いまさらユダかよ

 朝日の夕刊に、70年頃にエジプト中部の砂漠で見つかって以来放置されており、他の文献からその存在のみが知られていた偽典「ユダの福音書」の解読が8割方終わったとの記事。原典からのコプト語訳で、発見以来放置されている間にかなり痛んでしまったとのこと。内容は裏切り者のイスカリオテのユダとイエスの会話からなり、ユダの裏切りはイエスの「儀式」を完成させるために彼の求めに応じて一肌脱いだもの、という。なぜユダは首を吊ったのか。失望したのは自分にか、イエスにか、自分の中の理想像としてのイエスにか。過ちを見たのは自分にか、イエスにか、イエスを殺した世界にか。なんともドラマティックで、なんとなく、太宰治地下室の手記な短編「駆け込み訴え」を思い出した。これはグノーシス派の教義に近いという。ユダに理解を示す内容だから偽典とされたのだろうし、悪を否定しない(?)からグノーシス派なのだろう。グノーシス派には多少興味はあっても、まともに読んだことはない。ぜひともkagamiさんの解説をお願いしたいところ。