最果てのイマ、2回目終了

 沙也加に続いて笛子と葉子のシナリオも終了、戦争編も終了。沙耶加は究極過ぎてすぐに二人だけの世界になってしまうけど、笛子は和気あいあいとおしゃべりできる友達的な場所なのにいつのまにかエッチなことに、という・・・これはこれで実はおいしい。葉子については改めて言うまでもなく、怖いくらいこちらのペースに合わせてくれるのがいい。1回目のときには読み流してしまったが、疲れ果てたシャーリーの「今」もよかった。さすが赤毛のアンを熟読してから唾棄しただけある。2回目プレイの戦争編はいい意味で短く感じた。この簡潔さを忘れると邪気眼的な方向に行く。


 そしてついに終わってしまった。2回目は途中で間が開いたりしながら2年以上かけて進めたということもあるけど、ループ構造で繰り返されたエピソードにも気づかず読んで楽しんでしまえるような心地よいテクストだった。BGMの印象もあるかもしれないけど、田中ロミオのほかの作品も含めて、ここまで伸びやかでありながら抑制が効いた文章はエロゲーではなかなかお目にかかれない。言葉のニュアンスやイントネーションにかなり丁寧な配慮が行き届いていて、呼吸や音楽に合わせて流れていく言葉。言葉は使われるのではなく、かといって自意識の罠に囚われたり背伸びして気取ったりするのでもなく、音楽の即興演奏か何かのようにくつろぎ、滑らかに変奏されていく。配慮が行き届いていなければ親密さは馴れ馴れしさに転落してしまう。自分の神経が行き渡る空間、自分もくつろいだ即興の一部となれるような空間こそが幸せが可能となる空間であり、いくら身体感覚や世界認識が拡張されてもそれだけでは膨張する宇宙のように寒くて乾いてしまう。そんな作品の「内容」が、近い距離の文体という「形式」によって実現されているかのような感覚。設定が上手すぎるということもあるけど、設定だけに還元されるものでもない。この作品のフルボイス化が難しいというのは。模倣子感染や脳腫瘍云々を脇においても、作中の各キャラはある強度を持った個室的な場の空気に同調しており、あるいは同調したものとしてテクスト化されており、音声化による物理的な具体化は怖い。声は硬い。偶然は排されねばならず、排されない偶然は馴致できるものが望ましいはず。
 大きな物語的なものがすでになく、ひたすら目の前にある現在を楽しみ、洗練させる。少年マンガ的な試練とその克服(エロゲーで言えばHello,worldとか)はなく、学園祭やら海やらといった萌えゲー的な行事もなく、ただサロン的な場所に集まったおしゃべりをしたり、集団登校しながらおしゃべりをしたり、散歩に近いようなデートをするばかり。身内というのは少なくとも意識の表層では性的な欲望の対象にはならないから、「聖域」での仲間をそういう目でばかり見るのは無理があり、その意味ではエロゲーの王道とは言えないかも知れない。だが美少女ゲームの真骨頂は日常を楽しむことにあるという言葉が実感できるという意味において、ただのキャラ属性確認的なうすい掛け合いとは一線を画したこの作品は美少女ゲームの王道だと思う。そしてそこにいたるまでに周到な態勢を調えた上で、これだけの今を作り出した田中ロミオの(この器用なライターさんにとっては珍しい、と思う)誠実さというか、本気が感じられ、こちらとしても作品として好きになれた。


参考:福嶋亮大氏(批評家)の『最果てのイマ』試論。さすがはプロ、整った内容。


 人口が80億から1億に減るという一つの時代の物語としてこれはこれで完結したわけだけで、別の物語としての『人類は衰退しました』が改めて気になる。これもいい作品になるといいな。
 というわけで最果てのイマのプレイ日記はいったん終わり。