奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』


 ロシア文学研究者の青春の書だ。かなりあけすけな本であり、あけすけに書いてもきれいにまとまるのは著者の人柄なのだろう。僕が昔夢見ていたような生き方――ロシアの大学で数年間文学研究にどっぷり浸り、得がたい友人や先生に出会ってかけがえのない宝物を手に入れて、研究者としても成功する――をリアルにやり遂げた同年代の人の記録をみるのはまぶしいような体験であり、同時にそういう夢から離れ、文学研究に対して勝手に抱いていた幻想からも解放され、今の人生を生きている自分は少し冷めた見方しかできないのだが、この本がいったい誰に向けて書かれているのかよくわからないように、僕もいったいどのような僕に向けて書くべきなのかよくわからないまま感想を書いておこう。
 奈倉さんとは以前に何かの機会でご一緒したことがあるが、特に話もしなかったのでどのような人か知らないままだったが、その後、なんだかすごく砕けた言葉でうまく翻訳できる人だという評判を聞いて、でも翻訳した本が関心のない作家だったのでスルーしていた。今回の本は内容からして上に書いた複雑な感情を味わうことになるかもなという予感を持って手に取ったのだが、何よりロシアで5年制の文学大学を(4年で)初めて卒業した日本人という肩書と、博士論文のテーマがブロークだったというのを知ってスルーできないなと思ったのだった。
 実際、関心の対象は僕とけっこう近かった。ガスパーロフの本に感銘を受けるのはまだしも、ゴルシコフなんていう文体論研究者が現役の先生として登場するところまでは想像していなかった(昔ゴルシコフの本にもけっこう付箋を貼ったりしたが、教科書的な内容で自分の研究テーマに使える感じではなかったので今は内容も覚えていない)。ちなみに、僕もガスパーロフの本に感銘を受けて一生懸命韻律や意味論的オーラ(懐かしい用語だ)の論文を読んだけど、詩のリズムを「体感」するのは難しくて、詩の意味やニュアンスもネイティブのように即時に「体感」できるわけでない。どうしたって「勉強」になってしまう。外国人の限界だろうなと絶望した。奈倉さんはモスクワで数年間にわたりロシア人たちと一緒にたくさん読んだのだから「体感」できているのだろう。うらやましい限りだ。でも、それは僕以上に何度も絶望を味わった先に得たものなのだろう。
 『耳狩りネルリ』はラノベとして青春を描いたとすれば、こちらはもっと研究者寄りだ。とはいえ外国人学生としての生活の描写もいろいろとフックがあり、ロシア人学生たちと親しく交流し、寮の中で苦楽を共にし、モスクワをあちこち歩きまわり、夏休みには他の町に行ったりし、質素で単調な食事をとりながら本を読んで幸せな知的興奮を味わったりといった楽しかった時間を僕もあれこれ思い出した。もちろん奈倉さんは本物なのでロシア語力もずっと高いだろうし(本書ではロシア語で苦労したという記述は一切なかったどころか文学大学でフランス語まで習得したとことなので、語学センスがよい人なのだろう)、毎回速記で講義を記録して後で清書するなんてことは僕にはできないし、たぶん学生の頃でもそこまでの根気はなかっただろう。奈倉さんのアントーノフ先生の講義に関する幸せな思い出はまさしく一生の宝なのだろうし、そういう宝をロシアの教授たち(ベールイが特別な意味を込めて呼んだロシアの教授たちだ)からもらったことを日本人が日本語で本にしておくことは重要だと思う。速書きだったのか、もっと言葉のリズムや速度や手触りを吟味できそうな箇所も多いが(すごく偉そうな指摘になってしまって滑稽だが、それだけ大切な内容のはずだし、例えばガスパーロフやリジヤ・ギンズブルグやトゥイニャーノフのようなソ連仕込みの研究者兼エッセイストなら、一語一語まで神経がいきわたった文章を書く)、とにかくなんだかよくわからない塊を一度言葉にして吐き出しておきたかったということだろうか。引用されている詩の翻訳も明らかに生煮えで、あまり詩になっているとはいえない代物だが、原文の音楽性を伝えるようなまともな詩にしようとしたら、たぶんいつまでも本が完成しないので妥協したのだろう。
