エヴァは終わってない(シン・エヴァンゲリオン感想)

 エヴァが終わった。終わったといってもいろいろニュアンスはあるだろうが、もう物語が完結して続きがなくなったという意味では終わった。今日ははじめから終わりを見届けるために映画館に足を運んだわけで、自分の中では終わらせたくなかったし、今でも終わらせたくない気持ちは残っているので、観劇するにあたって特に高揚感はなく、むしろ避けられない終わりを前に少し気持ちが沈んでいたと思う。エヴァを喪失するためにエヴァを観るというのはおかしな話だ。
 エヴァを初めて知ったのは、大学1年か2年の頃、家庭教師のアルバイト先の中学生の男の子の部屋でマンガ版の1巻から3巻くらいまでを読んだ時だったと思う(男の子の姉が集めていたそうだ)。絵が繊細でなんだか難しそうな話だったので覚えていた。やがて家庭教師の期間が終わり、エヴァのことは忘れた。当時はまだ僕は自覚的なオタクでもなかった。次にエヴァに出会ったのは、テレビ東京で深夜に一挙放送をやっていた時だったと思う。一話から全部観たかは覚えていない。ひょっとしたら東浩紀がどこかで論じていたのを読んだ方が先だったかもしれないが(それが一挙放送を観るきっかけになったのかも)、記憶が不確かだ。ともあれ、一挙放送は強く印象に残り、ここから僕の自覚的なオタク人生が始まった。
 そこから約20年。20年前の僕は新劇場版なんてものが制作されるなんて想像できなかったし、20年後にその新劇場版の完結編を映画館で見る日にブックオフで『男の子の名前事典』を買うことになるなんて思わなかったし、ゲンドウの「男の子ならシンジ、女の子ならレイだ」というセリフに神妙な顔になることも想像できなかった。観終わってから床屋に行き、今の僕の顔は少しシンジに似ているかもしれないと思って鏡を見たが、映っていたのは運動不足ですっかり顎に肉がついてしまった中年のおっさんで、こんなおっさんが「綾波…」とか言いながらレイに近づいて行ったらホラーである。そういえば僕の顔がシンジに似ていたことなんて一度もなかったのだった。
 映画館ではD列(前から4番目)の真ん中で、やや前過ぎたが、観劇に大きな問題はなかった。ありがたいことに皆さんマナーがよく、観終わって客席が明るくなるまでほとんど誰も物音すら立てなかった。終わったらイヤホンで耳をふさいで立ち上がり、帰りに物販コーナーを少し除いたがめぼしいものは何もなく(そのうちいくらでも出てくるだろう)、そうしてエヴァは静かに終わった。
 考察めいたものは後でネットで漁るとして、今は最初の感想を書いておこう。先週末に久しぶりにマンガ版エヴァの最後の2巻だけでも読み返しておいたのは良かった。このマンガが書かれていた2012~14年頃に今回の結末がどこまでイメージされていたかは分からないが、意外にもけっこう似た結末だったと思う。エヴァがいなくなった世界をやり直すという結末。TV版では幻想として拒否したはずのものを、今度は受け入れるようになっていたシンジ。そういえば、エヴァ名物ともいえるシンジの絶叫が今回はほぼなく、立ち上がることを決めた後のシンジはどちらかというとゲンドウをはじめとする周りの人たちの話の聞き役に回っていた。シンジの心のドラマはこの完結編ではほぼなかったので、そこが不完全燃焼感につながっているのかもしれない。でもシンジについて語ることは他に何があるだろう。不完全燃焼どころか、Qまでの間にシンジはもうほぼ燃焼しきって燃えカスになっていたというのに。そういえばマンガ版でも終盤はみんなぽつぽつ呟くようセリフばかりで、顔の表情(マンガ版は登場人物の身体の輪郭線と顔の表情を見る作品だと思っている)も悟ったような真顔ばかりで、それがスケール感のある背景と交互にずっと続いていくのが独特のリズムを作っていたが(マンガ版ナウシカの後半もそんな感じだった)、今回の映画のシンジにもそういう気分が感じられた。
