堕落ロイヤル聖処女 (90)

(神をかわす幸せな物語。新約聖書に触れたことがある人におすすめ。これからプレイする人は以下は読まない方が楽しめます。)

 

☆BC

 なんとも残念な安っぽい作品名だが、それがこの作品が示しているものを汚そうとしていることも含めて収まりがついているといえばついている。世紀末的な退廃の美意識を漂わせる作品であり、本当ならばユイスマンスの小説っぽく『聖処女』とだけしてもいいのかもしれないと思わせるが、このテーマがエロゲーとして成立してしまうところに(少なくとも僕にとっての)救いがある。他の人のレビューを読んだりこのサークルの他の作品がどうだったかを思い出したりしているうちに、この作品は僕にとって大切なものになるかもしれないという予感が大きくなり、手間をかけてパッケージ版を取り寄せたけどその甲斐はあったと思う。
 何に似ているかという話から始めるなら、この作品は田中ロミオ作品のエッチシーンのみを抜き出して引き伸ばしたかのような趣きがある。しかも絵が美麗で、ヒロインの声は耳に心地よく、それほど衒いはないので、本来の用途にも十分適している。衒いがなくてどこがロミオといわれるかもしれないが、そもそもヒロインを汚し、傷つけ、許され、共犯者になり、二人だけの強固な世界を作るという聖女もののジャンルがロミオ的だし、それ以上に滅びの空気や刹那的な諧謔に満たされた文章にも近いものを見出したくなる。誰かが魔王を滅ぼして世界は平和になったはずなのに、かえって神の不在が感じられ、原罪を意識せざるを得なくなって穢れの中に踏み出す聖女。そのときに悲壮感ではなくユーモアと皮肉で武装するからこそ幸せを見出したくもなる。どうせ堕ちなければならないのなら、幸せに堕ちたい。
 とはいえ、ロミオというよりはユイスマンスであり、ユイスマンスというよりは(アルトーによる)ヘリオガバルスのように思える。アルトーの小説というよりは、昔読んだ『アンチ・オイディプス』あたりで抱いた印象だけど。涜聖はフランス文学が大好きなテーマだ。
 ヒロインのセイナは本当に聖なる存在なのだろうかという疑問の余地はある。

「きっと、最も弱く卑しいものが、最も強く救われる時がもう訪れるんですもの」「だから私は、税とウスラと不正にまみれたこの富で、この体で、卑しい欲望に仕えたいと思います。……慰みものにしてくださいますか」(「下劣な方法でよければ」)「それが良いです……」(浅ましい俺は神を試したかった。恋を試したかった。「めちゃくちゃになりたい?」)「……なりたいです。世界が革命されるなら、高貴でいることに何の意味もないですから」

 個人的には、彼女がこういうキリスト教倫理をフランス的に解体するしぐさに、堕落だけなく必死の祈りのようなものも感じられて引き込まれてしまう。聖女といっても、セイナが自分を卑しいというときと、アン・シャーリーとか大草原の小さな家の誰かとかソーニャ・マルメラードワとかが自分を卑しいというときは聞こえ方がおのずと変わってしまい、カトリックはどうもうさん臭くて好きになれないのだが贅沢は言わない。一番卑しいのはこうやって余計な口をたたいている僕なのだから。
 セイナは言葉遊びの延長であるかのように主人公への「恋」を開始することを宣言するが(主人公も本気なのかよくわからないふうに承諾)、この歪さ、持続するのかわからない不安定さが、かえって二人が(戯れを装いながら)必死にしがみつこうとする契機になっているようにみえるのは声優さんと絵の力もあるかもしれない。魔王は不在、神も不在なのだから(神とは魔王のことなのかも)、確かなものなど何もなく、互いにしがみつき合って相手よりどちらが卑しくなれるか楽しく競うしかないのだ。
 涜聖といっても、本当に徹底的に破壊してしまうことはない。聖なるものは物理的に聖性を持っているのではなく、人間の象徴体系に位置付けられて聖性を帯びているに過ぎないのだから、その体系を少しいじって狂わせるだけでいいのかもしれない。「処女懐胎」のシーンだ。主人公は本当にひどいことをするものだが、それは涜神を行いながらも、冗談半分、本気半分で彼女を大切にしているようにも思えてしまい、彼女が喜んでいるならいいのかなと思ってしまう。そもそもこのメーカーのヒロインたちは聖女ばかりで、このような包容力は現実の女性には普通は期待できないという前提に立ち返れば、セイナは主人公と一緒にふざけられて喜んでいるに決まっているのだろう。そうなると、(「苦しさ?俺は苦しさなんて感じてませんよ」)「そんなはずはありません。この世界で、あなたには父も母もいません。肉親がいません。私と……同じです。ひとりきりで、父のない子は神のない子です。私が肉親になって差し上げます」(聖女として祭り上げられてきたゆえの尊大な目線を感じるが、それが今は少しだけ心地よくもあった。そしてこの姿勢[土下座]をとっていてもなお本質的な高貴は薄れない。)というやりとりにおけるセイナの言葉は、何やら妖しげな響きを帯びてくる。「幾重もの木霊に誓って。私の存在は間違っているかもしれないにせよ、私があなたにすることはきっといつでも完全に正しいのです」……力強い肯定。
 こうした遊びを経るうちに、いつの間にかセイナの身体は聖別され、「器官なき身体」のように喜びにあふれた身体になる。ような気がする。

