R.U.R.U.R (75)


 承前。123
 まずは技術的なところから。音楽と文章のリズムがあっていた。傍点との振り方とかすっとぼけた感じとか。エッチシーンの音楽は雰囲気よかったし、戦闘時の音楽はむなしさみたいなのが感じられてよかった。ヤー・チャイカ(わたしはかもめ)って、女性宇宙飛行士の言葉らしいけど、チェーホフの『かもめ』はあまり覚えていないのでどんな意味だったか。舞台裏で無意味に撃ち殺されるかもめと、一方通行でダメダメな恋をして報われない自分を重ねて、言わなきゃいいのにナルシスティックに言ってしまうセリフでよかったか。昔聞いた大学の講義では、『かもめ』ははじめは問題作とされていたと習った。登場人物たちがことごとく片思いで誰も報われず、フラストレーションがたまるばかりでカタルシスがないという批判があったのだ。
 絵はいまいち押しが足りない。線が整いすぎて尖っていて、丸みや温かみがあまり感じられない。陰影がはっきりしすぎ。あたりはいつも涼しそうだし、みんな汗とかかかなそう。衣装も面白味がない。背景とかがけっこういいので、そっちに飲まれかけている。あえて読むなら、これもSFを演出するスタイルということになるのか。汗をかけない、丸みをもてない、ということになるとこれはまた別の問題だし。現に、いくつかのエッチシーンはとても楽しめた。
 引用。やはりマザーグースや星の王子様にはいまいち馴染めない、どろどろの粘着気質派です。そんな人間のためのオブラートなのか。


 コンプリートして軽く鬱気味になった。ベニバナたちの信じていることは本当は正しいことなのか、本当に心をなくして苦しみをなくしていき続けるのが幸せなのか、「いいもの」なのか、わからない。普通なら、人間らしさ万歳、喜びも悲しみもある人生万歳、僕がいて君がいてみんながいる世界万歳、となるのだけど、本当にそうなの?「解放」されるのを恐れているんじゃないの?・・・というタナトスの雰囲気がある。SFへの憧れ、ロボットへの憧れはそういうタナトス的なものと親和的なんだろうか(SFの偉い人に突っ込まれそうだが)。だからこそ、あまりロボット的ではないヒロイン、普通の女の子みたいなヒロイン、ヒナギクのシナリオは普通のラブストーリーみたいで、健康的で、ヒナギクはしょっちゅう誰かとぶつかってばかりで、異質な存在で、それが分かっていたからミズバショウもシロツメグサもイチヒコを取り返しにいくヒナギクを止められなかった。彼女たちはタナトスをよく知っているから。イチヒコは人間であるというだけで存在を保証されていて、何も知らなくていい。人間よりも(心を持った)ロボットのほうが苦しんでいるというのはおかしな話だが、ベニバナが最後にどれほど喜んでいたのか、想像するしかない。タンポポルートやコバトムギルートもそうだが、ベニバナルートは終わりかたがうまくて困った。
 「夜間飛行」の元ネタは未読なので含意はよく分からない。SFと孤独、というか広い時空の中に放り出された感、というもおなじみの話題か。宇宙の終わりを眺めながらロボットはなぜ泣くのか、いまいち分からなかったけど(宇宙の終わりを想像するのがまず難しい)、彼らが感じる取り残された感は、おそらく人間から取り残されたということと同じで、またもや自分たちが否定されたという無力感をどこかでぼんやりと感じているところから来るのかなあと。


 夢幻回廊みたいに閉所に閉じこもっても、本作のように無限の広がりに出てみても、孤独はついてまわる。先日久々に聞き返したplanetarianのサントラ、最近読み始めた『ディアスポラ』、イマでは空は虫のうごめく「敵」の領域だったし、ある詩人は確か星空に凍った水と塩粒と薪を割る斧の錆を見たし、別の詩人も逃れられない運命を見て虫の這う星空を呪いながら死んだ。もちろん他に温かい幸せの星空なんていくらでもあるんだろうけど・・・。でもやはり、光の粒が浮かんでいるだけの何もない暗くて寒い空間が果てしなく広がっていて、そんなものとずっと向き合っていると、どこかおかしくなるものなのか。