エロゲーないものねだり

 ツイッターで松波さんから「芸術的素養」の生かし方について言及があった。僕の場合は素養というにはあまりに偏っているけど(1900〜1930年くらいのロシア関係の中で自分興味のあるものだけ)、確かに何らかの知識の断片はあるので、エロゲーの感想を書くときには積極的に活用するにしている。ハイカルチャーや思想関係の知識はサラリーマンになってからは新規にはほとんど増えず、年とともに摩滅していく一方だ。でも学生時代に形成した価値観は今の自分のアイデンティティを方向付けているものなので、こうして時々思い出しては往生際悪く活用している。まさか学生時代に溜め込んだ財産の全てはエロゲーにたどり着くためのものだったなどとは思いたくないが、大学で勉強したことだけでは自分が目指したものを手にするには片手落ちに思えることも確か。
 改めて指摘するようなことでもないが、僕が学生の頃調べていた文学や絵画や人文科学にまつわるあれこれは、いわゆるリアリズムの時代のあとに生まれたものなので(象徴主義アヴァンギャルド精神分析、フォルマリズム、大衆文化etc)、同じくリアリズムを避けて「二次元」という制約性の中で美を追求するオタク文化とは相性のよいところがある(ちなみに、スチームパンクシリーズにはフックが多いので釣られているけど、それは設定などからくる偶然のものだ)。研究論文にしても、リアリズムの花形である長編小説に関するものはテーマの要約的なものに終始して、それだったら小説そのものを読んだほうが面白いよとういうものが多いように感じた一方、詩をはじめとするポストリアリズムに関する研究においては、作品から受けた驚きを面白く解釈していくことに情熱を傾けるというオタク的な作業がクローズアップされるので論文自体もスリリング。僕がエロゲーの感想を書くときに避けたいと思っているのも、単なる内容の要約や「作者の言いたかったこと」の抽出だ。決め台詞的な部分の引用もできるだけ避ける(引用はきちんと文脈をつくってからしないと確実に言葉が褪色するし、そのために文脈をつくるのには手間がかかる)。
 「芸術的素養」という場合にエロゲーマーとしての自分に欠けていることを特に痛感するのは音楽だ。前にも書いたことがあるけど、僕は音楽を語る言葉を持たない。例えば「いつか、届く、あの空に。」の桜守姫此芽。ヒロインとしての此芽のもつ存在感は彼女の専用BGMと深く結びついている(ように思われる)。特に初登場のシーン(船に乗っている場面)のインパクトは強く、そのあとで彼女がいくら子供っぽくてテンプレートな振る舞いをすることがあったとしても、必ずしも言語テクストによるキャラクター造詣においては表面化してくることのない部分で、彼女の精神が極めて繊細で危ういものの上に成り立っている面があることはなんとなく伝わってしまう(ように思われる)。そのことを語ろうとしても、「あの和音がいいんだよ」とか「あのメロディの曲がり方が此芽の衣服の緩やかな曲線と相まって彼女の心性を表している」とか「あの緩やかなテンポは自分を律する彼女のバランス感覚を」とか「いやあれは無垢な優しさだ!」とか言っても、どうしても隔靴痛痒を免れない。いくらがんばっても滑って違う穴に入ってしまうような感覚。しかもいつもにも増してキモくなる気がする。また、此芽のBGMの効果についてはそれだけ取り出しても不十分で、他の楽曲がつくる作品全体の文脈の把握を必要とする(いつ空の音楽の作品中での機能は、そのテクスチュア面から見て結構特徴がある気がする)。他にもヒロイン専用BGMの機能で言えば、例えば「セイレムの魔女たち」におけるエミリーとソフィの比較も面白いだろう。また、ヒロイン専用BGMでなくても音楽に関しては語りたくても語れず、〜〜を思わせるとか言って何かに例えてお茶を濁してしまうことが多すぎる。学生時代に音楽研究にまでは手が回らなかったし、動ポモとかでも触れられることがなかったのでそのツケが来た形だ。文学研究においては音楽の言語化不可能性は古典的な言説だけど、当の音楽研究においてはどうなっているのかは知らない。というわけで、もちろん「シナリオライタ論」の射程からは遠く離れるが、例えばエロゲーにおける音楽及び声と(具体的な)ヒロインの快美との関係の記述法はなかなか手がつけられない魅力的な分野だと思う。