対象eをめぐって (エロゲー語り)

http://d.hatena.ne.jp/wannabq/20101127/1290871340
 せっかく好意的に言及していただいたので、チャンスを逃さず自分語り。
 エロゲーについてのテクストを「批評的・評論的」なものと「感情的・情緒的」なものに分けるとしたら、自分は後者のアプローチに注力しているという前提で話を進めてみる。結局モノにならなかったのだからこんなことを言ってもみっともないのだけど、学生の頃文学研究者を志していた時期があって、いろんなタイプの研究者たちの論文を読み漁っていた中で突き当たったのが、文学作品を研究すること・分析することの意味だった。(少なくとも)西洋型の学術においてお手本となるのは自然科学をモデルにした研究スタイルで、究極の目的は「美」の「真理」を解明することであり、科学的に解明する以上はそれは民主的に誰でも再現可能な「美」の生産機械を発明することだった。そのためには「まずは」作品をそれを形作る最小単位に分解し、それらの部品が組み合わさって作動するさまを理解することだ。そうして部品を分類し、分解していけばいくほど、実際のところは残念ながら「美」からは遠ざかる。いわゆる「有機体」とか「統一体」の問題。文学研究でもっとも自然科学に近づこうとしているのは多分韻律学で、数値化可能な部品をひとつの軸にしている。ただし韻律学にしてももうひとつの軸は歴史学にあり、ある韻律にジャンルやテーマの記憶が刻印されてそれに引きずられていくさまを整理していく。こうして形式と意味の結びつきの恣意性が再確認されていく。若干飛躍するけど、同様にしてエロゲーにおいて「美」や「真理」を追究しようとすると、同じような科学的なアプローチでは結局文学研究が苦戦しているのと同様の問題に突き当たるわけで、それは僕にはめんどくさいしそもそもそれほどの力量がなくあきらめて今の自分があるので、crow_henmiさんとか30x30や10x10の野心家の人たちが挑戦するのを見ているだけでいい。
 いじけた言い方をするならば、自分がエロゲー語りでとっている立場は、上記の形式と意味の結びつきの恣意性を飼い慣らしてエロゲーを寿ぎ、それによってちゃっかり自分もちょっと肯定してしまおうという儀礼的な関わり方だ。観察対象から距離をとることが基本である科学的なアプローチとは違う。その根拠としてエロゲーにプライベートな欲望の芸術という特権性を勝手に付与したら、お叱りを受けたことが以前あったけど、プライベートというカテゴリーがそもそも社会的で相対的なものである以上もっともな指摘だった。そこで開き直るしかないのは、僕自身がいかに引きこもり気質であろうとも社会的な存在であらざるを得ないからであり、また、結局はエロゲーを通じて公共の美や真理に至ることよりも、自分の中に個人的な歴史として積み上げていくことのほうが自分には合っている気がする、という感覚的な問題もあるからだ。分析概念の完全な道具化や数値化ができないのなら最初から諦めたほうがいいというわけだ。昔ロシア人の先生に「お前はどうしようもないマクシマリスト(極端な奴)だ」と言われたことを思い出す。自分に重責を課すのが嫌なら恣意性のおしゃべりに逃げ、逃走の中で中途半端で奇妙な建築物をつくるしかないだろう。
 ・・・というのが内側からの眺め。はたから見て僕の文章がきまぐれでムラがあり、平気でネタバレもミスリードもするしで、迷惑な代物であるだろうことは想像できる。エロゲーに求めているのは意外性とかなので、シナリオの整合性とかキャラの言動の倫理性とかはほとんど目の敵にしているし。まじめにエロゲーを批評や研究しようとする人は、こんなものは先行研究として取り上げると面倒なので、スルーするのが無難です。いちいちこんなふうに断るとますますバカっぽいけどいちおう。もっと明るいトーンで書ければよかったんだけど、育ちの悪さが露呈してこうなった。もうエロゲーでもして癒してもらわないとね・・・