Ю.Тынянов "Кюхля"


 いろいろと生活の方は息苦しくて面倒なのだが、悲劇作品を受け入れられるのだから精神状態は悪くないのだと思う。190年前のことを書いた80年前の小説、しかも1987年にノヴォシビルスクで出版された古本だけど、ずいぶんと近しく感じながら読んだ。特に最終章が恐ろしかった。キューヘリベッケルの頑固さ(僕も頑固だと言われることが多い)、高潔さ、コミカルな不器用さは生来のものであり、デカブリストの乱を経てもそれを貫いていけると期待していたけど、独房を出てシベリアでの流刑生活が始まると、生活という名の虚無にすり潰され、信念や理想を失った虚ろな人間になってしまう。恋人との再会の夢を忘れ、粗野で空っぽな女と温もりのない騒々しい所帯を持ち、親友たちに先立たれ、自らの文学作品に幻滅する。熱が失われていき、シベリアの寒さの中で人から物になって命が停止するような最後だ。展開としては『オブローモフ』に、あるいは『罪と罰』にも近くないともいえないが、ロマン主義と革命思想まっただなかの時代で、プーシキンやグリボエードフのような個性と過ごした青春のきらめきと苦さは、まったく別の苛烈さを持っている。こんな風に鬼気迫る小説になったのは、トゥイニャーノフにそういう同時代的な問題意識があったのだろう。人の流れ、兵士たちの流れをネヴァ川の街ペテルブルクを流れる血液に喩え、ひたすら橋と広場と通りの名前とうごめく群集ばかりでダイナミズムを描いたデカブリストの乱の章などは、十月革命を描くエイゼンシテインを彷彿とさせた。誰が誰に対応するというわけではないが、トゥイニャーノフが描いた『キューフリャ』、『ワジル・ムフタルの死』、『プーシキン』の3作は、シクロフスキー、エイヘンバウム、トゥイニャーノフというフォルマリスト三人衆の青春時代を感じさせるとか。『キューフリャ』を書いたとき(1925年)のトゥイニャーノフがまだ31歳だったというのは驚きだが、同時に納得もできる。『プーシキン』は以前に読んで、49歳で病死する直前まで書いていた未完の小説としての迫力があったが(プーシキンの『オネーギン』も未完だ)、『ワジル・ムフタルの死』は確か持ってなかった気がする。次はいつトゥイニャーノフの小説を読めるのやら。エロゲーでは不足してしまう悲劇成分は、たまに青春を描いたロシア文学を読んで補うのがいいのかもしれない。