With Ribbon (65)

 夢というのは基本的には過去の記憶を素材としてできているものであって、だとしたら、人は毎晩過去にタイムスリップしているようなもの。過去というのは遠ざかっていくというよりかは、頭の中に蓄積されては次第に断片化されたり失われたりしていく。夢を見ることは脳みそにとって必要な作業らしいけど、その中で呼び出される記憶は「過去」とか「現在」とかタグ付けされていない情報であって、胡蝶の夢の通り、その中にあって人の時間軸のパースペクティブは脆弱で、認識しなおすことで過去を作り替えることもできてしまう。
 というわけで、気がついたら中学校の薄暗い廊下で、高校の古典だか物理だか苦手だった科目の先生とばったり会って、ロシア語で挨拶されて、君は何でまだここにいるのかな、といぶかしむような顔をされる。僕はロシア語で挨拶を返しながら、先生はロシア人のはずなのにあまりロシア語がうまくないのはなぜだろうという的はずれな違和感を覚える。現在の認識を持ったまま過去に帰った自分という矛盾に対する違和感が、一見無関係なポイントにスライドされているというわけだ。次の瞬間、僕は久しぶりに顔を合わせた高校の担任の先生に、大学に合格したことを報告している。現在から来た僕は既に大学を終えているわけだから、先生には学士入学することを報告して、でも進学先は修了したはずの同じ大学の学科。その矛盾に気づいて、もうこの専門と自分の相性のことは分かっていますから、今度はうまくやりますよ、と先生に言い訳しつつ、卒業式を迎えた高校の一つ上の先輩たちの門出を祝う。私服の高校だったので、先輩たちはなぜか僕の中学校の制服(古臭い詰襟)を着ている。「可能性が重ね合わせになっている世界」というのは、こんなふうに、未来が現在に(あるいは現在が過去に)投影されたせいで生じる矛盾が、玉突き式にスライドされたせいで分岐をはらんでいるように見える事態のことではないのだろうか。今回の夢では、今の自分の未来(といっても単なる12月の仕事のスケジュールのことなのかもしれない)に対する漠然とした不安とかストレスとかが、なぜだか大学の進路選択というモチーフをトリガーにして欲望が作用する対象に選択されたのだろうが、それは久々にいわゆる標準的な学園物のエロゲーをやったせいなのかも知れない。
 タイムパラドックスが主人公と未来の娘以外の人には夢として処理されてしまいやすいという設定のこの作品では、失敗や矛盾は割りと安易にタイムスリップすることで訂正することでき、そうしてループする世界のやわらかさが、作品世界自体を夢に似たようなものと感じさせる。ただし夢と違ってこれはもっと明るくてやさしい世界だ。それは現在を過去に投影しているのではなく、未来を現在に投影するという機構でできた世界だからだろう。恋愛の成就が約束された未来から来た娘の導きで目指す未来に後ろ暗さがあるはずがない。それと同時に、現在はいつも未来の視点から見た「懐かしい現在」の相を表す契機をはらむ。楽しい学園祭の準備も、女子寮と化すわが家も、大会での彼女の活躍も夏祭りのデートも、すべて断片や可能性としか知らない僕らにとって、作中で遭遇するイベントは本来は倫理性を求められるだろう「過去のやり直し」というよりは、欲望が安らぐことのできる「懐かしい現在」といったほうが感覚的には合うような気がする。
 ヒロインはできたての恋人でありながら、未来の娘の母でもあり、その潜在的な母性の雰囲気と、記憶の中の過去は美化される式に「一番可愛く見える」現在の彼女の幸せな雰囲気が、はるかが画面に表示されるときもされないときもなんとなく意識されて、互いを引き立てあうコントラストとなって一粒で二度可愛いヒロインの効果があるような気がする。あらためて言い立てるようなことでもないけど、この作品のテキストは正直スカスカでクリック連打しまくりだし、シナリオは薄いし他愛もない。でも「夢」に深さや密度を求めても仕方ないだろう。ヒロインは可愛いのだし、エッチシーンは尺がそれなりに長くて声がエロ可愛いのだし(ゆみみの激しさと華澄の声のエロさは特に印象的だった)、そうして明るい夢として成立しているのだからそれだけでもありがたいことだろう。
 はるかが娘可愛いのは、一緒に時間を乗り越える小さな旅を共有するからというだけではなく、彼女の欲望が(少なくとも表面的には)性愛とセットになった恋愛には向けられていないからだ。はじめは恋愛のような感情がきっかけになったのかもしれないけど、現在に来てからのはるかは基本的に他人の幸せの成就のためにがんばり、その中でいろいろな顔を見せてくれる。はるかを娘として認識してからのヒロインはとても可愛いし、おさまる場所を得たはるかの安心感はこちらにも伝わる。きちんとお別れを言って笑顔で去るはるかはよくできた女の子だ。
 ヒロインについて個別に感想を書くには力尽きてしまった。というより言葉にすると凡庸になってうまく表現できそうもないので、立ち絵と声が可愛かった、あとアイキャッチも可愛かった、という感覚的なことを言うくらいにしておこう。