秋空に舞うコンフェティ (60)

 季節が4つしかないかのように考えることからして不正確ではあるけれども、とりあえずそういうことにしておくと、秋という季節はほかと比べてどうなのだろうか、なぜ「秋ゲー」はあまり存在感がないのだろうかと問うてみると、エロゲーが持つ大きな問題系のひとつである時間感覚と自然の結びつきに関する特徴が弱いからということになるのではないかと思う。夏については特に説明は不要だろう。春は終わりと始まりの季節として、また、自然が息を吹き返す季節としてのわかりやすいスキームを持っている。冬においては人間は自然と切り離されて人間の温かさと自然の冷たさ・厳しさを感じるというスキームがあり、こうして人間と自然が分断されたなかで、自然は移ろわないものとなり、年末年始という暦的なものを除いては日常的な時間の経過感は喪失されるけれども、そういう冬という季節の皮膚感覚ばかりが強い自律した世界というはそれはそれでエロゲーと相性がいいように思える。それに比べると秋は、うるさかった夏の自然が厳しい冬の自然に移行していく幕間の季節であり、緩やかな衰微の季節であり、季節というものが薄まって感じられなくなる季節である。自然ではなく人間が主役になる季節なのに、暦的(社会的)にはさしたるイベントもない。収穫の秋、紅葉の秋という視覚的な自然は、エロゲーの主な舞台である都市部とはあまり縁のないものだし、あったとしてもあくまで視覚に訴えるものであって、皮膚感覚にはあまり届かない。そして次第に冷たくなる風や緩やかな衰微の感覚というのは、どちらかというと冷却のベクトルなので、萌的な恋愛の陶酔感・酩酊感とは食い合わせが悪い。だから、秋ゲーというのは季節感が物語を増幅するのではなく、季節感が物語の隙間を埋めるような抑制的なトーンになり、あまり季節ゲーという印象は生まれないということになる。生まれたとしてもどこか隙間というか、陰影がある季節感になる。きっ澄もそんな風だった。関東の都市部在住の人間のイメージだけど。
 本作でも季節感は弱い。紅葉で真っ赤な背景画が多く、異常なほどに鮮やかなんだけれど、皮膚感覚に迫ってくるものはまったくといっていいほどにない。プレイ中に皮膚感覚がアクティブにならないので、本作の特に秋という季節の持つ冷却的な特性を織り込んだわけでもない恋愛の話やエッチシーンに関しても、感覚的情報が少なくて視覚的な楽しみ方がメインになる。背景画だけではなく人物画もきれいな作品なのでそれは悪いことばかりではなかったのかも。あと、BGMの音質がクリアだったのも、自然のノイズが後退して空気が澄んで輪郭がはっきりしてくる秋という季節に合っていたと言えば言える。ヒロインについては、やはり七海が声的にも(澤田なつさん)、立ち位置的にも(真面目で控えめな先輩)、おっぱい的にも(秋の豊穣)、エッチシーンの構図的にも(ギリシアの彫像的に調和の取れた重心の配置;微妙なコスプレが多かったのが惜しまれる)素晴らしかった。