ウィザーズコンプレックス (75)

 マルセルさんのおすすめや討論会のおかげで結構事前の期待値が高まってしまったけど、やはりアイリスと学園長の関連が一番面白かったかな。といっても、先達の言葉に飲み込まれないようにと意識したせいで、かえって少し限定された読み方になってしまったかもしれない。他にはamaginoboruさんの整理の仕方が参考になった。

〇学園長と作品の枠組み
 学園は教育施設なのだけど、基本的には放任主義だ。学園長はパッシブな教育者であり、大枠を定めただけで、あとは学生たちが勝手に何かを学んだり得たりするのを待っているだけだ。学園は教育を受ける場ではなく、疑似的な社会であり、そこで多少無茶なことをしても物事を解決できるという陽性体験を与えることが、事後的に教育となる。大戦制度が学生に悪い影響を与えたとしてもそこから何かを学んでもらえれば結構だし、大戦で死者が出るような惨事が起きたとしても(生き残った学生たちが)そこから何かを学んでもらえれば結構、今度は自分がその罪を背負って生きていくだけだ、とまでは考えていないかもしれないけど、多分惨事が起きることは想定していないし、これはハッピーエンドを約束されたエロゲーなので実際に起きない。反対にすべてが安全地帯で健全な教育的配慮の下で行われるのは生ぬるいし、少しばかり傷ついても人はその傷を抱えて生きていくべき、というイデオロギーを背負わされたのが学園長だ。
 アイリスルートの終盤でやや唐突に挿入される過剰な母子の感動シーン。ここでは学園長は母親的なものイデオロギーを背負わされて人格が消えているようで、ストーリーラインを突き抜けた不気味なぬくもりと化している。だからこそ、5戦目で授業をさぼらせるルールのゲームを設定して教育者としてはタガが外れた行為を行い、自分も大戦に参加して楽しみ、批判もされ、あわよくば罰せられたいというはた迷惑な願望を抱いたのではないかと想像したくなるような余白がある。大戦制度について「仕組みが悪いんじゃない。使い方が悪いだけ」というアイリスは、学園長を代弁しているようにも弁護しているようにも思えた。そしてそんな風に弁護されてしまう学園長の残念さがよい。学園長本人はそこまでは考えていないかもしれないし、考えていたとしても一連の流れに抵抗せず、受動的なキャラクターであり続けているところにアイリスと同じ宿命が感じられて、ときどきアイリスが学園長と似た表情をするのをみて、それがエッチシーンにもあったりするとますますほっこりした。
 エロゲーではプレイヤーはクリックしていくことしかできないのだから(あとはエッチシーンで主人公と同時に達することくらいか)、勧善懲悪の隙のないこじんまりした作り話を見せられてもちょっとむなしい。欲望は割れ目や隙間に惹きつけられる。アイリスをはじめとするこの作品のキャラクターたちのように、どこかに不連続なものや暴力的なものを感じさせる日常に浸されながら生きていくのがちょっと現実的でいいような気がする(この辺の感覚は作中ではシャリーにもあった)。作品外も含めたコンプレックス、複合体としての作品だ。

