kagamiさんの最近の言葉から


 『青い涙』のCDPAを紹介してる

国籍を元に女の子を虐めているクソ連中を主人公がぶっ飛ばすとか、そういうのが、エロゲのジャスティスじゃないですか。

 ちょっとかっこいいw
 ムーンゼロ氏はヒロインのHシーンを書くことに少し戸惑いがあったそうな。ゲームでは普通によかったような。
 先日は葉鍵板最萌で韓国娘の「チヂミ」が残念ながら負けてしまったが、怪作のフラッシュ支援があったこともあり、試合はかなり楽しく盛り上がった。昨日買った『ている・ている』には、韓国というよりは中国なのかもしれないけど、チマ・チョゴリみたいなゆったりした服を着た道教の樹霊ヒロインがいるらしい。喜ばしいことだ。





 マゾ泣きゲー=放置プレイ説の真偽はともかく、こんな純粋に禁欲的な泣きゲ主義者って今でもいるんだろうか。僕は泣きゲーもエロいのも好きだけど、放置プレイは好きになれるか分からない。泣きゲーのHシーンにもヒロインとHして一体になれる喜びはあるけど、挿入がないような放置プレイとかNTRとかはちょっと次元が違うような気がする。なんというか、絶望的なエロさの次元。強い精神がないと耐えられそうにない。とはいえ、これだけ何度も熱く薦められると買わざるをえないような・・・。今は夢幻回廊も少女連鎖も安いしなあ。前者は体験版で面白い部分は大体読めてしまうって話だし(ちなみにやってみたけど、楽しむ以前に、圧倒されてしまった)、後者は絵が合わなそうだが。マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』は昔読んだときにはピンと来なかった。今なら楽しめるかもしれない。





 一つ上のエントリーで。

芸術領域にまで倫理的な他者概念を規範として持ってくるのは、お門違いではないかなと思いますね…。

 確かに。僕が時々「他者」という言葉を使ってしまう場合は、それは倫理的なものというよりは、予測不可能な要素として、魅力的な長所の一つに転化させてしまうので、厳密には正反対のことを言ってしまっているのかもしれない。だからといって間違っているとも限らないけど。
 逆に、肯定的なものとして転換できない(難しい)他者が、寝取る他者だ(一つ上のNTRについてのエントリー)。ヒロインと一体になることは泣きゲーにとっては重要だ。ヒロインが不幸な目にあったり死んでしまったりして、世界から拒絶されたり消えたりした場合には、彼女はもう世界という不安定な場所で他者の危険にさらされることはなく、主人公(プレイヤー)についての幸せな思い出を抱いたまま、ずっと彼と共にいてくれるはず、というセカイ系っぽい図式。単純すぎて説得力があまりないけど。所有と依存の形式の違いの話ということになるのかな。