Angel Bullet (70)

 エロゲーをやって語るようなことじゃないのはわかっているけど、それでも変なスイッチが入らざるを得ないような作品だった。アメリカに関係のあるものは身の回りにあまりにも多くて、あとは家風が頑固なアメリカ(と革命ロシア)シンパで子供のころから合衆国の理念やら精神やらを吹き込まれてきたので、学生時代にその反動でヨーロッパ的な歴史主義やら宮台先生やらネット右翼的な価値観に衝撃を受けてしまい、アメリカに関わるものは「アメリカ的」「ハリウッド的」というレッテルでブロックするというありがちなアレルギーをこじらせてしまった自分。だから学生時代以降のアメリカの個人的なイメージはとても具体性に乏しく、貧しく偏ったものになっていると思う。アメリカというだけでなんだか胡散臭くてつまらなく感じてしまう。一種の病気みたいなものかもしれないけどそのおかげでアメリカ以外のものというとそれだけでちょっとモチベーションが上がることもあったり。まあ僕などがアメリカの価値云々をいっても僕以外の人にはまったくどうでもいいことなんだけど…。
 だから西部開拓時代のアメリカが舞台のガンアクションと聞いても、「ハリウッド的」な西部劇のステレオタイプのイメージ(西部劇の映画なんてあまり見たことないんだけど)や「良識的で道徳的」な大草原の小さな家のイメージ(子供のころ見てたのでおぼろげ)とかくらいしかパッと思い浮かばず、おかげでかなりまっさらなコンディションで臨むことができた。だからキャラクターデザインやら設定やらでステレオタイプでノスタルジックなものが出てくると、それらが自分の今の目で見てとても貧しくて剥き出しで美しくないのが新鮮に感じられて、「アメリカっていうのはこういうだだっ広くて何もないさびしいところなんだ」というのがなんだか生々しく感じられた。そういう文明の極限みたいな殺伐とした空気と、そんなところで生きる羽目になった野蛮な人々のやけくそな感じと、歴史の重みのない大地ののびのびとした若さと、そうした見方をもっと広い地平から見下ろす先住民の洗練された生き方と、その先住民たちへの蛮行の記憶と狡猾な原罪の意識と…といったステレオタイプアメリカのモチーフが今更ながらいちいちに新鮮に意識された。それはまた、ひょろっとしたスーザンの猫背、土気色のパールの幸薄そうな髪型やメガネ、セーラの田舎っぽい満面の笑顔、安定感のある飛び立つ鳥の地味な美しさ、ことごとく荒々しく貧相であるかアメリカンな感じであるか(たぶんサブ原画の人のデザイン)のエッチシーンの一枚絵などの細部にもいちいち感じられた。
 南軍ゲリラの英雄とか、帝国主義的な小説のモチーフ(ユーウォーキー、ロビンソン・クルーソー海底二万里)とか、ディキシー歌謡とか、そういう現代の日本からはだいぶ遠く離れたノスタルジックなものたちがまだ生きていた、始まりのアメリカの大地で、ヨーロッパの魔物やら火星人やらといったステレオタイプのフェイクたちが復活するという設定はうまくできている。自然に生きていれば「より美しい世界」へと移っていくことができたはずのものたちを、大量のステレオタイプたちへと進んで変貌させ、消費する技術を発達させてきたアメリカこそが、こうしたフェイクたちの百鬼夜行の舞台とならなければならなかったのは合理的なことで、その問い直しは既に去勢が済んだように見える現在の癒しの国アメリカではなく、原罪進行中まっただなかの若いアメリカで行なってこそ映えるものだと思う。その結果として、天使であるはずのセーラでさえもがフェイクであったとしたら、それを陰鬱な事実として受け取らなくてはならないのだろうか。賞金稼ぎなどと称して悪役をどんぱちで懲らしめていればよかった気楽な時代なんて、本当はなかったのかもしれない。この作品のラスボスであるアレが弱いのはわざとだろうか。もし本物ならばその戦いのあとで生き延びるものがいるのはおかしな話だ。クラウスの後半生に何の意味があったのか。性的不能から立ち直ることがすなわち残された者を去勢するための傷となることなのだとしたら、論理的だけどなんとも暗い話だ。だから描かれたの天使まで、という儚い曖昧さが必要なのだろう。