ゴス道の乙女たち (70)

 最近、上坂すみれさんがロシアに行って活躍したり(彼女の言い方だと「ゴスロリ」ではなく「ロリータファッション」なので別の言葉のようだし、「ロリータファッション」という言葉はロリータの由来を考えるとあまりにあからさまな気がして、ロリータという言葉が短縮されて隠れている「ゴスロリ」の方が慎ましくて好ましい気がするが、外野が口を出すような問題ではなく、本題とも関係がない)、『美しすぎるロシア人コスプレイヤー』(asin:486459161X)などという本が出てロシア人女子の美しさに対するこだわりに唸らされたりしていた中(モスクワではクラブ等で年間100回以上も「アニメパーティ」と称するアニメ美少女コスプレコンテストが開催されており、日々競い合っているらしい)、4年以上も前にやりかけて放置していた本作を思い出してやってみた。
 これほど読ませる物語と軽妙な文章を書けるライターさんが、その後は抜きゲーばかりで読み物はつくっていないのは、何年も放置していた自分が言っても仕方ないが、残念な気がする。どこかで別の名義で書いていたりするのだろうか。
 一番初めにエリカのトゥルーシナリオを読んでしまったからか、なんだかその後でハッピーエンドを見ても不安感があって困った。最後にエリカトゥルーだとそれはそれで不全感があるかもしれないので、どちらがいいのかよく分からないが。一枚絵が微妙なものが多かったのだががんばっているのもあり、あとテキストがきちんとしていたこともあり、結局お世話になって居眠りを挟みつつ進めていたら、電車に乗っていて、よく知っている路線なのに、一度乗り過ごして乗換えを間違えたら急に頭が混乱したようになって迷ってしまい、元に戻れなくて不安にかられて途方に暮れた夢を見た。いいように解釈するならば、ゴスロリの似合う美しい少女でいられる時間は人生の中のほんの短い間しかないという、この作品の乙女たちが抱えざるを得ない不安に僕も感染することができたのかもしれない。40になってもアイドルを続ける「王子」もそうだし、ムキムキに鍛えてみる主人公にしても同じで、若さの有限性に対する不安を笑いで覆い隠している(有限性の枷から解放されたアホロボットの哀しい歓喜の雄たけびを見よ)のが、本作が漂わせる寂しさの根源だろう。少女の時間は短く、愛する人と幸せになってきれいに卒業できたとしても、あるいは無残に終わってしまったとしても、どうしたって願いを叶えることはできない徒花のようで、その自覚もあるからこそ求めずにはいられないところが寂しい。エリカトゥルーの「愛と憎しみが溶け合って永遠に続く」という、文字にしてみると大仰で非現実的な選択は、やはり無謀な挑戦であり、その意味では納得のトゥルーということになるのかもしれない。