『大尉の娘』とか懐かしくて、久しぶりに
プーシキン読みたくなった。昔モスクワの古本屋で買った10巻全集をちびちび読むのが老後の夢だったっけ、と思って開けてみたら
紙魚がいてへこんだ。本棚の掃除もしたいけどなあ・・・。アルセーニエフとプリーシヴィンもいつか読んでみたいなあ、というわけでこの作者さんは応援せざるを得ない。確かにデルスーとかプガチョフとか、そういう辺境キャラの持つ可能性を使った
クレオールな
ラノベというのは、たとえキャラ造型に多少類型的なところがあったとしても面白いかもしれない。
ゴーゴリの『タラス・ブーリバ』や『ジ
カニカ近郷夜話』などの南方物とか、シメリョフの北方物とか、
フレーブニコフのシベリア物とか、探せばいろいろありそうだし、イワン
雷帝やアヴァクム司祭の罵倒や
放送禁止用語垂れ流しの書簡集を読めば、当時はまだ蛮族に毛が生えた程度だったロシアの豪快さを見ることができる。キャ
ラクターの類型化のマンネリを脱却するために辺境の新しい血を導入したのはいいものの、今度は型破りという型にはまるという罠があったりするのは何も
ラノベに限ったことではない。ロシア・
アヴァンギャルドはここから革命の哲学に進んだ。例えばラージンを「ラー」(
古代エジプト;タイムトラベルと転生のモチーフ)と「ジン」(
「瞳」を意味する方言。方言というところがミソで、空間的な広がりを促す)に分け、「ヤー・ラージン・イ・ザリャー!」(我、ラージンにして曙光なり!)で始まる300行近いパリンド
ロームからなる奇妙な長編詩を作り、回文と
ロバチェフスキー空間やら時間の支配やら運命の超克やらのテーマを重ね合わせ、文芸としてはかなり危険なやり方で類型からの脱却を図った。『
耳刈ネルリ』ではさすがにまだそこまでの飛躍はなく、せいぜいエキゾチックな小ネタのアピール程度だけど、辺境キャラというは常にそういう逸脱(超展開)の可能性を
潜在的に孕むわけで、本作のレイチとネルリの二人がどちらも突発的な振る舞いをする「信用できない語り手」と「信用できないヒロイン」のように見えるのが、超展開の有無は別としても嬉しい。演劇とはもともと変身から始まるものだから、演劇をモチーフとして取り扱う場合には普通は役者がクローズアップされ、一番楽しんでいるのは観客ではなく役者だという疎外感も生むことになるのだが、ここでは底なしの変身の可能性を持つネルリをうらやんでも仕方ない。コーチキン≒
プーシキン(
プーシキンも筆禍で流刑にされたりとか、何気に設定細かい)のような創作者でさえもそこは諦めていたわけで、だからこそ本物に憧れていたのだ。その憧れをバネに、レイチのように変態的な想像力でもって疎外感を超え、どこまでもネルリに近づいていけばいいのですね。それが許されるのですね。