ノア・ゴードン『ペルシアの彼方へ』


 以前にイラン旅行を思い立った時に事前に想像力をかき立てるために読もうと思ったけど当時は下巻しか見つからず、結局読まないまま行ってしまい、最近思い出して上巻も買って読んでみた。文学作品としては取り立てて技巧的なところはなく、クズミンが書いたアレクサンドロス大王の伝記のようにエキゾチックな歴史娯楽小説として楽しく読めたが(そのバランス感覚があるいは英米文学らしかったが、ちょっとエロ描写が多すぎて安っぽい感じがした)、それがまさに僕が旅行前に求めていたものだったので思えばちょっともったいなかったが、ともあれもう一度ペルシャに思いをはせる機会を持ててよかった。イングランドの風景、しかも11世紀、それにその頃のイスファハンとくれば堪能するしかない。といっても、僕が見たイスファハンは何世紀も後に建設されたものだろう。この辺を確認するには映画版も観た方がいいのかもしれない。この小説で描かれていたものと今でも変わらないのは、ペルセポリスくらいだろう。調べてみたら、小説の主要登場人物の一人であるイブン・シーナはブハラのあたりの出身だそうな。僕が見たブハラやホラズム、シラーズもきっとイブン・シーナの時代には違う形をしていたのだろうな。
 大河小説というのは、結局何が言いたいのと聞かれると何も残らない。大河のような流れの中に身を浸し、何かを洗い流すためのものなのだろうけど、その流れは空想上のものであり、作り物なのだ。それでも実際に空間だけでなく時間の中も旅行してきたような感覚を抱けるのは、中世的な倫理観でいえば罪深いことなのかもしれない。11世紀のイングランドスコットランドの草地や魚、巡業外科医兼理髪師の大道芸に集まる村人たち、ロンドンの賑わいと汚泥、バラ色に染まるイスファハンの街並みやマリスタン(医学アカデミー)の営み、ユダヤ人コミュニティの生活、象やラクダの乗り心地…。すべてが空想の産物だ。だが現実のイランやウズベキスタンだって、僕が今後再訪しないのなら空想の産物とほとんど変わらない。空想は僕たちの旅と同じくらいに終ると儚くなるものだが、同時に僕たちをどこかで支えてくれている。

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イスファハンの古い寺院…だったはず