 

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 やはりとんでもない作品だった。キリスト教的な神を扱った作品としては一つの到達点ではないか。最後の方は、賢者モードになってしまっていたということもあるが、半ば呆然と、神学的な問題と煩悩と個人の問題を掘り進んでいくテクストを見送っていた。最終的にヒロインが聖女というよりはほとんど神の子イエス・キリストになってるじゃないですか……。

――問い。
その子は神の子か?
あなたたちがそう言っているんでしょう。
種をまく。
すると種は芽を出し成長する。
青草になり穂が出、穂の中に実が満ちる。
そんな一説を思い出しながらセイナの身体を抱く。
セイナ 「ぁ、ん……、ゆっくり……」
聖女は堕ちた。俺以外から見ればそれ以外の解釈は難しいだろう。

 どこの聖句なのか分からないので間違っているかもしれないが、この流れだと麦の粒が落ちて多くの実を結ぶ話、キリストの死のたとえ話が連想される。堕ちる聖女というのは落ちる麦の実であり、ヘリオガバルスのように娼婦じみた格好で民に説教を行い、「そういう躊躇こそ踏み抜いてみせる」セイナは、パリサイ派に愛と自由を説くキリストのようなものだったということになる(「そしてもう一度聞きます。近頃増えている――この場に大勢いらっしゃる異国の民は、わたしたちにとって隣人ですか? 誰がわたしの隣人なのか? このような問いは見当違いです。――わたしは誰の隣人なのか? 離婚とか、個々の問題はそれぞれ話し合って解決するしかないでしょ。ただ、姦淫したからといって、異国の民だからといって石打ちにするのはちょっとどうかなって。あいつは姦淫したといって他人を裁く前に、まず自分を裁いてみたら? 律法を突き詰めれば、頭の中で姦淫してたら実際に姦淫したのと同じですよ。私も石打ちの刑にしますか? この私の姿を見て……姦淫を想像せずにいられる者がいますか? ね……。シたくなるでしょ……♡」)。

セイナ 「えっと、あの、その。おっぱい。もうちょっと触ってみて……?」
俺 「どうして」
セイナ 「いいから。さわりなさい」

……という箇所ですら、なんだかキリストが復活して弟子の前に現れ、殺されたことを示すために槍で刺された脇腹を触らせた話を思い出してしまうようで、脳が破壊されそうになる。セイナは死んでから復活し、聖女から聖母になってしまった……。
 というのは半分冗談だが、圧巻は、本作では「幾重もの言霊に誓って」、聖書では「はじめに言葉があった」という有名な聖句を、異世界転生の設定にひっかけて言語学的に解体し、はじめの言葉が生じる前の瞬間に愛の根拠を見出し、そのことで神の存在を否定すると同時に受け入れたシーンだった……と書くとなんだか陳腐になってしまうが、隙のない論理展開だった。

「……あのね。もしかしたらこの間にかみさまがいるのかも。うん。私の目と、あなたの目の間」――触れたと思った時にはもう触れ終わっている。見つめ合ったとわかったときにはもう見つめ終わっている。――見ている自分や触れ返されている自分に交差の中で気づき、自覚する。まるで何者かに促されたように。見つめ合って触れ合った瞬間にその何者かは過ぎ去っていく。静止する現在にしか居ない者。セイナ「本当は気づきたくないんだけど」――愛しい人の中にどこまでも埋まっていたい。――そこまで考えたときに朝陽が目に入り、俺の瞳の中に輝きを灯す。それがセイナの瞳にも写って乱反射する。俺たちを見ていないくせに見ている、腹の立つ奴がいる。存在していないのに存在している。――そいつからは逃れられない。聖女がいくら堕ちたとしても。最後には祝福を受けざるを得ず、どんな優しさにも介在してくる。――「、、、、、」――俺たちは間にいる存在を裏切って、自分たちだけの世界を手に入れた。――セイナ「神は存在しません」 今度は異常な静けさだった。数秒、この場の空気が完全に固まってしまってから――。セイナ「しかし、そこに居ます」 どよめきはまだ大きい。セイナは特にうるさく騒いでいるものの隣を指さす。セイナ「はいそこ。そこに居ます」 教師が生徒を差すような指だ。――セイナ「私は言います。生きて、愛しなさい」 そして自分たちだけの言葉を、音を、見つけなさい。セイナ「本当の天の国はそこに。すぐそこに。まさに、私たちの手の届くところに」――また、あなたと共に。

 

――セイナ「ふふ、だんだん素直になるね……♡」 いつもなら憎まれ口を返すところだけど、今は流した。――あの響きは過ぎ去った。やはりあの瞬間にしかないもので、今はもう音ではなく言葉になっている。それに二人とも気づいてしまっていて、繋がりながらもどこか不足を感じる。だから見つめ合ったり、手を握り合ったり、唇と唇を重ねたり。腰を動かして、快楽のなかで相手の存在を感じたりするしかない。――花婿と同席しているのに、優しくせずにいられましょうか[cf.マルコ2-18]。

 なぜ神さまについて考えるのにエロゲーを経由するのか。どちらも最も個人的なものだからだ。この作品を受け入れられる教会があれば洗礼を受けてもいいかもしれないが、そんな教会には二度を顔を出したくなくなりそうだ。代わりのこの、「いくら汚しても汚しきれない」神さまと戯れていた方が幸せになれそうだ。