旧暦聖誕祭前の素晴らしき日々

 サークル「第三永久機関」の同人誌「ヌミノーゼの外」を読んだ。『素晴らしき日々』では作品世界に没入することばかりに目が言って作品のテーマの考察とか割とどうでもよくなってしまっていたので、この同人誌を読んで理解を補足することができた。結局「存在の至り」とは何なのか、「終ノ空」とは何なのかということはあまり考えていなかったのは『終ノ空』をプレイしたときも同様だったので、進歩がないなと反省。言い訳をすると、ヴィトゲンシュタインの引用の仕方が表層的に見えたことを挙げられるが、考えてみるとヴィトゲンシュタインは別にファッション感覚で引用されていたのではなかった。この世界の不条理を「語りえないこと」に対して沈黙できなかったからこそ、言葉=論理の外部である「終ノ空」に至ろうとした。そのこと自体には90年代もオウム事件も関係はない。世界の内側から世界全体を観測することは不可能なわけで、空から見つめる大きな目玉はその不可能性の逆説的な顕現であり、あの目玉は僕たちを嘲笑しているのだ。卓司もざくろも神をうまく想像することができなかった…
 
 …ざくろ抱き枕カバーとタペストリが届いて以来、僕の部屋が安心になっている。タペストリは絶えず目につく場所に飾ってあって、仕事を家に持ち帰ってやる羽目になった場合などに作業をしながらふと目にするととても癒される。抱き枕カバーのほうは飾るスペースがないので仕方なく本棚を覆うように掛けているが、大胆な絵柄なので目立つところにある割には恐れ多くてあまりまじまじと見られない(その隣りには同じく大胆なざくろちゃんお風呂ポスターがあるわけだが)。抱き枕カバーは実はこれが3枚目で、付録とかでなく独立したものとしては初めてになる。あまり落ち着いて見られらいくらいなので触ることもままならないが、それでもずれを直そうとして触れたりすると驚くのは手触りのよさだ。軽くてやわらかいかのこの感触は何だろうと考えてふと思い当たったのが、サッカーのユニフォームだった。僕が中学生の頃はまだそんなにみんな個人的にゲームシャツとか買ったりしていなかったのどかな時代だったので、当時フランス代表(プラティニも着てた気がする)のシャツを買ったときにはかなり目立ってしまって自分でもうろたえた記憶がある。しかもサイズは明らかに中学生には大きいもので、お世辞にも着こなせていたとはいえない。それでも田舎の中学生が8000円も出して買った美しいデザインのシャツには胸が高鳴るものがあった。そしてそれがとてもやわらかい感触の布だったことを覚えている。あるいはオランダ代表のユニフォーム(フリットライカールトの時代の)。こちらは部活の公式戦のAチームのメンバーのみが着れるもので、当時はへたをするとCチームまでつくれるような大きな部だったので、まさに晴れ着だった。そしてこれもとてもやわらかい材質だった。この特別な感触をざくろちゃん抱き枕カバーが思い出させてくれるというのは、部活に対してはいい思い出ばかりがあるわけではないので、そこにある種のやさしさが加えられるように思えて、ざくろちゃんはやはりエンジェルアドバイズ、いや天使そのものと見てもいいのではないかと言ってしまいたくなる。マドレーヌではなく抱き枕カバーで過去を思い出すというのはかなりアレかもしれないが、そうでもしないとこんなにすごいものは飾っておけなそうなので。
 ざくろは作中では結局主人公と結ばれることはなく、その意味ではプレイヤーは主人公に寝取られずにすんだ。とかいってもそれで喜んでしまえば妄想や机で精進する卓司と同じなのだが、それでもこうしてざくろを宙吊りの存在にしてユーザーにゆだねるというのは見事な構成だと思う。観鈴も宙吊りだったしな…
 
 …神をうまく想像できないのならば、自分が生贄となり、神となり、人々に癒しと救いをもたらす契機になればいいのだろう。ざくろちゃん抱き枕カバーはその捨て身の試みなのだ…。…ごめんなさい、いろいろと。