〇アイリスと自他の境界
 作品との距離がそんなだとヒロインを好きになったり信じたりすることは難しくなるのかもしれないけど、そこはオタクなので絵や声を媒介に都合よく処理できたりする。というわけで、一度共感してしまうとよっぽどのことがないとアイリスを嫌いになることはないし、そのよっぽどのことは起こらなかった。言動があまりに幼かったりしても基本的には温かく見守るだけだ。そんなセリフは聞き流せばよいのだし、それは僕だって成長しなくてもよいのだということを保証してくれるあそびの部分だと考えてもいい。
 アイリスのどうしようもなさはアイリスの可愛さで中和され、さらには昇華されるので、別にアイリスが好きだという散歩をするのを眺めているだけでも心地よい(部屋の中を立ち絵がシュールに水平移動するのが素晴らしい)。アイリスは歩いていると何も考えないでいられるので散歩が好きだというが、こうしたプチ体育会系快楽主義はトルストイが農業に精を出したのと同じだ(性欲魔人だったトルストイに例えるのはアイリスに失礼か)。月光浴が好きだというのにも、そうしたひんやりとした小さな快楽主義が感じられる(こんな書き方をしてしまっても絵を見ればアイリスのきれいな感情が伝わる)。アイリスの魔法属性は光。浄化するもの、消失するものとしての光は、破滅と浄化を望みながらも空虚であるアイリスによく似合っており、僕の汚い欲望や同一化のまなざしもきれいに吸い込んでくれる。ママ……。
 アイリスが告白したシーンはきれいな流れだったと記憶している。いつものぐずぐずとしたためらいがなくて、「好きです」から始まって思い切りよくどんどん踏み込んできて驚いた。字面を見てもエロゲーとしては標準的な告白のセリフなのかもしれないけど、あのアイリスが言葉を詰まらせずに「私に頼っていいよ」と言い切ったり、「その言葉、信じていい?」と聞いてくるのはじわりとくるものがあった。
 アイリスルートの、主人公が実は異邦人で外国人的な立場にあるという指摘にどれだけ意味があったのかはわからないけど、仮に他のルートではそんなことには気づかなかったとしても、いろいろと不安定なこのルートでそのことに気づいたのは適切なのかもしれない。このルートでは主人公は一番ヒロインに似て声が小さく(主人公なのだからある意味で当然だが)、似た者同士だったと思う。主体性が発揮されたのはアイリスに寄り添うという行動のときのみだ。アイリスにとっては必要なのはあからさまな他者(王子様)ではなく、自分によく似た他者であり、自分の一部として自己愛に近い感情で愛せ、しかも頼れる人だ。
 そんなわけでアイリスは最終的には少し調子に乗りすぎて失敗するくらいが可愛い。ほのかとの一騎打ちの最後の一手とか、最後の閉会式で唐突にお付き合いしてますと発表するところとか微笑ましたかった。ちなみに、閉会式でアイリスとほのかがようやく念願を果たすシーンでは、二人の特徴的な立ち絵が使われていて、アンドレイ・ルブリョフの三位一体の天使たちのイコンによく似ている。ここにはいないもう一人の天使は学園長の立ち絵がしっくりきそうな気がするがやめておこう。あと、一言付け加えるなら、「おっぱいが大きくて元気な私」は実はアイリスのもう一つの姿だ(謙遜しているだけで相当大きくてよい)。

〇ほのかと女の子の概念
 ほのかはキャラクターとしてはどちらかといえば苦手だった。アイリスの言葉を借りて言うとこんがらかるかもしれないけど、「恵まれている」女の子過ぎて、ついていける自信がなくなるからだ。ちょいフランス語とか、序盤でなんかよくわからない皿とか紅茶の葉っぱの話が出てきて、こりゃだめかもと思った。「女の子っぽい」にも僕にとってよい「女の子っぽい」とよくない「女の子っぽい」があって、我ながら自分勝手だが、ほのかと恋人同士になったとしても、竜胆家のご両親(上品で朗らか)ともお近づきになるのは大変だし、自分のいろいろなところを否定していかないとだめなのだろうなと思われる。「王子様」になるには歳を取りすぎたかも。ほのか自身には何の罪もないし、むしろ一葉がいなかったらいろいろとあらぬ誤解を受けて人生苦労しそうな人ではある。
 そんなほのかだが、告白からエッチまでが速攻すぎてやや面食らい、楽しくなった。そしてエッチシーンでは永遠に続くかと思われるような長い喘ぎ声。いや~、エッチなヒロインはいいですね。こんな感じで運命の相手と出会ってそのまま幸せを突っ走るというのもいいのかもしれないが、ほのかという女の子を魅せる展開というよりは、学園の制度を改革する話が多くてほのかの印象は薄くなった。印象に残った、というか笑ってしまったのは、アイリスとの戦いの美少女サンドイッチだ。その前にシャリーが魔力をすべて主人公に吸い取られて降参するというのもちょっとエッチだったが、このサンドイッチでなんだか苦しんでいるらしい主人公が楽しそうで、かなりかっこ悪くてよかった。エピローグで申し訳程度にコンプレックス要素(「大戦システムというコンプレックスを解消」)が出てきたこともよかった。

〇一葉と愛の構文
 一葉のセリフは、同じくらいの長さの文が多くて、あまり緩急がない。「~だけど、でも~ね」といった2つのブロックがセットになっている印象で、主語が長いことが多い。日本語は主語が長いと重たく感じる。一葉の言葉はそうした自制の言葉であり、語彙も硬い。偶然にも本作のヒロインと名前が同じノラとと2のアイリス・ディセンバー・アンクライの声優さんだが、アイリスは元気でコミカルで声の幅が広いヒロインだったのであまり気にならなかったが、一葉は割とモノトーンなサムライガールなのでちょっと重苦しい印象がある(ちなみにノラととのパトリシアの声優さんがこちらのアイリスになっていたせいで、アイリスの深刻なセリフにもどこか愛嬌が感じられてしまったかもしれない)。そのことは本人も自覚があったのかもしれない。一葉は愛の言葉を囁けない。主語が長い構文は向いていない。でも囁きたい。他の言い方ができないけど、でも言っておきたい、という気持ちがせめぎあっている言葉であり、発声のように聞こえる。
 だからこそ、エッチシーンでは窮屈な一葉が窮屈で甘美な言葉の直後に開放的すぎるポーズをとってしまっていて微笑ましい。特に唐突感のある最後のエッチシーンの構図は、エロゲーとしてはそれほど珍しいものではないが、一葉という女の子を考えると濃密な秘教空間というか、一対一に包み込む幸せな空間であって、剣士・一葉の達人の間合いを堪能できるのであった。あと最後の海の絵も可愛かった。
 話が前後してしまったが、一葉の物語は、ほのかへの依存の話だった。「ほのかの隣にいること以外は何もする余裕がない」という自分への言い訳。そんな息苦しさを抱えながらもまっすぐな彼女が、お守りとかぬいぐるみとか、小物に自分の気持ちを託そうとする弱さをみせるのがよい意味で女の子らしかった。こんな子と素直に甘えあっていくことこそが幸せってもんだろうな。

