甘えむっ♪〜おかあさんのかぞくけいかく〜 (75)

 いまさらな話ではあるが、正直言ってライターのHAIN(猫乃烏)さんの作品を構成する嗜好や書き癖は、僕の好みと合うことより合わないことのほうが多いのである。作品をプレイしながら「ここが残念だ」と思うことは多い。自分にはそもそも創作自体ができないので何か代わりのものを作り出すことなどはできないのだが、それでもいっちょまえにもどかしさを感じることだけはできるのである。そんな風にいちいち神経質にズレを感じてしまうのは、それだけ作品をきちんと読ませるような強さが感じられるから。作品の目指す方向性自体には力があるからこそ、思わず瑣事に引っかかってしまう。エロゲーに進化などといういかがわしい概念を仮に持ち込んだとして、その進化の要因から売上のような外在的なものや、モチーフの流行のような表層的なものを除外したとして、もともとエロゲーにプログラムされていたであろう内在的な論理を突き進めて進化しようともがいているのが、HAINさんの作品たちである。と言い切っていいのか分からないけどとりあえず言ってみる。これだけ毎月多くの作品が発売されながら、この分野を開発し続ける頑固なライターがほとんどこの人一人なのは、たぶんそういう時代なのだからだろう。これが1910年代か、せめて1980年代だったら、一つの潮流になっていたのだろうけど。
 今回の作品のとっかかりになったのはタイトルのとおり、甘えるための年上キャラという属性だ。僕はエロゲーにおけるこの手のキャラが苦手だ。あらあらまあまあ、うふふ、そうかしら等(これだけで通じるかな)の柔らかくて意味のない台詞や、ニコニコしてばかりでまるで主体性のない態度や、頭は鈍いのに物腰ばかり老成しているのに、どうしようもない倦怠感やひどいときには嫌悪感をを感じてしまうからだ。感じてしまうほど自分が(この歳になっても)ガキだからだ。この属性のキャラの本義はその新鮮味のなさ、わくわくしなささで、不思議なことにくっつく前から倦怠感を感じてしまう。その意味ではずいぶんと不利な属性だと思う。学園もので純真な感じの処女属性があったり、謎めいた性格や設定があったりすると薄まるからまだよいが、そうでない「ただのおばさん」だったりするときつい。本命に行く前の前菜的なヒロインになってしまう。たいていの場合は前半はのほほんとしていて、個別ルートに入った後半になると、「女のさが」というかオブジェクシオンの塊のようなものでこちらをからめとって巻き込もうとしてくるから疲れる。肉体派だ。…ごめんなさい、気がついたら何か中傷じみたことを書いてるな。何かの恨みでもあるのだろうか。
 今回の作品の前半では、まさに年上キャラのそういう悪いところが出て全然ノれなかった。かなた(とついでにえねみも)の台詞の一言一言に、いちいちシャブロン臭を感じてしまってダメだった。ヒロインに対して魅力を感じられないとなるとプレイヤーとしてはかなりきつい。不安になった。エロゲーとしてだけではなく、小説としても珍しい、2人称の語りで進むという凝った設定だけになおさらもったいない。そして中途半端な気持ちで進めていたら罰が当たった。ゲーム後半からやっとエンジンがかかってきたのだ。プレイヤーとヒロインが結婚してしまった。結婚の際にプレイヤーは寝取るプレイヤーと寝取られるプレイヤーに二重化して罵られた。この時にまでにきちんとのめりこんでいられれば、まじめなプレイヤーとして僕もやるべきことをやっていられたはずなのだが、スルーしてしまった。全裸で興奮しながら罵られるチャンスだったのに。まあ強引に考えれば、罵られることにすら値しないインポ野郎ということで落ち着くことは可能だけど…。
 コンプリートしてみると、倦怠感あふれる前半の鈍さすらある程度は戦略的なものだったことが分かるけど、エンジンのかかった後半からは嗜好や書き癖のズレはあまり気にならなくなる。なんか絵のほうも気合が入っていったし。身もふたもない言い方だが、挿入してやっと始まった。ブルマが出てきたとき、足りなかったのはコレだと分かった。髪型もかわいくなった。慎ましくてもいいから、若さを思い出させるフェティッシュな記号が必要だ。そうしてやっと欲望の経済は動き出す。ヒロインとプレイヤーとの距離はどんどん縮まり、ついには互いを名づけあい、呼び合う。一言でもヒロインに名前を呼んでもらえたゲームはこれが3作目。オーチニ・ハラショーです。メタゲーとしてはむしろ今までなかったのが不思議なくらいかもしれませんが、それでもいちいち喜んでいます。おまけのガジェットも何気に嬉しい。とりあえず「おかえり○○○」とかやって悦にイッてます。
 作品世界の時間は四季による円環時間。プレイヤーは成長する線的時間と快楽で幼児退行する不連続時間の二重の時間軸。ヒロインは母親としてのヒロインから欲望を解放するヒロインを経由して、生まれる瞬間のヒロインへと、若返りの線的時間を進むように見える。やはりヒロインに若さと純真さは必要、老成は敵だという考えは変わらないけど、姥捨て山のヒロインという設定からの年増ヒロインの動機付けには説得力があった。これはストーリーものではなく、抽象的なメタゲーならではの説得力だろう。年上アレルギーが緩和された。僕などが気にしても仕方ないのだが、10年後にはエロゲーという産業自体が存続しているか怪しいなどといういう話もある中、水仙花に始まる一連の作品たちはいつ終わりが来てもいいような、死を見据えた強い言葉を吐き続けている。ただそれでも足りないもの・まだまだ欲しいものはたくさんあるし、何よりも、究極のエロゲー、究極のヒロインを求めるという滑稽な夢はたぶん簡単には消えない。開き直りたいとは思わないが、悲劇の感動の物語を否定したいとも思わない。消費者という形でしかエロゲーに関わることができないのだとしたら、せめて自家中毒はほどほどにして、それでもある程度は真剣に消費するようにしなければ。ってなんか説教臭くなってきたな。それもこれも、かなたが魔法少女になったあと、さらに若返って、内気なインテリ系ロリ巨乳に変身して、一緒に切ない逃避行するようなルートがなかったからだ!とわめいておく。そんなことは自分で何とかしろって話だ。むしろ逃避するのは自分がかなたたちの下へであって、その場所を用意して待っているとはっきり言ってくれるのは奇跡的なことのはず。温かくてよい終わり方だった。