再考ロシア・フォルマリズム

なんかうまく書影が出ないのでリンクを貼り
 ロシアの文学研究の困ったところは、その射程が広すぎること、面白すぎることなのだった。本当の学者でなければ立ちいれないような美と真理への展望を開いてくれるのだが、それと同時に限られた存在である自分の無力さを実感させられる。開いてくれるのは展望だけであり、それを自分が引き受けるためには常に脳内麻薬を垂れ流しながら何十年間も研究を続けてようやく小さな、真理を前にしたらあまりにも小さな功績を残せるだけ。そういう地獄のような祝祭に耐えるには、自分を取り巻く現実や実際的な生活というのはあまりにもくすんでいて鬱病になりかねない。フォルマリストたちが1930年代以降は理論的探求を離れ、いわば還俗して地味な文献学的研究や小説の執筆、韻律研究の統計作業などに埋没していったのは、全体主義時代の政治的圧力や有用性の強迫観念に追い立てられたからというだけではなく、10〜20年代にぶち上げすぎて覗き込んだ深淵のあまりの大きさに絶望したからなのではないかと思う。というのは僕の個人的な投影も強いんだけれども。
 フォルマリズムは「形式」や「手法」の話ばかりしていたのではなく、むしろ「意味」、正確には「意味を生じさせる機能」の解明に肉薄していった運動。その点で、本書ではヤコブソンやシクロフスキーよりもどちらかというとトゥイニャーノフやエイヘンバウムに焦点が当てられているのは適切な選択だ。というかなんだかトゥイニャーノフ愛に溢れすぎていてくすぐったくなる。彼はその素描して見せた深淵の入り口だけでおなかいっぱいになるような切れ味の論文を何十本か残した研究者で、その魅力は「詩的言語の問題」のような純粋な理論書よりは、時評やジャンル論のほうがよく出ているのだが、残念ながらたぶんそれはロシア語ネイティブの人でないと十全には分からないだろうし、なにより日本人の僕が読んでいくら面白くてもいたずらに空しさというかタスカーを募らせてしまうだけでむしろ有害といえるかもしれない。エイヘンバウムといえば日本や海外では「ゴーゴリの『外套』はいかに作られたか?」ばかりがしられているが、本書では「ロシア抒情詩のメロディカ」が取り上げられていてたまりません。これは原理的に計量可能な詩の韻律ではなく、さらに一歩進んで計量の難しい「イントネーション」と意味の関係を明らかにしようとして実際にいくつかの詩を分析した論文で、すごくおもしろいし繊細な分析なんだけど、こんなのを読まされた日本人はこの次にどうすればいいのという代物だ。しかも本書の論者は冒頭で唐突に初音ミクに言及していて、なんと言うか、僕は論者の苦悩に共感してしまうのである。全体的に執筆者は若い世代で、何人かけっこう業が滲み出ている人もいるのだけど、今後も研究を続けていくことに価値を見出せるような平和な日本でありますように。
 というようなわけで、正直なところ、1929年のトゥイニャーノフとヤコブソンの短い宣言的綱領論文の発表後に終わってしまった運動としてフォルマリズムはどうでもいいのである。もっと面白いのは、救いようのなく面白いのは、彼らが見ていたけれども全体をその手につかみとることのできなかった真理の痕跡なのである。真理は全ての文学作品を完全に研究し、分類して並べなくては手にすることが出来ないけれど、それはもう研究者のやることではなくて神様か未来のスーパーコンピュータの領域なのだろう。その不可能に挑んだ営為の残骸として、フォルマリストや後代の研究者たちの仕事は意味を持つ。だからこそ、本書にフォルマリスト第2世代(ギンズブルグ、グコフスキー)や第3世代(ロトマン、ガスパーロフ)、隣接領域の準フォルマリスト(フロレンスキー、エイゼンシテインヴィゴツキー、アヴェリンツェフ、リハチョフ)がほとんど入らなかったのは残念だけど、あまりに深淵を見せつけられても僕はもう学生時代には戻れないのだから納得するしかないのだった。