イマの速度で日記

 秋山瑞人朱門優の新刊を買おうと思って近所の本屋に行ったけど見つからず、どこかで紹介されていたのを以前見かけたLOを買ってみた。そのあと少女連鎖を少し進めてみた。短縮ダイヤルのようなショートカットで与えられる刺激。なぜそうなっていくのかという反省はなく、気づいたらその回路をなぞっているのが恐ろしい。語りの薄さに飽きる。何ヶ月も前に買っておいたイーゴリ公軍記の朗読CDを聞いてみた。中世ロシア語を音として聞く機会は日本にいてはあまりないので新鮮。パステルナークがツヴェターエワを評してだったか、その逆だったかで言っていたように、ある種の詩は音読すると声調を調え、喉に活力を与える。そんな感じの朗々たる中世文学の世界。リハチョフか誰かが言っていたように、全てが太字で描かれたかのようにまっすぐで鮮烈な、まだ若々しい、青春期にある民族の歌。12世紀。ごつごつした中世の言語とうねりのある雄弁な韻律の枷をものともせず、むしろその抵抗を喜んでいるかのような躍動感がある。そのエネルギーは、12世紀のオリジナルから、リハチョフによる20世紀後半の擬古文訳、アポロン・マイコフによる19世紀後半の擬古文訳、カラムジンによる19世紀初めの擬古文訳と聞き進めていくにつれて抑えられ、薄められていく。解説を聞きながら眠ってしまった。
 最果てのイマの、1周目葉子シナリオの緩やかな語りに聞き入る。ことあるごとに開いては読み、それが習慣と化していた母にとっての聖書に似ているのが、大げさに言えば今の僕が最プレイ中のイマかもしれない、というような心地よさを時々味わえる。こうやって忍のように、イマのようにゆっくり物事を反芻し確かめながら生きていけたらいいだろうなと思う。頭の回転が速いと周囲の物事の速度が相対的に落ちるとかそういうのは措くとしても、僕にはそれができないからこうして彼らの世界の速度に思考を調弦できるこの作品のありがたみを感じる。人に頼み込んで物事を動かすという集団の倫理は、この作品ではいろいろな形で幾度も描かれているけど、会社勤めをするようになって、失敗して、上司に尻拭いをしてもらうようになってから、その辺の不如意な感じとかいつか代価を求められるということに対する眩暈のような感慨とか、そういうことをやんわりと伝えてくる千鳥とのエピソードが悲しいっす。頭痛を忘れるために目を閉じて、記憶のストックの中から飛び切り上質な思い出の封を切る、と語り始められる子供時代のアイスの交換と、新しい言語世界に幻惑される葉子の話。心地よくすべるイマの語り。なんか再話するだけで感想の代わりになってしまう。ジャーゴンの世界の魅力は言葉そのものだけによるのではなく、それを話す集団の雰囲気に強く左右される。その意味では僕にとってはネットやオタク界隈のジャーゴンは言葉そのものとしてはとても機知に富んでいて楽しいけど、雰囲気として目指すべきものは、大学で所属していたサークルの心地よさの記憶を200%くらい美化したものかもしれない。そのサークルに所属していたといえるのはほんの一時期だし、僕はそこであまり溶け込めていなかっただろうし、今では思い出すこともほとんどないし、活動としてもメンバー的にもおもしろかったのは別の歴史のサークルの方だったし、そんなことが当てはまるのがそのサークルだけということでもないのだけど、あそこでは一瞬何か明るいものの片鱗に触れられたような気がする。その何かを得たという勘違い?の一点において、基本的に人間嫌いだけども、今でも僕は仲良し集団的なものの心地よさの実在を心のどこかで信じることができていると思う。そんな集団で使われるジャーゴンはこそばゆいような魅力を持っている。でもそんな集団は自覚的に狙って作れるものだろうか?幸か不幸か、いつも結果的に振り返ってみたらそうなっているということが多いような。忍は自覚的に作っている、というネガティブな思考に陥ることがあるけど、本当にそんなことができるのかは解けない謎のままで、ただそういう仲間の雰囲気を享受しながらいろいろあがいてみる、というのが田中ロミオの結論。分かりにくいところが多い最果てのイマの中でも、これが最も魅力的なテーマの一つだと思う。
 余談だけど、そういう雰囲気が現在の延長としての子供時代の回想の中で描かれているのだから、田中ロミオの描く「子供時代の思い出」は鍵ゲー的なエロゲーのお約束として機能する甘いトラウマの過去ではなく、あくまで現在の延長としての過去となる。鍵ゲーのフィクションは現実を呑み込むほど恐ろしいフィクション(おとぎ話という言い方はあまり好きじゃないな)であるのに対し、ロミオゲーのフィクションはフィクションとして自律することを許されていないというか。その善し悪しはよく分からない。