春萌 風真沙緒

 以前、さくらむすび(と魔法はあめいろもだった気がする)の感想を書きながら、「もっと密語を」という品のない要望を口にしたが、その要望に全面的に応えてくれた唯一といってもいいエロゲー最果てのイマだった。密語なんて言葉が本当にあるのか調べないまま適当に造語したけど、元ネタは19世紀前半の詩人たちが仲間内で作り出していた、内輪空間の言語感覚をギンズブルグ(フォルマリスト・トゥイニャーノフの弟子)が評して言った用語(インチームヌィ・ヤズィク;英語はインティメイト・ランゲージかな)。ヒロインとの間だけの特別な言語関係を取り結ぶことができたら、その距離感やラブラブ感はいやがおうにも理想的なものに近づくだろうという目論見だ。盲点は、エロゲーというインターフェースの問題で、ヒロインがその親密な制約言語にエンジンをかけた場合、主人公がそれについていけないとコミュニケーションの不全感が生じ、主人公がついていけてもプレイヤーがついていけないとプレイヤーは疎外感を感じるということだ。小説なら仲良し空間が形成されるのを第三者的に見守って楽しむだけなので問題ないが、エロゲーではヒロインが欲望の対象であり、ヒロインと親密な関係を取り結ぶことを欲望しているのはプレイヤーなので、主人公はヒロインについていける器でありながらプレイヤーの邪魔はしないというバランスを取ることが要求される。こういうことができるのは田中ロミオのような器用なライターくらいで、大抵の場合は、密語コミュニケーションはそのベクトルを変え、ヒロインを極度に幼稚化して(+主人公を朴念仁化して)、インファンタリズムによってコミュニケーションの純度を確保する方向に走る。最果てのイマでは言語的な妙技の他にも、プレイヤーにきれいに接続するために、主人公の特権性が大掛かりな設定上の仕掛けで担保されていて、全体として見事な職人芸のような、完成度の高い作品になっていた。
 本作『春萌』をやってみたのは、論集30x30を読んで沙緒ルートを書いた夏葉薫氏の作品に興味を持ったからで、そういう幸せな言語空間を見ることができるのではないかと期待していた。結論から言うと、方向性はまさにその通りだったけど、本作は居心地の良さを追求した快楽装置ではなかったようだ。一部のネタにすぐに反応できなかったということもあるが、主人公がわりと普通の人で、普通に沙緒についていけなかったり、舌足らずになって「愛してる」の連呼で押し切ってしまったり、普通にナンパ男的なうっとうしさやがっつきぶりがあったりしたため、理想の親密空間にノイズが混じるように感じられたからだ。
 でもそれだけで終わる作品でもない。沙緒も、主人公もライターも(おこがましいけどプレイヤーである僕も)、若い。理想の恋人とのコミュニケーションを求めてあがく。そこには、最果てのイマのような枯淡の境地とはまた別の、真摯な希求があると見たい。北海道の田舎という土地柄が感じさせる若さと寂しさもよく似合う。身体の持つ官能性は冷たい空気に冷やされる。そして、沙緒に美しい目で涼しげな眼差しを向けられながら、彼女も同じコミュニケーションを求めている幸せを感じることができる。