花散峪山人考 (65)

 放っておいても勝手に失われてしまうものをわざわざ全力で滅ぼす、のは本当はその対象に深く執着しているから、そういう凄絶な形でしか関わりを表せなかったから、だから、伊波が壊したものはすべて彼のものだった、彼とは相容れないような甘ったるいものやまやかしのようなものや山が生み出すものすべて、すべてを失うという形でしか手にすることができなかった。そんなことは陵辱物や復讐劇の基本的な文法で、山をめぐるいろんな象徴や表象も使い古されたものなのかもしれないが、神話や民話に目新しさを求めても仕方がない。自分の中にある「山気」の記憶や感覚に訴えかけてくる、虚構の世界と戯れ、その描き出され紡ぎ出されるお話の調べに耳を傾けるのが目的なのだから。
 そんなふうにいちいち当たり前のことを強調しなければならないほどに、伊波の倒錯的な禁欲は当たり前の恋愛からは遠く、恋愛要素が足りないこと(特に鈴子…)に物足りなさを感じたりするけれど、山人や山家という失われた/捏造されたものをめぐる物語である以上、倒錯的であるのは自然なこと。それが形式として最も歪で美しく凝縮されたのが、あの厳粛な儀式のような能の舞なのだろう。否む者にとって肯う者は、自分の望みをかなえるとともにすべてを終わらせる者。反対に、山の神は自らの終わりを進んで受け入れることになる。そして最後の場所として選ばれた花散峪の場面がまたきれいだったりして。
 下世話な話、中高年登山ブームとか鼻で笑って怒られつつも、すでに神様たちがいないのなら、山はただの木の生えた盛り土に過ぎない。山をめぐる美しい話はこんなふうにさびしいものであってほしいなと。