米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)


 いまさらながら初めてきちんと読んだ米原万里の本。昔、『オリガ・モリソヴナの反語法』か何かが朝日新聞で連載されていたことがあったが、その時は特に関心なかったので読んでいなかった。今回は田中ロミオが書評サイトで紹介していたからだ。
 しかし今回は手放しに評価する田中ロミオには賛同しかねる(僕が読んだのは『反語法』はないが)。前にどこかでちょっと『不実な美女』か何かを読んだときに抱いた感想を思い出したが、僕は米原さんの日本語を評価できない。いかにもビジネス通訳をやっている人の日本語という感じで、色気や余裕がないからだ。
 僕が初めてロシア語を勉強し始めたとき、当然ながらNHKロシア語会話(多分再放送)なども観ていたが、そのとき出ていたのが米原さんとサルキソフさんだった。その後、何かの学生向けシンポジウムか何かで米原さんが話したのを聞いたことがあるが、残念ながら同時通訳として現役で活躍している米原さんを見たことはない。僕が大学生の頃はすでに物書きになっていたし、社会人になったころには故人だった。でも米原さんの通訳としての優秀さや機転については亀山先生だったか井桁先生だったかが言及していて印象に残った。
 仕事柄、ロシア語の会議通訳の人の仕事ぶりを目にする機会があるが、日本人の優秀な通訳、すなわち聞いていて心地よく、安心して聞いていられる通訳は一人しか知らない(吉岡ゆきさん)。日露首脳会談で安倍首相の通訳を務める外務省のお抱え通訳官も含め、その他の人たちは数段落ちる印象だ。僕が知らないだけで、優秀な人は他にもいるのだろうけど。ロシアと欧米のビジネスマンのコミュニケーションのレベルがロシアとアジアのそれよりずいぶん高いことが多いのは、通訳によっている部分もあると思う。和露通訳を通さず、英語でロシア人とコミュニケーションをとっている人はその限りではないが。
 話がそれたが、ビジネス通訳の人の日本語は「細かいニュアンスはともかく、情報(特に数字)が伝わればよい」ということを最優先するので、個性や余裕のない痩せた情報の塊になる。もとの言葉自体もビジネス会話であれば、話す方も聞く方も集中しすぎなくて済むように、定型句が多い。そうした言葉のファストフードを大量に摂取しているのが通訳という人種なので、言葉に対する繊細な感覚が麻痺してくるのだろう。非常に擦れた物言いが多く、神経の通っていない言葉で雑なコミュニケーションをとる。通訳といっても言葉を訳すだけでなく、声色や身振りでごまかしたり、簡単な紋切型の言葉に言い換えてしまうことも多い。
 やや誇張もあるが、米原さんの文章はそういう鈍感な通訳の日本語の典型例のように思える。本書でもそういう鈍感に書き流した箇所、ウィキペディア(当時はなかっただろうが)からコピペしたような箇所がいくもある。
 しかし、日本語が貧弱であっても、物語は結構読めてしまうこともある。本書は米原さんの特異な人生や交友関係を惜しみなくネタにした本なのだから(日常的に東欧とかかわりがある日本人なんてほとんどいないだろう)、情報としてユニークになってしまうのは当然だ。この辺の追悼文などを読むと、人柄も魅力的で素晴らしかったようだ(僕はこんなパワフルな人とはあまりお近づきになりたくないが)。というわけで面白かったけど、別の日本語で読みたかった本だった。しかし通訳は100%の完成度は求められない仕事なわけで、通訳を引退してしまっても米原さんはそういうスタイルで突っ走っていたのだろう。今の時代は80~90年代よりも東欧は日本から遠ざかっているように思う。これからは同時通訳にしても、グーグルアシストがその場でスマホに翻訳した言葉を表示してくれるような時代である(まだ精度は低くて仕事では使えないみたいだけど)。米原さんのような生き方をして、情報を発信する人は絶対に必要だったが、そういう人だからこそ書き残したものは時間の中に取り残されているのを感じる。結局残るのは情報としての情報というよりは、米原さんの筆致の質感のようなものなのだろう。その意味で僕にとっては意義のある本だった。