていないと思う。今はしばらく他のことに目をそらしているだけで、ちょっとスイッチが入るとあの世界に戻っていきたくなる。それは地続きの世界のはずだ。世紀末云々で片付けられることのない、普通に生きているだけでもいつの間にかできてくる、あるいはいつしか必要になってくる、心の中で思い出とかをしまっておくような場所。その薄暗い場所からこんなにきれいな姿で戻ってこられるリリィはすごいリリィだと夢想する。自分で自分の姿を決め、魔女にでもなれる。全体的に不安が滲み出ているような抑圧的な曲や何かに駆り立てられるような刹那的な曲が多い中で、リリィが魔女になるときに流れる音楽の軽やかさにはかえって切なくものがある。無粋なたとえだが、スクリャービンプロコフィエフやジプシー歌謡を背景にすれば、チャイコフスキーくるみ割り人形も明るすぎて泣ける曲に聞こえてくるのと同じように。魔女となったリリィの顔の冷たく物憂げな美しさにさらに打ちのめされる。魔法少女は普通こんな表情はしない。使命を果たすと消えてしまうというのなら、反対に必要なときには呼び出せるようなものと考えて納得しておくしかあるまい。エリシアが多分そうしたように。