石川博品『ボクは再生数、ボクは死』

ボクは再生数、ボクは死

ボクは再生数、ボクは死

 FPSもオンラインゲームもVチューバ―も経験ないのでぼんやりとした印象になってしまうのがもったいないけど楽しかった。僕の知っているものでたとえるなら、『アバタールチューナー』の小説版とか『順列都市』のような仮想世界にどっぷり浸る感覚の小説だ。主人公が忍だから『最果てのイマ』も思い出される。今はアニメやラノベでこういう設定のものが溢れかえっているけど石川センセが描いてくれると自分も安心して楽しめるみたいで、何度も笑いながら一日で読んでしまった。その後で満月の光を浴びつつ久々にジョギングしながら、何か感想で書けるようなことがあるかなと思い返す時間も楽しくて、気づいたらジョギングも終わっていたけど、特に何かすごい感想を思いついたわけでもなかったのだった。

 この作品の舞台である2033年頃にはたぶんこんなvipper語やニコ動語のような言葉は廃れているだろうし(すでに今もニッチなような気もする)、ITも電子機器も今からは想像できないような方向に少し進化しているだろうから、この作品で描かれているような2033年は滑稽などこかの的外れな未来、ありえない並行世界でしかないのだろうし、この作品を読んだ僕自身が2033年にはもう中年というよりは初老に近くてVRセックスにもVR空間にもまったく関心を持てない枯れたおっさんになっている可能性があるのだけど(というかすでに枯れかけている)、それだからこそこの作品の言葉を残しておきたい:

「この景色をきれいだと思う気持ちは何なんだろう。この気持ちはどこへ行くんだろう」
「ただ消えるんだよ。消えて、けっして戻ることはない。どれほど待ってもね」
 それをことばで表したところで、きらめきを留めておくことはできない。ボクとツユソラの間で交わされたことばも、僕の目や耳や窓やコメント欄を通り過ぎていったことばたちも、刹那、波が砂に跡を残すように、ある心の動きを象って、また解けていく。長く残ることなどない。それがいまのボクには救いだった。いつかこの世界のdpi(解像度)もFPS(フレームレート)も回線速度もあがっていくだろう。だがいまはいまがベストだ。海も空も風もとなりにいるツユソラも、いまがいちばんうつくしい。この先に残された時間など、いくら永かろうと意味がない。

 あとこの作品のネットスラングやユーモアにこれだけ笑えた自分がいたことも覚えておきたい。

 自分のオタク活動のルーツの一つに、昔vipスレで深夜にアニソンやエロゲーソングをネットラジオで延々と流し続けて、スレで歌詞を実況したりリクエストしたりする人たちがいて、僕もwinampか何かでその歌を聴きながらラジオを録音してCDに焼いたりしていた体験というのがある。2004年くらいだったかな。これと泣けるエロゲースレとエヴァ板とはてダコミュニティが僕のオタク学校だった。特に優れた学校でもなく、自分では書き込むことも少なかったから、ひっそりとした教育だったし、美しい思い出でも何でもない。でもそうやって手探りで何かを求めていた時期があるからこそ、この作品がみせる儚い夢に共鳴できるのであり、その後のエロゲーマー活動も含めて現在に繋がっているのだから、何かの意味はあったのだといえる。シノはいつしか忍にとってもVR世界の他の住人たちにとってもそれほど美しい無二の存在ではなくなっていくのだろうし、ツユソラがbotになってそこらに溢れかえってしまうという結末は残酷だ。最近はpcのスペック不足らしくてハチナイにログインできなくなってしまい、息抜きはゼリンスキーのギリシャ神話物語を読んでいることが多いのだが、2500年経っても人の心を動かす物語と、数年どころか数か月で風化してしまいそうな美しさがあって、その間で立ちすくむ。
 エンディングでオフ会が描かれるが、オフ会って本当に必要なのだろうか。認識に不可逆な変化が生まれてしまうのだから、現在が大事なのならオフ会は開かない方がいいような気もするけど、そうやって人と会ってみて何かを得て何かを失いたくなってしまう。オフ会のことに限らず、誰もが今いるその場で永遠にとどまっていたいのに、可能性や選択肢を潰しながら進んでいくしかないと考えるのか、それとも可能性や選択肢を広げるために進んでいくと考えるのか、いまだに戸惑うことが多い。そういう戸惑いを突き放さず、寄り添うどころか美しいものに昇華してくれる作品だと思う。