西尾維新『終物語』

終物語 (上) (講談社BOX)

終物語 (上) (講談社BOX)

 数学小説ってジャンルがあるのかしらないけど、数学と小説の形についてちょっと考えたところだったのである意味でタイムリーだった。表層的な理解かもしれないけど、阿良々木暦老倉育も数学が好きだというのは、終わりに向かってきれいに流れていく動きを追っていって、その内部の法則だけできれいに解決するのがいいのだろう。推理小説も同じなのかもしれない。ところが、推理小説にもよくあるパターンなのかもしれないが、当事者にとってはいろんなものに振り回されて、時間を逆行して、とてもきれいに流れるどころではなくて、終わりが近づくに従って物語の枠に窮屈に追い詰められていく。窮屈だから過去という時間の中に広がりを探すのかもしれない。このシリーズにしても。過去に遡っていくのは、過去の中で迷子になって消えるためではないのだけど。のだけど。(以下は扇ちゃんの存在はあえて無視した感想。)
 なんていうメタな話に滑ると自分のクズさがはっきり見えるということ。それは言い易いのだけれど、育については今の僕は何と言ったらいいのだろうか。僕はひょっとしたら幸せではないのかも知れないけど、そんなふうに言えない場合もある。幸せというのは相対的なもので、何かと比較しないと決定できない、なんていうものじゃないよ、恩知らずの愚かな人間にも、一番弱くて脆い人間にも、同じように手に届くような距離にあるのが幸せだよ、というのがこの物語の結論だ、最後のページで書きさしていたこともそこへ至るのかもしれない、と考えれば少しは救われるだろうか。追い詰められた脆い人間にそうでない人間が言葉をかけるのはやっかいな作業で、同情という回路を安易に使うことはできないし、そんな状況に自分がはまったことに倒錯的な喜びを感じるような思考はさらにいけない。感情に流されるのはいけないし、いけないいけないと縛るばかりのようだけど、結局解決できるような人は何も縛らないのだろう、なんか人間力みたいなので魔法のように解決してしまうのだろう。人間力がない人間の妄想だけど。
 前にも書いたが、シリーズが終わりに近づいて残念である。作者が後書きでフラグを立てたので、せめて終物語は3分冊になればありがたい。いつかこの作者の書くヒロインに安心して萌えられる日は来るのだろうか(後ろめたく萌えることは今回を含めてよくある。そだちかわいいよそだちと言う人もいるけど、ついでにという形でしか言えないのが残念)。それは幸せなことなのだろうか。もしそんな日がきたら、そのときにも幸せなんてものはまだ存在しているのだろうか。