〇鳴とキャラクターのサイズ
 キャラクターとしての完成度が高すぎてコメントをつけるのが難しい。セリフの引用を羅列しておいた方がましかもしれない。「女子としてそいつはだめだ!」「は~、やっぱあいつはダメだな。ここは、あたしがちゃんと恋愛について教育してやらないと……」「いやもう、背伸びすんのはむりだとつくづく思ったね」「ははは……とたんにキャラが男っぽくなったな。すっげぇリードされてる感じがする」「性的な目で見られるの、嫌いじゃない。エッチな目で視姦されたら、報われるって感じるんだ……」
 こういったことを素直に口に出してしまっても決して男臭くはならない。でも単に羅列しても、鳴の声や表情がないとだめっぽいようだ。鳴の楽しさは、しいて例えるなら、『最果てのイマ』の子供時代のあずさや『こころリスタ』のまりぽ先輩、あるいは赤毛のアンの楽しさと近い。「あんた」という主人公への奇妙な呼びかけは、「おたく」が起源なのかもしれないけど、慎重さと気楽さと雑さが鳴なりに混ざった独特のニュアンス、距離感になる。腕を組む思案顔の率直さ、裏表のなさちんちくりんさ。目はそらしても顔はそらさない。ぶっきらぼうな語尾だけど丁寧な突込み(愉快なオタク)。告白も思い切りがいいし、すごく嬉しそう(a, b, c, d)。
 鳴の物語はキャラクターが完成しているので何であってもよかったのかもしれないが、とりあえず「ガチ勢とエンジョイ勢の物語」だったとしておこう。もともと素直な言動の子だから、ターニャのように拗らせすぎることはなかっただろうし、鳴がガチ勢に紛れ込んでしまった方が間違いだったのかもしれない。鳴にとってはそれは子供らしい全能感のモードと同義なのだろうし、病的なほどに去勢された人でなければ、人は誰でも自分の中に多少のガチの分野とエンジョイの分野くらいは持っているだろう。それを無理やり自分の生き方だと思い込んでしまったことによる喜劇という程度の話だったといったら鳴に失礼かもしれないが、そんな軽くてさわやかな読後感だった。エピローグの「じゃ、ゲームでもするか」の絶妙な軽さ。
 一言、奇妙なパラレルスピークの魔法についても。事前情報でキャプチャーを見て、『ギャングスタ・リパブリカ』を引き継いでこういうのがどのルートでも延々と展開されるのかと思っていたけど、このルートにちょっとあるだけだった。「強大権力生徒会(オリガルヒ)」にニヤリとしてしまったが、これも含めておおむねこっぱずかしいラップバトル(?)だった。念のため無粋なつっこみをしておくと、オリガルヒはどちらかというとネガティブな言葉なので本人たちが自らオリガルヒと名乗ったことはないし、90年代の遺物であって2000年代以降にはプーチン政権に牙を抜かれてしまったので政治力は有しておらず、その辺を勘違いしているターニャのナイーブさを愛でるしかない。パラレルスピークはパロールエクリチュールを同時に作用させるものとのことだが、「パロール」の英語も「エクリチュール」の日本語もこっぱずかしかった。でも鳴はそういうことも素直に言える子なんだな。

 序盤を進めながら思ったのは、これは鬱病者としてのアイリスがストレスにさらされ続け、周りを気にかける余裕もないまま苦しむのを眺める作品であり、こういうぎりぎりの人間はまわりに迷惑をかけながら生きていくしかないし、まわりはそれを許してあげなくてはいけないということを説く病理的な物語であり、でもアイリスは天使のように可愛いので僕の現実認識に対する癒しであるという結論なのかな、とやや物騒なことを考えていた。でもアイリスはどうやら幸せを見つけたみたいだし、繰り返しになるが、実はおっぱいも大きくて元気なアイリスにもなりえる存在だった。もっと幸せな物語はいくらでもありえたのかもしれないけど、このアイリスが一番なのだと思う。

・あとはおまけシナリオを少しずつやって追記かな。