 といっても、著者は僕とは別人なので本当のところはよくわからない。ウクライナ問題などをはじめとするロシア政治・社会の暗部に対する義憤もあまり理解できない。意地の悪い言い方をすると、もし著者のモスクワ在学時の友人にウクライナベラルーシの出身者がおらず個人的な縁がなかったら、もしこれらの国の作家の作品を翻訳していなかったら、こんな義憤を抱いていただろうか。この世界には不正やゆがみなんていくらでもあって、人は自分に縁のある不正やゆがみに反応するだけでキャパシティが満杯になるのだから、縁のないどこかの国の不幸に強く同情できないからといって後ろめたさを感じる必要はないだろう。他にもっと守りたいものがあるならば。電波を受信してしまう人は除くとして。といっても、著者はまさしく個人的なことを書いていて、その延長線上としての義憤なのだから何も間違ってはいないわけだが。そしてそういう風通しのよさも僕がロシアに求めなければいけないものの一つなのだが。
 青春というのは人と出会わないとありえないし、自分はどんなに人を避ける本の虫だと思っていても人とめぐり合わせてしまうのが青春の魔法である。それにつけてもだ。僕は最近10年ほどは人付き合いを最小限にして、人ではなく文字情報や映像情報と過ごす時間を最大限にする生活を送っており、これは何にも残んねえなとまた少しへこむのだった。エロゲーは独自の体験深度を持ちうる存在だけど、これは個人の内側に反響させておくべき存在であり(感想を書いて他の人と楽しく交流しても、最終的には自分の内面に立ち返る)、文学研究のように人と積み重ね、分かち合っていくような文化は少なくとも現在のところはあまりうまく作らてはいない。
 奈倉さんが素直にうらやましいが、僕には無理な生き方であることもよくわかっている。僕は結局、知らないことがたくさんあるのに時間は有限であるのが怖くなってしまい、早く知った気になろうとして作品よりもその文学的な評価を先に読むような人間に過ぎなかったし、無駄に思える地道な作業をできずに夢想するだけで終わってしまった。好きな本、楽しい本しか読みたくないし、面倒な論文なんて書きたくないと思ってしまった(その結果、今はロシア文学とは関係のない面倒な仕事に日々追われているのだが)。文学研究の外側にも文学研究を超えるほどのわくわくするような素晴らしいものがあると思ってしまった。そして、せっかく買い集めた数千冊のロシア語の文学作品や研究書も、研究者の責任感から解放されたら趣味人として楽しく読めるぜと思っていたのに、今ではごくたまに紐解くだけだ。奈倉さんが軽々と引用するブリューソフやホダセーヴィチやエセーニンの名前を見て、あ、やべ、読まなきゃと思ってそれでおしまいになってしまう。僕は15年ほど、エロゲーを通して自分を見つめながら真・善・美(?)を追い求めることに気を取られ、かつて願ったロシア文学趣味人としての生き方を忘れてしまった。願ったというよりは、当時は解放されたいという気持ちしかなかったのかもしれないが。いつのまにか、ロシア文学を腰を据えて読んだり翻訳したりするのは定年後かなあと、遠い未来に追いやってしまった。これからは子育てでさらに追いやる口実が増える。これについては魔法の解決策はないので、死ぬまでにあと何年あるのか知らないけど、趣味なんだから楽しんで読んでいけばいいなと毎度のように思い直す。文学に関しては、プロと趣味の境界線は現代ではあってないようなものだ。いつでも気持ちを新たにしてやり直せばいいんだ。

 ……あらためて読み返すと、あからさまにコンプレックスを吐き出した文章に恥ずかしさを覚えないでもない。でもこういう素晴らしい生き方にコンプレックスを抱けるのは悪いことではないと思う。よい本だった。