 レイも何だか冒頭のぽかぽかしたのんきなレイでそのままいってしまったような印象だった。あとはグロテスクな巨大な顔ばかり。この完結編ではゲンドウがほぼレイに気を遣うそぶりを見せずにユイの方しか見ていなかったので、レイはゲンドウがいなければこういう(ややテンプレ感があるが)素朴な愛すべき女の子だったのだろう。それが初期型とされているということは、今まで僕や一部のオタクたちを散々惑わしてきたレイとはいったい何だったのだろうか。この新劇場版のレイは、それまでのレイより「普通」であり、病的なまでに僕を惹きつけたりはしない。僕自身が変わってしまったというのが一番大きいのだろうけど、あの神秘的な綾波レイがいつのまにかいなくなっていたと認めざるを得ないことが惜しい。あのレイはもうkame氏とかの20年前の二次創作の中にしかいないのかもしれない(TV版と旧劇版は繰り返し観すぎた)。旧劇版でもマンガ版でもレイは最後にはいなくなる。そして今回の新劇完結編では、終盤はほぼ出番がなかった。本作の最大の欠点は個人的にはここだ。綾波をもっと出せ。シューティングゲームウルトラマンじみたアクションシーンは少しでいいから、あの髪の毛ボサボサ波とのエピソードに1時間くらいまわしてほしかった。僕のように感じているオタクはきっとたくさんいるだろうけど、今の時代にまた大量の二次創作が生まれるかはわからないし、僕もそれを読む気になるかどうかわからない。とりあえずボサボサ波のフィギュアくらいは出るだろうから、それでも買うしかないのかな。
 Qの時点でも強く感じられたので当時の感想にも書いたけど、廃墟と化した世界、怪物じみた大量の屍、暗くて荒涼とした人の少ない舞台は、旧劇版以降に膨れ上がってグロテスク化したオタク文化や僕たちの心の部屋の一端を象徴するものだと思える。今回の完結編もそんなグロテスクな映像のオンパレードで、庵野監督の趣味であろうウルトラマン宇宙戦艦ヤマトをオマージュしたかのようなカットもそういう気持ち悪さがあり、そこに悪乗りしたゲンドウとシンジのエヴァ初号機がマンションの室内や教室で取っ組み合いを行うのはようやるわと感心した。アウトサイダーアートに近いような病的なセンスが垣間見え、こんなプライベートな感覚を公衆にさらすのはさすがだと思ったが、それくらいはすでに旧劇で軽く踏み越えていたので余裕だったかもしれない。同じグロテスクでもツバメと書かれたぼろきれを抱きかかえたボサボサ波はまだ愛嬌があったのは、オタクに妄想のネタを残してくれた気遣いなのかもしれない。
 レイの代わりにシンジの前に現れたのはマリという意外過ぎる結末。実は先週に読み返すまで、マリがマンガ版の最後の番外編エピソードに登場していたことをすっかり忘れていた。7年前にマンガ版が完結した時、なぜ最後に謎の新キャラが登場したのか気になったはずだが、どうやらすぐに完結の感慨に押し流されて忘れてしまったらしい。新劇の序・破・Qではかすかに匂わせただけだったゲンドウやユイと同世代という設定もはっきりと描かれていて、エヴァの雰囲気から浮きまくった役回りもシンジとの埋まらない距離感も、今更ながらようやく背景がわかった。なぜ冬月にイスカリオテのマリアと呼ばれたのかわからないが、誰を裏切り、救世主となる誰を産んだか産むことにしたのだろう(あるいは裏切ることで産まなかったのだろう)。ミサトが槍を持ってネルフに突っ込むとき、「主は来ませり」と歌うもろびとこぞりてが流れた。それを支えたのがマリだったので、人類補完計画を裏切ってヴィレについたからイスカリオテと呼ばれたのだろうか。それだと単純すぎるか。ともあれ、マリとシンジがカップルになるとは到底考えられず(マリアということならシンジの母親のポジションなのかもしれない)、僕もマリにはあまり興味はない。
 今回マンガ版を読み返して改めて気づいたのは、ゲンドウは最後にユイと出会うが、LCLに還元されずに、ユイに看取られシンジの未来を考えながら、(リツコに撃たれた傷で)普通に安らかにこと切れるということだった。他はほぼ全員がLCLになってしまっていた中で、あれだけ人類補完計画にこだわったゲンドウがこのような最期を迎えたところにこのマンガ版の救いがあるように思えた。今回の新劇完結編では、ゲンドウが自分の生い立ちからユイとの出会いまでをシンジに語るところが一つの山場になっていた(下絵風のグラフィック演出も優れていた)。妄執に囚われた歪んだ中年男なのだが、考えてみればまだ旧劇版や破の時点で40歳くらい、今回の完結編では50代前半くらいだろうか(→コメントいただいた通り、TV版時点で48歳、Qとシンでは60代前半とのことでした)。新しい槍が来るとわかってあっさり人類補完計画を諦め、その瞬間にシンジと共にいたユイに気づいて、納得して電車を降りてしまったように見えたけどどうなんだろう。本人も散々苦しんだからもうお疲れさまということだろうか。LCLにはならなかったのか。ユイに会えれば補完しようがしまいがどうでもいいということか。これはマンガ版と近い終わり方なのだろうか。
