西尾維新『偽物語』

偽物語(上) (講談社BOX)

偽物語(上) (講談社BOX)

偽物語(下) (講談社BOX)

偽物語(下) (講談社BOX)

それは羽川についても言えることだけれど、いつまでもあんな極端なキャラでい続けろというのは、一種の悪夢でしかない。彼女達はああやって、しなやかに成長しなければならないのである。

 楽しい会話やじゃれあいを成立させるためには、いろんな無理を詰め込んだり負荷をかけたりして物語を作らなければならないのかと思うと、なんだか憂鬱になる。のんきな掛け合いを書けば書くほど、物語を前進させなければならない要請は強まり、物語の終わりは近づいてくるわけで、ヒロインたちにも迷惑をかけるわけで、この楽しさと苦さがセットにされた不如意な感じが、阿良々木暦が漠然と抱える不安とか、西尾維新の作品の漂わせる焦燥感とか、僕の病的な気分とかとごちゃ混ぜになって、なんというか憂鬱になる。こんなふうに物語を終わらしては作劇としてはダメなんだけど、現実認識に物申すための作品としてはこれが正しいというか。現実は「偽物」の上に成り立っているのか、それとも「偽物」は現実を成り立たせるための釣り餌のようなものに過ぎないのか、いずれにしてもこの楽園は影縫のような他者が外部から現れるたびに脅かされるような曖昧なもので、いとも簡単に反転してしまいそうな楽園に投げ出されたままの阿良々木と、この不安を共有させられてしまう気持ち悪さみたいなものがある。「気の利いた化物は、そろそろ引っ込む時分である。」こんなふうにぶっきらぼうに物語を終わらせてしまうのは、彼自身がこの世界に耐えられなくなったかなのかもしれないし、それを語らないための優しさなのかもしれない。
 西尾維新はキャラの描写意外にはあまり描写に筆を割かないわけで、自然の風物に情緒を仮託するとかの文学の伝統的装置を使わない。だからか知らないけど、言葉を、会話を延々と紡ぐことが読者の内面を映す鏡に転じやすいのかもしれない。僕がこんな憂鬱な感想を書くのも、われながら自分のへたれぶりにうんざりするが、単に戦場ヶ原の処女が失われてしまったのではないかという不安がスイッチとなって気分が憂鬱になってしまったからなのかもしれない。阿良々木と戦場ヶ原がこのまま平行線なのはもどかしいが、かといって二人の本番エッチシーンが読みたいわけでもなく、どう転んでもだめかもしれないという諦念が生まれる直前まで進んで宙吊りにしたのが現状か。というかもう諦念生まれている気がする。もしもこの先「最後」まで突き進むとしたら、一番形として美しいのは神話に似せて現実を侵食しようとしたAIRのやり方なのだろうけど、この作家でそれはあまり想像できない。偽物を生贄にすることによって本物に昇華するなどということを信じられず、覚めた目をもったまま身動きもできず現実に流されていくしかない。正義や本物が困難な世界では、けっきょく情のようなものが拠り所となる。阿良々木の真宵に対する愛の表現は、必死すぎて変態的なものになってしまっているけど、この情を育てるための決死の試みが歪んだ形で出てきてしまったものであり、実に日本的な麗しい行いである。かも知れない。僕の情緒と同様にこの物語の楽園もきわめて不安定なものであり、いつ「現実」によって終わらせられるかわからないから憂鬱なのであり、まだ続いていることを確認して安心(して同時に不安も確認)するために、続刊も読まざるをえないのだろう。「君の知らない物語」。思わず買ってしまったが、西尾維新の作品世界と対極にあるような爽やかなタイトルだな。