エヴァとハチナイ

エヴァQ
 エヴァンゲリオン新劇場版Q(2012年)を観た。
 あまり評判は良くなかった気がしていたが、観てみたら結構よくて、中だるみも感じず最後まで見入ってしまった。エヴァの世界で何か新しいことをやろうとしても、たとえそれが公式のものであったとしても、すべてが二次創作のように見えてしまう環境の中で、今までのエヴァを裏切らないものを作ろうとすればこうなるかもしれないと納得できるものだった。かつてのような圧倒感を体験することはもはやなかったけど、それも含めての続編ということだと思う。結局、エヴァは単にストーリーで語られている出来事の連なりとしての物語なのではなく、それを作ったことや観たことも含めての作品という祝福された創作物だ。
 印象に残ったのは、陰鬱や廃墟や暗い巨大構造物(ロボットや選管も含めて)の物量感だ。エヴァが世に出てからの年月、僕がエヴァを初めて観てからの年月、いつの間にかここまで大量にグロテスクなものが堆積し、撒き散らかされてしまったかという感慨だ。旧劇場版でも巨大な綾波の残骸のようなグロテスクなものは描かれたし、テレビ版の頃から内臓をぶちまけたオタクのような痛ましさはあったわけだが、今回はそれが造形美的なインパクトを失って時間がたち、薄暗さが皮膚感覚になってしまったような世界になっていて、まったく居心地は良さそうではないのだけど、これなんだよなと安らげそうなものを感じた。夢の中の感覚に近いのかもしれない。レイがいないことで悪夢のようになった世界なのかもしれないけど。
 登場人物たちもみんなどこか疲れたみたいで、シンジに説明するのも億劫で(チョーカーのボタンを押せなかったミサトを好意的に解釈すれば、シンジをこれ以上巻き込まないためにみんながわざと彼と距離を置いているのかもしれないが)、誰も元気に笑ったり和んだりする気力がない。(マリを除けば)元気があるのはアスカだけだ。この作品にはシリーズを通していろいろとモチーフの反復や対称があって面白いが、最後のアスカがシンジの手を引っ張って歩いていくというモチーフには、破でレイを引っ張り出したシンジや、旧劇場版の最後で手を触れることなく気持ち悪いと言うしなかったアスカと対比したくなる良さがあった。映画の古典的な手法だろうが、最後に遠くに歩いて行って小さくなっていく終わり方もよかった。

八月のシンデレラナイン
 アニメがあまりによかったので(ひいきにしている野球チームが今期はいいとこなしなのでフィクションは一層爽快に感じられる)、ついに初めてソシャゲーに手を出してしまった。といっても何がソーシャルなのかよくわからず(まとめブログ「ハチナイ速報」を楽しめることだろうか)、ひたすらいろんなパラメータを理解して数字の最適化を目指すパズルのような作業を続けるだけで、それで週末の時間の大半がつぶれて生活に支障が出るのだけど、そんな無意味な作業をやりながら高速で明滅するヒロインたちの絵や声(大半は単純な反復)の流れに身を浸していると、これは東方シリーズにおける弾幕と同じようなものだと思えてくる。大量の数字に身を浸し、明滅する花火を眺めている。ある種のデータ浴のようなセラピーなのだろう(作品のコンセプトである「青春・女子高生・高校野球」のよさや各キャラの可愛さを堪能した上で)。長時間やっていると逆に疲れるが。ちなみに現在の僕のチームは評点が約1万5000、キャプテンは宇喜多茜、ピッチャーは岩城良美、最強に育てたいのは野崎夕姫。無課金でどこまで飽きずに続けられるかはわからないけど。