 今回は誰が新しい世界で生き残り、誰がLCLになって消え、誰が普通に死んでしまったのかよくわからない。何度か観返せばわかるかもしれないが、それが必要なのは二次創作や妄想の設定のためくらいなのかもしれない。みんなそれなりに納得していたようだった。演出的には、あの赤い砂浜でシンジに見送られたアスカは生き残って、ケンスケに助けられて生きて行けそうに見える。長ければ14年間も一緒に暮らしてきたというケンスケとくっつくかはわからないし(もしくっつかなったら人形の被り物をしたケンスケは少し気の毒だが)、シンジを今はもう好きではないかもと言っていたのが本当かどうかもわからないが(村でも陰からこっそりシンジを見守っていたしなあ)、最後のシーンでシンジのそばにアスカがいなかったというのは、二人はもうそれぞれの人生を自由に歩んでいるということなのかもしれない。それともシンジがマリと二人で駆けだしたのは、アスカや他の誰かに会うためだったのだろうか。マンガ版では受験のために冬の東京にやってきたシンジが駅の雑踏で見知らぬアスカと出会う。アスカファンの人にとっては、アスカとは永遠に届きそうで届かないところに見え隠れするヒロインなのかもしれない。あの何度か寝がえりをうって太ももを見せつけるアスカ。シンジに素っ裸をさらす不機嫌なアスカ。旧劇のシンジならすかさず発電していたのかもしれない。これは素直に喜べないサービスショットであり制作者の意地の悪さが見えないこともないが、アスカが背負わされているものを感じさせるようで悲しさもある。アスカは着ぐるみのケンスケの横でたぶん気持ちのいい涙を流すわけだが、彼女にとって喜びであり安らぎであったシーンは描かれただろうか(ちなみに、マンガ版ではエピローグでの登場をカウントしなければ、加持が出てきてLCLになってしまうという微妙な終わり方だった)。あまり覚えていないが、赤い砂浜でシンジと別れたシーンか。それともシンジにひょっとしたら好きだったかもしれないとようやく告げることができて、その後で歩き去っていくシーンだろうか。どこかで画面には顔を向けずに喜びや幸せをかみしめることができたのかもしれない。
 演出的には、ミサトはどうやら戦死ということになる。正直なところ、それよりも本作では声優さんの声に力強さが戻っていたのが嬉しかった。新劇のこれまでの作品や関係ないCMのナレーションとかで三石さんの声を聞くとどうも衰えを隠せない感じがして残念だったけど、今回は決めるところはきちんと決めてくれていてよかった。とはいえ不憫といわざるを得ない生き様だったと思う。マンガ版でも早々に退場してしまった。きっと一番幸せだったのは加持と一緒だった学生時代で、後は苦しみに耐えながらがむしゃらに生きてきたのだろう(そしてそんな彼女を、自分勝手でシンジにも有害だった非難する声もよく聞く)。加持との子供を産むことができたのは嬉しかっただろうな。
 はっきり覚えていないのだが、レイは最後にアスカと同じようにシンジに挨拶して立ち去ったようだったので、新しい世界で生きていると期待してもいいんじゃなかろうか。そしてやはり最後のシーンでシンジの前に姿を現さなかったのは、これから現れるということでいいのだろうか。そんなことを考えるからいつまでもオタクなのだ。
 最後がドローンによる街の風景の実写で終わったことは、賛否の両方が可能だ。映画の手法としては古典的で、今では珍しくないのかもしれないがタルコフスキーのロングショットのようでもある。あるいはもっと卑近な例ではNHKのドキュメンタリー番組に近いのかもしれない。アニメではないことに、塗りこめられたアニメ絵の閉塞感に対する限界の意識を感じてしまう部分もある。でも、リアルな風景に疲れた目を休めるためにアニメで美しいものをみたい人にとっては必ずしも正解ではない。エヴァのアニメ絵が現実につながっている悪例として、エヴァストアみたいな商業イラストや広告ののっぺりしたキャラたちを見せられてきた経緯があるので、アレルギーができてしまっているのかもしれない。本作の終わり方は優れた映像処理方法だと思うけど、他の様々な可能性についても想像したくなる。
