西尾維新『ネコソギラジカル』

ネコソギラジカル (上) 十三階段 (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル (上) 十三階段 (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種 (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種 (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

 物語の終わり方にテーマが移っていった時点で、こういう終わり方が必然かなあという気もするが、なんと言うか、主人公がうまく自分の場所を見つけることが出来たみたいで、羨ましいけどお疲れ様なあいまいな感じがする。エピローグで大人くさいおしゃれなキャラになってるし。まあ、それにしても、ラストシーンの穏やかな玖渚の姿と、「さながらあやふやで真っ赤なおとぎ話のように終わっていく」静かな落差には納得するしかない。
 仰々しい二つ名がたくさん出てきていまいち好きになりきれず、結局何の物語だったんだよ、という気もする。最強だの殺人鬼だの機関だの世界だの妙な言葉がいっぱい出てきたけど、当てる光の角度によっては、その面々はとても脆くて痛々しい人たちの集まりにも見えた。それで主人公に絡んできては傷ついていく。残酷な話だ。傷やトラウマがいちいち思いやりのない大げさな語彙で書かれているのも残酷だ。
限界小説評:前田久;ネコソギラジカル

 つまり、戯言シリーズは、典型的なビルドゥングス・ロマンの形式を見かけ上とっているものの、その実、そこで傷付いてきたのは語り手=主体である〈いーちゃん〉に惹かれる女性キャラであって、〈いーちゃん〉本人が「成長」を促すような傷を負うことはなかった(この点で、筆者は『ユリイカ』別冊の巽昌章が「(戯言シリーズでは)イタい描写でぎりぎりの倫理が保たれている」という説に反対する)のではないか。にもかかわらず、物語の形式的には〈いーちゃん〉はさも成長したかのように描かれてしまうのおかしくはないだろうか。
 その点、むしろ西尾の別作品『きみとぼくの壊れた世界』のラストシーンで描かれた、人生への期待水準を下げることでサヴァイブする主人公の姿の方が、論理としても心情として理解できるし、優れているように思う。

 他人と関わりたくないのに無理やり関わらされては傷つくというところに、幼稚な自我をもつ自分は共感できていたのに、なにハッピーエンド迎えてんだよ、というあさましい嫉妬。他の人の感想をのぞいてみたけど、他の人たちはけっこう人間が出来ているようだった。エピローグの主人公みたいに生きるしかないのだとしたら、生きるっていうのはやっぱりめんどくさいんだな、玖渚でもいない限り、一人では無理だな、と。
 なんだかいやな感じの感想になってしまったが、この不思議な重さを持った物語を読めたことはよかったことだと思う。たぶん。