麻枝准『猫狩り族の長』


 作者が本書刊行記念の寄稿で自ら語ったところによれば、今回は小説の書き方みたいなハウツー本を読んで編集者にもガンガン赤を入れてもらっていいものができた、しかも今まで書かなかったことをいろいろとさらけ出したらしいので期待していたのだけど、やっぱりこうか…という作品だった。音楽と絵と声がない分だけ、文章のだめな部分がよりはっきりと出てしまった。キャリアも実績もある人にダメ出しできるほど自分の感覚に自信があるわけではないが、やっぱり麻枝准はよい文章を書くことに関心がないようにみえるし、古典的な文学作品の日本語の美しさに惹き込まれたことがないか、少なくとも僕とはだいぶ違うところに文学の良さを見出す人なのだろうなと思う。ハウツー本を読んで小説を書いて質が上がったと思えるところからして感覚がずれている。僕は小説を書いたことがないので偉そうなことを言える読者ではないのだが、そんなハウツー本で上がる程度の質なんてよい文学作品をつくるためのスタート地点のはるか下なんじゃなかろうか。編集者はたくさん赤を入れたそうだが、まだまだ足りないと思える箇所が多い。やるならもっと徹底的にやってほしかった。なんでこんなに言葉の選択が雑なのか。作中で言及されているように、ジャズのような即興性、なんとかメタルのような勢いと衝動を重視したからなのだろうか。音楽に関係する描写はさすがに専門性があって説得力があるようにみえたけど、それ以外は不可解だったり恥ずかしくなるようなものが多かった。例えば、十郎丸の言葉がソクラテスに始まる哲学者を知らずになぞらえたものだったとわかるかけ合いは、十郎丸が実は古今東西の哲学者に匹敵するようなすごい人間だといいたいのか、十郎丸は実は使い古された他人の名言を借りてペラペラな人生観を語っていたといいたいのか、哲学ってこういうものだね、人生を考えるのに役立つねといいたいのかよくわからない。ソクラテスで始まってニーチェで終わっている薄っぺらいラインナップと薄っぺらいかけ合いの文体のおかげで、この部分は必要なかったんじゃないかと思えてしまう。こういう感覚はAngel beatsあたりからよく抱くようになった。麻枝准という人は生き方に悩みすぎていて、文学など読んでいる余裕がなかったから、テレビとかネットとかハウツー本みたいなものから吸収した日本語で小説を書いているようにみえる。鬱病の人は小説とか映画とかシリアスな創作物を摂取する集中力は保てないけど、テレビをBGM的に垂れ流しておくのは気が紛れてよいというが、そういう人が創作したものは生ものであり、言葉と知性の工芸品としての文学作品からははみ出してしまう(『神様になった日』の感想でも同じようなことを書いてた)。滝本竜彦氏にもその傾向はあるけど、テーマに対するアプローチがユニークで工芸品に近づけようとする努力もみられる滝本作品とは異なり、麻枝作品はなんとかメタルであることをよりどころにしているようなので、よりいびつで稚拙にみえてしまう。私小説的だからといって日本語をないがしろにしていいのか。ないがしろにしないと表現できないことに僕はどれほどの価値をおくのか。
 ただ駄作、あるいは未熟な作品の一言ですませてもいいけど、それでもくどくどと書いてしまうのは、僕がこれまでにkeyや麻枝准の作品(智代アフターまで。クドわふたーは別枠)から大きなものをもらってきたからだ。それがエロゲーというシステムの中だったから成功していたのか、アニメ以降は実際に質が落ちたのか、僕の方が変わってしまったからなのかはわからず、今回の小説でも僕が望むような回答(よい作品)は出なかった。麻枝氏も何かの問いに答えるために創作を続けているのだろうが、この先どうするのだろうか。こういう中途半端で未熟な作品を生み出し続けるのだろうか。僕はそれをジャズだメタルだといって受け入れ続けるのだろうか。誰も得しない偉そうな日記を書いてしまった。さすがに麻枝さんがこのエントリを読むことはないと思うが、大変傷つきやすい人のようなのでなんだか悪いことをした気になるし、麻枝作品のファンにとっても嬉しくもないエントリだろうけど、とりあえず言葉を残しておきたかったのでこのまま置いておこう。考えはいつか変わるかもしれないし。

 最近はなかなか落ち着いて創作物を楽しめる状態にならず、家族に使う時間が増えたこととか、庭に木(柿と梅と柘榴)を植えたこととか、そろそろ車を買うか本格的に検討し始めたこととか、ブログには書きにくいことばかりで、オタク活動は手軽に楽しめるアニメとかハチナイくらいしかできていない。最近読んだ『金魚王国の崩壊』は素晴らしかった。本当はこういう作品について書くべきブログなのだが…。