蒼天のセレナリア & 蒼天のセレナリアFD (65)

 前から少しずつ読んでいるレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』との関連で、南米を見るヨーロッパ人のようなまなざしで「未知世界」を見ていた。印象深いのは、4000年を超える集中的な利用によってすっかり干上がり痩せ衰えた大地に、終末的で宗教的な感覚を鋭敏にさせた無数の人々が蝿の群れとともに絶望的にひしめくインドと、逆に自然が豊か過ぎて人間の営みの痕跡を容易に吹き消してしまいかねない南米の対比だ。南米は南米で歴史の空白や暗部を抱えるから、セレナリアのような楽園的な調和世界と同じとは到底言えないけど、それでも、飛空挺で一マス移動して調べてみるだけで食料から鉱物までざくざく出てきて、それを近隣の町まで持ち帰るだけで行商としてやっていけるという世界の豊穣さと広さの感覚は、失われたはずの楽園が急に立ち現れたかのような幻惑感を呼び起こす。
 「既知世界」のコニーやシェラやメアリやネーエルにとってはただただ夢のような世界であって、その果てしなく広がる夢のような世界を移動していくという運動の感覚に僕らは酔う。コニーたちは移動し、巻き込まれているだけで、その話は物語として一から最後まで語りつくされ完結したものではない。セレナリア世界の果てがないように(ザ・ガイドに乗っている世界地図にも果てがない)、コニーたちの見る世界も出会う人たちも、別のところでこれまで続いてきてこれからも続いていくもののほんの一部に過ぎない。ヤーロは何のために放浪の旅を続けているのか分からないけど、そうして分からないということはつまり終わらないということで、その風通しのよい広がりが心地よい。分かるものは終わったものなのだ。それがフィンチのように美しく壮絶な終わりだったとしても、「ザ・ガイド」の記録者の言うように、「自分では限りなく幸福だったと思っているだろうけど、それが悔しい」。神格に近いような存在でさえ旅に出るような世界である。移動することをとめられてはならないのだ。
 …とまあ、そんなふうにこの点描的な作劇法を評価したい。Exシナリオ、FD、ファンブックの後日談と、彼女たちの移動の痕跡を垣間見て、その若くて古い世界の広さと青さに思いをめぐらせつつ。