平井次郎とプリミティヴィズム

 感覚の鋭い牙が終わりに近づいてきた。ESへの感想は一応コンプリート後にする予定だけど、印象は大体固まったのでメモ。平井次郎のいわゆる電波テクストは今作で初めて読んだ。ある種のプリミティヴィズム作品や、異化テクストとしてのフォークロアを読んだときの面白さと似ていると思った。
 プリミティヴィズムの有名どころといえば、絵画ならルソーやピカソ棟方志功あたりだろうか。でも僕はちょっと取り澄ましたようなところがあったり、角が取れたまとまりが感じられるような彼らの作品が好きじゃないので、・・・といっても代わりに誰か挙げられるほど絵画を知らない。強いてあげれば斎藤環が好きなヘンリー・ガーターや荒木飛呂彦のような分裂症系の画家や、フィローノフのような偏屈な奇人の画家。しりあがり寿もか。あるいはパゾリーニの映画における笑い。近世以前の日本の笑える絵や中世キリスト教絵画がもっとふさわしいのだろうけど、こちらは芸術運動としてのイズムではなく素なので、ツボにはまればさらに面白い。文学ならば中世以前のフォークロアをのぞけば、プラトーノフやフレーブニコフを挙げられる。
 要するに、近代的な「個人」としての作者が分裂していて、自分が異常であることに気がついていないかのような怪物的な作者像ができてしまうような場合のこと。異常にぼーっとしていたり、異常に切り替えが速かったり。前近代においては個は集団の「影響」を受けやすかったので、今の目からするとシュールな振る舞いも別に普通だったりしたらしい。意味を伝えるコミュニケーションの間合いが違っていたので、フォークロアの主人公がやたら唐突に死んだり生き返ったり、やたらあっさりと殺したり姦通したりしても、「アッー!」かなにかの適当な一言で済んでしまうような感じなのだ。
 本作でも登場人物たちは言動がどこか唐突でおかしい。主人公をめぐる修羅場が異星のだだっ広い草原の真ん中で繰り広げられるのだが、ヒロインの一人である姉は「二人に気づかれないよう」匍匐前進をしながら近づいていく。平らな草原なので丸見えのはずなのだが、二人は案の定気がつかない。彼らが真面目であればあるほど滑稽になる。エロシーンの心理描写も丁寧で好ましいのだが、彼らの驚き方がいつもワンテンポ遅かったり早かったりするので笑えてしまう。語法レベルでは「・・・」や「!?!?!?!?」や「っ」や「『』」など、エクスプレッシヴな記号が「不適切」に過剰に使われていて、その破格が意図的なものなのか素のものなのか、あるいは幼児的な自己満足の欲求に従ったものなのか、作者の意図のレベルがわざと明示されていないので、誰にも気づかれずに滑ったギャグやパロディ崩れとすれすれの危うさを持つ。それは文学が崩壊して幼稚な悪趣味に転げ落ちる危うさである(そんな文学など崩壊してかまわないという意見はおいといて)。
 平井次郎は原初的で幼児的な笑いとエロスの手法の器用な使い手なのかもしれない。少なくとも今作においては、それはまだ一芸の域にとどまっているようだ。近代小説は文学ジャンルとしては新しい。このプリミティヴィズムの手法は長編小説よりは視覚や聴覚、身体芸術で成功しているように見えるし、文学でも詩や短編のような短いものが多い。もし平井氏がかなり素でこうした原始的な感性を持っている人ならばこれから先が楽しみだ。普通に考えると萌えとはかなり遠いような気がするのだが・・・。「こんなアタシでゴメンなさい」はなんかインストールができないみたいなので、萌えを扱っているらしいその作品にはまだしばらく手が出せないかも。
 最後になったけど、本作は中古は安いしけっこうエロが強いのでお得だと思いますよ。