 エヴァは失われたけど、僕は手放したくない。「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーは、これまでのエヴァビジネスの前科からして、これから全力でエヴァとさようならしないために各種グッズやコンテンツを売りまくってやるぞという前振りにしか見えなくなっているが、とりあえず僕は映画館を出た足で向かった本屋でマンガの愛蔵版1~3巻を買った(あと乙嫁語りの最新刊も買った)。通常版のマンガの13巻と14巻にはいろいろおまけがついていて(貞本氏のおすすめ音楽CDという今となっては奇妙すぎるおまけも)、13巻についていたレイとアスカのホログラムカードが何気にきれいで先週も思わず魅入ってしまっていたので、愛蔵版のおまけもきっと思い出しては引っ張り出して見ると嬉しいものになるかもしれない。貞本先生がエヴァの呪いから解放されず、この先もずっとレイ(時々アスカも)のイラストを描き続けてくれますように呪っておきたい(あと、愛蔵版のサイン色紙のイラストは素晴らしかったけど、先生のサインには興味ないので次はサインをもっと小さく書いてください)。エヴァの物語は終わってしまったので、僕にはもうこういうものを集めるくらいしかやることが残っていない。とりあえずDVDが出たら買うけど、物語が完結してしまった今、そう何度も観返すだろうか。この完結編は、序盤は破みたいなのんきなノリで不安になったが(素朴なレイにも委員長ママにも素直に喜べなかった)、やがてQにあった暗さとグロテスクさを取り戻していったのが評価できる点で、その意味では観返す気にもなりそうだ。それでも終わりは一つしかないことがわかっている。
 ネットでレビューを漁っていたらそういえばと思い出したが、そういえば最後の駅のシーンで、向かいのホームにカヲルとレイがいたっけ。アスカもいたらしい。でもそれはまったく別の物語の予感がする。向かいのホームは三途の川の向こうほどにも遠く感じるけど、実際にはマリと階段を駆け上がってすぐにたどり着けるのかもしれない。他方でこれはシンジが見た幻だったという解釈もあるらしい。TV版1話冒頭のレイの幻と対になるものだそうだ。
 今回の作品を観終わったら、エヴァに対する僕の思い入れの残滓はLCLになって溶けて消えるような気がしていた。もちろんきちんと風呂敷をたたんだいい作品としての視聴体験は残るのだろうけど、もやもやしたものは消えてしまう。それはこんなふうに感想を言葉にすることも同じで、終わりを形や言葉にすることがはらむ不可避の作用だ。多幸感に包まれて何かに感謝している他の人たちの優しい言葉が躍るネットを見ながら、ああみんなLCLに還っていくなあなんて思ってしまうが、言うまでもなくそんな的外れの滑稽な感慨を抱くのは、僕がまだエヴァが終わったことをうまく受け入れていないからなのだろう。形や言葉はどうしたって取りこぼしてしまうものが出てくるのだから、それを自分の中で確かめればいいわけで、何も不安や不満を抱く必要はないのだけど。僕はエヴァに大きすぎるものを求めているのだろうか。たかだか2時間半、TV版からすべてを入れたって20時間くらいの映像娯楽作品に何を求めるのか。人類補完計画の物語なんていうものを本当に完全にやろうとしたらこんな時間や登場人物数では到底足りず*1、どこかでダイジェストじみてきたり、人間がモブキャラになってしまう。そもそも人間という限りある存在が描けるようなものでもなく、だからとことん狭い人間関係の描写にこだわったわけで、そんなふうに想像力を働かせないと世界を認識できないのは面倒くさい。
 とりあえず「僕はまだ綾波レイを忘れない」という呪いのような言葉を残して終わっておこう。僕にはがんばってもとりあえず7000字くらいしか書けなかった。気持ちとしてはその10倍くらいは書いてみたいのだが、どうにもならない。久々に2ちゃんのエヴァ板でものぞいてみようかな。(→やっぱりLRSスレは居心地が良かった。。僕は破のレイにも少し違和感を覚えているので、必ずしもスレの流れに同意するわけではないけど、何とか納得できる解釈を見つけようという人が集まっているのはよい)

 つづき